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2018年2月15日 (木)

文永末~弘安初の出雲国衙1

 基本史料からわかる事実を確認すると、建治三年に比定できる五月七日沙弥(佐々木泰清)書状で、文永七年正月に焼失した杵築大社本殿の再建は、本院(後深草)分国のもとで知行国主であった六八才の四条隆親によって仮殿造営が開始されたが、従来のように造営のために重任することなく辞退したので、新たに文永一二年頃五八才の吉田治部卿経俊が知行国主を引き継いだ。ところが建治二年一〇月一八日に経俊が六三才で死亡したため、過去に父貞親とともに杵築大社造営を行った経験のある前権中納言で五四才の平時継が知行国主に起用され、出雲国が亀山院の分国となる弘安四年途中まで務めた。文永年間に出雲国が後深草の院分国であり、弘安年中に亀山の院分国となったことは祇園社の記録からもわかる。
 問題は後深草から亀山への分国主の変化が連続して行われたのか、あるいはその間に院分国ではない時期があったのかということである。具体的には知行国主経俊と時継の時代も後深草の分国であったか否かである。松江市史では西田氏が後深草の分国であったとの説を示された。時継は持明院統系であるが、経俊は大覚寺統系の公卿であることが問題となる。後嵯峨院-亀山天皇の時代は後深草系の人物にとっては冬の時代であった。文永九年二月一七日に後嵯峨院が死亡して、短期間の亀山天皇親政期をへて、文永一一年一月二六日から亀山院-後宇多天皇の体制が成立したが、翌建治元年には後深草の幕府への働きかけと幕府の意向があいまって、後深草の子伏見が後宇多天皇の皇太子となった。これで後深草系の人々は長かった冬の時代から雪解けの時代へと移行した。
 文永元年以降後深草の院分国のもとで知行国主となった四条隆親は、翌年に兵部卿となったが依然として「前大納言正二位」のままであった。それが建治二年一二月二〇日に大納言に還任した。翌年正月に後宇多が元服するためであった。そして二月二日に辞退して前大納言に戻って弘安二年九月六日に七七才で死亡した。これに対して時継には変化がなかったが、弘安一〇年に伏見天皇が即位してから三年目の正応二年一〇月八日に権大納言に昇進し、翌年正月一三日に辞退した。一五日には本座を許されたが、二月一一日には出家し、永仁二年七月一〇日に七三才で死亡した。

 

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