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2018年2月21日 (水)

長海本庄地頭持明院基盛1

 文永八年の島根郡長海本庄地頭は将軍側近の持明院基盛であるが、一方では丹波国大沢庄の預所兼地頭であった。大沢庄が関東御領であったためであり、長海本庄も同様であった可能性が強いと指摘した事がある。基盛は大沢庄については、文永三年にそれを譲られた母が、翌年に死亡したため、文永四年一二月六日関東下知状で「左近中将基成」が安堵をされた。持明院氏については承久の乱の直後の出雲国守が持明院家行であったことを明確にしたが、その後も将軍頼経の室を出すなどしていた。ただし、大沢庄は父家定ではなく、母から譲られたものであった。その母は「隠岐守行頼子」とあり、筧氏が論文で注記したように幕府政所執事二階堂行頼の子であった。ただし問題は、行頼が加賀守であったことのみ確認でき、一方、二階堂氏には代々「隠岐守」に補任された一族がいた。
 二階堂氏は行政が京下りの公家として頼朝に仕え、その死後は一三人の合議制の構成員にも選ばれていた。その子行光系が政所執事を継承したのに対して、行村系は代々検非違使となり、一方ではともに幕府評定衆を務めた。隠岐守となったのは行村の庶子元行とその子孫であったが、行頼は行光の曾孫にあたる。『吾妻鏡』では「筑前次郎左衛門尉」とみえるが、父行泰が寛元元年に筑前守に補任されている。行頼本人も文応元年には加賀守に補任され、その二年後の弘長二年(一二六二)には幕府引付衆となるとともに、父行泰に替わって政所執事に就任したが、弘長三年一二月一二日に三四才で死亡した。そのため、政所執事には父行泰が復帰し、次いで弟の行実が文永二年に継承するとともに筑前守となっていることが確認できる。
 これに対して弘長元年七月には元行(基行)の子行氏が隠岐守に補任されている。「隠岐守行頼子」との表記は「隠岐守」ないしは「行頼」が誤っていると思われるが、行頼と行氏の国守補任が同時期であったため、「加賀守行頼」を「隠岐守」と誤った可能性がある。そうした場合、三四才の父が死亡した女子は祖父行泰を中心とする一族で育てられ、成人後、関東祗候の公家であった持明院家定の室の一人となり、その間に生まれた基盛が母の所領を継承しつつ、将軍側近として活動したことになる。長海本庄地頭職も同様に二階堂氏領を母から継承したものであろう。

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