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2018年2月 5日 (月)

知行国主源定通1

  富永美恵子氏は元久二年(一二〇五)から天福元年(一二三三)まで源定通が石見国知行国主であったとされた。摂関家家司である一方で院近臣という例も珍しくない中で判断は難しいが、前述のように藤原邦輔と藤原範宗が国守であった際の知行国主は、前者は九条良通、後者は藤原範光であり、定通ではない。
 元久二年の石見守源頼兼は源頼政の子で、幕府御家人として大内守護を務めていた。そうした中での石見守補任であった。定通は一八才であり、実権は父通親が握っていたであろう。
 頼兼は、文治二年三月には父頼政以来の所領である丹波国五箇庄(京都府南丹市)が平家により没収されていたのを「平家没官領」として頼朝から与えられていたにもかかわらず、後白河法皇が自領に組み込もうとしているとして頼朝に嘆き申し出ている。これに対して頼朝も後白河に取り次ぐ約束をしている。頼兼の姉妹二条院讃岐を室とする藤原重頼もまた隠岐国や若狭国に所領を与えられていた。両者とも没年は不明であるが、頼兼の子頼茂もまた大内守護の職務を行う中、承久の乱の二年前に将軍職を望んだとして後鳥羽上皇の命令を受けた武士により襲撃され、自害に追い込まれた。
 定通の室の一人に北条義時の娘竹殿がいる。竹殿は最初大江広元の嫡男親広と結婚したが、間もなく定通と結婚した。両者の最初の子顕親は承久二年(一二二〇)の生まれであり、三代将軍実朝の晩年に婚姻が成立したのであろう。承久三年の承久の乱には関わったが積極的ではなく、一時的に出仕をやめて恐懼の処分を受けたが、同年閏一〇月九日には処分が解除されている。定通は異母兄通宗の養子となり、通宗の娘は土御門上皇(母承明門院は異父姉)との間に承久二年には後の後嵯峨天皇を生んだが、承久三年八月に死亡した。
 承久三年閏一〇月一〇日に除目により新たな大臣が三人誕生し、同日には土御門上皇が土佐に配流されており、定通の地位は低下したが、一二月一〇日に九条道家に替わって摂政復帰した近衛家実が吉書始めをした際に、定通が上卿を務めている。その二日後には除目が行われ、一緒に恐懼処分となっていた藤原信成は参議を停止され、前大納言藤原定輔は太宰権帥を解任されているが、定通は処分がなく、伊勢神宮神官である大中臣忠長が石見国守に補任されている。

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