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2018年2月17日 (土)

出雲・石見国知行国主の補足1

 最初に、正安三年に出雲国知行国主が交替したことに関して不十分であった点を修正・補足する。前年までの国主日野俊光が持明院統であったことは問題ない。申美那氏は以下のように述べている。
皇室の分裂からはじまった鎌倉後期の公家社会のなかで、日野俊光は持明院統の近臣として重用され、日野流でははじめて大納言に昇る栄進を遂げた。俊光は伏見天皇の親政期に実務官僚としてその才能を発揮し、天皇の譲位後は院執権として活躍しながら後伏見・花園の両天皇の乳父を勤め、公私ともに持明院統を支えた(中世文人貴族の家と職―名家日野家を中心として―、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部博士課程修了論文要約文)。
☆大学のHPによるが、2016年の「論文博士」に「近藤 成一 曽我物語の史的研究」とあるのは誤りではないか。2015年に「坂井 孝一 曽我物語の史的研究」とあるのが正しい。たまたま近藤氏の博士論文に基づく『鎌倉時代政治構造の研究』を公共図書館間の貸借を利用して山口県立図書館から借りている。
 最近よく参照する本郷和人氏のHPには俊光について以下のようにある。
父は日野資宣、母は賀茂神主能継の娘。文章博士から蔵人・弁官に任ず。四位の弁官であるときに伝奏になったというから、『中世朝廷訴訟制の研究』の本文では見落としてしまったが、親政を行なっていた伏見天皇の伝奏だったことになる。永仁三(1295)年に参議。翌々年権中納言。伏見院政下でも引き続き伝奏を務め、皇統が大覚寺統に移った正安三(1301)年に官を辞す。この後は伏見上皇の執権として働いたようで、まさに彼は上皇の股肱の臣であった。延慶元(1308)年、伏見院政の再開とともに再び伝奏に任じ、文保元(1317)年六月には権大納言に進んでいる。同年九月、伏見上皇が没すると問もなく辞任。この後は後伏見上皇に仕え、終生持明院統のために働いた。
 公卿補任で確認すると、史料の性質上、伝奏に復活した点は確認できないが、五六才であった正和四年にそれまでながらく「正二位前権中納言」であったのが治部卿となり、同年一〇月二八日に大宰権帥となり、一二月二五日に帥を止められている。この間に一一月には勅勘籠居もあったようだ。翌五年閏一〇月一九日には按察使となり、文保元年六月二一日に「正二位権大納言」に進み、一二月二二日に辞退している。「大納言に昇る栄進」とか「権大納言に進む」というのとは少し異なる印象を受けたが、持明院統の復権を受けて大納言に還任してまもなく辞退した四条隆親の場合とほぼ同じである。権中納言から中納言を経ずに権大納言に進んだので「栄進」なのかもしれないが、形づくりのようなものである。ただし、これも持明院統の復権がなければ「前権中納言」で終わったであろうから異例のことではあった。

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