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2018年2月17日 (土)

出雲・石見国知行国主の補足2

 次いで嘉元元年八月二二日に知行国主某のもとで前石見守某がその意向を受けた御教書を出していた。一五年前の論文作成時に知行国主の花押は西園寺公衡のものとみたが、松江市史の時点で、西田氏から断定は出来ないが第一候補は中御門(吉田)経俊の子経継ではないかとの教示を受けた。公衡は嘉元三年には亀山上皇の子恒明親王の立太子を図って後宇多上皇から排除されているが、本来は持明院統系であるので、経継よりは可能性が高いのではないか。公衡の嫡子実衡を生んだのは出雲国知行国主であった中御門為方の姉妹である。何故か八月二二日出雲国司庁宣の袖に据えられた花押が「花押カードデータベース」の検索にヒットしないので、とりあえずは県立図書館の影写本で再確認して再検討しようと思っている。中御門経継ならば大覚寺統となり、この時点で院分国主が交替していたことになるが、どうであろうか。すべては花押次第だが、新たな周辺情報を確認できたので、以下に述べる。
 前石見守某は出雲守ではなく、花押カードデータベースはその文書を「出雲国目代施行状」としているがどうであろうか。すでにみた久永庄の場合は、①二月一六日に伏見天皇綸旨が国主三条実重宛に出され、次いで②二月二四日に三条大納言家御教書が「前伯耆守光経」を奏者として出された。鎌倉遺文には「早稲田大学所蔵文書」が掲載され、そこには実重の花押はないが、『花押かがみ』(鎌倉時代三)をみると、「賀茂別雷社文書」中の「石見国司庁宣」から袖判(藤原某とする)を掲載している。日本古文書ユニオンカタログでは「三条大納言(実重)家御教書」(鳥居大路文書)としている。早稲田大学図書館HPで画像を確認すると、確かに袖判はなく、写す際に欠落したのであろう。不思議なのは『花押かがみ』が実重とせず某としている点である。その外に実重の花押が残っておらず照合できないとのことであろうが、関連文書をみれば断定できる。摂関家の当主もそうだが、政所下文には本人の花押はなく、書状か知行国主としての国司庁宣がなければ花押は残らない。
 『花押かがみ』の実重の花押の二頁後にはそのもとで石見守であった「安倍朝臣」某の花押(正応元年と四年)が掲載されている。二九〇頁には評定衆で隠岐国守護であった佐々木時清の花押が掲載されているが、これは弟で隠岐国守護の代行であった高岡宗泰のものである。このあたりが不可思議なところであり、その精度に疑問をもたざるを得ない。永仁五年の宗泰の花押(鰐淵寺文書)も同一である。
(補足)花押と西園寺公衡並びに中御門経継のものと比較したが、嘉元元年のものとしては両者ともに似てはいるが同一とまでは言えないというのが現時点での結論である。どちらかを選べと言われれば西園寺公衡である。三条実重のものとは明確に異なり、可能性としては候補となるのは二条兼基であるが、彼の確実な花押は残されていない(花押かがみ南北朝一に一点あり。当該花押とは違う)。

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