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2018年2月25日 (日)

鎌倉初期の隠岐国司1

 隠岐国司を検討する中で二階堂氏について分析した。瓢箪から駒というのが実感であった。隠岐国は小国ではあるが、日本海水運の発展を背景に、決して貧しい僻地ではなかった。鎌倉時代の隠岐守に関する史料は文治四年以降のものしか確認できないので、平安末期の状況を踏まえて考えたい。
 安元二年正月三〇日に隠岐守に補任された藤原惟頼の見任(現任)が治承三年一〇月二五日の時点でも確認できる。問題は一一月一四日のクーデター、さらには義仲のクーデター(一一八三年一一月)との関係であるが不明とせざるを得ない。ただし、頼朝の重臣藤原重頼との関係をみれば、惟頼は一旦解任されたにしても復活した可能性が高い。それがゆえに、後任の隠岐守源仲国から批判を受けたのだろう。仲国は源実朝の側近として活躍した仲章・仲兼兄弟の兄にあたるが、三人とも後白河-鳥羽院にも仕えていた。
 仲国は、文治四年(一一八八)以降に隠岐守として、鎌倉幕府の影響下にある藤原宮内大輔重頼や在庁官人である内蔵資忠らと対立した。『平家物語』の「小督」に登場するように平家ではなく院の近臣であったために、生き残ったものである。隠岐国でもかなりの所領が平家没官領・謀反人跡として頼朝に与えられ、その有力御家人が地頭に補任された。重頼と守護佐々木定綱とその子広綱との関係は不明だが、出雲国杵築社神主でもあった内蔵資忠は隠岐国の有力在庁官人であったと思われる。これに対して源光遠の子で丹後局の縁者を妻とする仲国は、当該所領は平家没官領ではなかったとして、地頭の停止を求め、資忠に対しては隠岐国在庁官人としての務めを果たすことを求め、後白河院からは杵築社神主から資忠を解任すべきと、その支持者である頼朝に要求が突きつけられた。
 仲国は建久三年(一一九二)一一月から翌四年三月にかけては備前守の現任が確認できる。当時の知行国主は、建久三年六月の時点では後白河院、翌四年四月九日の時点では一条能保であるが、仲国は後白河の院分国下の国司であった可能性が高い。それは隠岐国も同様であったと思われる。若狭守、伊勢守であったとの情報もあるが関係史料を確認できなかった。建保三年六月の時点では薩摩国知行国主の現任が確認できる。ただし、建永元年には後白河院の託宣だと称して御廟建立を唱えたことが批判を受け、妻とともに追放された。

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