koewokiku(HPへ)

« 長江・倉橋庄について1 | トップページ | 持明院殿について »

2018年1月16日 (火)

長江・倉橋庄について2

 実朝の時期の摂津守として確認できるのは、源仲清、藤原隆範、津守経国、高階業基がいる。津守経国は国長と中宮大夫進長基(源高良とするものも)女子を母として文治元年に生まれ、八条院臨時御給で三才で叙している。建保三年正月に摂津守となるが、翌四年六月に権神主になり、八月に摂津守を辞している。承久二年に神主となり安貞二年に四四才で死亡している。八条院は鳥羽院の娘であり院との関係が深かったのであろう。承久三年二月の熊野御幸の際には後鳥羽院が入御する御所を造営しているが、承久の乱で失脚することななかった。
 これに替わって摂津守となった高階業基は建保元年四月二五日の法勝寺九重塔供養に参加者の中にみえる。承久二年一一月五日には順徳天皇の東宮の御著袴之儀が行われているが、その参加者に院の五位上北面としてみえる。承久の乱で失脚することなく、寛喜元年一一月の関白九条道家の長女が後堀河天皇に女御として入内する儀式にも諸大夫の一人としてみえる。院との関係がうかがわれる。
 承元元年四月に摂津守となった源仲清は、建久元年正月一一日に後鳥羽の長子が立太子と同時に土御門天皇として即位した際に判官代としてみえている。次いで同月二一日に後鳥羽院が生母七条院のもとに御幸した際にも「判官代」としてみえる。承久の乱後も生き残り、嘉禄二年三月二七日には播磨国三方庄東庄について地頭源仲清が停止されている。入道権大納言家から幕府に所領三ヵ条について申し入れがあり、幕府がそれを受けて決定したものであるが、地頭停止の理由は不明である。同年八月一四日には臨時内給で左衞門尉に補任され、仁治三年一〇月には但馬守に補任されている。
 仲清と相前後して摂津守となったのが承元二年七月一五日に「摂津前司」としてみえる藤原隆範である。「五位判官」や「民部少輔」としてもみえるが、建保三年二月二三日には春日神社への奉幣使として「越前守藤原朝臣隆範」がみえる。この当時の越前国は後鳥羽の生母七条院の分国であった。
隆範も寛元二年には「殿上人隆範朝臣 越前々司」とみえるように、承久の乱後も生き残った。 
 摂津国は寿永元年に後白河の院分国であった以外は、院分国として明証を欠いているが、藤原隆範が国守であった承元元年以前にも七条院の分国ではなかったか。当然、その背後には七条院の子後鳥羽院がいるわけで、承久の乱の直前も同様であったため、摂津国長江・倉橋庄の地頭の問題が生まれたのではないか。以上、長江・倉橋庄の地頭改補問題の背景をみたが、摂津国守護は大内惟義から子惟信に継承され、承久京方で没収された。越前国守護もまた大内惟義から惟信に継承されている。
 なお、これほど知られた両庄であるが、摂津国内のどこに所在したのか不明ということで、長江庄の場合三〇〇町もあればわかりそうなものだし、倉橋庄も摂関家領については比定されているが、院領はその付近という以上は不明のようである。

« 長江・倉橋庄について1 | トップページ | 持明院殿について »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 長江・倉橋庄について2:

« 長江・倉橋庄について1 | トップページ | 持明院殿について »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ