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2018年1月22日 (月)

日倉別宮の位置について

 日倉別宮は中世の多祢郷に勧請された石清水八幡宮の別宮であるが、元々は郷内日倉山の山頂にあったものが移動したものとの伝承を持っている。現在の日倉別宮は多祢郷の北端に位置しているが、日倉山は郷内中央の掛合に所在している。問題は移転の時期である。
 鎌倉期の多祢郷を支配したのは勝部宿祢一族の大原郡系に属する多祢氏である。大伴氏系図によると勝部宿祢一族は仁多郡系、神門郡系、大原郡系、飯石郡系に分かれていたと思われる。ところがその内容が詳細なのは大原郡系のみで、次いで仁多郡系も院政期まで記されているが、神門郡系と飯石郡系については一族が四系統に分立した時点までしか記されていない。
 大原郡系は一二世紀前半の杵築大社遷宮に登場する勝部元宗の子孫である。その時点での勝部宿祢惣領孝盛は神門郡系に属すと思われるが、大伴氏系図には登場しない。中心であった神門郡系が平氏政権の成立、その滅亡と鎌倉政権が成立する中で次第に勢力を低下させていったためだと思われる。多祢郷も本来これを支配していた飯石郡系が没落し、これに替わって大原郡系の一族が入部して多祢氏を名乗ったと考えられる。
 多祢郷は現在の雲南市三刀屋町南部から掛合町にかけての広大な地域に及んでいたが、その地名からわかるように、院政期には郷内北部の多祢が中心であった。これに対して多祢氏は南北朝動乱の中で没落し、戦国期には郷の名称は中部の地名に基づく掛合郷に変わっていく。これを踏まえると、院政期にはすでに郷内北部の多祢の地に日倉神社は移転しており、そこに石清水八幡宮の末社が勧請されて日倉神社と呼ばれた可能性が高い。これに対して多祢氏が没落する中、中部で日倉山の東側山麓に位置する掛合が郷内の中心となっていったと思われる。中国山地を南に越えて安芸国へつながるルートの核として掛合が発展したのだろう。室町期における本来の支配者は京極氏とともに近江国から入部した多賀氏であったが、多賀氏は尼子氏との対立からその勢力を低下させ、これに替わって備後国多賀山城の多賀山氏が飯石郡南部に勢力を拡大させ、旧来の多賀氏と混同される結果となった。多祢郷内坂本村が一四世紀後半には杵築大社の所領としてみえているが、多祢郷最北端の乙加宮の南側に隣接するのが坂本である。

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