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2018年1月19日 (金)

持明院殿について

 文永八年一一月日出雲大社三月会頭役結番帳には「相模殿」と「持明院殿」と地頭名に「殿」を付けた二つの事例がみられる。前者は得宗北条時宗で問題ない。後者については後深草上皇に比定したことがあったが、天皇を退位し院政を行っていないとはいえどうであろうか。
 持明院は一二世紀初めに藤原基頼が邸内に建立した持仏堂の名で、その後は家の号としても使われるようになった。持明院基家の娘が後鳥羽院の兄守貞親王との間に産んだ後堀河天皇が承久の乱後に即位すると、守貞親王は後高倉院と号して持明院殿で院政を行うとともに、持明院宮と呼ばれた。後堀河院の子四条天皇の死により即位した後鳥羽院の孫後嵯峨院も天皇退位後の御所として持明院殿を使い、後深草天皇系の天皇も退位後の御所として「持明院統」と呼ばれた。ただ、実際は後堀河天皇の皇女室町院(暉子内親王)が御所とし、後深草系が天皇退位後の御所としたのは伏見天皇以降で、後深草院は外祖父西園寺実氏が献上した冷泉富小路殿で暮らしたとの指摘があり、後深草の院宣で彼を「持明院殿」と呼んだ事例もない。
 これに対して文永一一年六月七日持明院某御教書(鎌遺一一六七〇)は「持明院殿」の意向を「前周防守」が伝えている。新宮御領遠江国浜松庄内岡部郷の相伝の変更を「片岡五郎大夫」に伝えている。関連史料をみると正安四年一一月二四日後宇多上皇院宣では、岡部庄について「禅林寺殿」=亀山院に聞いたところ意向を示されたことを賀茂神主に伝えている。神供の退転が問題となっていた。次いで乾元元年一二月一日後宇多上皇院宣では、岡部郷を元の如く新宮に寄附している。そして嘉元四年昭慶門院御領目録では室町院領岡部郷について、賀茂神主経久が相伝知行するよう院宣が出されたことが記されている。
 以上により文永一一年の持明院殿は後深草上皇ではなく室町院のことであったことがわかる。正和元年一〇月一八日関東御教書により、賀茂神主が相伝していたのは岡部郷地頭職であったことが確認できる。文永八年の秋鹿郡伊野郷と出雲郡志々塚保地頭「持明院殿」も室町院に訂正する。一四世紀初めの室町院領目録の武家所進地頭職に「志々塚上方」と「志々塚下方」があることで裏付けられるが、「伊野郷」がみえず同郡内古曽志庄が記されている理由は不明である。

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