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2018年1月21日 (日)

遠江国笠原庄について1

 笠原庄一宮記(『静岡県史資料編中世1』487)には「笠原庄地頭代々次第」との端裏書きがあり、六名の地頭が記されている。最初に「平家小松殿」とあり、清盛の子重盛が当庄初の地頭と後世には認識されていたが、治承三年閏七月二九日に四二才で死亡している。二番目には「一条次郎殿」とあり、甲斐源氏武田信義の嫡男忠頼に比定される。甲斐源氏は挙兵後駿河国を実力で占拠したが、養和元年(一一八一)には頼朝の支配下とされた。忠頼も木曽義仲追討に参加し、一の谷合戦後多くの東国御家人とともに東国に帰還したとされるが、それから間もなく(四月とも六月とも)鎌倉で頼朝の命を受けた天野遠景により暗殺された。
 三番目の「十郎左衞門尉殿」に関しては正治二年六月日惣地頭兼預所左衞門尉平寄進状が残されている。文治四年の時点では笠原庄について斎院(範子内親王)御方から年貢を沙汰するよう、命じているが、未進などの不法が続いていた。その後、笠原庄は関東御領に組み込まれ、有力御家人が預所兼地頭に補任されたものであるが、建久三年の頼朝の上洛の際に「左衞門尉」に補任された三浦(佐原)十郎義連に比定されている。忠頼の娘が三浦義村の室となったとの記述もある。義連は建仁三年に死亡しており、嫡子左兵衞尉盛連(父義連の死後紀伊国守護を継承)に譲られていた可能性がある。嘉禎三年六月に矢部禅尼が和泉国吉井郷について下文を得ているが、夫前遠江守盛連から譲られたものを安堵され、尼の孫時頼が三浦庄矢部の別荘に届けたと記される(吾妻鏡)。天福元年(一二三三)に盛連は無断で上京しようとして討たれている。尼は当初北条泰時と結婚して建仁三年には嫡子時氏を生んだが、後に離縁となった盛連と再婚し、時氏は寛喜二年に二八才で死亡した。なお承久二年一二月には造内裏役が笠原庄に課されている。
 四番目には「森入道」とあり、大江広元の子毛利季光に比定されている。季光の室は三浦義村の娘で、季光の娘は北条時頼の室となっていた。「寛元四七十六」との追記があるが、季光が三浦泰村とともに宝治合戦で滅亡する宝治元年六月五日の一年前である。寛元四年七月には将軍頼経が京都へ送還される途中で、七月一六日には駿河国島田、一七日には遠江国掛川に宿していた。
 五番目には「中城介」とあり、安達義景に比定されている。安達氏は反三浦氏の急先鋒であり、宝治合戦では義景は嫡子泰盛とともに先陣を切って戦っており、その恩賞として関東御領(毛利季光跡)であった笠原庄を獲得したものであろう。六番目の「城陸奥入道殿」は泰盛であり、弘安八年(一二八五)一一月の霜月騒動で滅ぶまでは当庄地頭であったであろう。
七番目の潮音院殿は義景の娘で兄泰盛の養女となり北条時宗の正室となった女性(覚山尼・堀内殿)である。時宗が弘安七年四月に死亡すると、潮音院の子貞時が一二才で得宗となり執権にも就任した。潮音院は徳治元年一〇月九日に五五才で死亡しており、文保二年一一月二〇日には泰盛の弟顕盛の孫である時顕が笠原庄内南浦を遠江国一宮に安堵している。時顕の父宗顕も霜月騒動で討たれ、幼子であった時顕が平頼綱が滅ぼされた後に安達氏惣領として復権し、北条貞時が死亡した後の幕政を高時の外戚として内管領長崎氏とともに主導した。
 以上、毛利季光領であったことから笠原庄について情報を整理した。

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