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2018年1月28日 (日)

漆治郷地頭についての確認

 文永八年の「下野前司女子」は宇都宮泰綱の娘であるが、北条経時の室となり寛元三年に一五才で亡くなった女性の姉妹である。小山時長の室となった女性もいるが(北条業時室を記すものもあり、また業時の姉妹(=重時の娘)には経綱の室となった娘がおり、その関係か経綱には北条宗宣と北条宗房の室となった娘がある)、名前の表記からは文応元年(一二六〇)に京都で死亡した父泰綱領を譲られた可能性が大きい。漆治郷が宇都宮氏領を離れた時期として泰綱の嫡子景綱が、妻の兄弟である泰盛の滅亡=霜月騒動により失脚した時点(弘安八年=一二八五)が考えられる。妻の姉妹には泰盛の養女となって北条時宗の室となり嫡子貞時を産んだ堀内殿(覚山尼)がおり、残された一族を保護した。これにより正応六年四月に平頼綱が主人である得宗北条貞時に討伐されると、安達氏は得宗の外戚として復活する。ただ、漆治郷地頭は幕府の管理する所領となり、将軍宗尊親王(一二四二年生)の母平棟子の甥成俊の孫顕棟とその姉妹である平氏が給主として地頭職を与えられた。
 成俊は長命で正応五年(一二九一)に七八才で死亡しており、一二一四年生である。その子棟望は弘安九年(一二八六)九月二七日に死亡している。顕棟の従兄弟にあたる女子は後二条天皇(一二八五年生)妃となり、一三〇二年に内親王(寿成門院)を産んでいる。
 これに対して紀氏系図では池田長氏が平禅門の乱の恩賞により漆治郷地頭となったとする。ただし、この乱の恩賞をその直後に与えた文書は他氏を含めて確認されず、給与そのものは後のことではないか。延慶三年一二月に漆治八幡宮に郷内の田を寄進している平朝臣某は文書の形式からすると公卿クラス(奥上判は四位、五位)とも考えられるが、その成俊は正二位にまで進んでいるが、顕棟は公卿となったことは確認できない。ただし式部卿宮=前将軍久明親王の側近(令旨の奉者としてみえる)としてこのような文書を出した可能性はある。後二条天皇妃の兄弟である棟仲は正三位まで進んでいる。延慶三年の平朝臣の花押は平成俊の花押と同じタイプであり、その孫である顕棟、棟仲の両方の可能性がある。
 顕棟の終見史料は元亨三年三月四日式部卿宮令旨であり、延慶三年の時点でも健在であった。やはり平朝臣は顕棟とすべきであろうか。幕府将軍も幕府滅亡まで久明親王の子守邦親王(一三〇一年生)であった。久明親王の母は三条房子は乾元二年以前に東寺領伊予国弓削島庄の地頭となっている。永仁四年に地頭小宮頼平・茂広が所帯を没収されたことを受けての補任であった。当然、実際の支配は地頭代に補任された西国武士が担ったと思われる。
 池田長氏の漆治郷地頭補任は顕棟の死等によるもので、北条氏得宗とも関係の深い美濃国池田氏が給主として補任されたのだろう。建武元年一二月八日出雲国宣の仲に長氏の子池田孝長が登場するのである。佐草孝信が猪尾谷村東方一方地頭職の安堵を受けるにあたり、孝長を当知行の証人としており、池田氏が実際に出雲国に入部していたことがわかる。猪尾谷村は大西庄内で、信濃国御家人飯沼氏の所領であった。佐草氏は出雲国の国御家人であるが、孝信の母が飯沼氏出身で庶子分として譲られたものであった。
 以上、すっきりとまでは行かないが、漆治郷地頭の変遷について整理した。

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