koewokiku(HPへ)

« 出雲国「金沢郷」について | トップページ | 正嘉二年郷司某下文1 »

2018年1月25日 (木)

神西新庄地頭古庄氏について

 古庄氏については「鎌倉期出雲国の地頭に関する一考察」で言及し、それまで所在不明であった神門郡薗山庄が神西庄の別称であることと、『小野系図』に基づき、文永八年の地頭「古庄四郎左衛門入道」が国通であることを明らかにした。今回、『三重県史』資料編中世二に関連史料が掲載されていることを知ったので、内容を紹介しつつ分析する。
 史料は貞永元年(一二三二)九月二五日関東下知状(久野庸直氏所蔵文書)で、古庄弥太郎高政が亡父高通領の所領相続に異論を唱えた。嫡子であり、且つ父高通法師を具して承久の乱で勲功をあげた自分は肥後国鯰郷を譲られたのみであった。これに対して弟国通が相模国古庄郷と出雲国神西庄を譲られたのはおかしいとして幕府に訴えた。
 『吾妻鏡』をみると確かに「古庄太郎」と「古庄次郎」が承久の乱で勲功をあげている。高通法師は四郎国通に二箇所を譲った。二郎高家も承久の乱で勲功をあげたが、その後まもなく死亡し、幼少の松若丸が残されたのだろう。高通は国通への譲状に当座は二箇所を委ねるが、松若丸が成長した時点で一箇所を譲ることが定められていた。幕府は国通の主張を認め、高政の訴えを退けた。神西庄は文永八年に国通が地頭であるので、苗字の地である古庄郷が松若丸に譲られたと思われる。
 兄高政が訴えたのは父高通法師が亡くなったことと、承久の乱で勲功をあげていない弟国通が松若丸分を含めて二箇所を譲られたのが不満であったのだろう。『小野系図』によると高政は宝治合戦(一二四七)で泰村方と記されている。肥後国鯰郷以外に相模国等に所領を有していたため、合戦に巻き込まれたのであろうか。ただし『吾妻鏡』には三浦泰村とともに討たれた人々の中に古庄氏はみえない。弘安二年一二月二八日に安芸木工助師時に対して、肥後国鯰郷内得次名の替地として筑後国竹野庄内得久・金丸名主職が与えられており、宝治合戦で高政が鯰郷を没収された可能性は大きい。
 以上、新たに確認した神西庄関係史料からわかることを述べた。

« 出雲国「金沢郷」について | トップページ | 正嘉二年郷司某下文1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 神西新庄地頭古庄氏について:

« 出雲国「金沢郷」について | トップページ | 正嘉二年郷司某下文1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ