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2018年1月11日 (木)

川副久盛の役割

 富田衆河副久盛は湯原幸清とともに、天文五年から一四年にかけて安芸国吉川氏との間の連絡を行ったことで知られているが、その役割はどのようなものであったろうか。湯原幸清は天文九年六月の竹生島奉加帳で富田衆の冒頭にみえるように、富田衆の最有力者の一人で、尼子氏の発給文書の奉者としてみえるとともに、尼子氏と連絡を取った本願寺からは「尼子内者」「足軽大将ヲスル者也」と呼ばれている。湯原は天文八年には加茂庄地頭としてみえ、大檀那尼子経久のもとで加茂若宮神社拝殿の造営にあたっている。また、大内義隆の出雲国攻の際に牛尾氏惣領河津民部左衞門尉が尼子氏を裏切ったことで討伐されると、養子に入って牛尾氏惣領となっている。また幸清は河副久盛とともに西方面の対応を行っていたが、尼子氏による東方遠征が実施されると、そちらに同行している。また天文二〇年代には新宮誠久とともに尼子氏の美作国支配の中心となっている。これに対して河副に関する史料は少ないが、一定の傾向はうかがわれるので、情報を整理してみたい。それにより、吉川氏との連絡に当たっていた両人がどこに駐在していたかを考えてみたい。 吉川氏との連絡は外交担当と言えるであろう。①天文一一年八月二八日には尼子晴久が瀬戸要害に楯籠もって多数の敵を打ち捕らえるとともに不慮の討ち死にを遂げた赤穴光清の勲功について、その子で後継者となった孫五郎盛清に感状を与えているが、委細は河副久盛が伝えるとしている。弘治二年八月二八日には晴久が豊後国大友氏の一族志賀安房守に対して山吹城以下の敵方の城を悉く落城させたことを伝えるとともに、大内氏に関する豊後国の情報提供を求めているが、ここでも「河副被申上候」としている。さらに永禄元年四月には、河副と福屋氏から毛利元就が近日中に出張するとの情報を得たので、小笠原氏に対して家中堅固の覚悟が必要であることを伝えている。晴久没後の義久のもとでは杵築の商人坪内氏への発給文書の奉者としてみえるが、坪内氏は銀山にも屋敷を持ち、備後国人の切り崩しに派遣されるなど、尼子氏の外交の一端を担っていた。富田城に籠城する義久の最晩年の永禄九年二月には、謀叛を起こそうとした宇山飛騨守父子を討ち果たしたことを美作国人江見氏に伝えた奉行人奉書の署判者としてみえる。
 以上のように河副は尼子政権で外交を担当していたと考えられるが、牛尾(湯原)幸清と連署して出しているのが②永禄五年三月一日の義久袖判奉行人奉書で、赤穴美作守盛清に対して所領と所領に対する守護役は晴久の安堵の通りとし、佐波郷内泉山の普請については平時は赤穴氏領に課税するが、戦時には大変な負担であるので援助することを伝えている。①②から河副が赤穴氏に対する尼子氏側の窓口となっていたことがわかる。ただし②は功を奏さず、赤穴氏は大内氏の出雲国攻の時点とは異なり、早〻と赤穴氏は三沢氏・三刀屋氏とともに毛利方に転じている。
 最後になったが、天文五年~九年にかけての副久盛は石見国・備後国と堺を接し、安芸国にも近い赤穴庄に駐留して、情報収集と外部への働きかけを行っていたと思われる(以前の記事では三吉ヵとしていたが訂正する)。湯原・河副の部下として両人が不在時に吉川氏と連絡を取っていた内田泰家・石橋信安の五月二六日連署書状の中で「河本より三原孫右衛門被罷登候」「(福屋氏)より加勢の派遣を含めて被罷登候」と述べられている意味もできる。

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