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2018年1月

2018年1月28日 (日)

漆治郷地頭についての確認

 文永八年の「下野前司女子」は宇都宮泰綱の娘であるが、北条経時の室となり寛元三年に一五才で亡くなった女性の姉妹である。小山時長の室となった女性もいるが(北条業時室を記すものもあり、また業時の姉妹(=重時の娘)には経綱の室となった娘がおり、その関係か経綱には北条宗宣と北条宗房の室となった娘がある)、名前の表記からは文応元年(一二六〇)に京都で死亡した父泰綱領を譲られた可能性が大きい。漆治郷が宇都宮氏領を離れた時期として泰綱の嫡子景綱が、妻の兄弟である泰盛の滅亡=霜月騒動により失脚した時点(弘安八年=一二八五)が考えられる。妻の姉妹には泰盛の養女となって北条時宗の室となり嫡子貞時を産んだ堀内殿(覚山尼)がおり、残された一族を保護した。これにより正応六年四月に平頼綱が主人である得宗北条貞時に討伐されると、安達氏は得宗の外戚として復活する。ただ、漆治郷地頭は幕府の管理する所領となり、将軍宗尊親王(一二四二年生)の母平棟子の甥成俊の孫顕棟とその姉妹である平氏が給主として地頭職を与えられた。
 成俊は長命で正応五年(一二九一)に七八才で死亡しており、一二一四年生である。その子棟望は弘安九年(一二八六)九月二七日に死亡している。顕棟の従兄弟にあたる女子は後二条天皇(一二八五年生)妃となり、一三〇二年に内親王(寿成門院)を産んでいる。
 これに対して紀氏系図では池田長氏が平禅門の乱の恩賞により漆治郷地頭となったとする。ただし、この乱の恩賞をその直後に与えた文書は他氏を含めて確認されず、給与そのものは後のことではないか。延慶三年一二月に漆治八幡宮に郷内の田を寄進している平朝臣某は文書の形式からすると公卿クラス(奥上判は四位、五位)とも考えられるが、その成俊は正二位にまで進んでいるが、顕棟は公卿となったことは確認できない。ただし式部卿宮=前将軍久明親王の側近(令旨の奉者としてみえる)としてこのような文書を出した可能性はある。後二条天皇妃の兄弟である棟仲は正三位まで進んでいる。延慶三年の平朝臣の花押は平成俊の花押と同じタイプであり、その孫である顕棟、棟仲の両方の可能性がある。
 顕棟の終見史料は元亨三年三月四日式部卿宮令旨であり、延慶三年の時点でも健在であった。やはり平朝臣は顕棟とすべきであろうか。幕府将軍も幕府滅亡まで久明親王の子守邦親王(一三〇一年生)であった。久明親王の母は三条房子は乾元二年以前に東寺領伊予国弓削島庄の地頭となっている。永仁四年に地頭小宮頼平・茂広が所帯を没収されたことを受けての補任であった。当然、実際の支配は地頭代に補任された西国武士が担ったと思われる。
 池田長氏の漆治郷地頭補任は顕棟の死等によるもので、北条氏得宗とも関係の深い美濃国池田氏が給主として補任されたのだろう。建武元年一二月八日出雲国宣の仲に長氏の子池田孝長が登場するのである。佐草孝信が猪尾谷村東方一方地頭職の安堵を受けるにあたり、孝長を当知行の証人としており、池田氏が実際に出雲国に入部していたことがわかる。猪尾谷村は大西庄内で、信濃国御家人飯沼氏の所領であった。佐草氏は出雲国の国御家人であるが、孝信の母が飯沼氏出身で庶子分として譲られたものであった。
 以上、すっきりとまでは行かないが、漆治郷地頭の変遷について整理した。

2018年1月27日 (土)

宇賀郷地頭西郷氏2

 以前述べたように西郷氏は遠江国上西郷を苗字の地とする御家人であった。建治元年六条八幡造営注文によると遠江国御家人として「西郷入道跡」が三貫文を負担している。出雲国に所領を得て入部したのは佐野郡西郷庄内上西郷を支配していた一族であった。現在の静岡県掛川市に「上西郷」「下西郷」の地名がみえるが、太田川上流で海岸から約一五km離れた内陸部となる。掛川市の東隣は菊川市で、承久の乱の恩賞として石見国長野庄内豊田郷と貞松名を獲得した内田致茂が城飼郡内田庄内下内田郷を支配していた一族である。上内田郷を支配していた人物が惣領と思われるが、建治元年の注文では「内田庄司跡」が五貫文を負担していた。下内田は菊川上流で海岸線から七kmの内陸部である。なお、遠江国御家人で承久新恩の地を獲得したことが文書で裏付けられるのは内田氏のみである。
 遠江国御家人は頼朝の挙兵時は平家の支配下にあって敗北し、その後も建久五年までは甲斐源氏安田氏の支配下にあったため、御家人ではあっても幕府から地頭に補任されることはなかった。駿河国も同様であったが、正治二年に梶原景時を誅伐する際の勲功で、播磨・但馬・淡路国内の梶原氏一族跡を獲得した。
 以上の状況は西郷庄上西郷を支配していた西郷氏にも当てはまると思われ、承久の乱の恩賞として出雲国宇賀郷を獲得したと思われる。上西郷よりは宇賀郷(文永八年結番帳では五二町二段三〇〇歩)の方が面積が広かったと思われ、早くから出雲国に入部したことも確実であろう。弘長三年八月五日関東下知状案(鰐淵寺文書)のように宇賀郷内に居住する住人の問題で、鰐淵寺が地頭西郷氏を訴えていたのはそのためである。

2018年1月26日 (金)

正嘉二年郷司某下文2

 その結果、鎌倉初期の時点では神門郡系であったと思われる勝部宿祢惣領は生きのびた。ただし主流派であった神門郡系の中には塩冶氏や多久氏のように参陣して没落したものも少なくなかった。木次・三代氏も神門郡系であった可能性がある。これに対して一二世紀の出雲国衙在庁官人勝部宿祢一族で勝部元宗を中心とする人々が大きく勢力を伸ばし、神門郡系の人々の跡を獲得した。ただし、惣領は神門郡系であった。仁多郡系の横田兵衞尉の跡は同じ系列の三処左衛門尉長綱が継承を認められた。次いで承久の乱では知行国主が後鳥羽の側近源有雅であったがため、多くの出雲国武士が京方として没落した。神門郡系のみならず大原郡系にも没落者が出た。
 勝部宿祢一族の惣領も大原郡系の勝部元綱に移ったが、神門郡系も竹矢郷や朝酌郷、長田東郷、枕木保などの地頭は確保した。ところが、その後、平浜八幡宮と竹矢郷は出雲国支配の重要性から、前者は守護領に、後者は得宗領となり文永八年の状況となったのではないか。横田庄地頭の場合は三処氏が文永二年の六波羅探題に就任した北条時輔に寄進する形で、時輔が文永八年の地頭としてみえた。また、文永八年の佐世郷・湯郷・拝志郷地頭は大原郡系の人々であったが、守護佐々木泰清の子頼清を養子に迎え、以後はその子孫が継承していく。
 承久の乱後、国御家人領から東国御家人領へ変わった所領には、国御家人による東国御家人への寄進というケースと、重要所領であるが故に幕府・守護の意図・判断によって変更されるケースがあった。
 郷司某下文については、西田友広氏から地頭とともに郷司がいてもおかしくないとの意見を聞いたが、その時点ではどういうことか理解が不可能であった。その後、静岡県史を読むことで、駿河・遠江国ではそのような事例があったことを知った。九州は西国では幕府の支配が強いことで知られるが、鎌倉初期に幕府の有力御家人が各地の惣地頭に補任され、郷司や庄官であった地元の国御家人の上に立ち、両者の間で激しい対立がみられた。駿河・遠江国は頼朝が挙兵した伊豆国に隣接しているが、平家側の拠点であった。相模・武蔵も同様であるが、石橋山の合戦では相模国の平家方に敗れた頼朝は房総半島に渡って体制を立て直し、上総国の上総氏や下総国の千葉氏の支持を受けて相模国では早くから頼朝方であった三浦氏の本拠に近い鎌倉に入って自らの政権を発足させ、相模・武蔵国の武士も家臣とした。
 これに対して駿河・遠江国は平家が富士川の合戦で敗北して以降も甲斐源氏の勢力が強く、駿河国は武田信義の嫡子一条忠頼が、遠江国は信義の弟安田信光が守護的存在となった。しかし、忠頼は元暦元年に鎌倉に招かれた際に殺害され、義定も建久四年に子の義資が院の女房に恋文を送った罪で失脚した。義資は殺害され、義定は遠江国守護を解任され、翌五年には謀反の疑いで殺害された。
 このため、駿河・遠江両国の武士で鎌倉初期に地頭に補任された例はほとんど確認できない。頼朝が死亡した正治元年一一月に側近の梶原景時が追放されたが、翌二年の正月に一族を率いて上洛しようとした景時を駿河国東部入江庄の入江氏とその一族が討取、吉川氏など入江氏一族はようやく梶原景時跡の西国の所領の地頭に補任された。ただしそれ以外の一族は地頭となることはなく、郷司・庄官として幕府の有力御家人が補任された惣地頭の支配下に置かれた。すでにみた笠原庄の惣地頭は三浦氏一族の佐原義連を経て毛利氏、安達氏に受け継がれていった。
 以上の例に対して、出雲国では郷司・庄官の上に東国御家人の地頭がいるケースはなく、国御家人は公文などの下級庄官であったと思われ、竹矢郷司、八幡庄代官の上に地頭がいることは想定できない。

正嘉二年郷司某下文1

 この史料は扱いに苦慮させられる。平浜八幡宮惣検校青木家に伝わった文書であるが、青木家文書の室町期以前のものは写である可能性が高い。ただし本来存在したものである可能性も高いのである。この文書は郷司左衞門尉某が平浜八幡宮=八幡庄の代官職に「散位惣検校」を補任している。惣検校の名前が無いのはありえないので、写す際に何らかの事情でカットされたと思われる。また承元年間には竹矢郷司は竹矢郷地頭に変えられていた可能性が高いが、国司庁宣を受けたがゆえに「郷司」と記したのであろうか。
 平浜八幡宮は文永八年には出雲国守護佐々木泰清が地頭であり、守護領となっていた。佐々木氏の補任は承久の乱後の佐々木義清であろうと思われていたが、それを否定するものである。建永元年八月日預所某下文により当時の八幡庄下司として秀信がおり、その秀信の訴えにより惣検校高義は説明のため上洛した。ところがその留守の間に秀信が刈田狼藉を働いたため、預所が惣検校高義に早速八幡庄に還住して先例に任せて収納を行うとともに、元の如く神事を勤仕すること、さらには解決した後に再度上洛して子細を言上するように命じている。
 鎌倉初期の八幡庄では下司が所領の管理を行い、惣検校が神事や祭礼を行っていた。非法を働いた秀信は解任されたであろうが、後任が補任されたはずである。これに対して正嘉二年の時点では郷司が国司庁宣を施行して八幡庄代官職に惣検校が補任されている。平浜八幡宮は竹矢郷の一角に石清水八幡宮の別宮が勧請されて成立しており、郷司とは竹矢郷司であろう。別宮が勧請された公領の多くは勝部宿祢一族が郷司であった。朝山郷内には新松別宮、塩冶郷内には大田別宮、建長年間には勝部宿祢一族の惣領であることが確認できる大原郡系の本領であった佐世郷内には白上別宮という状況である。してみると、正嘉二年の竹矢郷司は鎌倉初期の勝部宿祢惣領助盛の後継者ではないか。
 『源平盛衰記』には元暦元年二月の一の谷合戦に出雲国から平家方として参陣したものとして七名の武士が記されている。これ以外にもいたであろうが、出雲国衙の所在した意宇郡の関係者は確認できない。木次・三代という大原郡の関係者はみえても佐世氏はみえないのである。当時の出雲国知行国主藤原朝方は後白河院の側近であるが、源義仲滅亡後に、源頼朝と平宗盛の間に講和を成立させることには反対で、平家の討伐を主張していた。義仲滅亡前には義仲に平家討伐を期待していたと考えられる。摂関家領を平家が支配することで、平家による出雲国内の武士の組織化が進んだ結果が七名の武士の一の谷参陣であったが、その一方で知行国主は反平家であった。そのため、国衙近隣の武士と佐世氏は参陣しなかったのではないか。

2018年1月25日 (木)

神西新庄地頭古庄氏について

 古庄氏については「鎌倉期出雲国の地頭に関する一考察」で言及し、それまで所在不明であった神門郡薗山庄が神西庄の別称であることと、『小野系図』に基づき、文永八年の地頭「古庄四郎左衛門入道」が国通であることを明らかにした。今回、『三重県史』資料編中世二に関連史料が掲載されていることを知ったので、内容を紹介しつつ分析する。
 史料は貞永元年(一二三二)九月二五日関東下知状(久野庸直氏所蔵文書)で、古庄弥太郎高政が亡父高通領の所領相続に異論を唱えた。嫡子であり、且つ父高通法師を具して承久の乱で勲功をあげた自分は肥後国鯰郷を譲られたのみであった。これに対して弟国通が相模国古庄郷と出雲国神西庄を譲られたのはおかしいとして幕府に訴えた。
 『吾妻鏡』をみると確かに「古庄太郎」と「古庄次郎」が承久の乱で勲功をあげている。高通法師は四郎国通に二箇所を譲った。二郎高家も承久の乱で勲功をあげたが、その後まもなく死亡し、幼少の松若丸が残されたのだろう。高通は国通への譲状に当座は二箇所を委ねるが、松若丸が成長した時点で一箇所を譲ることが定められていた。幕府は国通の主張を認め、高政の訴えを退けた。神西庄は文永八年に国通が地頭であるので、苗字の地である古庄郷が松若丸に譲られたと思われる。
 兄高政が訴えたのは父高通法師が亡くなったことと、承久の乱で勲功をあげていない弟国通が松若丸分を含めて二箇所を譲られたのが不満であったのだろう。『小野系図』によると高政は宝治合戦(一二四七)で泰村方と記されている。肥後国鯰郷以外に相模国等に所領を有していたため、合戦に巻き込まれたのであろうか。ただし『吾妻鏡』には三浦泰村とともに討たれた人々の中に古庄氏はみえない。弘安二年一二月二八日に安芸木工助師時に対して、肥後国鯰郷内得次名の替地として筑後国竹野庄内得久・金丸名主職が与えられており、宝治合戦で高政が鯰郷を没収された可能性は大きい。
 以上、新たに確認した神西庄関係史料からわかることを述べた。

2018年1月24日 (水)

出雲国「金沢郷」について

 金沢郷は長寿寺に寄進された阿野庄金沢村と同一ではないかとされてきた。出雲国には「阿野」という地名もないので、大原郡「阿用」の間違いではないかとの説と、根拠が不明だが旧島根県史の熊野庄ではないかとの説があった。ところが、阿野庄そのものは駿河国阿野庄のことだということをブログで明らかにしたので、金沢郷は宙に浮いた形となった。その後、建武三年一二月日長寿寺雑掌元通申状(三重県史資料編中世二)には同(安野)東郷内金沢村と記されていることを確認した。
 金沢郷がみえるのは延慶二年(一三〇九)八月二四日将軍家政所下文で、三浦介時明法師に対して、出雲国「金沢郷」田地の替として信濃国村井小次郎知貞跡が与えられている。「金沢」はないが、「金坂」ならあると思って、東大史料編纂所のデータベースで原本の写真をみるが、その可能性は低そうである。それならば「金」を崩し字のやや似ている「参」として「参澤」=三沢郷とした方がまだ脈がありそうである。大変苦しいがとりあえずこの説を検討してみる。
 替地は後の関連史料から信濃国村井郷内村井小次郎知貞跡であることがわかる。村井郷の一部でありそれほど面積の広い所領ではなさそうである。元の所領も「参澤郷」田地であり全体ではないと思われる。村井郷は現在の松本市南端の村井に所在したと思われるが、関連史料はほとんどなく、嘉暦四年三月日関東下知状写(諏方上宮五月会頭役注文)には一〇番の流鏑馬に「三浦介入道知行分」とみえ、建武二年九月二七日足利尊氏袖判下文で安堵されている三浦介平高継の所領にみえる程度である。
 それはさておき、承久の乱の勲功の賞として「参澤郷」を与えられた飯島氏は信濃国片切氏の一族で、飯島と片切は信濃国伊那郡にみえる所領名である。出雲国三沢郷を与えられた飯島氏の一族は三沢氏を名乗っていくようになる。「参澤」ならば、当初は飯島氏の出雲国の所領が三浦氏惣領に与えられていたが、飯島氏に返す必要が生じたため、替わりに信濃国村井郷内を与えたと解釈できる。
 すべては「参澤」と読めるかどうか、ないしは「金」は「参」の誤記であるかが問題となるが、従来の金沢郷を阿用庄や熊野庄に比定する説よりは見込みがあるのではないか。延慶二年は嘉元三年の嘉元の乱の四年後である。事件は四月二三日に北条宗方が北条時村を襲撃・殺害したが、五月四日には宗方が討たれたというものである。時村を襲撃した一二名は一旦有力御家人のもとに別々に預けられたが五月二日に斬首された。四日には宗方も派遣されてきた評定衆隠岐入道阿清(佐々木時清)と「打合、落命」した。ただし、三浦介入道のもとに預けられていた和田七郎茂明は事前に逐電したとされる。茂明の所領は一旦は没収されたが、一二年後には茂明の嫡子が記した譲状にみえるので、和田氏に返されている。
 「参澤」郷田地も三浦介入道に一旦は与えられたが、和田氏領と同様返され、その替地として村井郷内村井小次郎知貞跡が与えられたのではないか。話の筋としては通っているように思うが、問題は「金澤」が「参澤」であるかという点である。

漆治郷地頭下野入道女子について

 文永八年の漆治郷地頭について、小山朝政女子に比定していたが、朝政は一二三八年に死亡した際には八〇才前後とされ、その女子である可能性は低い。それよりも仁治二年(一二四二)まで下野守であった宇都宮泰綱の娘に比定する方が妥当であろう。文永八年の下野守は泰綱の子景綱であった。泰綱は文応元年(一二六〇)年に五九才で死亡。景綱は嘉禎元年(一二三五)に生まれ、永仁六年(一二九八)年に六四才で死亡している。宇都宮氏系図に泰綱女子として記されているのは北条経時の正室となった女性である。これ以外にも女子がいた可能性があるが、経時の正室とした場合について検討してみる。
 経時は寛元四年(一二四六)閏四月に二三才で死亡している。一八才の時点で讃岐局との間に男子が誕生しているが、父の死の時点で六才であり嫡子とされることなく出家している。宇都宮氏女子は経時より年下で子をなす前に夫が亡くなったこともあってその後も出家することなく「下野前司女子」と呼ばれるようになったのではないか。その後の漆治郷地頭として永仁年間の将軍久明親王の側近治部権大夫平顕棟と平賀蔵人三郎妻平氏がいる。両者は兄弟である可能性が高い。顕棟の祖父成俊の姉妹が将軍宗尊親王の母であり、この時期に鎌倉に下って仕えるようになったのであろう。
 文永八年の地頭が経時正室とした場合、この時点で漆治郷地頭職は幕府が管理し、給主に与えられていたことになる。下野入道女子が亡くなった後に、将軍側近平氏に与えられ、幕末の時点では得宗家と深い関係を持つ美濃国出身の池田長氏が地頭であった。文永八年の地頭を経時室とすると、漆治郷地頭は一貫して幕府が管理していたことになる。
 泰綱の正室は名越朝時女子であり、その娘が経時室となったのは名越朝時女子が母であったからだろう。一二三五年に生まれた嫡子景綱が結婚したのは一二四七年の宝治合戦後である可能性が高く、正室としたのは安達義景の娘であった。「景綱」の名にも義景との関係がうかがわれる。
 以上、下野入道女子を宇都宮泰綱の娘とすることにより、その後の地頭の移動についても理解が容易になると思われる。以前述べた「漆治郷」の領家の変遷を含めて、漆治郷の理解はかなり進んだというのが実感である。
(修正)『吾妻鏡』で確認すると経時の室は夫が死亡する前年に一五才で死亡しており、別の娘である。後日訂正する。

2018年1月22日 (月)

日倉別宮の位置について

 日倉別宮は中世の多祢郷に勧請された石清水八幡宮の別宮であるが、元々は郷内日倉山の山頂にあったものが移動したものとの伝承を持っている。現在の日倉別宮は多祢郷の北端に位置しているが、日倉山は郷内中央の掛合に所在している。問題は移転の時期である。
 鎌倉期の多祢郷を支配したのは勝部宿祢一族の大原郡系に属する多祢氏である。大伴氏系図によると勝部宿祢一族は仁多郡系、神門郡系、大原郡系、飯石郡系に分かれていたと思われる。ところがその内容が詳細なのは大原郡系のみで、次いで仁多郡系も院政期まで記されているが、神門郡系と飯石郡系については一族が四系統に分立した時点までしか記されていない。
 大原郡系は一二世紀前半の杵築大社遷宮に登場する勝部元宗の子孫である。その時点での勝部宿祢惣領孝盛は神門郡系に属すと思われるが、大伴氏系図には登場しない。中心であった神門郡系が平氏政権の成立、その滅亡と鎌倉政権が成立する中で次第に勢力を低下させていったためだと思われる。多祢郷も本来これを支配していた飯石郡系が没落し、これに替わって大原郡系の一族が入部して多祢氏を名乗ったと考えられる。
 多祢郷は現在の雲南市三刀屋町南部から掛合町にかけての広大な地域に及んでいたが、その地名からわかるように、院政期には郷内北部の多祢が中心であった。これに対して多祢氏は南北朝動乱の中で没落し、戦国期には郷の名称は中部の地名に基づく掛合郷に変わっていく。これを踏まえると、院政期にはすでに郷内北部の多祢の地に日倉神社は移転しており、そこに石清水八幡宮の末社が勧請されて日倉神社と呼ばれた可能性が高い。これに対して多祢氏が没落する中、中部で日倉山の東側山麓に位置する掛合が郷内の中心となっていったと思われる。中国山地を南に越えて安芸国へつながるルートの核として掛合が発展したのだろう。室町期における本来の支配者は京極氏とともに近江国から入部した多賀氏であったが、多賀氏は尼子氏との対立からその勢力を低下させ、これに替わって備後国多賀山城の多賀山氏が飯石郡南部に勢力を拡大させ、旧来の多賀氏と混同される結果となった。多祢郷内坂本村が一四世紀後半には杵築大社の所領としてみえているが、多祢郷最北端の乙加宮の南側に隣接するのが坂本である。

北条時輔と母

 遠山久也氏「得宗家庶子北条時輔の立場」(『北条時宗の時代』所収)を読んだので、表題のテーマについて述べてみる。
 すでに述べたように、時輔の母(讃岐局)については根拠のない説が通説となってしまった。それは出雲国三処氏の出身というものであるが、三処氏は出雲国の国御家人である。これに対して彼女は将軍頼経に仕える中で北条経時の妾(妻の一人)となり、一二四一年には男子(後に出家して隆政)を産み、その弟(一二四四年生、後に出家して頼助)もその子である可能性がある。
 本ブログでは時輔が二月騒動で殺害された際に縁者として行動を共にしていたのが芦名光盛の子盛信であること、彼女が建立した横田八幡宮棟札に「地頭平氏三所比丘尼妙音」とあるように「平姓」であったことから三浦氏の一族ではないかと考えた。その後、三処郷地頭三処長綱後家であった女性は「平姓」の相模国土屋氏であるとの説も提示した。土屋氏と三浦氏は共に「平姓」であるが、三浦義明の弟岡崎義実の子義清が土屋宗遠の養子に入っているように密接な関係があった。三浦義明の孫義村の室については、前の記事で触れた一条忠頼の娘と土肥遠平の娘が知られている。遠平は土屋宗遠の兄土肥実平の子であり、三浦氏と土肥・土屋両氏の関係も密接であった。
 三浦氏出身の女性としては義村の娘で北条泰時ならびに佐原盛連と結婚(再婚)した矢部禅尼とその妹で毛利季光と結婚した女性が知られている。前者は一一八七年の生まれで、後者は夫である季光(一二〇二年生)と同世代であろう。讃岐局(妙音)は北条経時と同世代であり、義村の娘より一世代下である。具体的には佐原義連の子家連の子ではないか。家連の兄弟である盛連と後室矢部禅尼の間の子としては芦名光盛と佐原盛時らが知られ、異父(北条泰時)兄時氏は一二〇三年生であることから、それ以後の生まれとなる。この家連の娘が讃岐局であるならば、北条時輔と芦名盛信は従兄弟となり、行動を共にしていたことが理解できる。
 以上のように北条時輔の母は佐原家連の娘であるとの説を示したが、そうすると時輔は北条氏と三浦氏の血を引く存在となる。彼が産まれたのは西暦に換算すると一二四八年六月二一日で、宝治合戦で三浦泰村らが滅ぼされたのは一二四七年七月九日であった。時頼には三浦氏を必ず討つほどまでの意思はなかったが、外戚=母松下禅尼の実家である安達氏が主導して滅ぼすまでに至ったとの評価もある。讃岐局が経時との間に隆政を生んだ一二四一年の時点では、隆政は北条氏と三浦氏の関係を改善させるきっかけになる存在ではなかったか。宝治合戦の時点では北条氏を挟んで時氏の外戚三浦氏と時頼の外戚安達氏が対立する状況となっていた。

 

 兄との間に子を産んでいた女性との間に子をなすのは時頼の強い意志があって実現したと思われるが、三浦氏との関係を持つ時輔は安達氏にとってはとんでもない存在であり、正室葛西殿(北条重時の娘)との間の男子誕生が待たれ、その状況で産まれた時宗は歓迎すべき「珠」であった。時輔は文永二年四月に式部丞となり、これ以降の文書の宛所では「相模式部大夫殿」と記されている。これは曾祖父泰時も補任された官職であるが、その一方で時輔が六波羅探題として発給した文書にはいずれも「散位」と署名している。遠山氏は時輔が任官してまもなく職を辞したとされるが、これはあり得ない解釈である。いずれにせよ六波羅探題である時輔の思いには複雑な面があったことを示す事例であろう。
【訂正】当初は時輔を母将軍家讃岐を佐原盛連の娘としていたが、時輔の外祖父は文応元年に死亡しているので成り立たない。宝治合戦で肥前前司家連の子であろう肥前太郎左衛門尉胤家・同四郎左衛門尉光連・同六郎泰連が討たれている。家連自身の終見は『吾妻鏡』仁治四年七月一七日条の「御共結番之事」。大友頼泰の母は家連の娘である。

遠江国笠原庄について2

 笠原庄地頭については細川重男氏『鎌倉政権得宗専制論』でもすでに注目・言及されていた。毛利季光に注記された寛元四年について、細川氏は宮騒動の結果季光に与えられた時期を示すものと理解された。細川氏は将軍派の重鎮・三浦陣営の大立者である季光を懐柔するために与えられたとされたが、どうであろうか。季光の室は三浦義村の娘であるが、その娘は北条時頼の正室であり、微妙な立場にあった。佐原義連に付された「正治二年」が遠江国一宮への寄進状に基づくものであったように、寛元四年も季光が同社に関する文書を発給したことを示すものではないか。
 佐原義連は建仁三年(一二〇三)に死亡したが、その所持した和泉国・紀伊国守護職の後任は建永二年の時点でも補任されず、義連の代官がそのまま職務を務めており、その直後に、院の計らいとされてしまった。義連は死亡した建仁三年には七八才であったとされ、一一二六年の生まれとなるが、死亡時に嫡子盛連は幼少(元服前)だったのだろう。盛連は六年後の承元三年(一二〇九)の時点で和泉国守護となったことが確認できる。矢部尼と同年かやや遅い年代の生まれで、義連晩年の子となる。
 盛連は、北条泰時との間に嫡子時氏らをなしながら離縁となった矢部禅尼(三浦義村の娘)との間に芦名光盛・佐原盛時などが生まれている。義村は盛連の従兄弟である。その娘矢部禅尼は文治三年(一一八七)に生まれ、時氏が誕生した建仁三年には一七才である。その子盛時については嘉禄三年に奥州に流罪となった僧を預けられているので、この時点で二〇才とすると承元二年(一二〇八)の生まれとなり、異父兄時氏との年齢差は小さかったと思われる(ただし、両者の間には光盛がいた)。
 一条忠頼が頼朝によって忙殺された(一一八四)後、忠頼の遺児(娘)は三浦氏に預けられ、その所領笠原庄も三浦氏に与えられた。遺児は三浦氏惣領義澄の嫡子義村の室となり、笠原庄は義村の弟佐原義連に与えられた。義連の死後、子盛連が幼少であったので、三浦氏惣領義村を経てその娘婿毛利季光に譲られたのではないか。紀伊国守護は和泉国守護に準じて義連の死後、仙洞による計らいをへて承元三年までに盛連が守護職を回復したとされるが、なぜか承久の乱後は三浦義村に替わっている。笠原庄も三浦義村を経てその娘婿である毛利季光に伝えられたものであり、細川氏の推論は成り立たない可能性が大きい。
 なお細川氏の論文集については年末に鳥取県立図書館に赴いて長崎氏関係論文を確認し、現在は島根県立図書館を通じて貸し出しを受けている。現在は版元にも品切れで重版未定である。
 (追加)笠原庄については静岡県史で筧雅博氏が論じている。そこでは佐原義連跡の笠原庄は嫡子盛連に安堵され、盛連が天福元年に無断上洛を企てたことで討ち取られた後、毛利季光領となったとされている。この場合問題となるのがなぜ毛利季光に与えられたのかである。関係の有無は不明だが、同年に季光は大江広元の子としては初めて評定衆に補任されている。

2018年1月21日 (日)

遠江国笠原庄について1

 笠原庄一宮記(『静岡県史資料編中世1』487)には「笠原庄地頭代々次第」との端裏書きがあり、六名の地頭が記されている。最初に「平家小松殿」とあり、清盛の子重盛が当庄初の地頭と後世には認識されていたが、治承三年閏七月二九日に四二才で死亡している。二番目には「一条次郎殿」とあり、甲斐源氏武田信義の嫡男忠頼に比定される。甲斐源氏は挙兵後駿河国を実力で占拠したが、養和元年(一一八一)には頼朝の支配下とされた。忠頼も木曽義仲追討に参加し、一の谷合戦後多くの東国御家人とともに東国に帰還したとされるが、それから間もなく(四月とも六月とも)鎌倉で頼朝の命を受けた天野遠景により暗殺された。
 三番目の「十郎左衞門尉殿」に関しては正治二年六月日惣地頭兼預所左衞門尉平寄進状が残されている。文治四年の時点では笠原庄について斎院(範子内親王)御方から年貢を沙汰するよう、命じているが、未進などの不法が続いていた。その後、笠原庄は関東御領に組み込まれ、有力御家人が預所兼地頭に補任されたものであるが、建久三年の頼朝の上洛の際に「左衞門尉」に補任された三浦(佐原)十郎義連に比定されている。忠頼の娘が三浦義村の室となったとの記述もある。義連は建仁三年に死亡しており、嫡子左兵衞尉盛連(父義連の死後紀伊国守護を継承)に譲られていた可能性がある。嘉禎三年六月に矢部禅尼が和泉国吉井郷について下文を得ているが、夫前遠江守盛連から譲られたものを安堵され、尼の孫時頼が三浦庄矢部の別荘に届けたと記される(吾妻鏡)。天福元年(一二三三)に盛連は無断で上京しようとして討たれている。尼は当初北条泰時と結婚して建仁三年には嫡子時氏を生んだが、後に離縁となった盛連と再婚し、時氏は寛喜二年に二八才で死亡した。なお承久二年一二月には造内裏役が笠原庄に課されている。
 四番目には「森入道」とあり、大江広元の子毛利季光に比定されている。季光の室は三浦義村の娘で、季光の娘は北条時頼の室となっていた。「寛元四七十六」との追記があるが、季光が三浦泰村とともに宝治合戦で滅亡する宝治元年六月五日の一年前である。寛元四年七月には将軍頼経が京都へ送還される途中で、七月一六日には駿河国島田、一七日には遠江国掛川に宿していた。
 五番目には「中城介」とあり、安達義景に比定されている。安達氏は反三浦氏の急先鋒であり、宝治合戦では義景は嫡子泰盛とともに先陣を切って戦っており、その恩賞として関東御領(毛利季光跡)であった笠原庄を獲得したものであろう。六番目の「城陸奥入道殿」は泰盛であり、弘安八年(一二八五)一一月の霜月騒動で滅ぶまでは当庄地頭であったであろう。
七番目の潮音院殿は義景の娘で兄泰盛の養女となり北条時宗の正室となった女性(覚山尼・堀内殿)である。時宗が弘安七年四月に死亡すると、潮音院の子貞時が一二才で得宗となり執権にも就任した。潮音院は徳治元年一〇月九日に五五才で死亡しており、文保二年一一月二〇日には泰盛の弟顕盛の孫である時顕が笠原庄内南浦を遠江国一宮に安堵している。時顕の父宗顕も霜月騒動で討たれ、幼子であった時顕が平頼綱が滅ぼされた後に安達氏惣領として復権し、北条貞時が死亡した後の幕政を高時の外戚として内管領長崎氏とともに主導した。
 以上、毛利季光領であったことから笠原庄について情報を整理した。

2018年1月19日 (金)

持明院殿について

 文永八年一一月日出雲大社三月会頭役結番帳には「相模殿」と「持明院殿」と地頭名に「殿」を付けた二つの事例がみられる。前者は得宗北条時宗で問題ない。後者については後深草上皇に比定したことがあったが、天皇を退位し院政を行っていないとはいえどうであろうか。
 持明院は一二世紀初めに藤原基頼が邸内に建立した持仏堂の名で、その後は家の号としても使われるようになった。持明院基家の娘が後鳥羽院の兄守貞親王との間に産んだ後堀河天皇が承久の乱後に即位すると、守貞親王は後高倉院と号して持明院殿で院政を行うとともに、持明院宮と呼ばれた。後堀河院の子四条天皇の死により即位した後鳥羽院の孫後嵯峨院も天皇退位後の御所として持明院殿を使い、後深草天皇系の天皇も退位後の御所として「持明院統」と呼ばれた。ただ、実際は後堀河天皇の皇女室町院(暉子内親王)が御所とし、後深草系が天皇退位後の御所としたのは伏見天皇以降で、後深草院は外祖父西園寺実氏が献上した冷泉富小路殿で暮らしたとの指摘があり、後深草の院宣で彼を「持明院殿」と呼んだ事例もない。
 これに対して文永一一年六月七日持明院某御教書(鎌遺一一六七〇)は「持明院殿」の意向を「前周防守」が伝えている。新宮御領遠江国浜松庄内岡部郷の相伝の変更を「片岡五郎大夫」に伝えている。関連史料をみると正安四年一一月二四日後宇多上皇院宣では、岡部庄について「禅林寺殿」=亀山院に聞いたところ意向を示されたことを賀茂神主に伝えている。神供の退転が問題となっていた。次いで乾元元年一二月一日後宇多上皇院宣では、岡部郷を元の如く新宮に寄附している。そして嘉元四年昭慶門院御領目録では室町院領岡部郷について、賀茂神主経久が相伝知行するよう院宣が出されたことが記されている。
 以上により文永一一年の持明院殿は後深草上皇ではなく室町院のことであったことがわかる。正和元年一〇月一八日関東御教書により、賀茂神主が相伝していたのは岡部郷地頭職であったことが確認できる。文永八年の秋鹿郡伊野郷と出雲郡志々塚保地頭「持明院殿」も室町院に訂正する。一四世紀初めの室町院領目録の武家所進地頭職に「志々塚上方」と「志々塚下方」があることで裏付けられるが、「伊野郷」がみえず同郡内古曽志庄が記されている理由は不明である。

2018年1月16日 (火)

長江・倉橋庄について2

 実朝の時期の摂津守として確認できるのは、源仲清、藤原隆範、津守経国、高階業基がいる。津守経国は国長と中宮大夫進長基(源高良とするものも)女子を母として文治元年に生まれ、八条院臨時御給で三才で叙している。建保三年正月に摂津守となるが、翌四年六月に権神主になり、八月に摂津守を辞している。承久二年に神主となり安貞二年に四四才で死亡している。八条院は鳥羽院の娘であり院との関係が深かったのであろう。承久三年二月の熊野御幸の際には後鳥羽院が入御する御所を造営しているが、承久の乱で失脚することななかった。
 これに替わって摂津守となった高階業基は建保元年四月二五日の法勝寺九重塔供養に参加者の中にみえる。承久二年一一月五日には順徳天皇の東宮の御著袴之儀が行われているが、その参加者に院の五位上北面としてみえる。承久の乱で失脚することなく、寛喜元年一一月の関白九条道家の長女が後堀河天皇に女御として入内する儀式にも諸大夫の一人としてみえる。院との関係がうかがわれる。
 承元元年四月に摂津守となった源仲清は、建久元年正月一一日に後鳥羽の長子が立太子と同時に土御門天皇として即位した際に判官代としてみえている。次いで同月二一日に後鳥羽院が生母七条院のもとに御幸した際にも「判官代」としてみえる。承久の乱後も生き残り、嘉禄二年三月二七日には播磨国三方庄東庄について地頭源仲清が停止されている。入道権大納言家から幕府に所領三ヵ条について申し入れがあり、幕府がそれを受けて決定したものであるが、地頭停止の理由は不明である。同年八月一四日には臨時内給で左衞門尉に補任され、仁治三年一〇月には但馬守に補任されている。
 仲清と相前後して摂津守となったのが承元二年七月一五日に「摂津前司」としてみえる藤原隆範である。「五位判官」や「民部少輔」としてもみえるが、建保三年二月二三日には春日神社への奉幣使として「越前守藤原朝臣隆範」がみえる。この当時の越前国は後鳥羽の生母七条院の分国であった。
隆範も寛元二年には「殿上人隆範朝臣 越前々司」とみえるように、承久の乱後も生き残った。 
 摂津国は寿永元年に後白河の院分国であった以外は、院分国として明証を欠いているが、藤原隆範が国守であった承元元年以前にも七条院の分国ではなかったか。当然、その背後には七条院の子後鳥羽院がいるわけで、承久の乱の直前も同様であったため、摂津国長江・倉橋庄の地頭の問題が生まれたのではないか。以上、長江・倉橋庄の地頭改補問題の背景をみたが、摂津国守護は大内惟義から子惟信に継承され、承久京方で没収された。越前国守護もまた大内惟義から惟信に継承されている。
 なお、これほど知られた両庄であるが、摂津国内のどこに所在したのか不明ということで、長江庄の場合三〇〇町もあればわかりそうなものだし、倉橋庄も摂関家領については比定されているが、院領はその付近という以上は不明のようである。

長江・倉橋庄について1

 承久の乱の原因の一つとなったことに長江・倉橋庄の地頭の改補問題がある。後鳥羽院が領家職を寵愛する亀菊に与え、使者を派遣したところ地頭が忽緒にしたことから、亀菊が院に地頭の交代を求め、院が幕府に申し入れたものであった。これを北条義時が拒否したため、院による義時追討の命令が出された。
 『承久記』によると院は白拍子の出身であった亀菊の父を刑部丞に補任したが、俸禄が不足するとして長江庄三〇〇町を亀菊に与えた。父刑部丞が院庁下文を携えて長江庄に下ったところ、現地の武士は長江庄は頼朝から義時に与えられたものであり、大夫殿=義時の命令がなければ従わないとして抵抗した。これを聴いた院は医王左衞門能茂を派遣して地頭方を追い出そうとしたが、これも失敗した。そこで院は義時に長江庄を去り渡すことを求めたが、義時がこれを拒否したと記されている。このため院は義時の院宣違背について公卿詮議を行った。その中で進行中の内裏造営についても院が六ヵ国を造営に充てたが、院側近の光親と秀康が知行国主である4ヵ国は沙汰したが、越後・加賀では地頭が命令に従わないことをあげて、最終的には討伐の命が出された。長江庄については関係史料がないが、院領であったと思われる。これに対して倉橋庄は永長元年(一〇九六)一二月一五日に院から摂関家に摂津国倉橋庄と垂水御牧の寄人が役夫工米代物を弁済しないことについて申し入れをしており、摂関家領であった(これとは別の院領倉橋庄があったとの説や東庄が摂関家、西庄は摂関家から鳥羽天皇の皇后となった高陽院領から院領になり、地頭停廃問題が発生したとの説もある)。
 院の要求は北条義時に地頭職を去り渡して交代することを求めたもので、地頭を停廃するものではなかったが、相手が義時であったので、大きな政治問題に発展した。院としては要求すれば実現すると思ったものが拒否された形となった。まさに実朝が将軍の時代の地頭の中には、補任権は幕府にあるが朝廷の地頭交代要求があれば実現するものがあったのである。いわゆる平家没官領・謀反人跡の地頭とは異なる面があった。
 これ以上、両庄については史料がないので、当時の摂津守について見てみる。国によっては淡路国のように院、幕府の了解のもと庄官・郷司などが地頭に変更されるケースがあることを、本ブログで主張しているからである。

2018年1月14日 (日)

囲碁・将棋界の近況から

 羽生・井山両棋士の国民栄誉賞が決まった。両棋士の実績の素晴らしさは誰でも認めようが、発案者が発案者であり、賞の基準があいまいだということが浮き彫りとなった。タラレバを言ってもしょうがないが、羽生棋士も今回の竜王戦を逃したら永世七冠は実現しなかったかもしれない。四月以来の成績は、対戦相手の質がどの棋士より高いのでしかたがない面もあるが勝率56%である。昨年度も55%であったが、二年前は64%であった。レーティングのランキングは4位。他の棋士との差が確実に詰まっており、挑戦者になり且つ勝利することは大変である。防衛戦が2棋戦あるが百個目のタイトル獲得もそう簡単ではないと思われる。永世の資格で五期連続が必要なものはすでに達成していたことも大きかった。竜王であった渡辺棋士は不調が続いており、本調子からはほど遠いようだ。本年度の勝率は46%でランキングは11位に後退している。今回も本人のブログによると羽生挑戦者の手で読めていなかったものがかなりあった模様。当方の将棋の棋力はルールは知っているという程度なので、あくまでも数字のみをみたものである。
 藤井四段が朝日杯で佐藤名人を破って四強進出というニュースも飛び込んできたが、現在は絶対的な強者がおらず、とても勝てない棋士はいないと思われる。佐藤名人は昨年の勝率70%が今年は48%と不調であった。ランキング1~3位のうち、1位豊島棋士と3位菅井棋士も勝率は76%と68%で上位だが、最近の対局では少し調子を落としているようにみえる。2位の永瀬棋士は勝率79%であるが、豊島・菅井・羽生棋士と比べれば対戦相手の質は少し低いように思われる。
 井山棋士が一昨年の名人戦を勝利していたら七冠が継続していたが、今回は一旦失冠したのに二度目の七冠というもので、少し変な気がする。当然、七冠が継続していたほうが素晴らしいはずなのに、その場合は今回の受賞対象となったであろうか。いずれにしても二月のLG杯の決勝戦が重要である。世界戦に優勝してもおかしくない棋士が中国と韓国を合わせると20人から30人いるなかで、その一人である井山棋士が優勝するのは大変難しい。今回は決勝まできたが、勝利の可能性は五分五分であろう。新年の中韓の名人との対局では2連敗であったが、2連勝が不可能ではないが2連敗も不思議でないのが世界戦である。その点が国内のみで行っている将棋との違いである。
 現時点では日本で世界のトップクラスといえるのは井山棋士のみだが、昨年王座戦と天元戦で6連敗を喫した一力棋士が棋聖戦でどう戦うかは注目すべき点である。6連敗の一つの原因に一力棋士が先に考慮時間を使い果たしていたことがあったように思われる。秒読みで失着がみられた。当方の囲碁の棋力は将棋よりはあるが級位者でしかないので、数字をみる限りのコメントでしかない。今回は初の二日制持時間八時間なので注目される。また、井山棋士の世界戦の成否も持時間の使い方にある気もするがどうであろうか。中韓の棋士は前半はいくら考えても結論はでないので決めて打つことが多いと言われている。

湯原幸清と河副久盛11

 吉川氏自身も宇津井・曽田の問題で三須右馬助を尼子氏のもとに送っていた。二山氏と同様、高橋氏との間で所領問題があったと思われる。尼子国久・誠久父子には毛利氏が所領について吉川氏に懇望してきたことを伝えている。両者の間の所領問題は大内氏のもとでは毛利氏が有利であったが、それゆえに吉川氏は尼子方となって状況を改善することができた。それを毛利氏が以前の状況に戻すことを吉川氏に求めており、吉川氏にとっても尼子氏の支援を必要としていた。国久が六月一一日、誠久は翌一二日付で返事をしている。委細は湯原・河副から申すとしているが、今回は晴久は対応していない。その理由は返事の内容が前年一三年から後退して、出張を約束できる状況にはなかったからであろう。国久は御油断があってはならないことしか述べていない。それをうける形で一一日付けで湯原・河副の連署で吉川氏ならびにその重臣へ書状を送るとともに、河副久盛単独で吉川氏重臣に返事をしている。天文一三年と一四年の尼子氏の動きについてはなお課題があるが、とりあえず述べておいた。
 宇津井・曽田の問題については前回の返事と同じだとする。尼子方の領主間の対立の調整は簡単ではない。石見国では小笠原氏が郷要害を攻めており、吉川氏がそれに協力することを良しとし、福屋氏の件も相談の上報告してほしいとしている。また二山祐盛の進退についても油断なきことを求めている。一つの所領にも本主が複数おり、双方が尼子方であるため対処が難しいようである。家臣宛では「此方出張之儀不可有延引」と述べているが、興経宛と河副単独書状では触れていない。すべては晴久が登場しないことが物語っている。国久・誠久からの書状と日が離れておらず、湯原・河副とともに富田城に居たと思われる。
 以上の検討によれば、湯原・河副は天文一二年以降も西部方面を担当してはいたが、以前のように赤穴庄に継続的に滞在して活動することはなかったと思われる。二〇〇〇年の自身の論文を読み直すと、湯原・河副の書状の年代比定が逆になっていることに気づいたが、今回示した理解が正しい。「堺目之儀」=毛利懇望と理解していたが、天文一三年の晴久書状で「其堺御同篇之由」に対応するものである。文書を順番に並べると以下のようになる。( )内の番号は吉川家文書のもの。
 天文一三年①六月一〇日尼子国久書状(392)、②六月一〇日尼子誠久書状(394)、③六月一一日尼子晴久書状(64)、④⑤六月一二日湯原・河副書状(402、403)、⑥六月一二日河副書状(404)。
 天文一四年①六月九日二山祐盛書状(405)、②六月一一日尼子国久書状(395)、③④六月一一日湯原・河副書状(399、400)、⑤六月一一日河副書状(401)⑥六月一二日尼子誠久書状(396)。

湯原幸清と河副久盛10

 尼子氏の安芸吉田攻めの敗退と大内氏の出雲富田攻めの失敗後の両者について確認する。軍記物によると晴久は敗退する大内方を追い、石見銀山を押領しようとしたが果たせず、佐波氏攻撃に転じたとする。合戦の場所は不明であるが、七月二二日吉見正頼感状では、二一日に上領淡路守が尼子陣へ夜襲をして牛尾氏が敗北したことを賞している。また、一〇月一日に久利郷に出張してきた尼子軍との戦いの軍忠を、一一日に久利太郎法師丸が弘中下野守に申請し、義隆が「一見畢」と承判を与えている。
 同年八月一二日尼子晴久書状では、先に赤穴盛清に与えた都賀郷の替地として佐波北分を与えている。これが佐波氏攻撃によって得られたものであった。叔父興連に続いて追放され大内氏のもとに逃れた惣領隆連の跡を盛清に与えたと考えられる。一〇月二〇日には晴久が都賀西と阿須那の替地として君谷七〇〇貫と河合内金子分三〇〇貫を与え、翌年九月三日には祖父久清が盛清に対して、光清の勲功に対して与えられた佐波七〇〇貫其外数箇所の御判の地については相違があってはならないと晴久から堅く申し定めれていることを伝えている。
 その上で国内の支配体制の見直しを行ったが、一度は大内方となった国人でも一部を除けば所領を安堵したり、新たな所領を与えざるを得なかったところにその弱点があった。佐波氏領であった須佐郷を与えた本庄常光、横田庄内八川を与えた多賀山通続などである。都賀郷も高橋治部少輔(弘厚)跡として、尼子方となった高橋氏関係者に与えたのであろう。一方、三沢氏惣領や牛尾氏惣領についてはこれを殺害したり殺害に追い込み、一族の別の人物を惣領としたり、富田衆の有力家臣に継承させている。佐波氏のケースもこれに似ているが、惣領自身は殺害を逃れ、大内氏のもとで家臣となっている。
 これに対して天文一三年六月には吉川氏に対してその方面は油断なく勤めてもらっているが、東部方面が本意に属しているので、近日中に西方面に出張する覚悟であることを伝えている。吉川氏から届いた七日付の書状を受けて晴久が一一日に返事を出し、翌一二日に湯原と河副が連署で吉川興経とその重臣吉川伊豆守・森脇和泉守に返書を出しており、湯原・河副は富田城に居た可能性が高い。その上で久盛単独で吉川氏重臣に書状を出しているように、久盛がこの方面の主担当であった。吉川氏は晴久への書状に先立って二日付けで尼子国久とその子誠久に書状を送り、両者は一〇日に同内容の返事を送っており、富田城に居たと思われる。国久の母は吉川氏であり、より関係が深かったと思われる。
 次いで翌一四年にも吉川氏側から働きかけがあり、尼子氏が答えている。六月九日には所領問題で尼子氏に訴えるため富田城にやってきた二山祐盛なる人物が、紹介者である吉川氏に対して状況を説明している。苗字と名前からすると二つ山城を本拠とし「祐」をその名に付ける出羽氏の一族と思われる。出羽氏はその所領の大部分をを高橋氏に押領されていたが、享禄三年に高橋氏が滅亡した後は、毛利元就が出羽氏に所領を安堵していた。祐盛は出羽氏の一族であるが、尼子方になって所領の回復を目指していたが、高橋氏やその一族である本庄氏も尼子方であり、その要望の実現は困難であった。祐盛も晴久との対面は実現していないことを吉川氏に伝えている。

2018年1月13日 (土)

赤穴氏と尼子氏2

 大内氏が尼子方国人の切り崩しを行い、備後国守護山名氏は尼子氏との連携を破棄することを国人に伝えた。こうした中、佐波氏は大内氏との関係を深めた。誠連の弟「興連」の名は大内義興にちなむものであり、誠連の嫡子も「隆連」と名乗った。尼子氏が大永六年の軍事活動で佐波氏を没落させたのはそのためで、享禄三年以降の塩冶興久の乱では佐波氏惣領は赤穴氏とともに経久方であった。ただし、この時点では大内氏そのものが経久を支持していた。小笠原氏も大永五年には尼子氏に動員され伯耆国の合戦に参加しているが、佐波氏と同様、境目領主として尼子氏と大内氏の双方との関係を維持していた。
 それが尼子氏と毛利氏の対立が強まり、大内氏とも対立するようになると佐波氏と小笠原氏はどちらかを選択しなければならなくなった。天文五年に尼子氏は安芸・備後・石見国に軍事行動を展開し、小笠原氏は尼子方となった。佐波氏では惣領誠連が死亡した年であったが、実権を持った弟興連が追放され、大内氏のもとで牢人中となった。佐波隆連は赤穴光清とともに安芸吉田攻に参加したが、これが失敗すると大内方に転じて、大内氏の出雲国攻に協力した。赤穴光清が尼子方を維持したが、赤穴城合戦で討死し、その後継者詮清は毛利氏の調略で筑前国に下向し、そこで殺害された。
 一方佐波隆連は尼子氏の攻撃を受けて、これまた大内氏のもとに遁れざるを得なかった。こうした中、光清の庶子孫五郎盛清が祖父久清の補佐を受けて赤穴氏当主となったが、盛清と晴久との関係は、父光清と経久の関係ほど強固なものではなかった。父と兄の死が影を落としていたこともあるし、晴久が経久ほどの実績を上げることができなかったこともあろう。晴久は盛清を佐波氏惣領にしようとしたが、天文一二年には石見銀山の掌握に失敗し、石東にも大内氏与党の勢力が残っていた。その結果、大内氏のもとにいた興連が石見国に戻ることを晴久は阻止できず、赤穴盛清による佐波氏掌握も実現しなかった。出兵要請に応えない晴久に対して盛清は不満を持ったと思われる。父光清は尼子氏の国外遠征に従軍し経久から感状を与えられているが、盛清に関する軍忠状や感状は残されていない。天文一八年二月二月八日に晴久は赤穴盛清に対して、亡父光清と本人に申し合わせた知行について確認し、さらなる忠義を求めているがどう受け止められたであろうか。毛利氏が出雲国に入ってくると、他の国人と同様に毛利方となったのは晴久と盛清の間の関係が弱かったことの結果であった。永禄五年二月には過去に赤穴庄に駐在し、赤穴氏との関係を持つ牛尾(湯原)幸清と河副久盛の連署で盛清に安堵状を与えたが、盛清の決断に影響力を持たなかった。

赤穴氏と尼子氏1

 赤穴氏が惣領佐波氏と守護京極氏との関係で行動してきたことは永正二年の郡連置文に述べられているが、その後の状況はどうであったろうか。注目されるのは、永正一二年の郡連譲状の奥に大永二年一〇月二一日付の久清署判が加えられたことである。名前を「郡連」から「久清」に変え、花押も変更している。
 赤穴氏初代弘行は常連の末子であるが故に寵愛され、赤穴庄惣領地頭職と猪子田南村の西分=佐波氏領により近い地域を譲られた。母親が違う可能性が大きい正連と清連からは不満もあろうが、それを佐波氏惣領幸連との関係で維持させようというのが常連の意向であったと思われる。正連の「掃部助」と清連の「備中守」はいずれも常連の官職であった。これに対して弘行は任官していないが、二人の兄が「連」を付けたのに対して「行」は佐波氏惣領幸清との関係をうかがわせる。
 弘行の嫡子「幸重」は弘行から「幸」を受け継ぎ、それに京極持重(持光・持高と同一人物で、永享三年八月一〇日に佐方氏の所領を安堵した花押に「持重」の貼紙あり)の「重」を加えている。弘行の梁山への貢献に反する形で成人した元連が赤穴氏領を押領しようとしたため、赤穴氏は京極氏との関係を強めざるを得なかったのであろう。幸重の後継者幸清は、父の「幸」と京極持清の「清」に基づくもので、さらに佐波氏から距離を置いた。花押も弘行・幸重から変化している。
 ところが一五世紀末には京極氏の出雲国支配が後退したため、幸清の後継者「郡連」は佐波氏惣領秀連とその嫡子誠連と同様、「連」の字を付け、その花押も父ではなく佐波氏との共通性を持ったものに変えている。これが当初の永正二年の「郡連(花押)」であったが、その後尼子氏が台頭し、永正末年までには出雲国内の政治的統一を終え、同一五年には赤穴郡連の所領を安堵している。
 この点が大永二年一〇月の「久清(花押)」の背景であり、尼子経久の「久」と祖父幸清の「清」に基づく名前に変更し、花押も右の部分を変更している。大永二年一〇月がどのような時期かというと、尼子氏は同年二月に初めて杵築での万部経読誦を行い、その後九月二六日には石見国へ出兵し、佐波氏の所領を含む江川以東の地域を掌握している。これを踏まえての「久清(花押)」への変更で、赤穴氏は佐波氏との利害の対立を尼子氏に接近することで解決しようとしたのである。尼子氏は翌三年には安芸国と石見国西部まで活動の範囲を広げ、これが尼子氏に対する警戒感を生んだ。

2018年1月11日 (木)

川副久盛の役割

 富田衆河副久盛は湯原幸清とともに、天文五年から一四年にかけて安芸国吉川氏との間の連絡を行ったことで知られているが、その役割はどのようなものであったろうか。湯原幸清は天文九年六月の竹生島奉加帳で富田衆の冒頭にみえるように、富田衆の最有力者の一人で、尼子氏の発給文書の奉者としてみえるとともに、尼子氏と連絡を取った本願寺からは「尼子内者」「足軽大将ヲスル者也」と呼ばれている。湯原は天文八年には加茂庄地頭としてみえ、大檀那尼子経久のもとで加茂若宮神社拝殿の造営にあたっている。また、大内義隆の出雲国攻の際に牛尾氏惣領河津民部左衞門尉が尼子氏を裏切ったことで討伐されると、養子に入って牛尾氏惣領となっている。また幸清は河副久盛とともに西方面の対応を行っていたが、尼子氏による東方遠征が実施されると、そちらに同行している。また天文二〇年代には新宮誠久とともに尼子氏の美作国支配の中心となっている。これに対して河副に関する史料は少ないが、一定の傾向はうかがわれるので、情報を整理してみたい。それにより、吉川氏との連絡に当たっていた両人がどこに駐在していたかを考えてみたい。 吉川氏との連絡は外交担当と言えるであろう。①天文一一年八月二八日には尼子晴久が瀬戸要害に楯籠もって多数の敵を打ち捕らえるとともに不慮の討ち死にを遂げた赤穴光清の勲功について、その子で後継者となった孫五郎盛清に感状を与えているが、委細は河副久盛が伝えるとしている。弘治二年八月二八日には晴久が豊後国大友氏の一族志賀安房守に対して山吹城以下の敵方の城を悉く落城させたことを伝えるとともに、大内氏に関する豊後国の情報提供を求めているが、ここでも「河副被申上候」としている。さらに永禄元年四月には、河副と福屋氏から毛利元就が近日中に出張するとの情報を得たので、小笠原氏に対して家中堅固の覚悟が必要であることを伝えている。晴久没後の義久のもとでは杵築の商人坪内氏への発給文書の奉者としてみえるが、坪内氏は銀山にも屋敷を持ち、備後国人の切り崩しに派遣されるなど、尼子氏の外交の一端を担っていた。富田城に籠城する義久の最晩年の永禄九年二月には、謀叛を起こそうとした宇山飛騨守父子を討ち果たしたことを美作国人江見氏に伝えた奉行人奉書の署判者としてみえる。
 以上のように河副は尼子政権で外交を担当していたと考えられるが、牛尾(湯原)幸清と連署して出しているのが②永禄五年三月一日の義久袖判奉行人奉書で、赤穴美作守盛清に対して所領と所領に対する守護役は晴久の安堵の通りとし、佐波郷内泉山の普請については平時は赤穴氏領に課税するが、戦時には大変な負担であるので援助することを伝えている。①②から河副が赤穴氏に対する尼子氏側の窓口となっていたことがわかる。ただし②は功を奏さず、赤穴氏は大内氏の出雲国攻の時点とは異なり、早〻と赤穴氏は三沢氏・三刀屋氏とともに毛利方に転じている。
 最後になったが、天文五年~九年にかけての副久盛は石見国・備後国と堺を接し、安芸国にも近い赤穴庄に駐留して、情報収集と外部への働きかけを行っていたと思われる(以前の記事では三吉ヵとしていたが訂正する)。湯原・河副の部下として両人が不在時に吉川氏と連絡を取っていた内田泰家・石橋信安の五月二六日連署書状の中で「河本より三原孫右衛門被罷登候」「(福屋氏)より加勢の派遣を含めて被罷登候」と述べられている意味もできる。

2018年1月 8日 (月)

高橋命千代について2

 では命千代はどこの家から「大九郎」の後継者となったのだろう。系図ではその父は「朝貞」とされるが、高橋氏惣領の通字である「光」を付けていないことから、高橋氏の庶子の家と考えられる。また、元光が益田宗兼に対して「祖父之時甚深之事候」と述べている点も注目される。祖父とは朝貞の事と思われる。益田氏側は兼堯・貞兼父子であろう。系図では朝貞の父は貞光とされるが、その祖父とされる師光は一四世紀半ばに高師泰が足利直冬と結ぶ三隅氏討伐のため石見国に派遣された際に参陣している。師光は一三三〇年前後には生まれていたと思われる。一方、その曾孫である命千代は一四六〇年前後の誕生で、約一三〇年の差は大きすぎ、命千代の養父朝貞が師光の曾孫とすべきである。
  高橋氏と益田氏の関係を示すものとして、高橋氏庶子で阿須那鷲影城に居た高橋頼之・頼久父子が益田兼堯の招きに応じて益田・上吉田郷に移ったことが注目される(鷲影神社碑文)。頼之の父貞頼は応永一五年(一四〇八)従兄弟である阿須那藤掛城主高橋貞光の招きで鷲影城に入ったとされる。貞光の父師光と貞頼の父貞春は兄弟であったが、備中国人であった貞春は延文五年(一三六〇)に河内国の合戦で討死した。師光の子貞光を一三六〇年前後の生まれとすれば応永一五年には五〇才前となる。命千代の父朝貞が一四三〇年前後の生まれとすると、両者の間にもう一人いると考えた方が妥当であろう。
  安芸高橋氏としては、宝徳二年(一四五〇)に吉川経信が綿貫左京亮と合戦に及ばんとした際に小早川煕平とともに制止した高橋伊予守光世がいる(吉川家文書)。「光」を上に付けることから高橋氏庶子であろう。安芸高橋氏を相続した高橋伊予守弘厚と官職が共通している。以上を踏まえると、「大九郎」は問題があって隠居させられ、惣領石見高橋系の命千代が庶子安芸高橋氏も含めて相続し、石見・安芸両家の当主となったと考えられる。

高橋命千代について1

 石見国と安芸国とにまたがる勢力を有した高橋氏については、一次史料にみえる人物と系図にみえる人物が一致しないという問題があり、その系統的理解を困難としている。滅亡した享禄年間には安芸国吉茂上下庄を支配する高橋伊予守弘厚と石見国阿須那を支配する高橋大九郎興光がおり、興光は弘厚の子であるが、父の兄弟元光が戦死したことによりその跡の継承を認められている。ここからわかることは弘厚・元光の父の代には安芸・石見の所領を支配していたことである。
  文明八年九月一五日に高橋命千代が益田越中守兼堯・貞兼父子と契状を結んでいるが、命千代が元服前ということもあって高橋氏被官が傘連判の形式で署判を加えている。その苗字とする地名は安芸・石見両国に分布している。この命千代について岸田裕之氏は永正七年三月五日に益田治部少輔宗兼との間に契約を結んでいる元光であるとされたが、元光は石見高橋氏の当主であり、命千代と同一人物ではない。前述の弘厚・元光の父久光であると考えるべきである。
 命千代については年未詳六月二日是経書状によると、高橋氏が毛利氏と和与を結ぶ条件として「高橋大九郎」が隠居することとなり、それに替わって命千代が高橋になって毛利被官となった。当時の毛利氏当主は豊元(一四四四~七六)であった。命千代(久光)の子が元光・弘厚と豊元の後継者弘元(一四六六~一五〇六)の一字をその名に付けているのは両家の関係を示している。元光と弘厚兄弟の関係は高橋氏の通字「光」を付ける「元光」=石見高橋氏が惣領(嫡子)で、弘厚=安芸高橋氏が庶子であろう。

2018年1月 7日 (日)

大内義隆の花押2

 大内義隆書状にはその花押の変化を手がかりに年次の比定が可能となるものが①以外にもある。②年未詳正月二七日義隆書状(下郷共済会蔵文書、『山口県史』史料編中世四)で、そこでは毛利右馬頭元就に対して、家中が錯乱に及んだ場合は国中の面々が合力して対応するように申し遣わしたことを伝えている。他の対応はありえず、対応が遅れてはならないとし、詳しくは弘中隆兼が伝えるとしている。大内方の国人の家中に錯乱が生じかねない状況が生まれてきたのである。その背景は尼子氏の影響力が再び強くなってきたことである。
 年次比定の材料としては元就が治部少輔から右馬頭に進んでいるので、天文三年以降のものとなる。義隆の花押は、享禄四年のものが確認できなず不明であるが、享禄五年(天文元年)には従来のⅠ型からⅡ型に変化している。ところが早くも翌年にはⅢ型に変わり、これが天文一〇年まで続く。尼子氏の毛利氏攻めが失敗した天文一一年から没年迄はⅣ型が使われ、晩年には花押がなく署名を草書化したもの(書状のみ)が並行して使われている。
 ②の花押はⅢ型であるが、その中でも微妙に変化しており、その中に位置づけると天文五年ないしは六年のものと思われる。天文五年に山内氏を屈服させた尼子氏は安芸国吉川氏も自らの陣営に加え、同年後半には大規模な出兵を行い、毛利氏が支配していた所領を奪い取っている。これまた安芸国の研究で尼子氏が所領を奪取したのは天文八年だとして、吉川家文書に残る尼子氏とその家臣の文書を同年に比定した見解が誤りであったことを示すものである。こうした状況を受けて、毛利元就は嫡子隆元を天文六年一二月に山口の大内氏のもとに派遣し、大内氏との関係が動揺することを防いだ。元就としては過去の経緯による心情から、尼子氏方となる選択はなかったと思われる。

大内義隆の花押1

 表題のテーマについて、小早川文書の①年未詳四月二二日大内義隆書状をその花押から享禄二年前後のものであることが、岸田裕之氏『毛利元就』で指摘されていた。その書状では毛利家中が錯乱状態となろうとしたが、即時に静謐されたことを小早川氏に伝え、同様のことがあれば相談してもらうことが肝要であるとしている。 
 享禄二年には毛利氏による高橋氏攻撃が開始されるが、その前段として高橋氏を介した毛利氏への働きかけがあり、毛利家中には大内方と尼子方の選択をめぐり対立が生まれたのである。大永五年に毛利元就は尼子方から大内方へ転じ、その中で元就の弟相合元綱が粛正されたが、それで完全に決着したわけではなかった。錯乱の背景として尼子氏と結んだほうが有利ではないかと思わせる状況が生まれていたのである。
 従来、元就が大内方となり、大永六年には備後国守護山名氏が反尼子方に転じたことで、大永六年から七年にかけての備後国における合戦で尼子氏は敗北したとされてきたが、実際にはそうではなく、切迫した状況が続いたのである。錯乱が生まれた原因の一つに、高橋氏が尼子方に転じたことがあった。尼子氏は高橋氏を「退治」したと表現している。高橋氏をはじめ様々な方面から毛利氏に対して尼子方に戻るように働きかけがなされていたのである。元就自身はそのつもりはないであろうが、周囲の状況が毛利家中の尼子方の発言権を増大させたのである。義隆が小早川氏に相談を求めているように、他の国人も同様の状況にあった。
 ただし調略という面では「人間不信」の塊である元就も得意としており、備後国の有力国人山内氏女子を妻とする塩冶興久に向けて行われていた。その結果起こったのが翌三年の興久の乱であった。これにより尼子氏による高橋氏への救援は困難となり、高橋氏の滅亡にいたる。ただし、岸田氏が説かれたように享禄二年に滅亡したのではなく、その時期は興久の乱の勃発後の享禄三年末であった。また、地元の住本氏は元就と詮久の兄弟契約が結ばれた同四年とされている。

2018年1月 5日 (金)

日本のモノ作り4

 同じく不思議であり、その理由は十分にわからないのが、A社が開発したルーミー/タンクである。それ以前に発売されたA社の軽ではⅢに変更されていたのに、なぜかⅡのままであったのである。やはりB社のセイフティセンスCを上回る性能を持つブレーキを搭載することは許されなかったのであろうか。
 EVで先行するF社はEV専用車リーフのモデルチェンジを行い、走行距離のアップを含めて大々的に宣伝するはずであったが、前述の検査不正の問題が表面化して、注文はできても納車は大幅に遅れることとなっただけでなく、カーオブザイヤーも辞退してしまった。アイサイトのE社も同様の理由から辞退したが、両社の車は10ベストには残った可能性が大きかったとされる。リーフの初代モデルはイヤーカーとなり、昨年度の受賞はE社のインプレッサであった。ちなみに、B社の受賞は2009年のプリウス以来ない。その前年も同社のiQであったが、これは購入した人のほとんどが後悔するレベルの車であったとされ、賞の権威を著しく下げてしまった。
 リーフは生産者の専門家に言わせると、マイナーチェンジにすぎないという。プラットフォームは前のものを利用しており、走行距離のアップと自動運転システムぐらいしか売りがないという。ただ他の評論家の評判は悪くはないようで、イヤーカーになった可能性もあったという。同一プラットフォームを二代利用し、その後更新するのが普通のようではあるが、前述の最も売れている車は二代目であるがプラットフォームを更新している。F社のミニバンセレナはプラットフォームを変更しなかったので床が少し高い。B社のミニバンノアは発売はセレナより早いが変更したので床が低い点ではセレナを上回り、これを売にしていたステップワゴンに並んだ。
 Nボックスは売れたのでお金をかけられたのであるが、リーフはそれほど売れたわけではないので、更新しなかったのであろうか。D社の軽も前回に引き続きプラットフォームを更新したが、生産者の専門家の評価はイマイチで、マイナーチェンジに期待するとのことであった。
 前にも述べたが、日本のメーカーには良い車を作る能力はまだあるが、コストを重視しすぎるので、日本市場では外国車の方かコストをかけた分だけ良いという状況になっている。欧州で販売されている日本車は別物なのにである(ただし、米市場と比較すると日本車は売れていない)。D社のインド生産車を利用しているが、タイヤは日本のトップメーカーのものである。日本でも同じ製品が車に利用されてるが、日本ではメーカーがコストと燃費のことばかりいうので同じ銘柄でもインド製が遙かに良いそうだ。同じ銘柄は普通に購入できるが、個々の車に利用される際には自動車メーカーの要求に基づき変えており、微妙に違うようである。その車専用のものよりもタイヤ店で購入する同銘柄が良いことが多いそうだ。

日本のモノ作り3

 補足的に述べるが、軽メーカーA社製のトップメーカーB社の車にパッソとルーミー/タンクがある。軽自動車生産のノウハウが活かせればよいが、パッソをモデルチェンジする際には、プラットフォームは変更しないことが求められ、前のモデルと同様、アクセルペダルのオフセットが大きくならざるを得なかったという。軽自動車は幅の制約もあり仕方がないが、普通車ではオフセットを最小にするC社の取り組みもある。オフセットの少なさが安全性を高めることはいうまでもない。C社はエンジンの吸気・排気もスムーズにすることも重視しているため、結果的にボンネットが長くなり、後席の居住性と積載能力は他社より低くなっている。ただ不十分かと言えばそうとも言えない。
 パッソはプラットフォームを変えなかったこともあって設計上のマージンは多くないが、背が高くて重いルーミー/タンクはこのパッソのプラットフォームを利用しているのでさらにマージンが少なく、バランスが悪いという。エンジンに余裕をもたせたターボ車はさらにバランスが悪い。A社のタントの初代は同じくバランスが悪かったというが売れたので、モデルチェンジを重ねている。現行車は初代と比べれば大変安全だといわれる。タントより背の高いウェイクも技術の進歩で初代タントよりはかなり安全だという。
 A社のスマートアシストの宣伝は巧みであるが、実際は他社に遅れをとっていた。D社はSUV風の軽からE社のアイサイトと同じ日立製の二台のカメラを使ったブレーキシステムを導入したため、軽の自動ブレーキではダントツで高性能であった。A社もおくればせながらⅢからデュアルカメラの方式を導入したが、日立製ではないという(デンソー製)。軽のサイズ上の制約から、よりコンパクトにしたいことがあったという。功罪は半ばするので、その代償として後発なのにデュアルカメラ(人も認識できる)としては性能が劣るようだ。
 D社も軽スペーシアと普通車ソリオでは日立製を採用したが、世界戦略車スイフトのモデルチェンジでは変更し、その後のワゴンR、スペーシア、SUV風普通車クロスビーの新モデルも同様であった。単眼カメラとレーダーによるシステムで、A社のⅡやB社のCも同じタイプである。B社のCとは同じメーカー製であるが、ソフトウェアが更新されているため、Cとは違って人間も認識できる。スイフトにはこれとは別にミリ波レーダーを利用したアダプティック・クルーズ・コントロール(ACC)を搭載している。ヨーロッパに輸出するためで、同様の理由からノーマルタイプでも後輪ディスクブレーキを採用している。
 確認したわけではないが、普通車のモデルチェンジが燃費データの偽装問題で遅れたことが結果してはプラスになり、新タイプを導入できたのではないか。日立製はACC機能の搭載に課題があるという。アイサイトは十分にそれを克服しているが、軽はサイズの問題があるという。なぜこんなことを言うかというと、独コンチネンタル社の同じハードウェアを利用するB社のセイフティセンスCは依然として人間を認識できないからである。最近もこれを搭載するワゴン車がマイナーチェンジしたが、ブレーキには変更がなかった。300万円以上する車としては信じられないが、ソフトウェアの更新が困難なのであろうか。B社は最も早く自動ブレーキを搭載したが、その後の展開は遅く、外国メーカーに遅れを取ってしまった。上級車に搭載されるPは製造元を含め別物で、人間を認識し、高性能であるという。

2018年1月 3日 (水)

船村山脈の行方4

 船村山脈の行方としたが、船村の影響で作曲家、作詞家となった人も多い。三木たかしや北島三郎の「函館の女」以下のシリーズを作曲した島津伸男も歌手になろうとして船村の弟子となった人である。三木の場合は若くして妹の黛ジュンとともに入門したが、早々と作曲家としての資質を指摘され、方向転換したものである。作詞家木下龍太郎氏(「わすれな草をあなたに」「鳥取砂丘」)は小学校の5年先輩に船村氏がいたので、自分もそれに肖って作詞家を目指したとする(ただし2008年死亡)。総勢300人と言われる船村門下生であるが、問題はそれが今後も継承されるかである。
 船村の長男蔦将包は船村作品の編曲を手がけ、最近は作曲も行っている。特集番組では俳優をしていた次女が登場していたが、長女は高校卒業後、作詞・作曲の世界に入った。父の影響か曲が難解であるとして評価されなかったため、CMの唄を作成しつつ、作詞に専念するようになったという。「真名杏樹」との名で、岡本真夜と共同作詞の「TOMORROW」(岡本唄)や「歌われなかったラブソング」(都志見隆作曲)など織田裕二の初期の作品を数多く手がけている。最近では星野哲郎の息子有近真澄作曲・歌唱の「あなたを知らないほうがよかった」の作詞を真名が行っている。二人の父とは役割が逆転した形である。
 異色の弟子としては音楽評論家小西良太郎、ギターリスト斎藤功もいるが、小西は80才、斎藤も70才をすでに越えており、世間の常識によれば20年後には没している可能性が高い。二人とも船村の弟子という以上にそれぞれの分野の第一人者で誰にも代えがたい人材である。
 以上とりとめもなく述べたが、今回はこれで終わることにする。大半はネットで得た情報をまとめたものにすぎないことをお断りしておく。第二のひばりと言われながら船村のもとから独立していった黒木梨花(大黒裕貴)も、船村作品でヒットしなかった秀作を集めたアルバム(11月発売)に自分の作品が2つ含まれていることを知り、それも1曲はデビュー曲「日本海は冬ですか」(水木れいじ詞)のB面であった「哀唱譜」(石本美由紀詞)であることを知り、感慨が深そうである。米子市出身であることもあってアルバム『明日の華・黒木梨花・船村徹作品を唄う』を過去に購入したことがあった。結果として船村の原点となった高野公男との作品(別れの一本杉、男の友情、あの子が泣いてる波止場、早く帰ってコ等)には触れることがなかった。星野との「夜が笑っている」「なみだの宿」、石本との「柿の木坂の家」、美空ひばりとの「波止場だよおとっあん」、「ひばりの佐渡情話」島倉千代子「東京だよおっかさん」「悲しみの宿」(島倉のレコーディング1000曲記念曲)もである。

船村山脈の行方3

 誰が最も船村メロディをレコーディングしたかとすれば、約70曲ある舟木一夫ではなかろうか(76局の鳥羽一郎が最多であった)。舟木の叙情歌というジャンルを確立したのは1966年の「絶唱」(西条八十詞)であるが、これは当初同名の映画を主題歌なしで作成するはずが、やはり必要ということで、たまたま市川昭介氏(畠山みどり、都はるみ、水前寺清子のデビュー以来の作品や、大川栄策「さざんかの宿」、村田英雄「みなの衆」がある)が舟木に是非唄って欲しいとして作った曲があり、聴いてみると良いとのことで、西条八十のもとに持ち込んで後付けで詞が完成したものであった。これに対して翌年の映画「夕笛」は当初から主題歌が作られ、西条の詞に船村が曲を付ける形で誕生している。
 西条作詞、船村作曲と言えば、年末の紅白で福田こうへいが唄った(実際の番組は視聴はしていない)「王将」が有名である。坂田三吉をテーマにしたこの作品は西条にとっても会心の出来であったが、ただ一つの不安は、現在このような作品が受け入れられるだろうかというものだった。これに船村が曲を付け、村田英雄が唄った。村田は浪曲界から古賀政男によって歌手とされ、作品を出したがいずれも不発であった。そこで船村作品となったが、古賀にとっては複雑な思いの作品であった。村田本人にとっても西条と同じ思いで、当初は気が乗らず、「うまれ浪速の八百八橋」の部分を「やおやばし」と唄っていたという。完成後、船村はヨーロッパに渡り2年滞在し、ムスタキ氏や無名時代のビートルズと出会っている。王将のヒットで村田の過去の古賀作品「無法松の一生」「人生劇場」が相乗効果でヒットしたという。
 話がそれたが、舟木作品にもいくつもの佳作がある。船村・猪又良といえば「新宿情話」が有名だが、同じコンビの「春哀し」、ちあきの作品に多い船村・吉田旺コンビには「津和野川」「むかえ火」もある。近年のものとしては同コンビによる「晩秋歌」(鳥羽一郎唄、2014年)もある。「ブルートランペット」(古野哲哉詞、舟木唄)のように、トランペットを有効に使った作品も多い。星野作詞の「海の祈り」「兄弟船」「海で一生終わりたかった」「海鳴りの歌」等である。
 その複雑な家庭環境から自殺未遂を繰り返した舟木は歌手をやめようとしたが、船村からの「誰が夕笛を唄うんだ」との電話を受けて、歌手を続けたという。その舟木も74才となり、「夕笛」をカバーしたのは船村自身とちあきなおみぐらいである。最近では船村の内弟子から歌手となった走祐介が「夕笛」や「その人は昔」(松山善三詞)をシングルの新作とともに吹き込んでいる。村木弾のデビューを舟木に委ねたものそのあたりを意識してのことであろう。歌手あっての船村メロディである。

船村山脈の行方2

 死後、編集・作成された追悼大全集には「私の影とただ一人(哀愁波止場)」 (ジョルジュ・ムスタキ)が収録されている。2年のヨーロッパ滞在中にギリシャ生まれのシャンソン歌手ムスタキ(2013年死亡)の指導を依頼され、当時は無名であった彼に美空ひばりの唄を、「三味線マドロス」とともにフランス語に翻訳して歌わせた曲のようである。フランスでレコーディングし日本へ送って発売したが、当時は売れなかったという。ムスタキはその後、日本にも何度か来日した。船村氏は自分の作品を「演歌」と呼ばれるのは心外で「情歌」だと主張している。何も日本人のみを念頭に置いて作曲したものではなく、詞を活かしたよりよい曲を作ることを目指したとする。ムスタキ氏もその良さを理解してレコーディングしたとしている。この点については佐高信(古賀政男の評伝を執筆)が船村から聞いたこととして紹介している。
 紅白に出場する他の作曲家の手になる最近の若い演歌歌手の作品と比べると氏のメロディーは詞を語ることを基本としたものであることがわかる。曲の中に詞が埋没することはない。シンプルなメロディーは唄い手次第でどのようにも変わるため、プロの歌手もその歌唱力を問われる形となる。代表曲を選ぶのは大変難しく、「矢切の渡し」とともにレコード大賞曲である「北の大地」(星野哲郎詞、北島三郎唄)ですら上がらないことも多い。
 「矢切の渡し」(ちあきなおみ)は「酒場川」(ともに石本美由紀詞)のB面であったが、両方とも唄い手の魅力を120%以上ひきだした作品である。コアなちあきファンによると、他の歌手が唄うと演歌になってしまい、本来の魅力が低下するという。美空ひばりの「みだれ髪」も船村本人が歌手を選ぶ作品であろうとしている。
 船村作品ではないが「かもめの街」(杉本真人作曲、ちあきなおみ唄)を作詞したちあき哲也(2015年に66才で死亡)は「作品を提供したいアーティストは?」との質問に対して「本来の意味の(絶叫型ではない)“歌唱力”を持っていらっしゃる方々」として「ちあきなおみさん、伊東ゆかりさん」をあげている。「かもめの街」はちあき氏と杉本氏が事前に完成していたが、歌える人を選ぶ作品であったため、ちあきなおみのアルバムを作成することを知って杉本氏が手を上げて提供したものだとされる。

船村山脈の行方1

 インターネットによる検索は、歴史研究のみならず、様々な分野で関連情報を収集するのに役立つ。いわゆる「船村メロディー」で初めて聴いた曲も少なくない。船村-星野の絆をテーマとした番組では星野が船村について記した詞も紹介されていた。時折爆発するがその灰は浴びた人を幸せにすると。以下は脈絡なく述べる。
 船村徹氏は美空ひばりの裏声を活かす曲づくりを行ったが、一方では裏声を使わないちあきなおみの曲も数多く手がけている。本音はできるだけ使わせたいのであってジャズ歌手森サカエにはシャンソン風の「北窓」でその裏声を響かさせている。森作品も様々あるが、なんと言っても忘れてはならないのは「空」(星野哲郎詞)である。大乗仏教の中心的思想である「空」を作品としたものである。ちなみに戦後の歌謡曲の作曲者の先達をみると、音楽学校などを経由した人は少数派である。国民栄誉賞を受賞した古賀政男、服部良一、吉田正、遠藤実(文化功労者でもある)しかりである。
 第二のひばりとして期待した黒木梨花の作品でも同様に裏声を重視している。そしてこれまで聴いたことのない「命の花」(斉藤夕紀作詞)を聴いた。新宿コマ劇場での大月みやこ公演で泉鏡花「婦系図」を演じた際に作成されたものである。作詞家斉藤夕紀氏については1990年代前半に活躍されているが、情報が不足してよく分からない。番組は放映を知らず視ていないが、追悼番組で「あんまり音域が広いので最初間違いだと思った」と大月が話していたのがこの曲で、やはり裏声を活かした曲であった。何度か聴いている中、「女の港」以上の良い曲であると感じた。船村氏も初めの語りの部分がややこしいが、歌い込んで行くと味が出る作品であると自画自賛している。
 北島三郎「なみだ船」はサイレンの音を聞いて出だしのメロディーを思いついたとのこと。なんとしてでも印象付けて聴衆の耳を向かせたかったのだろう。死亡する直前に、最後の内弟子となった村木弾に珍しいことに直接レッスンをしたそうだが、レッスンは出だしのカラスの鳴き声のみであったらしい。北島の際も最初の歌い出しだけ何度も何度も繰り返し練習させていたとのことであった(作詞家星野哲郎氏の談)。「都会のカラス」の出だしのカラスの鳴き声も舟木一夫の作詞にはなかったものを船村が付け加えたとのこと。「風雪ながれ旅」も最後の「アイヤ-アイヤ-」は星野の承諾を得て船村が付け加えたもの。

日本のモノ作り2

 昨年モデルチェンジしたスイフト・スポーツについては高い評価をするジャーナリストが多いが、生産者の立場からするとボディ剛性が不足しておりがっかりしたとする。前モデルのスポーツの評価を思い出すが、欧州で試乗した際は素晴らしいと思ったが、日本で販売されているモデルを試乗したら、ダンパーやタイヤが別物でがっかりしたとコメントされていた。スポーツはノーマルのスイフトに対して横幅とトレッドを広げているが、実は日本で販売されるノーマルモデルのみが5ナンバー枠で、欧州モデルは全て3ナンバーのボディである。税金も変わらないし、工夫をすれば左右のミラー間の幅も調整できるのに何故なのだろうか。生産者側の専門家が選んだ昨年度のイヤーカーは日産と提携しているフランスのメーカーが発売している、ハッチバックタイプのマイナーチェンジ車であった。モデルチェンジ車を押しのけての受賞であった。ちなみに一昨年は日本の某メーカーがインドで生産し逆輸入している車であった。どんな人が乗っても安全に運転ができる車として「スタイルさえ気にならなければ誰にでもお薦めの車」とのコメントであった。逆輸入車であるため、月500台が販売目標であるが、昨年一〇月の販売台数は100台程度に止まっており、もったいない話である。自分でも購入して9ヶ月間利用しているが、道具としては良い車である。
 どれだけマージンをとれば良いかは「安全性」をどう考えるかと関わってくる。大学の時に竹谷三男『安全性の考え方』(岩波新書)を読んだことがあり、大学の工学部棟の教室で水俣病をテーマとする「不知火海」という映画を視たことを思い出す(自分は国史学科に所属)。神戸製鋼、三菱マテリアル、日産自動車と次々と不正が明らかになったが、会社側は定められた基準こそわずかに満たしていないが「安全」ですと口を揃えて言っている。誰にとっての安全性であり、技術革新なのであろうか。日本の企業はなお大変優れた製品を生産する能力は持っているが、問題はそれを実際に生産する意思決定の仕組みがないことである。これが続くと生産能力も失われてしまう。現在の首相になってから国内の人材の劣化が一段と進んでいる。やはり設計を含めた生産現場にこそ人材が必要だが、現在はてっとり早く儲けようとようと思えば金融業界=虚業であり、そちらに人材が流れているというのも大変な問題だ。そんな業務をしていてはせっかくの人材も育たず、人間として劣化するのみである。「悪貨が良貨を駆逐する」状態からの脱却が必要だ。以前なら、大変な悲劇ではあるが、戦争により反省の機会が得られたのだが、今はその選択肢はない。

日本のモノ作り1

 おだやかな天候のもと新たな年を迎えたが、日本社会の前途に希望はあるのだろうか。自動車メーカースバルでは売りであったアイサイトの自社開発をやめ外注品に変えることが決まってから技術者の流出が続いているという。すべては営業サイドのコスト重視の賜物である。自動車評論家の中にはEV開発をめぐるトヨタの方針転換の早さを評価する意見もあるが、これもどうだろうか。
 プリウス以降、TNGAに基づいて生産される車が相次いでいるが、最大の問題点は新技術導入の最大の目的がコスト削減だという。せっかくのプリウスも足回りの部品をケチったため、その乗りごこちは良くないという(スタイルへの不満はさておいて)。その反省から同じプラットフォームを採用したSUVのC-HRはヨーロッパ製の部品に交換し、走り重視の趣味の車であるにもかかわらず、皮肉なことにプリウスよりずっと乗りごごちがいいという。ハイブリット車というとガソリン車を利用するものからすると燃費の良さがうらやましい気もするが、価格が高いだけでなく、エンジンとバッテリーの二つを積むため、車としてのバランスが悪く、トヨタもその欠点を克服できていないようだ。前述のC-HRも走りを重視するならハイブリットではなくターボエンジン搭載車が遙かに良いとのこと。
 スズキもアルトのモデルチェンジ以降、新たなプラットフォームに基づく車が次々と登場しているが、車の軽量化がいきすぎていることから、その車の評価はヨーロッパではイマイチである。「あと20キロでも重くして設計したら見違えるように良い車となる」との意見もあった。スバルもインプレッサ以降、新世代プラットフォームに移行して、こちらの評価はまずまずであるが、アイサイトについては前述の通りである。
 某自動車雑誌には車の設計に携わったメンバーによる辛口の評価が載せられている。これとは別に車雑誌の編集長経験者などベテランジャーナリストの評価のコーナーもあるが、両者で評価はかなり違うことが多い。前者は生産者の視点、後者は購入者の視点から述べているという違いがあるのだろう。現在日本でもっとも売れている車の評価も、後者では軽自動車にしてはかなり良いというものだが、前者では市内をトロトロ走ることしか考えられておらず、運転の苦手な人でも利用する車としては全く評価に値しないとする。さまざまな人、とりわけ女性が利用するのだが、運転位置を柔軟に決めることのできる装備ははぶかれ、よいポジションで運転できないという。「いくら軽でも手で横から押しただけでボディが揺れるようなバネ/ダンパーは使ってほしくありません」とのコメントもあった。プリウスがケチったのもダンパーである。以前は、このようなことはなかったという(ちなみに、ヨーロッパに輸出される車は別物だそうだ)。すべては軽自動車が国内専用であるためで、いくらでもコストがはぶかれるのである。高速道路の最高速度を100キロから120キロに上げることが検討されているが、日本のメーカーが反対しているという。ヨーロッパ車のように沢山のマージンをもって車が作られていないため、車によってはかなり危険度が増すという。軽の場合はターボ車を含めて時速80KM以上での走行は薦めないというのが生産の立場からのコメントである。
 

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