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2018年1月22日 (月)

遠江国笠原庄について2

 笠原庄地頭については細川重男氏『鎌倉政権得宗専制論』でもすでに注目・言及されていた。毛利季光に注記された寛元四年について、細川氏は宮騒動の結果季光に与えられた時期を示すものと理解された。細川氏は将軍派の重鎮・三浦陣営の大立者である季光を懐柔するために与えられたとされたが、どうであろうか。季光の室は三浦義村の娘であるが、その娘は北条時頼の正室であり、微妙な立場にあった。佐原義連に付された「正治二年」が遠江国一宮への寄進状に基づくものであったように、寛元四年も季光が同社に関する文書を発給したことを示すものではないか。
 佐原義連は建仁三年(一二〇三)に死亡したが、その所持した和泉国・紀伊国守護職の後任は建永二年の時点でも補任されず、義連の代官がそのまま職務を務めており、その直後に、院の計らいとされてしまった。義連は死亡した建仁三年には七八才であったとされ、一一二六年の生まれとなるが、死亡時に嫡子盛連は幼少(元服前)だったのだろう。盛連は六年後の承元三年(一二〇九)の時点で和泉国守護となったことが確認できる。矢部尼と同年かやや遅い年代の生まれで、義連晩年の子となる。
 盛連は、北条泰時との間に嫡子時氏らをなしながら離縁となった矢部禅尼(三浦義村の娘)との間に芦名光盛・佐原盛時などが生まれている。義村は盛連の従兄弟である。その娘矢部禅尼は文治三年(一一八七)に生まれ、時氏が誕生した建仁三年には一七才である。その子盛時については嘉禄三年に奥州に流罪となった僧を預けられているので、この時点で二〇才とすると承元二年(一二〇八)の生まれとなり、異父兄時氏との年齢差は小さかったと思われる(ただし、両者の間には光盛がいた)。
 一条忠頼が頼朝によって忙殺された(一一八四)後、忠頼の遺児(娘)は三浦氏に預けられ、その所領笠原庄も三浦氏に与えられた。遺児は三浦氏惣領義澄の嫡子義村の室となり、笠原庄は義村の弟佐原義連に与えられた。義連の死後、子盛連が幼少であったので、三浦氏惣領義村を経てその娘婿毛利季光に譲られたのではないか。紀伊国守護は和泉国守護に準じて義連の死後、仙洞による計らいをへて承元三年までに盛連が守護職を回復したとされるが、なぜか承久の乱後は三浦義村に替わっている。笠原庄も三浦義村を経てその娘婿である毛利季光に伝えられたものであり、細川氏の推論は成り立たない可能性が大きい。
 なお細川氏の論文集については年末に鳥取県立図書館に赴いて長崎氏関係論文を確認し、現在は島根県立図書館を通じて貸し出しを受けている。現在は版元にも品切れで重版未定である。
 (追加)笠原庄については静岡県史で筧雅博氏が論じている。そこでは佐原義連跡の笠原庄は嫡子盛連に安堵され、盛連が天福元年に無断上洛を企てたことで討ち取られた後、毛利季光領となったとされている。この場合問題となるのがなぜ毛利季光に与えられたのかである。関係の有無は不明だが、同年に季光は大江広元の子としては初めて評定衆に補任されている。

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