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2018年1月26日 (金)

正嘉二年郷司某下文2

 その結果、鎌倉初期の時点では神門郡系であったと思われる勝部宿祢惣領は生きのびた。ただし主流派であった神門郡系の中には塩冶氏や多久氏のように参陣して没落したものも少なくなかった。木次・三代氏も神門郡系であった可能性がある。これに対して一二世紀の出雲国衙在庁官人勝部宿祢一族で勝部元宗を中心とする人々が大きく勢力を伸ばし、神門郡系の人々の跡を獲得した。ただし、惣領は神門郡系であった。仁多郡系の横田兵衞尉の跡は同じ系列の三処左衛門尉長綱が継承を認められた。次いで承久の乱では知行国主が後鳥羽の側近源有雅であったがため、多くの出雲国武士が京方として没落した。神門郡系のみならず大原郡系にも没落者が出た。
 勝部宿祢一族の惣領も大原郡系の勝部元綱に移ったが、神門郡系も竹矢郷や朝酌郷、長田東郷、枕木保などの地頭は確保した。ところが、その後、平浜八幡宮と竹矢郷は出雲国支配の重要性から、前者は守護領に、後者は得宗領となり文永八年の状況となったのではないか。横田庄地頭の場合は三処氏が文永二年の六波羅探題に就任した北条時輔に寄進する形で、時輔が文永八年の地頭としてみえた。また、文永八年の佐世郷・湯郷・拝志郷地頭は大原郡系の人々であったが、守護佐々木泰清の子頼清を養子に迎え、以後はその子孫が継承していく。
 承久の乱後、国御家人領から東国御家人領へ変わった所領には、国御家人による東国御家人への寄進というケースと、重要所領であるが故に幕府・守護の意図・判断によって変更されるケースがあった。
 郷司某下文については、西田友広氏から地頭とともに郷司がいてもおかしくないとの意見を聞いたが、その時点ではどういうことか理解が不可能であった。その後、静岡県史を読むことで、駿河・遠江国ではそのような事例があったことを知った。九州は西国では幕府の支配が強いことで知られるが、鎌倉初期に幕府の有力御家人が各地の惣地頭に補任され、郷司や庄官であった地元の国御家人の上に立ち、両者の間で激しい対立がみられた。駿河・遠江国は頼朝が挙兵した伊豆国に隣接しているが、平家側の拠点であった。相模・武蔵も同様であるが、石橋山の合戦では相模国の平家方に敗れた頼朝は房総半島に渡って体制を立て直し、上総国の上総氏や下総国の千葉氏の支持を受けて相模国では早くから頼朝方であった三浦氏の本拠に近い鎌倉に入って自らの政権を発足させ、相模・武蔵国の武士も家臣とした。
 これに対して駿河・遠江国は平家が富士川の合戦で敗北して以降も甲斐源氏の勢力が強く、駿河国は武田信義の嫡子一条忠頼が、遠江国は信義の弟安田信光が守護的存在となった。しかし、忠頼は元暦元年に鎌倉に招かれた際に殺害され、義定も建久四年に子の義資が院の女房に恋文を送った罪で失脚した。義資は殺害され、義定は遠江国守護を解任され、翌五年には謀反の疑いで殺害された。
 このため、駿河・遠江両国の武士で鎌倉初期に地頭に補任された例はほとんど確認できない。頼朝が死亡した正治元年一一月に側近の梶原景時が追放されたが、翌二年の正月に一族を率いて上洛しようとした景時を駿河国東部入江庄の入江氏とその一族が討取、吉川氏など入江氏一族はようやく梶原景時跡の西国の所領の地頭に補任された。ただしそれ以外の一族は地頭となることはなく、郷司・庄官として幕府の有力御家人が補任された惣地頭の支配下に置かれた。すでにみた笠原庄の惣地頭は三浦氏一族の佐原義連を経て毛利氏、安達氏に受け継がれていった。
 以上の例に対して、出雲国では郷司・庄官の上に東国御家人の地頭がいるケースはなく、国御家人は公文などの下級庄官であったと思われ、竹矢郷司、八幡庄代官の上に地頭がいることは想定できない。

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