koewokiku(HPへ)

« 高橋命千代について1 | トップページ | 川副久盛の役割 »

2018年1月 8日 (月)

高橋命千代について2

 では命千代はどこの家から「大九郎」の後継者となったのだろう。系図ではその父は「朝貞」とされるが、高橋氏惣領の通字である「光」を付けていないことから、高橋氏の庶子の家と考えられる。また、元光が益田宗兼に対して「祖父之時甚深之事候」と述べている点も注目される。祖父とは朝貞の事と思われる。益田氏側は兼堯・貞兼父子であろう。系図では朝貞の父は貞光とされるが、その祖父とされる師光は一四世紀半ばに高師泰が足利直冬と結ぶ三隅氏討伐のため石見国に派遣された際に参陣している。師光は一三三〇年前後には生まれていたと思われる。一方、その曾孫である命千代は一四六〇年前後の誕生で、約一三〇年の差は大きすぎ、命千代の養父朝貞が師光の曾孫とすべきである。
  高橋氏と益田氏の関係を示すものとして、高橋氏庶子で阿須那鷲影城に居た高橋頼之・頼久父子が益田兼堯の招きに応じて益田・上吉田郷に移ったことが注目される(鷲影神社碑文)。頼之の父貞頼は応永一五年(一四〇八)従兄弟である阿須那藤掛城主高橋貞光の招きで鷲影城に入ったとされる。貞光の父師光と貞頼の父貞春は兄弟であったが、備中国人であった貞春は延文五年(一三六〇)に河内国の合戦で討死した。師光の子貞光を一三六〇年前後の生まれとすれば応永一五年には五〇才前となる。命千代の父朝貞が一四三〇年前後の生まれとすると、両者の間にもう一人いると考えた方が妥当であろう。
  安芸高橋氏としては、宝徳二年(一四五〇)に吉川経信が綿貫左京亮と合戦に及ばんとした際に小早川煕平とともに制止した高橋伊予守光世がいる(吉川家文書)。「光」を上に付けることから高橋氏庶子であろう。安芸高橋氏を相続した高橋伊予守弘厚と官職が共通している。以上を踏まえると、「大九郎」は問題があって隠居させられ、惣領石見高橋系の命千代が庶子安芸高橋氏も含めて相続し、石見・安芸両家の当主となったと考えられる。

« 高橋命千代について1 | トップページ | 川副久盛の役割 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 高橋命千代について2:

« 高橋命千代について1 | トップページ | 川副久盛の役割 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ