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2018年1月27日 (土)

宇賀郷地頭西郷氏2

 以前述べたように西郷氏は遠江国上西郷を苗字の地とする御家人であった。建治元年六条八幡造営注文によると遠江国御家人として「西郷入道跡」が三貫文を負担している。出雲国に所領を得て入部したのは佐野郡西郷庄内上西郷を支配していた一族であった。現在の静岡県掛川市に「上西郷」「下西郷」の地名がみえるが、太田川上流で海岸から約一五km離れた内陸部となる。掛川市の東隣は菊川市で、承久の乱の恩賞として石見国長野庄内豊田郷と貞松名を獲得した内田致茂が城飼郡内田庄内下内田郷を支配していた一族である。上内田郷を支配していた人物が惣領と思われるが、建治元年の注文では「内田庄司跡」が五貫文を負担していた。下内田は菊川上流で海岸線から七kmの内陸部である。なお、遠江国御家人で承久新恩の地を獲得したことが文書で裏付けられるのは内田氏のみである。
 遠江国御家人は頼朝の挙兵時は平家の支配下にあって敗北し、その後も建久五年までは甲斐源氏安田氏の支配下にあったため、御家人ではあっても幕府から地頭に補任されることはなかった。駿河国も同様であったが、正治二年に梶原景時を誅伐する際の勲功で、播磨・但馬・淡路国内の梶原氏一族跡を獲得した。
 以上の状況は西郷庄上西郷を支配していた西郷氏にも当てはまると思われ、承久の乱の恩賞として出雲国宇賀郷を獲得したと思われる。上西郷よりは宇賀郷(文永八年結番帳では五二町二段三〇〇歩)の方が面積が広かったと思われ、早くから出雲国に入部したことも確実であろう。弘長三年八月五日関東下知状案(鰐淵寺文書)のように宇賀郷内に居住する住人の問題で、鰐淵寺が地頭西郷氏を訴えていたのはそのためである。

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