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2018年1月13日 (土)

赤穴氏と尼子氏2

 大内氏が尼子方国人の切り崩しを行い、備後国守護山名氏は尼子氏との連携を破棄することを国人に伝えた。こうした中、佐波氏は大内氏との関係を深めた。誠連の弟「興連」の名は大内義興にちなむものであり、誠連の嫡子も「隆連」と名乗った。尼子氏が大永六年の軍事活動で佐波氏を没落させたのはそのためで、享禄三年以降の塩冶興久の乱では佐波氏惣領は赤穴氏とともに経久方であった。ただし、この時点では大内氏そのものが経久を支持していた。小笠原氏も大永五年には尼子氏に動員され伯耆国の合戦に参加しているが、佐波氏と同様、境目領主として尼子氏と大内氏の双方との関係を維持していた。
 それが尼子氏と毛利氏の対立が強まり、大内氏とも対立するようになると佐波氏と小笠原氏はどちらかを選択しなければならなくなった。天文五年に尼子氏は安芸・備後・石見国に軍事行動を展開し、小笠原氏は尼子方となった。佐波氏では惣領誠連が死亡した年であったが、実権を持った弟興連が追放され、大内氏のもとで牢人中となった。佐波隆連は赤穴光清とともに安芸吉田攻に参加したが、これが失敗すると大内方に転じて、大内氏の出雲国攻に協力した。赤穴光清が尼子方を維持したが、赤穴城合戦で討死し、その後継者詮清は毛利氏の調略で筑前国に下向し、そこで殺害された。
 一方佐波隆連は尼子氏の攻撃を受けて、これまた大内氏のもとに遁れざるを得なかった。こうした中、光清の庶子孫五郎盛清が祖父久清の補佐を受けて赤穴氏当主となったが、盛清と晴久との関係は、父光清と経久の関係ほど強固なものではなかった。父と兄の死が影を落としていたこともあるし、晴久が経久ほどの実績を上げることができなかったこともあろう。晴久は盛清を佐波氏惣領にしようとしたが、天文一二年には石見銀山の掌握に失敗し、石東にも大内氏与党の勢力が残っていた。その結果、大内氏のもとにいた興連が石見国に戻ることを晴久は阻止できず、赤穴盛清による佐波氏掌握も実現しなかった。出兵要請に応えない晴久に対して盛清は不満を持ったと思われる。父光清は尼子氏の国外遠征に従軍し経久から感状を与えられているが、盛清に関する軍忠状や感状は残されていない。天文一八年二月二月八日に晴久は赤穴盛清に対して、亡父光清と本人に申し合わせた知行について確認し、さらなる忠義を求めているがどう受け止められたであろうか。毛利氏が出雲国に入ってくると、他の国人と同様に毛利方となったのは晴久と盛清の間の関係が弱かったことの結果であった。永禄五年二月には過去に赤穴庄に駐在し、赤穴氏との関係を持つ牛尾(湯原)幸清と河副久盛の連署で盛清に安堵状を与えたが、盛清の決断に影響力を持たなかった。

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