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2018年1月 7日 (日)

大内義隆の花押2

 大内義隆書状にはその花押の変化を手がかりに年次の比定が可能となるものが①以外にもある。②年未詳正月二七日義隆書状(下郷共済会蔵文書、『山口県史』史料編中世四)で、そこでは毛利右馬頭元就に対して、家中が錯乱に及んだ場合は国中の面々が合力して対応するように申し遣わしたことを伝えている。他の対応はありえず、対応が遅れてはならないとし、詳しくは弘中隆兼が伝えるとしている。大内方の国人の家中に錯乱が生じかねない状況が生まれてきたのである。その背景は尼子氏の影響力が再び強くなってきたことである。
 年次比定の材料としては元就が治部少輔から右馬頭に進んでいるので、天文三年以降のものとなる。義隆の花押は、享禄四年のものが確認できなず不明であるが、享禄五年(天文元年)には従来のⅠ型からⅡ型に変化している。ところが早くも翌年にはⅢ型に変わり、これが天文一〇年まで続く。尼子氏の毛利氏攻めが失敗した天文一一年から没年迄はⅣ型が使われ、晩年には花押がなく署名を草書化したもの(書状のみ)が並行して使われている。
 ②の花押はⅢ型であるが、その中でも微妙に変化しており、その中に位置づけると天文五年ないしは六年のものと思われる。天文五年に山内氏を屈服させた尼子氏は安芸国吉川氏も自らの陣営に加え、同年後半には大規模な出兵を行い、毛利氏が支配していた所領を奪い取っている。これまた安芸国の研究で尼子氏が所領を奪取したのは天文八年だとして、吉川家文書に残る尼子氏とその家臣の文書を同年に比定した見解が誤りであったことを示すものである。こうした状況を受けて、毛利元就は嫡子隆元を天文六年一二月に山口の大内氏のもとに派遣し、大内氏との関係が動揺することを防いだ。元就としては過去の経緯による心情から、尼子氏方となる選択はなかったと思われる。

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