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2018年1月14日 (日)

湯原幸清と河副久盛11

 吉川氏自身も宇津井・曽田の問題で三須右馬助を尼子氏のもとに送っていた。二山氏と同様、高橋氏との間で所領問題があったと思われる。尼子国久・誠久父子には毛利氏が所領について吉川氏に懇望してきたことを伝えている。両者の間の所領問題は大内氏のもとでは毛利氏が有利であったが、それゆえに吉川氏は尼子方となって状況を改善することができた。それを毛利氏が以前の状況に戻すことを吉川氏に求めており、吉川氏にとっても尼子氏の支援を必要としていた。国久が六月一一日、誠久は翌一二日付で返事をしている。委細は湯原・河副から申すとしているが、今回は晴久は対応していない。その理由は返事の内容が前年一三年から後退して、出張を約束できる状況にはなかったからであろう。国久は御油断があってはならないことしか述べていない。それをうける形で一一日付けで湯原・河副の連署で吉川氏ならびにその重臣へ書状を送るとともに、河副久盛単独で吉川氏重臣に返事をしている。天文一三年と一四年の尼子氏の動きについてはなお課題があるが、とりあえず述べておいた。
 宇津井・曽田の問題については前回の返事と同じだとする。尼子方の領主間の対立の調整は簡単ではない。石見国では小笠原氏が郷要害を攻めており、吉川氏がそれに協力することを良しとし、福屋氏の件も相談の上報告してほしいとしている。また二山祐盛の進退についても油断なきことを求めている。一つの所領にも本主が複数おり、双方が尼子方であるため対処が難しいようである。家臣宛では「此方出張之儀不可有延引」と述べているが、興経宛と河副単独書状では触れていない。すべては晴久が登場しないことが物語っている。国久・誠久からの書状と日が離れておらず、湯原・河副とともに富田城に居たと思われる。
 以上の検討によれば、湯原・河副は天文一二年以降も西部方面を担当してはいたが、以前のように赤穴庄に継続的に滞在して活動することはなかったと思われる。二〇〇〇年の自身の論文を読み直すと、湯原・河副の書状の年代比定が逆になっていることに気づいたが、今回示した理解が正しい。「堺目之儀」=毛利懇望と理解していたが、天文一三年の晴久書状で「其堺御同篇之由」に対応するものである。文書を順番に並べると以下のようになる。( )内の番号は吉川家文書のもの。
 天文一三年①六月一〇日尼子国久書状(392)、②六月一〇日尼子誠久書状(394)、③六月一一日尼子晴久書状(64)、④⑤六月一二日湯原・河副書状(402、403)、⑥六月一二日河副書状(404)。
 天文一四年①六月九日二山祐盛書状(405)、②六月一一日尼子国久書状(395)、③④六月一一日湯原・河副書状(399、400)、⑤六月一一日河副書状(401)⑥六月一二日尼子誠久書状(396)。

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