koewokiku(HPへ)

« 赤穴氏と尼子氏2 | トップページ | 湯原幸清と河副久盛11 »

2018年1月14日 (日)

湯原幸清と河副久盛10

 尼子氏の安芸吉田攻めの敗退と大内氏の出雲富田攻めの失敗後の両者について確認する。軍記物によると晴久は敗退する大内方を追い、石見銀山を押領しようとしたが果たせず、佐波氏攻撃に転じたとする。合戦の場所は不明であるが、七月二二日吉見正頼感状では、二一日に上領淡路守が尼子陣へ夜襲をして牛尾氏が敗北したことを賞している。また、一〇月一日に久利郷に出張してきた尼子軍との戦いの軍忠を、一一日に久利太郎法師丸が弘中下野守に申請し、義隆が「一見畢」と承判を与えている。
 同年八月一二日尼子晴久書状では、先に赤穴盛清に与えた都賀郷の替地として佐波北分を与えている。これが佐波氏攻撃によって得られたものであった。叔父興連に続いて追放され大内氏のもとに逃れた惣領隆連の跡を盛清に与えたと考えられる。一〇月二〇日には晴久が都賀西と阿須那の替地として君谷七〇〇貫と河合内金子分三〇〇貫を与え、翌年九月三日には祖父久清が盛清に対して、光清の勲功に対して与えられた佐波七〇〇貫其外数箇所の御判の地については相違があってはならないと晴久から堅く申し定めれていることを伝えている。
 その上で国内の支配体制の見直しを行ったが、一度は大内方となった国人でも一部を除けば所領を安堵したり、新たな所領を与えざるを得なかったところにその弱点があった。佐波氏領であった須佐郷を与えた本庄常光、横田庄内八川を与えた多賀山通続などである。都賀郷も高橋治部少輔(弘厚)跡として、尼子方となった高橋氏関係者に与えたのであろう。一方、三沢氏惣領や牛尾氏惣領についてはこれを殺害したり殺害に追い込み、一族の別の人物を惣領としたり、富田衆の有力家臣に継承させている。佐波氏のケースもこれに似ているが、惣領自身は殺害を逃れ、大内氏のもとで家臣となっている。
 これに対して天文一三年六月には吉川氏に対してその方面は油断なく勤めてもらっているが、東部方面が本意に属しているので、近日中に西方面に出張する覚悟であることを伝えている。吉川氏から届いた七日付の書状を受けて晴久が一一日に返事を出し、翌一二日に湯原と河副が連署で吉川興経とその重臣吉川伊豆守・森脇和泉守に返書を出しており、湯原・河副は富田城に居た可能性が高い。その上で久盛単独で吉川氏重臣に書状を出しているように、久盛がこの方面の主担当であった。吉川氏は晴久への書状に先立って二日付けで尼子国久とその子誠久に書状を送り、両者は一〇日に同内容の返事を送っており、富田城に居たと思われる。国久の母は吉川氏であり、より関係が深かったと思われる。
 次いで翌一四年にも吉川氏側から働きかけがあり、尼子氏が答えている。六月九日には所領問題で尼子氏に訴えるため富田城にやってきた二山祐盛なる人物が、紹介者である吉川氏に対して状況を説明している。苗字と名前からすると二つ山城を本拠とし「祐」をその名に付ける出羽氏の一族と思われる。出羽氏はその所領の大部分をを高橋氏に押領されていたが、享禄三年に高橋氏が滅亡した後は、毛利元就が出羽氏に所領を安堵していた。祐盛は出羽氏の一族であるが、尼子方になって所領の回復を目指していたが、高橋氏やその一族である本庄氏も尼子方であり、その要望の実現は困難であった。祐盛も晴久との対面は実現していないことを吉川氏に伝えている。

« 赤穴氏と尼子氏2 | トップページ | 湯原幸清と河副久盛11 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 湯原幸清と河副久盛10:

« 赤穴氏と尼子氏2 | トップページ | 湯原幸清と河副久盛11 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ