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2018年1月 7日 (日)

大内義隆の花押1

 表題のテーマについて、小早川文書の①年未詳四月二二日大内義隆書状をその花押から享禄二年前後のものであることが、岸田裕之氏『毛利元就』で指摘されていた。その書状では毛利家中が錯乱状態となろうとしたが、即時に静謐されたことを小早川氏に伝え、同様のことがあれば相談してもらうことが肝要であるとしている。 
 享禄二年には毛利氏による高橋氏攻撃が開始されるが、その前段として高橋氏を介した毛利氏への働きかけがあり、毛利家中には大内方と尼子方の選択をめぐり対立が生まれたのである。大永五年に毛利元就は尼子方から大内方へ転じ、その中で元就の弟相合元綱が粛正されたが、それで完全に決着したわけではなかった。錯乱の背景として尼子氏と結んだほうが有利ではないかと思わせる状況が生まれていたのである。
 従来、元就が大内方となり、大永六年には備後国守護山名氏が反尼子方に転じたことで、大永六年から七年にかけての備後国における合戦で尼子氏は敗北したとされてきたが、実際にはそうではなく、切迫した状況が続いたのである。錯乱が生まれた原因の一つに、高橋氏が尼子方に転じたことがあった。尼子氏は高橋氏を「退治」したと表現している。高橋氏をはじめ様々な方面から毛利氏に対して尼子方に戻るように働きかけがなされていたのである。元就自身はそのつもりはないであろうが、周囲の状況が毛利家中の尼子方の発言権を増大させたのである。義隆が小早川氏に相談を求めているように、他の国人も同様の状況にあった。
 ただし調略という面では「人間不信」の塊である元就も得意としており、備後国の有力国人山内氏女子を妻とする塩冶興久に向けて行われていた。その結果起こったのが翌三年の興久の乱であった。これにより尼子氏による高橋氏への救援は困難となり、高橋氏の滅亡にいたる。ただし、岸田氏が説かれたように享禄二年に滅亡したのではなく、その時期は興久の乱の勃発後の享禄三年末であった。また、地元の住本氏は元就と詮久の兄弟契約が結ばれた同四年とされている。

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