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2018年1月16日 (火)

長江・倉橋庄について1

 承久の乱の原因の一つとなったことに長江・倉橋庄の地頭の改補問題がある。後鳥羽院が領家職を寵愛する亀菊に与え、使者を派遣したところ地頭が忽緒にしたことから、亀菊が院に地頭の交代を求め、院が幕府に申し入れたものであった。これを北条義時が拒否したため、院による義時追討の命令が出された。
 『承久記』によると院は白拍子の出身であった亀菊の父を刑部丞に補任したが、俸禄が不足するとして長江庄三〇〇町を亀菊に与えた。父刑部丞が院庁下文を携えて長江庄に下ったところ、現地の武士は長江庄は頼朝から義時に与えられたものであり、大夫殿=義時の命令がなければ従わないとして抵抗した。これを聴いた院は医王左衞門能茂を派遣して地頭方を追い出そうとしたが、これも失敗した。そこで院は義時に長江庄を去り渡すことを求めたが、義時がこれを拒否したと記されている。このため院は義時の院宣違背について公卿詮議を行った。その中で進行中の内裏造営についても院が六ヵ国を造営に充てたが、院側近の光親と秀康が知行国主である4ヵ国は沙汰したが、越後・加賀では地頭が命令に従わないことをあげて、最終的には討伐の命が出された。長江庄については関係史料がないが、院領であったと思われる。これに対して倉橋庄は永長元年(一〇九六)一二月一五日に院から摂関家に摂津国倉橋庄と垂水御牧の寄人が役夫工米代物を弁済しないことについて申し入れをしており、摂関家領であった(これとは別の院領倉橋庄があったとの説や東庄が摂関家、西庄は摂関家から鳥羽天皇の皇后となった高陽院領から院領になり、地頭停廃問題が発生したとの説もある)。
 院の要求は北条義時に地頭職を去り渡して交代することを求めたもので、地頭を停廃するものではなかったが、相手が義時であったので、大きな政治問題に発展した。院としては要求すれば実現すると思ったものが拒否された形となった。まさに実朝が将軍の時代の地頭の中には、補任権は幕府にあるが朝廷の地頭交代要求があれば実現するものがあったのである。いわゆる平家没官領・謀反人跡の地頭とは異なる面があった。
 これ以上、両庄については史料がないので、当時の摂津守について見てみる。国によっては淡路国のように院、幕府の了解のもと庄官・郷司などが地頭に変更されるケースがあることを、本ブログで主張しているからである。

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