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2018年1月13日 (土)

赤穴氏と尼子氏1

 赤穴氏が惣領佐波氏と守護京極氏との関係で行動してきたことは永正二年の郡連置文に述べられているが、その後の状況はどうであったろうか。注目されるのは、永正一二年の郡連譲状の奥に大永二年一〇月二一日付の久清署判が加えられたことである。名前を「郡連」から「久清」に変え、花押も変更している。
 赤穴氏初代弘行は常連の末子であるが故に寵愛され、赤穴庄惣領地頭職と猪子田南村の西分=佐波氏領により近い地域を譲られた。母親が違う可能性が大きい正連と清連からは不満もあろうが、それを佐波氏惣領幸連との関係で維持させようというのが常連の意向であったと思われる。正連の「掃部助」と清連の「備中守」はいずれも常連の官職であった。これに対して弘行は任官していないが、二人の兄が「連」を付けたのに対して「行」は佐波氏惣領幸清との関係をうかがわせる。
 弘行の嫡子「幸重」は弘行から「幸」を受け継ぎ、それに京極持重(持光・持高と同一人物で、永享三年八月一〇日に佐方氏の所領を安堵した花押に「持重」の貼紙あり)の「重」を加えている。弘行の梁山への貢献に反する形で成人した元連が赤穴氏領を押領しようとしたため、赤穴氏は京極氏との関係を強めざるを得なかったのであろう。幸重の後継者幸清は、父の「幸」と京極持清の「清」に基づくもので、さらに佐波氏から距離を置いた。花押も弘行・幸重から変化している。
 ところが一五世紀末には京極氏の出雲国支配が後退したため、幸清の後継者「郡連」は佐波氏惣領秀連とその嫡子誠連と同様、「連」の字を付け、その花押も父ではなく佐波氏との共通性を持ったものに変えている。これが当初の永正二年の「郡連(花押)」であったが、その後尼子氏が台頭し、永正末年までには出雲国内の政治的統一を終え、同一五年には赤穴郡連の所領を安堵している。
 この点が大永二年一〇月の「久清(花押)」の背景であり、尼子経久の「久」と祖父幸清の「清」に基づく名前に変更し、花押も右の部分を変更している。大永二年一〇月がどのような時期かというと、尼子氏は同年二月に初めて杵築での万部経読誦を行い、その後九月二六日には石見国へ出兵し、佐波氏の所領を含む江川以東の地域を掌握している。これを踏まえての「久清(花押)」への変更で、赤穴氏は佐波氏との利害の対立を尼子氏に接近することで解決しようとしたのである。尼子氏は翌三年には安芸国と石見国西部まで活動の範囲を広げ、これが尼子氏に対する警戒感を生んだ。

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