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2018年1月 8日 (月)

高橋命千代について1

 石見国と安芸国とにまたがる勢力を有した高橋氏については、一次史料にみえる人物と系図にみえる人物が一致しないという問題があり、その系統的理解を困難としている。滅亡した享禄年間には安芸国吉茂上下庄を支配する高橋伊予守弘厚と石見国阿須那を支配する高橋大九郎興光がおり、興光は弘厚の子であるが、父の兄弟元光が戦死したことによりその跡の継承を認められている。ここからわかることは弘厚・元光の父の代には安芸・石見の所領を支配していたことである。
  文明八年九月一五日に高橋命千代が益田越中守兼堯・貞兼父子と契状を結んでいるが、命千代が元服前ということもあって高橋氏被官が傘連判の形式で署判を加えている。その苗字とする地名は安芸・石見両国に分布している。この命千代について岸田裕之氏は永正七年三月五日に益田治部少輔宗兼との間に契約を結んでいる元光であるとされたが、元光は石見高橋氏の当主であり、命千代と同一人物ではない。前述の弘厚・元光の父久光であると考えるべきである。
 命千代については年未詳六月二日是経書状によると、高橋氏が毛利氏と和与を結ぶ条件として「高橋大九郎」が隠居することとなり、それに替わって命千代が高橋になって毛利被官となった。当時の毛利氏当主は豊元(一四四四~七六)であった。命千代(久光)の子が元光・弘厚と豊元の後継者弘元(一四六六~一五〇六)の一字をその名に付けているのは両家の関係を示している。元光と弘厚兄弟の関係は高橋氏の通字「光」を付ける「元光」=石見高橋氏が惣領(嫡子)で、弘厚=安芸高橋氏が庶子であろう。

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