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2017年12月20日 (水)

一の谷合戦と因幡国1

 一の谷合戦に参加した西国武士は『平家物語』諸本からその一部の名前を知ることができる。出雲国は流布本では五名が記され最多であったが、延慶本や長門本をみると七名であったことはすでに述べたとおりであった。隣の伯耆国はおなじみの小鴨・村尾・日野の三氏が記されているが、因幡国の関係者は記されていない。反平家が多数派であったとの仮説を立てることもできそうだが、どうであろうか。
 そこで注目されるのが、二月の合戦から間もない三月一〇日の『吾妻鏡』の記事である。因幡国住人長田兵衞尉実経が召され(頼朝ではなく西国の義経・範頼のもとであろう)、頼朝から文書を与えられている。その内容は、実経は平家に同心したので罪科に処すべきであるが、その父高庭介資経が、平治の乱後伊豆に配流される頼朝に対して一族の籐七資家を派遣したことに免じて、本知行を安堵するというものであった。それだけにとどまらずに、実経は広経に改名し、その子兵衛太郎広雅は幕府引付衆となっている。頼朝が不遇の時代に恩を受けた人々のため様々尽力した事は服部英雄氏『歴史を読み解く さまざまな史料と視角』の中でもいくつかの実例が述べられていた。
 実経の罪科とは時期的にみて一の谷合戦に平家方として参加したことであろう。因幡国は親平家の藤原隆季が知行国主であった。その子で藤原忠隆女子を母とする隆房が応保元年(一一六一)一〇月に因幡守に補任されており、嘉応二年(一一七〇)正月には任期満了により同母弟の隆保に交替し、治承二年(一一七八)正月には異母弟隆清(母は藤原信西入道女子)が継承している。治承四年(一一八〇)一一月には隆季の知行国主現任が確認でき、応保元年から平家の都落ち(この時には本人は出家していたが、嫡子隆房は同道せず、後白河院のもとで地位を維持)に至るまで、長期に亘って隆季が知行国主であった。翌元暦二年に隆季は死亡している。

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