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2017年12月20日 (水)

一の谷合戦と因幡国2

 長田実経が平家の家臣となっていた背景は以上であり、一の谷合戦には因幡国からも少なからずの武士が動員されたことは確実であろう。一の谷合戦後の元暦元年九月に因幡守となったのは頼朝の側近大江広元であった。翌文治元年六月には因幡守を辞任しているが、同年一二月二七日に知行国主となったのは広元と関係の深い源通親で、因幡守はその子堀川通具(母は清盛の異母弟の娘)であった。次いで建久六年二月から建仁元年一二月までは異母弟通方(母は後鳥羽の乳母であった藤原範子)が因幡守であった。通親も隆季と同様平家との関係を強めていたが、これまた都落ちに同道せず、後白河院のもとで地位を維持し、後鳥羽天皇のもとでは実権を握ったことは有名である。大江広元の嫡子親広は一時期、源通親の養子となっており、広元と通親の関係がうかがわれる。
 大江広元が因幡守時代の目代は幕府御家人大井実春であり、佐藤進一氏は実春が因幡国守護を兼ねたとの説を提示された。伊藤邦彦氏はこれについては不明であるとされるが、佐藤説は正しいと思われる。そして、それは源通親が知行国主の時期にも継続した可能性が高い。長田実経が広経と改名したのは大江広元との関係であろう。広経の嫡子で引付衆となった広雅についても同様で、広元、さらには承久の乱後の広元流の惣領となった時広との関係がうかがわれる。ただし、引付衆となったのは広雅にその方面でも能力があったからでもあろう。
 文永末年に比定できる結城信仏(朝広)書状(鎌遺一一五九五)の中で、信仏の父朝光が承久の乱後に藤原能登守秀康(承久の乱の首謀者の一人として処刑される)跡として備中国吉備津宮領の地頭職と社務職を与えられたが、当時は晴宗が押領しているとして訴えたところ、奉行人長田左衛門尉が晴宗の咎を認め和与すべしとの判断を示したのに対して、信仏は判断に迷って幕府小侍所司と思われる平岡左衛門尉に相談している。この長田左衛門尉も広雅であろう。鎌遺一一六一〇にも弘長二年のころの奉行人広雅がみえる。
 『吾妻鏡』では広雅は引付衆設置前の寛元三年(一二四五)一〇月二八日条にも裁判の奉行をしたことが記され、引付衆としても設置以降、弘長元年三月二〇日の評定衆と引付衆に起請文に加判を求めた記事にまでみえるが、文永末年までその活動は確認できる。

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