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2017年12月27日 (水)

駿河国御家人の西遷

 鎌倉時代に伯耆国守護となった金持氏が駿河国金持庄の出身であることを述べたが、金持庄に関する史料は足利直義が北条貞時後室が建立した伊豆国の尼寺円成寺に寄進した史料のみである。問題はその場所であるが、寄進状には金持庄内沓屋郷并沢田郷とある。地図で検察すると沓屋は静岡市内、沢田は焼津市内なので、沢田郷は金持庄とは独立した所領であることがわかる。伊豆国に近い沢田郷についてはその後の史料にも登場するが、やや離れた沓屋郷は登場しない。
 その沓屋郷を苗字の地とする国人沓屋氏の一族の中に西遷し、応安七年の氷上上宮上棟御馬注文に「沓屋入道」がみえる(興隆寺文書)。南北朝期には大内氏の家臣となり、老臣連署書状の署判者としてもみえている。
 沓屋氏の関係系図は未見であるが、奥州安倍氏の子孫であるともいう。安倍氏の滅亡後駿河国安倍郡沓屋郷に移住して「沓屋」氏を名乗ったとする。駿河国から周防国に下り、大内氏の家臣となっていた長崎氏と婚姻関係を結んだとする。長崎氏とは得宗御内人長崎氏である。一六世紀前半の人物で、大内氏の富田城攻めの際に死亡した長崎元康女子と沓屋景頼が結婚し、その子元綱は長崎房親女子と結婚している。
 長崎氏も大永三年一〇月には「弥八郎」が大内氏の家臣となっていることが確認できる。鎌倉中期には周防国得地保との関わりを持っていた。中国地方には別の長崎氏(美作国?)も活動しており、天文年間後半には尼子晴久が長崎与四郎外四名の国人に倉渕在番に関して感状を与えている。陶晴賢滅亡の翌年三月七日毛利元就書状では沓屋右衛門尉と長崎隼人佐に対して、対大内義長との戦いで、心変わりした諸郷が出たのはやむを得ないことだとして、両氏は去年以来申合わせている衆中として諸津々浦々の警固を行うよう依頼している。両者とも駿河国出身であり、長崎氏と毛利氏との間には鎌倉期に婚姻関係も結ばれていた。
 長崎郷のあった駿河国入江庄出身の船越氏は承久の乱で淡路国に所領を得、南北朝期にも淡路国での活動が確認できるが、その一族の中に戦国期には周防国で大内氏の家臣となったものがあり、毛利氏と大内氏が戦った際には石見国出身の佐波氏の下にあり、後には毛利氏の家臣となっている(船越家文書)。沓屋氏は「屋代島衆」として水軍として活躍しており、船越氏も同様であろう。

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