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2017年12月14日 (木)

長崎氏について6

 建治二年三月九日某袖判下文で故平左衞門入道殿、故長崎殿の菩提を弔うよう命じている。写であるため花押は確認できないが、某は同年一二月日寄進状で西方寺に伊賀地村鳥居瀬の灯油料畠一段半を安堵している地頭左衞門尉時盛であろう。時盛は「時」の字を共有する長崎次郎兵衞尉時綱の子ではないか。この直前の正月には長門・周防両国守護に補任された北条宗頼が現地に到着している。宗頼は時頼の子で時宗の同母弟である。 
 時盛は弘安四年閏七月には最初に真鍋又太郎義綱が寄進したものが安堵されてきた西方寺敷地が不足との訴えを受けて、新たな土地を寄進している。次いで弘安六年八月九日某寄進状では「武蔵守殿」が寄進した下得地内西方寺免田を安堵している。弘安六年の時点の武蔵守は弘安五年八月二三日補任の北条時村であるが、その前任者と思われ弘安四年八月九日に二九才で死亡した宗政である可能性もある。前述の弘安四年閏七月時点の周防・長門国守護は宗政であった。宗政は時頼の子で、時宗の同母弟で、宗頼の兄であった。まだ七才であった宗政の嫡子は北条政村の娘を母とし、母方の叔父である時村を烏帽子親として元服している。寄進状の発給者は欠落しており不明である。
 正安三年(一三〇一)には地頭藤原定基が西方寺阿弥陀如来御敷地の税を先例と「長崎三郎左衞門尉」寄進の旨に任せて免除するとともに最明寺殿=北条時頼の菩提を伴っている。永仁元年(一二九三)の平禅門の乱の影響を受けている可能性があるが、定基は「藤原」姓で、「平」姓の長崎氏の一族ではない。ただし、長崎三郎左衞門尉は徳治二年の「長崎三郎左衞門入道」と同一人物であろう。法名は思元で実名は不明であるが、その息子が「為基」であり、思元の名にも「基」の字があった可能性は高い。
 以上のように周防国得地保並びに西方寺は長崎氏並びに北条時頼とその子宗政・宗頼と深い関係を持っていた。

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