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2017年12月20日 (水)

一の谷合戦と因幡国3

 最後に、前に出雲国で杵築大社惣検校の地位を国造兼忠や孝房と争った内蔵忠光とその子資忠に触れ、忠光・資忠父子は崇徳院の近臣で隠岐守の経験を持つ日野資憲との関係を持ったことを述べ、因幡国の長田実経の父で頼朝の恩人である資経も同様であろうとの考えを述べた。源通親の妻で堀川通具の母であった女性は高倉院女房である。彼女は清盛の異母弟教盛かその子通盛の娘とされるが、教盛の妻・通盛の母は日野資憲の娘である。彼女が生んだ教子は藤原範季の妻となり、順徳天皇の生母となる藤原重子(修明門院)を生んでいる。そして範季の兄弟が藤原範兼で、その娘がこれまた後鳥羽の乳母である藤原範子で、源通親との間に因幡守となった通方の母であった。
 ながらく因幡国知行国主であった藤原隆季の父は鳥羽院第一の寵臣とされた藤原家成であった。家成は美福門院の従兄弟であるが、隆季は八才で待賢門院(崇徳の母)御給で従五位上に進んでいるように、待賢門院・崇徳とも関係を持っていた。久寿元年(一一五四)から応保元年まで因幡守であった藤原信隆は平教盛(忠盛の子で、母は藤原家隆女子=待賢門院女房、妻は日野資憲女子)・平時忠らとともに二条天皇を廃して高倉天皇を擁立した隠謀に関わったかどで因幡守を解任されている。その父信輔も康治元年(一一四二)から久安六年(一一五〇)にかけて因幡守であった。平忠盛は待賢門院別当をつとめ、その正妻池禅尼(藤原宗子)は崇徳天皇の子重仁親王の乳母であり。忠盛・池禅尼は崇徳派であったが、保元の乱の際には禅尼(忠盛はすでに死亡)が子である平頼盛に、崇徳方の敗北を予期して異母兄清盛に協力するよう指示したとされる。
 以上、様々述べたが、因幡国の有力在庁官人であった長田資経が日野資憲との関係からその名を名乗り、保元の乱後はその子実経が平頼盛との関係から平家方となり、知行国主隆季のもと一の谷合戦に参陣した可能性は高いと思われる。
  補足すると、頼朝は一三才であった平治元年には待賢門院の子で後白河の一才年上の姉である上西門院の蔵人に補任され、その殿上始めで前述の藤原信隆や、後に頼朝と後白河のパイプ役となった吉田経房とともに献盃役を務めている。また、建久元年一一月六日には上洛途中の頼朝のもとに伯耆国の藤原泰頼が訪れ、長田庄得替について愁申している。泰頼も過去の頼朝の関係を背景に、九条兼実領長田庄の庄官への復帰を願い、実現したようである。出雲国でも吉田経房が領家であった薗山庄について同様の訴えがあり、頼朝が経房宛に書状を送っている。

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