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2017年12月

2017年12月27日 (水)

駿河国御家人の西遷

 鎌倉時代に伯耆国守護となった金持氏が駿河国金持庄の出身であることを述べたが、金持庄に関する史料は足利直義が北条貞時後室が建立した伊豆国の尼寺円成寺に寄進した史料のみである。問題はその場所であるが、寄進状には金持庄内沓屋郷并沢田郷とある。地図で検察すると沓屋は静岡市内、沢田は焼津市内なので、沢田郷は金持庄とは独立した所領であることがわかる。伊豆国に近い沢田郷についてはその後の史料にも登場するが、やや離れた沓屋郷は登場しない。
 その沓屋郷を苗字の地とする国人沓屋氏の一族の中に西遷し、応安七年の氷上上宮上棟御馬注文に「沓屋入道」がみえる(興隆寺文書)。南北朝期には大内氏の家臣となり、老臣連署書状の署判者としてもみえている。
 沓屋氏の関係系図は未見であるが、奥州安倍氏の子孫であるともいう。安倍氏の滅亡後駿河国安倍郡沓屋郷に移住して「沓屋」氏を名乗ったとする。駿河国から周防国に下り、大内氏の家臣となっていた長崎氏と婚姻関係を結んだとする。長崎氏とは得宗御内人長崎氏である。一六世紀前半の人物で、大内氏の富田城攻めの際に死亡した長崎元康女子と沓屋景頼が結婚し、その子元綱は長崎房親女子と結婚している。
 長崎氏も大永三年一〇月には「弥八郎」が大内氏の家臣となっていることが確認できる。鎌倉中期には周防国得地保との関わりを持っていた。中国地方には別の長崎氏(美作国?)も活動しており、天文年間後半には尼子晴久が長崎与四郎外四名の国人に倉渕在番に関して感状を与えている。陶晴賢滅亡の翌年三月七日毛利元就書状では沓屋右衛門尉と長崎隼人佐に対して、対大内義長との戦いで、心変わりした諸郷が出たのはやむを得ないことだとして、両氏は去年以来申合わせている衆中として諸津々浦々の警固を行うよう依頼している。両者とも駿河国出身であり、長崎氏と毛利氏との間には鎌倉期に婚姻関係も結ばれていた。
 長崎郷のあった駿河国入江庄出身の船越氏は承久の乱で淡路国に所領を得、南北朝期にも淡路国での活動が確認できるが、その一族の中に戦国期には周防国で大内氏の家臣となったものがあり、毛利氏と大内氏が戦った際には石見国出身の佐波氏の下にあり、後には毛利氏の家臣となっている(船越家文書)。沓屋氏は「屋代島衆」として水軍として活躍しており、船越氏も同様であろう。

2017年12月20日 (水)

一の谷合戦と因幡国3

 最後に、前に出雲国で杵築大社惣検校の地位を国造兼忠や孝房と争った内蔵忠光とその子資忠に触れ、忠光・資忠父子は崇徳院の近臣で隠岐守の経験を持つ日野資憲との関係を持ったことを述べ、因幡国の長田実経の父で頼朝の恩人である資経も同様であろうとの考えを述べた。源通親の妻で堀川通具の母であった女性は高倉院女房である。彼女は清盛の異母弟教盛かその子通盛の娘とされるが、教盛の妻・通盛の母は日野資憲の娘である。彼女が生んだ教子は藤原範季の妻となり、順徳天皇の生母となる藤原重子(修明門院)を生んでいる。そして範季の兄弟が藤原範兼で、その娘がこれまた後鳥羽の乳母である藤原範子で、源通親との間に因幡守となった通方の母であった。
 ながらく因幡国知行国主であった藤原隆季の父は鳥羽院第一の寵臣とされた藤原家成であった。家成は美福門院の従兄弟であるが、隆季は八才で待賢門院(崇徳の母)御給で従五位上に進んでいるように、待賢門院・崇徳とも関係を持っていた。久寿元年(一一五四)から応保元年まで因幡守であった藤原信隆は平教盛(忠盛の子で、母は藤原家隆女子=待賢門院女房、妻は日野資憲女子)・平時忠らとともに二条天皇を廃して高倉天皇を擁立した隠謀に関わったかどで因幡守を解任されている。その父信輔も康治元年(一一四二)から久安六年(一一五〇)にかけて因幡守であった。平忠盛は待賢門院別当をつとめ、その正妻池禅尼(藤原宗子)は崇徳天皇の子重仁親王の乳母であり。忠盛・池禅尼は崇徳派であったが、保元の乱の際には禅尼(忠盛はすでに死亡)が子である平頼盛に、崇徳方の敗北を予期して異母兄清盛に協力するよう指示したとされる。
 以上、様々述べたが、因幡国の有力在庁官人であった長田資経が日野資憲との関係からその名を名乗り、保元の乱後はその子実経が平頼盛との関係から平家方となり、知行国主隆季のもと一の谷合戦に参陣した可能性は高いと思われる。
  補足すると、頼朝は一三才であった平治元年には待賢門院の子で後白河の一才年上の姉である上西門院の蔵人に補任され、その殿上始めで前述の藤原信隆や、後に頼朝と後白河のパイプ役となった吉田経房とともに献盃役を務めている。また、建久元年一一月六日には上洛途中の頼朝のもとに伯耆国の藤原泰頼が訪れ、長田庄得替について愁申している。泰頼も過去の頼朝の関係を背景に、九条兼実領長田庄の庄官への復帰を願い、実現したようである。出雲国でも吉田経房が領家であった薗山庄について同様の訴えがあり、頼朝が経房宛に書状を送っている。

一の谷合戦と因幡国2

 長田実経が平家の家臣となっていた背景は以上であり、一の谷合戦には因幡国からも少なからずの武士が動員されたことは確実であろう。一の谷合戦後の元暦元年九月に因幡守となったのは頼朝の側近大江広元であった。翌文治元年六月には因幡守を辞任しているが、同年一二月二七日に知行国主となったのは広元と関係の深い源通親で、因幡守はその子堀川通具(母は清盛の異母弟の娘)であった。次いで建久六年二月から建仁元年一二月までは異母弟通方(母は後鳥羽の乳母であった藤原範子)が因幡守であった。通親も隆季と同様平家との関係を強めていたが、これまた都落ちに同道せず、後白河院のもとで地位を維持し、後鳥羽天皇のもとでは実権を握ったことは有名である。大江広元の嫡子親広は一時期、源通親の養子となっており、広元と通親の関係がうかがわれる。
 大江広元が因幡守時代の目代は幕府御家人大井実春であり、佐藤進一氏は実春が因幡国守護を兼ねたとの説を提示された。伊藤邦彦氏はこれについては不明であるとされるが、佐藤説は正しいと思われる。そして、それは源通親が知行国主の時期にも継続した可能性が高い。長田実経が広経と改名したのは大江広元との関係であろう。広経の嫡子で引付衆となった広雅についても同様で、広元、さらには承久の乱後の広元流の惣領となった時広との関係がうかがわれる。ただし、引付衆となったのは広雅にその方面でも能力があったからでもあろう。
 文永末年に比定できる結城信仏(朝広)書状(鎌遺一一五九五)の中で、信仏の父朝光が承久の乱後に藤原能登守秀康(承久の乱の首謀者の一人として処刑される)跡として備中国吉備津宮領の地頭職と社務職を与えられたが、当時は晴宗が押領しているとして訴えたところ、奉行人長田左衛門尉が晴宗の咎を認め和与すべしとの判断を示したのに対して、信仏は判断に迷って幕府小侍所司と思われる平岡左衛門尉に相談している。この長田左衛門尉も広雅であろう。鎌遺一一六一〇にも弘長二年のころの奉行人広雅がみえる。
 『吾妻鏡』では広雅は引付衆設置前の寛元三年(一二四五)一〇月二八日条にも裁判の奉行をしたことが記され、引付衆としても設置以降、弘長元年三月二〇日の評定衆と引付衆に起請文に加判を求めた記事にまでみえるが、文永末年までその活動は確認できる。

一の谷合戦と因幡国1

 一の谷合戦に参加した西国武士は『平家物語』諸本からその一部の名前を知ることができる。出雲国は流布本では五名が記され最多であったが、延慶本や長門本をみると七名であったことはすでに述べたとおりであった。隣の伯耆国はおなじみの小鴨・村尾・日野の三氏が記されているが、因幡国の関係者は記されていない。反平家が多数派であったとの仮説を立てることもできそうだが、どうであろうか。
 そこで注目されるのが、二月の合戦から間もない三月一〇日の『吾妻鏡』の記事である。因幡国住人長田兵衞尉実経が召され(頼朝ではなく西国の義経・範頼のもとであろう)、頼朝から文書を与えられている。その内容は、実経は平家に同心したので罪科に処すべきであるが、その父高庭介資経が、平治の乱後伊豆に配流される頼朝に対して一族の籐七資家を派遣したことに免じて、本知行を安堵するというものであった。それだけにとどまらずに、実経は広経に改名し、その子兵衛太郎広雅は幕府引付衆となっている。頼朝が不遇の時代に恩を受けた人々のため様々尽力した事は服部英雄氏『歴史を読み解く さまざまな史料と視角』の中でもいくつかの実例が述べられていた。
 実経の罪科とは時期的にみて一の谷合戦に平家方として参加したことであろう。因幡国は親平家の藤原隆季が知行国主であった。その子で藤原忠隆女子を母とする隆房が応保元年(一一六一)一〇月に因幡守に補任されており、嘉応二年(一一七〇)正月には任期満了により同母弟の隆保に交替し、治承二年(一一七八)正月には異母弟隆清(母は藤原信西入道女子)が継承している。治承四年(一一八〇)一一月には隆季の知行国主現任が確認でき、応保元年から平家の都落ち(この時には本人は出家していたが、嫡子隆房は同道せず、後白河院のもとで地位を維持)に至るまで、長期に亘って隆季が知行国主であった。翌元暦二年に隆季は死亡している。

2017年12月14日 (木)

長崎氏について6

 建治二年三月九日某袖判下文で故平左衞門入道殿、故長崎殿の菩提を弔うよう命じている。写であるため花押は確認できないが、某は同年一二月日寄進状で西方寺に伊賀地村鳥居瀬の灯油料畠一段半を安堵している地頭左衞門尉時盛であろう。時盛は「時」の字を共有する長崎次郎兵衞尉時綱の子ではないか。この直前の正月には長門・周防両国守護に補任された北条宗頼が現地に到着している。宗頼は時頼の子で時宗の同母弟である。 
 時盛は弘安四年閏七月には最初に真鍋又太郎義綱が寄進したものが安堵されてきた西方寺敷地が不足との訴えを受けて、新たな土地を寄進している。次いで弘安六年八月九日某寄進状では「武蔵守殿」が寄進した下得地内西方寺免田を安堵している。弘安六年の時点の武蔵守は弘安五年八月二三日補任の北条時村であるが、その前任者と思われ弘安四年八月九日に二九才で死亡した宗政である可能性もある。前述の弘安四年閏七月時点の周防・長門国守護は宗政であった。宗政は時頼の子で、時宗の同母弟で、宗頼の兄であった。まだ七才であった宗政の嫡子は北条政村の娘を母とし、母方の叔父である時村を烏帽子親として元服している。寄進状の発給者は欠落しており不明である。
 正安三年(一三〇一)には地頭藤原定基が西方寺阿弥陀如来御敷地の税を先例と「長崎三郎左衞門尉」寄進の旨に任せて免除するとともに最明寺殿=北条時頼の菩提を伴っている。永仁元年(一二九三)の平禅門の乱の影響を受けている可能性があるが、定基は「藤原」姓で、「平」姓の長崎氏の一族ではない。ただし、長崎三郎左衞門尉は徳治二年の「長崎三郎左衞門入道」と同一人物であろう。法名は思元で実名は不明であるが、その息子が「為基」であり、思元の名にも「基」の字があった可能性は高い。
 以上のように周防国得地保並びに西方寺は長崎氏並びに北条時頼とその子宗政・宗頼と深い関係を持っていた。

長崎氏について5

 前の番号を継承しているが、内容的にはリセットに近い。その理由を含めて以下に述べる。
 長井時広の子泰茂の庶子頼茂は建治二年には長門国守護となった北条時頼の弟宗頼のもとで守護代となっている。年未詳四月二四日某袖判泰茂奉書状(南部家所蔵曽我文書)が、陸奥国の得宗被官曽我弥次郎入道宛に出され、鱒二、雁一を送っている。『鎌倉遺文』では宝治年間に比定されていたが、『青森県史』資料編中世1では袖判の主について「義政ヵ」としている。義政とすると、彼が連署を辞任した建治三年以前のものとなる。花押の比定は小口雅史氏「陸奥曽我氏の基礎的研究」を読むと、それまで経時の花押とされていたものが時頼に変更されたように厳密になされているようである。「義政」に断定されないのは微妙なところがあるのだろうが、花押そのものを未見なので、これ以上のことは言えない。北条氏被官曽我氏の主人は泰時から時頼に交替している。それは時頼が執権になる前で、泰時分が兄経時分と弟時頼分に分けられたことを意味していると小口氏は述べている。同文書には同じ袖判を持ち曽我弥次郎入道に仏事料として染物二〇を送ったことを「泰綱」が奉じている書状もある。
  これを河合正治氏が毛利時親の妻の父長崎泰綱に比定した。時期的にはやはり文永~建治年間のものであろう。嘉禎三年・四年の文書の「泰綱」と長崎泰綱は別人の可能性も出てきた。そうなると、弘長元年の「長崎左衞門尉」と同三年の「長崎次郎左衛門尉」を泰綱に比定することも可能となる。「泰綱」の名もまた北条泰時によるものであり、盛綱の子盛時の名は北条時経ないしは時頼によるのだろう。泰綱は同族であった盛綱よりは若く、その子盛時よりは年長となる。毛利時親の妻となった泰綱女子は建長末年頃に誕生したと推定できる。この泰綱跡へ盛綱の子時綱が入り、さらにその跡へ盛時の子光綱(時綱の甥)が入ったことになる。時綱は長崎氏に入ることで「兵衞尉」に任官し、光綱は侍所所司から得宗執事となった。

長井時広について2

 前にも述べたが承久の乱後の備前国守護は時広であったとすべきである。それならば備前国内に時広領が複数確認できるのではないかとの批判もあろうが、備前・備中両国は承久の乱後には兵粮料所として関東御分国となっており、時広領がなくても支配は可能であった。またその重要性からみて、誰でも守護には補任してよい国ではない。
 備中国は寛喜三年に陸奥国と交換する形で御分国ではなくなったが、備前国はその後しばらくは御分国であった。これも備前国に後鳥羽院の子頼成親王が配流されていたからであろう。当初は頼成親王の警固は加地氏が行ったが、まもなく御家人による番役に代わったことはすでに述べた。承久の乱後の備中国守護も時広であった可能性もある。そして関東御分国から外れると守護も時広から某に交替し、備前国守護も泰重の死により伊賀氏に交替した。
 六波羅探題は当初は北条氏の二人体制であったが、仁治三年五月に時房の子時盛が解任されて以降、文永元年に時宗の庶兄時輔が補任されるまで、南方探題は欠員であった。その理由の一つには延応元年(一二三九)に隠岐で後鳥羽院が死亡したことによる緊張緩和があったであろう。そして南方探題の役割を代行したのが長井泰重であった。宝治元年(一二四七)と正嘉元年(一二五七)の新日吉社流鏑馬で一番の北方探題に対して南方探題が務める七番を泰重が務めているのはそのためである

長井時広について1

 承久の乱後の大江広元流の惣領とされるが、その実像は不明である。幕府評定衆にもなっておらず、父広元は因幡守、兄親広が遠江守と武蔵守となっているにもかかわらず国守に補任されてもいない。その嫡子泰秀は甲斐守で幕府評定衆、庶子泰重は因幡守で六波羅評定衆に補任されているのとは対照的である。備後国守護と複数の所領の地頭に補任されている程度である。森幸夫氏の説くように、初期の六波羅探題の整備に尽力したということか。父広元が死亡した際も鎌倉には帰らなかった。もっともこれは相前後して死亡した北条政子との関係があろう。政子の危篤が奉じられ、泰時が鎌倉に帰ったが、結果としては広元が先に亡くなってしまい、時広は探題のいない京都を離れるわけにはいかなかったであろう。
 時広と泰時の関係は、時広の現在知ることのできる男子がすべて「泰」の字を付け、父広元や兄親広にちなむ字を付けていないことからもわかる。前記の二人以外に泰元、泰茂、泰経がいる。この中で二番目の泰茂がもっとも史料が残っている。嘉禎元年(一二三五)一二月二四日には神社に大般若経を転読し神楽を修する使者が派遣されているが、春日社には長井判官代泰茂であった。泰茂は兄泰重とならんで六波羅評定衆となった可能性が高く(系図の記載のみで、明証を欠いている)、備後国内の長和庄・信敷庄とともに美濃国茜部庄と但馬国田公御厨の地頭職を父から譲られている。但馬国には後鳥羽院の子雅成親王が死亡する建長六年(一二五五)まで配流されていた。但馬国内のもう一箇所の時広領朝倉庄は泰重に譲られていた。

2017年12月11日 (月)

長崎氏について4

 次いでみえるのは弘安二年に比定される一〇月二日日蓮書状にみえる「長崎次郎兵衞尉時縄」で、同時期と思われる六月二四日日蓮書状には「長崎兵衞尉書下」とみえる。この人物について森氏は嘉禎二年(一二三六)一月三日と宝治二年(一二四八)正月一日にみえる「平左衞門次郎」と同一人物であるとしたが、妥当と考える。この人物は盛綱の嫡子盛時の兄弟であるが、盛時が延応元年には左衞門尉に任官しているのに対してその九年後でも任官していない。『吾妻鏡』の記載順からして森氏の指摘するように盛時の兄であろうが、庶子であった。それが弘安二年には兵衞尉に任官し、長崎氏を名乗っている。弘長三年の長崎次郎左衛門尉と別人である。次郎左衛門尉が後継者がないままに死亡したため、時綱が養子に入ったのではないか。時綱については文永九年九月五日得宗公文所奉行人連署奉書の署判者としてもみえるが、この時点ですでに長崎氏となっていたかは不明である。長崎氏の養子に入ることで兵衞尉任官が実現したのではないか。
 その意味で注目されるのが前述の建治二年三月九日某袖判下文写である(上司家文書)。鎌倉遺文では「周防国司下文案」とするが、誤りであろう。袖判の某氏は西方寺御堂への百姓による違乱を停止して、故平左衛門入道殿と故長崎殿の菩提を弔うよう命じている。御堂が両者を弔うために建立されたことを意味している。細川氏は前者は盛時、後者は光時と兄弟を想定しているが、「光時」については系図以外の史料がないことはすでに述べたところである。それよりも某が盛綱、後者が長崎氏としては最初となる泰綱であるとし、某は盛綱の子で長崎氏に養子に入った時綱であるとしたほうがはるかに理解しやすくなる。泰綱の後継者「長崎次郎左衛門尉」が後継者がなく死亡したため、既に成人し子もあった時綱が養子として入り、その結果時綱は兵衞尉に任官したのである。これ以前に時綱が養子に入っていたことになるが、これに対して時綱の子で僧となっていた盛弁は系図上では祖父盛綱の子となる時綱は佐藤進一氏により建治二年には得宗のもとでの備中国守護代をつとめていたとされたが、妥当な解釈である。
 弘安四年閏七月六日には左衞門尉時盛が西方寺敷地を寄進しているが、時綱の子ではないか。正安三年一一月一五日地頭藤原定基寄進状では先例と「長崎三郎左衞門尉寄進之旨」に任せて敷地への税が免除されている。定基は藤原性で長崎氏ではない。平禅門の乱の影響で得地保の領主が交替したのだろうが、長崎氏は乱後間もなく地位を回復している。それをうけて定基(この人物も長崎氏の関係者ヵ)寄進状の上記のような表現となったのだろう。
 以上の仮説が成立するためには、建長二年三月の「平右衛門入道跡」は盛綱ではなく、その後も生存していたことを想定しなければならない。長崎氏については史料がまとまった形で存在しないこと、幕末期には一族が増えていたこともあり、推測に頼らざるをえないが、とりあえずより可能性の高い説を提示した。
補足 長崎時綱は文永一〇年一二月一七日同奉書には「左兵衞尉(花押)」と署判しており、 この時点では長崎氏に養子に入っていたと思われる。

長崎氏について3

 長崎氏の初見史料は弘長元年四月二五日の幕府小笠懸で、武田五朗三郎が的を造進し、小童次郎右衛門尉が的を立てたのに対して馬を献上したのが「長崎左衞門尉」であった。弘長三年には臨終に際し祗候する武田五郎三郎・南部次郎・「長崎次郎左衛門尉」・工藤三郎左衛門尉・尾籐太・宿谷左衛門尉・安東左衛門尉等のみが看取りを許された。武田五郎三郎が共通してみえるように、「長崎左衞門尉」と「長崎次郎左衛門尉」は同一人物である。細川氏はこれを長崎左衞門尉光綱と同一人物とするが、「長崎左衞門尉光綱」の確実な初見史料は正応四年八月二〇日の寺社并京下訴訟事(新編追加)である。
 森氏は、光綱はこれより先の文永一〇年一一月から翌年二月まで侍所所司であったとする。確認すると、①文永一〇年一一月一四日行兼等連署奉書(小早川家文書)の末尾の四人目の署判者として光綱がみえる。②翌年二月一四日行兼等連署奉書写(肥後本妙寺文書)でも末尾の三人目の署判者として光綱がみえる。これを侍所発給の文書とし、末尾の光綱を所司とした森氏の判断は正しいと思われる。編纂所データベースで検索すると関係史料は外にもあり、②の花押を記した文書と③文永一〇年閏五月二八日行兼等連署奉書がいずれも本国寺文書として残されている。光綱の侍所所司就任は半年ほど早まることとなる。ただし、これは「光綱」とのみあり長崎氏かどうかは不明である。本来、光綱は頼綱の弟であり平光綱であったが、それが長崎氏を継承して後に「長崎左衞門尉光綱」と名乗ったと思われる。①は確認できていないが、②③の光綱の花押は長崎光綱の花押と一致する。
 毛利時親の妻の父長崎泰綱の次の世代(子ヵ)が弘長元年と三年の人物である。河合氏は後者を泰綱に比定されたが、成り立たない。これに次いで建治三年の「長崎四郎左衞門尉」がみえ、森氏はこれが光綱ヵとされたが、この人物については不明とせざるを得ない。森氏が述べるようにこの時点では長崎氏も複数の家が存在したのであろう(後にも三郎家と四郎家があり)。

長崎氏について2

 話を「泰綱」に戻すと、その関係史料が残っているのは嘉禎~宝治年間である。「大蔵允」と任官しており、盛綱と連署した文書があるように盛綱と同世代であろう。毛利時親の兄基親が建長三年の生まれであることから、時親は建長末年までには生まれていたと思われる。その妻の父である泰綱は嘉禎年間以前の生まれとなるが、多田院政所泰綱と同一人物であるとすると、一三世紀初めの生まれとなり、亀谷局は晩年の子となる。
 泰綱は確認できる最初の長崎氏となり、建治二年の「故平左衛門入道」と「故長崎殿」は盛綱と泰綱に比定できる。盛時については弘長元年の「平三郎左衞門尉」が現時点では確実な終見であるが、「平左衛門入道」と呼ばれた史料は残っていない。細川氏は故長崎殿を光盛に比定するが。光盛に関する文書も残っていない。基本的に盛綱-盛時-頼綱を「長崎氏」と呼んだ史料も存在しない。
 時親の妻が長崎氏出身であることについて河合氏は父経光が時親を優遇した背景ととらえているが、これは誤りであろう。長崎氏は北条氏の側近であるが、森氏が説くように一方では御家人であった。建治の注文の「平左衞門入道跡」は八貫文の負担であり、鎌倉中の御家人としては標準的規模である。毛利季光女子が執権となる経時の弟時頼と結婚したのと比べれば、宝治合戦での敗北、時親が経光の庶子であることもあって、御家人のランクとしては下がっていることは間違いない。毛利氏全体では「毛利右近入道跡」で二〇貫文を負担している。
 亀谷局の父が長崎氏であることは元春申状の冒頭の系図に述べられており、元春の祖父貞親は観応二年まで生存しており、これを疑う理由はない。森氏と細川氏は想定する系譜に違いがあるが、長崎氏を盛綱の孫光綱から始まるとしている。亀谷局の父が長崎氏であるなら、長崎氏の成立はもっと早めなければならかい。

長崎氏について1

 長崎氏に関する細川重男氏(日本歴史と古文書研究)と森幸夫氏(吾妻鏡人名総覧)の論文を確認した。毛利時親の妻亀谷局とその父泰綱についてはまったく言及されていない。泰綱の関係文書である嘉禎四年六月二四日得宗家公文所奉書が細川氏の目録の最初に掲載されているが、「秦泰綱」と注記されている。「秦」氏の根拠については現在のところ、確認できない。長崎氏をめぐる基本的な点について両者の間にもかなりの違いがみられ、それほどに初期の史料が少ないのであろう。
 細川氏は平盛綱の子に盛時と光盛がおり、さらにそれぞれの子に平頼綱と長崎光綱がいるという理解で、両者は従兄弟になる。これに対して森氏は、『保暦間記』の記述から光盛の存在を認めず、頼綱と光綱はいずれも盛時の子=兄弟であるとする。細川氏は建治二年三月九日某袖判下文中の「故平左衞門入道」「故長崎殿」をそれぞれ盛時と系図にのみみえる光盛に比定し、長崎円喜は頼綱の甥であるとする『保曆間記』の記述より優先している。長崎氏の初代を系図と同様光盛であるとする。ただし、後述のように二名の比定には検討の余地があり、光盛にはこれ以外の史料を欠いている。細川氏は盛綱の子左衞門四郎が光盛で、その子光綱を弘長三年の「長崎次郎左衛門尉」に比定したが。四郎と次郎の差も問題となる。森氏は建治三年の「長崎四郎左衛門尉」が光綱ヵとしている。
 従来は『系図纂要』所収の系図に基づき論じられてきたが、細川氏は戦前の日蓮宗研究者山川智応氏の研究(一九二九)に依拠しつつ、系図に対する史料批判を加えている。盛綱-盛時-頼綱の流れでは細川・森両氏は一致しているが、長崎氏については意見が分かれた。「光盛」は系図纂要では盛時とともに盛綱の子とされている。
 盛綱については前回も述べたが、建長二年三月の注文にみえるのは「平右衛門入道跡」(本によっては平左衛門入道跡)で、建治の注文には鎌倉中に「平右衛門入道跡」と「平左衛門入道跡」がみえる。前者と後者の「平右衛門入道跡」が同一ならば、建長二年三月までに盛綱が死亡したとの説は根拠がないことになる。相模国河匂庄を支配する「河匂平右衛門入道」がおり、寛元二年七月二〇日には対馬前司矢野倫重とともに奉行の役割を果たしている。

2017年12月 7日 (木)

楠木氏と長崎氏2

 昨日まで知らなかったが、毛利元就は兵書を筆写するなど兵法に強い関心を持っていた(岸田裕之氏「毛利元就と「張良か一巻之書」、龍谷大学論集)。そうした中で「毛利修理亮」と「楠木正成」との関係を知り、毛利家では吉田庄毛利氏の祖とでもいうべき毛利時親に「修理亮」の官職を付け加えたのではないか。『兵法秘術一巻書』(普通寺蔵)の巻末の「兵法相伝 血脈次第」をみると、『玉張陰符経』を日本に紹介したことになっている一〇世紀の大江惟時以降、重光、匡房、惟順、惟光、広元・親広、佐房、佐泰と大江氏に代々継承された形となっている。
 楠木氏と長崎氏の出身地については筧氏の駿河国入江庄説が正しいと思われる。それにより長崎泰綱女子を母とする修理亮親元と楠木正成の間に交流があったことが理解できる。地図をみれば一目瞭然、長崎と楠は境を接している隣村である。楠木氏と長崎氏女子についてきた人々の中には旧知の人がいてもおかしくないほどである。駿河国入江庄については、淡路国大田文をみていて、梶原景時を討伐した駿河国御家人の中に入江庄内を苗字とする武士が多いことを知った。彼等は播磨国・淡路国内の景時領を恩賞として獲得した。兵庫県史では水軍配置という観点から述べられていたが、近年の研究状況では東国武士は例外なく流通に関心を持っていたようである。地図で確認すると吉川・矢部・船越・飯田・渋河氏の苗字の地は入江庄(現在の静岡市清水区)内である。これに長崎・楠木氏が加わったことになる。
 現在は大阪府指定史跡「伝大江時親邸跡」(一九九九年二月指定)だが、一九〇二年(明治三五)に「大江修理亮 時親遺跡碑」が建立されている。後醍醐天皇の隠岐国からの脱出を助けた布志名義綱(雅清)の石碑は四年前の一八九八年で、石碑には山県有朋の名が記されている。毛利修理亮領摂津国加賀田郷は安芸吉田庄と同様に一旦は建武政権にぼっしゅうされたが、後に修理亮の兄毛利貞親領となり、貞親からその子近江守に譲られた。その子孫がその地で近代まで続いたのであろう。

楠木氏と長崎氏1

 後醍醐天皇に協力して鎌倉幕府の滅亡に尽力した楠木正成と幕府最後の得宗北条高時のもとで独裁を行ったとされる内管領長崎高資。対照的にみえる二人であるが、筧雅博氏の説によると、両者の苗字の地はともに駿河国入江庄内の楠と長崎であり、霜月騒動により地頭が安達氏から得宗領となった河内国観心寺庄に入部した得宗被官が楠木氏であるという。ただし、楠木氏の苗字の地については武蔵国であるとの網野善彦氏の説もあり、長崎氏の苗字の地も伊豆国北条に隣接する長崎であり、長崎氏は本来北条氏の庶家ではなかったかとする細川重男氏の説もある。楠木氏については知っていたが、長崎氏については細川氏『鎌倉幕府の滅亡』を本日読んで知った。
 この問題の解決に手がかりとなりそうなのが、毛利氏と楠木氏の関係である。江戸後期には毛利時親が楠木正成の兵学の師であるとの説が述べられているが、本ブログでは時親は元春申状の冒頭の系図に記されるように「刑部少輔」であり、修理亮に補任されたのはその子が修理次郎だと本文中に記される「四郎」(親元)であることを述べた。尊卑分脈の大江氏系図は独特で時親の官職は記さず、その所領についての脇書があり、成否を含めて判断材料とはならないことも述べた。研究者の中には系図そのものには疑問を持つ一方で「尊卑分脈」については信頼している方がままみられるが、すべての史料は検討してなんぼのものである。「大江氏系図」については元就の甥幸松丸まで記しているように、成立時の文脈のものではなく、後に付け加えられたものである。
 これに対して『毛利氏系図』では時親には「法名了禅」「修理亮」「六波羅評定衆」の脇書がみられるが、本来の「刑部少輔」はみられない。これが系図纂要本では両方が記されている(この点は佐々木紀一氏の大江氏系図の研究による)。

2017年12月 6日 (水)

毛利氏と長崎氏4

 話が本論にいかないが、観応元年六月二日に幕府方国人が守護武田氏とともに吉田庄に発向したところ、「敵之大将先代一族相模治部権少輔」と毛利備中守以下が没落したので、在所を焼き払っている。その後、相模治部権少輔は毛利時衡や寺原時親とともに寺原城と與谷城に楯籠もったので、八日に幕府方が攻撃して攻め落としている。相模治部権少輔の実名は不明だが、毛利親衡と密接な関係を持っているのは確かであろう。
 親衡と言えば子である元春から南朝への内通を批難されているが、北条氏との関係で注目されるのは長崎泰綱女子を母とする父貞親である。彼が死亡したのは翌観応二年正月であり、合戦があった際にはなお存命中であった。すでに述べたように貞親の越後国での謀叛疑惑も、田村氏が説明した懐良親王との結びつきではなく、長崎氏を介した北条氏との関係であった。吉田庄に移った貞親のもとに北条氏の遺児がおり、それが足利直冬方が蜂起する際にかつがれたのであろう。そのために長崎氏について確認したが、あまりに複雑であった。
 毛利時親が楠木正成に兵法を講じたとするが、時親は加賀田郷ではなく越後国佐橋庄南条におり、『南朝太平記』の関係記述の根拠となった史料が不明だが、正成と交流があった「修理亮」とは貞親の兄弟四郎親元であろう。現在は楠木正成が得宗領に入部していた東国武士であることが明らかにされているが、正成と長崎氏女子を母とする人物との交流なら十分想定できる。南朝の忠臣であることを強調して伝えられた伝承であるが、実際には「北条氏との関係」がその背景となった。
 予想外の事態の連続で大変疲れたというのが正直なところ。事実の確認も関係史料が残っていることの方が希なため苦戦の連続だ。寅さんではないが「‥‥はつらいよ」。

毛利氏と長崎氏3

 時親の祖父毛利季光は長井時広に先んじて幕府評定衆となり、延応元年には泰時の孫で一三才時頼と季光女子が結婚している。この時点の時頼は兄経時を継承して執権となることは全く想像だにできなかった時点ではある。執権となった時頼が二一才の時に起こった宝治合戦で毛利季光が三浦泰村方となって討伐されたため、季光女子も離縁されたとの説が通説だがあるが、詳細は不明である。
 毛利経光の嫡子基親は建長三年(一二五一)の生まれとされ、時親も五〇年代半ばの生まれであろうか。文永七年に寂仏が譲状を書いた時点では一〇代後半である。兄弟である親元・親忠とは異なり嫡子である兄基親と同じく「親」を下に付けており、兄弟中では基親に次ぐ位置にあった。内管領であった盛綱の父とされる盛時は治承・寿永の乱で平家没官領・謀反人跡として追討使梶原景時により「地頭職」が没収された摂津国吹田庄地頭に補任されている(この盛時は盛綱の父ではないと考えられる)。
 建治二年三月には某袖判下文(鎌遺は周防国司下文とするが誤り)で周防国得地保内伊賀地村に対して、西方寺御堂に対して百姓が違乱をなすとの聞こえがあるが、今後は違乱を停止して故平左衛門入道殿、故長崎殿御菩提を弔うよう命じている。建治二年一二月には地頭左衞門尉時盛が西方寺に伊賀地村鳥居瀬内の灯油料畠一段半を御菩提のため寄進している。この時点で「左衞門尉時盛」に該当するのは安達泰盛の弟「城四郎左衛門尉時盛」であるが、同年九月に鎌倉寿福寺に入り隠栖している。北条時盛も官職が一致しないし、建治三年五月二日に死亡している。一方、弘安四年閏七月六日左衞門尉時盛寄進状も残っている(上司家文書)。某時盛は平左衞門入道盛時と長崎殿(泰綱ヵ)に恩を受けたのであろうか。さらには弘安六年八月九日北条時村寄進状もあって理解不能である。文書の真偽も含めて考える必要があるかもしれないが、この得地保と西方寺が北条氏ならびにその側近である平氏・長崎氏と密接な関係を持った可能性がある。

毛利氏と長崎氏2

 得宗領として知られる摂津国多田院に関しては、嘉禎三年四月一日の大蔵丞泰綱書状がある(多田院文書)。多田院御家人六瀬右近将監行弘以下の輩が夜討により領家の勘気を蒙った事を泰時に歎き申したことを受けて、泰時が本家近衛家に働きかけて事件を調べたところ、無実であることが分かったので、六瀬らに早く本領を安堵すべきことを伝えることを伝えるよう、三月二八日付で盛綱が泰時の命令を大蔵丞に伝えている。領家の勘気を蒙ったことで、他の御家人が関係者の御家人職名田を押し取る事件も起きており、押領人を御家人から削り名田等を没収することも命じている。これを受けて大蔵丞泰綱が盛綱奉書を示して領家に触れて安堵すべきことを四月一日に六瀬右近将監に伝えた。二つの文書の日付が近いので、泰綱も摂津国ではなく関東にいたと思われる。
 翌嘉禎四年六月二四日には右近将監国守が刑部丞仲義が承久四年正月二三日に国高を夜討した罪は遁れられないとして東畔野下司職に自分を補任するように求めた事案に対して、夜討は虚誕であることは明らかであるとして仲義を安堵する御教書が左衞門尉(盛綱)・大蔵丞(泰綱)・僧の連署で出されている。泰綱は盛綱と同世代であろうか(多田院文書)。
 以上の三通は大日本史料と鎌倉遺文にも収録されていたが、遺文の補遺編には摂津国満願寺文書が新たに収録された。翌嘉禎四年四月日に「政所大蔵丞」名で下知状が出されている。寺林は寺用以外では伐採が禁止されているが、権威を募ったり、盗み入って伐採するものがいるとの訴えを受け、犯人名を注進し罰するべしと命じている。六月一〇日にはやはり政所大蔵丞と署判した下知状が出されている。寺領内のことは寺僧の計らいとして何事も取り行うべしと寺の権限を安堵している。前年とは異なり泰時の名を泰綱が直接伝えている。光綱は長崎泰綱の子で、毛利時親の妻となった女性(泰綱晩年の子であろう)の兄弟であろうか。

毛利氏と長崎氏1

 毛利時親の室は長崎泰綱女子である。長崎氏は文暦元年(一二三四)に尾藤景綱が所労のため家令を辞した際に後任となった平盛綱の一族である。景綱は辞任の翌日に死亡している。盛綱は承久の乱の戦後処理や伊賀氏の乱の鎮圧にも活躍し、貞永式目制定にも関わった北条泰時側近中の実力者であった。
 延応元年五月二六日には北条政子を追善する南新法華堂六斎日湯薪代銭支配事を定めた泰時置文の奉者としてみえる。仁治元年閏一〇月一八日には都宇・竹原庄をめぐる雑掌と地頭小早川氏の裁判に対する関東下知状が出されたのをうけて小早川美作守茂平に盛綱が書状を送っている。両庄公文の京方咎について、処理に当たった盛綱にも調査があったこととともに、盛綱の子左近将監貞綱が死亡したためしばらく禁忌に入っていたが、近日に出仕することを述べている。この結果、盛綱の跡は盛時(系図では盛綱の父で盛国とも言った)が継承した。
 長崎氏もその一族と思われるが、『吾妻鏡』に登場するのは弘長元年(一二六一)四月二五日に北条時宗が宗尊親王の前で流鏑馬を行った際に、馬を用意したとされる長崎左衞門尉である。弘長三年一一月二〇日に死亡直前の泰時の病床に付き添った祗候人の中に「長崎次郎左衞門尉」がみえる(吾妻鏡)。これを河合氏は泰綱に比定されたが、系図では頼綱の弟光盛に該当する。光盛の子光綱は内管領平頼綱のもとでその代官的存在であったと評価されたが、平禅門の乱後も生き残り一門の惣領として内管領に就任している。内管領はその後、子の円喜、孫の高資が継承し、幕府滅亡を迎える。系図では長崎氏は光盛から始まるように記されているが、元々あった一族である長崎氏に光盛が養子に入って継承したのではないか。
 建長二年三月の閑院内裏造営注文に「平右[左]衛門入道跡」とみえ、盛綱はこれ以前に死亡していた。泰綱は系図にはみえないが、河合氏の著書でも年未詳二月三〇日に泰時から曽我弥次郎入道への仏事料染物二〇の送状を奉じている泰綱と同一人物とされていた(陸奥南部家文書)。時頼が執権を継承した寛元二年以降のものであろう。

2017年12月 2日 (土)

中世前期の毛利氏3

  毛利安田文書は難解である。最初の応安七年四月廿七日宮内少輔入道道幸譲状の「憲広命に背き」について憲広は道幸であるとの通説を否定し、憲広は道幸の嫡子であるとの田村氏の解釈は妥当だと思われる。道幸の名前は毛利経光の子に共通する「親」と憲広・朝広兄弟に共通する「広」を組み合わせた「広親」であろう。広親(道幸)は貞親の嫡子で南条毛利氏惣領である。これに対して孫太郎であるが庶子として吉田庄に入部したのは「親茂」であった。
 道幸から安田庄を譲られた朝広は幕府から相続を安堵された康暦二年六月二八日の時点には「修理亮憲朝」と改名していた。越後国守護上杉憲春とその死後継承した弟憲栄との関係であろう。その後出家して常全と名乗り、当初は嫡子宮内少輔房朝に惣領職を譲ったが、親の命に従わないとして亀一丸に悔い返している。房朝の名は守護上杉房方との関係からで、守護に従い京都に在京していたのが、親である常全との関係が悪化したのであろうか。よくある例としては房朝の母とは別の女性が生んだ亀一丸を寵愛したためかもしれない。亀一丸は元服後は「毛利修理亮」と呼ばれている。
 それはともかくとして、問題は常全の舎兄元豊である。佐藤氏以来田村氏に至るまで常全(朝広・憲朝)の兄で道幸の嫡子であった人物としている。田村氏の理解では憲広が元豊と改名したとするのである。ところが朝広→房朝は守護との関係で理解できるが、憲広→元豊はその改名の背景は何であろうか。元豊については常全譲状では「舎兄元豊の手にて譲与」とあり、置文でも舎兄元豊に恐申候て譲認候」とあり、素直に解釈すれば、舎兄元豊に筆を執ってもらって譲状を作成したとの意味となる。譲状で宮内少輔房朝方に元豊自筆又は他筆でも常全がゆずりと号する譲状があってもそれは反古であると記しているのはそのためである。ということで、毛利南条氏の惣領となった宮内少輔入道道幸には少なくとも、惣領憲広以外に庶子である元豊と朝広(→房朝→常全)がいたことになる。憲広と朝広は親である道幸(広親)から「広」を字を与えられているのに対して元豊は大江広元にちなむ「元」の字を得てはいる。朝広は庶子だが嫡子憲広に次ぐ地位を認められたが、元豊は譲られた所領の多寡では少なかったと思われる。ただし、朝広は兄として敬意を払っていたのだろう。

中世前期の毛利氏2

 一門とは北条氏であろうから検索すると、名越流北条時基の嫡男で、母は二階堂行久の娘である。文永三年に行久が死亡したあとは、その娘(弘安元年の地頭は藤原氏)を経由して孫北条朝貞に伝えられたのであろう。二階堂氏惣領は代々信濃守となっており、信濃国に所領を有したため、一族で諏方下御射山御役を負担したのであろう。このような中で諏方氏一族が紀伊国に入って来たのであろう。毛利氏惣領丹後守も紀伊国の所領があったと思われる。
 毛利右近大夫の文書については鎌倉遺文未収録であり、気がつかなかったようである。当方は編纂所データベースの「日本古文書ユニオンカタログ」を「毛利」で検索して確認した。このデータベースは発給者と宛所のみで、その内容までは検索しないが、便利なものではある。
 田村氏は所領の問題に注目されたが、譲状の問題はスルーされた。元春申状作成のため元春のもとには数多くの史料があったはずとされるが、実際は元春の軍忠状も今河了俊のもとでのものしか残されていない。かなり意図的である。新潟県立博物館のHPの問題についても指摘したが、予想どおり田村氏の指摘を受けたものであった。田村氏は安芸国吉田庄麻原郷を押領した大膳大夫道心を元春の兄弟大膳大夫匡時の子と考えられ、当方は道心を匡時と考えたことが違いの原因であるが、それ以前に佐橋庄南条を支配した一族の理解の違いもある。越後毛利氏の関係文書の残り方は極めて系統的理解が困難であるので、別の機会に述べるが、あと一点気になったことがある。貞和三年八月二七日足利直義裁許状で安芸高田原地頭職に介入した「毛利四郎」についてである。田村氏は素直に系図にみえる毛利四郎親元に比定されたが、親元は系図では四郎だが、元春申状でその子が「修理次郎」であることからすると無官ではなく「修理亮」であったことは確実であり、田村氏の比定には無理がある。これも南条毛利氏の動向に対する理解の違いが背景となっている。当方は、この「毛利四郎」の存在も、毛利氏領がこれまで言われていたよりも多いことを示すデータと理解していた。田村氏もまた毛利貞親には注目されなかった。また越後国で貞親が同心する風聞があった「阿曽宮」が後の懐良親王だと記されているが、どうであろうか。生年は不明だが、元徳元年説があるようだ。その場合は6歳で、越後国との関係も不明である。とりあえずはここまで。

中世前期の毛利氏1

 田村裕氏「鎌倉後期・南北朝期における越後毛利氏と安芸毛利氏ー毛利安田氏の成立を中心としてー」(新潟史学57、2007)のコピーが国会図書館から届いたので目を通した。新たな情報は「毛利系譜」程度であったが、その中には当方が分析していない箇所もあった。何より需要なのは中世前期の毛利氏についての唯一の論文であるという点である。越後毛利氏については刊行された史料集の解説・解題という形で、佐藤進一氏、金子達氏が述べ、それを踏まえて『新潟県史』の中で山田邦明氏が述べているという。県史通史編を読んだ際には余り印象に残らなかったが、そういうことである。金子氏については『新潟県の歴史』(山川)の執筆者という以外は情報がないが、地元の中世史家であろう。佐藤氏と山田氏は新潟県出身ということで地元史に関わっている。山田氏は榎原雅治氏とともに大学の同級生で、卒論で鎌倉府を採り上げ、東国の中世史家として現在に至っている。榎原氏は山間部の庄園、当方は海の庄園を卒論で採り上げた。田村氏は広島大学で中世史を学び、新潟大学へ赴任したという経歴で、中世前期の毛利氏の情報には詳しいはずで、中世前期が専門であるが、新潟では室町期庄園研究に取り組んだという。
 田村氏は課題として毛利氏の所領が①佐橋庄・吉田庄・加賀田郷のみであったかということと、②毛利元春申状の情報分析、③佐橋庄毛利氏(北条・南条)をあげて分析している。
 ①については当方も分析したところで、建治元年の六条八幡宮造営の負担額を他の御家人領と比較して、もっとあったはずということが述べられ、惣領毛利丹後守の代官諏方弥四郎入道が延慶三年(一三一〇)に紀伊国荒川庄内の田地を購入している事例をあげて、惣領毛利氏が畿内にも所領を有していた可能性を指摘している。当方は最近この問題に取り組み始めたので、関係史料の有無については良くも悪くも編纂所のデータベースに依拠している。この史料も鎌倉遺文と大日本古文書のデータベースで検索してヒットしたので確認済みであった。
 諏方氏は信濃国諏方を苗字の地とする一族であろうが、畿内に所領を得たか、北条氏領の代官となったかで入部し、周辺の東国御家人領の代官も務めていたと思われるが、関係史料は確認できない。関係しそうな事例としては、高野山蓮花乗院領紀伊国南部庄地頭代が元応二年から諏方下御射山御役を負担するので御公事を免除されるかと主張していることである。南部庄は建久年間に寄進されたものだが下司が承久京方のため、東国御家人肥前々司家連が地頭となった。ところが宝治合戦で没収され、常陸入道行日(二階堂行久)が地頭となった。行久は建長元年には評定衆となっている。その後、正中二年には地頭中務権太輔朝貞の年貢抑留を高野山が訴えているが、下知状が何度出ても「憚御一門之権勢」のため沙汰が遵行されないため、地頭職含めて一円支配にするよう求めている。

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