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2017年11月

2017年11月27日 (月)

塩冶高貞謀叛事件3

 一時は殺害されたとの情報が京都に伝わった高貞であったが、本人は生きのびて出雲国に到着した。桃井と大平が焼死した中に高貞がいると思い京都に戻ったのに対して、山名時氏は高貞を追って出雲国に入った。「謀叛人」高貞であるが、途中で幕府方の武士に攻撃されるというよりは、山名氏のみがこれを追っている。高貞を誅伐すべしとの命令は三月二四日に出されているが、四月二日までには出雲国へ届き、備後国守護を退任して出雲国へ帰っていた朝山景連が国内の武士・寺院などに対して、出雲郡旅臥山に陣取るよう軍勢催促を行っている。これを受けて秋鹿郡大野庄祢宇村一分地頭紀(北垣)光政が着到状を四月中に出しているが、それに承判を加えた人物については特定できない。山名時氏とも朝山景連の花押とも異なっている。
 高貞は出雲国意宇郡佐々布山に陣をしこうとしたが、西台や子の死を知って自害したとされ、その場所は近世の地誌『雲陽誌」によると宍道を挟んで佐々布とは反対側にある白石であるとされる。「佐々木系図」では弟の六郎某が兄同自害とある。『太平記』では舎弟六郎が加古川で討死したように記すが同一人物であろうか。系図では宗貞の弟七郎高顕と某、さらには同族の乃木氏一族で神門郡木津島の地頭高定(文永八年)の孫高雅も高貞とともに自害したとする。それ以外では前述の高岡師宗自身は高貞とともに自害したとされる。出雲国へ落ちてきた高貞と関係者を一族が迎えたが、抵抗は不可能として一緒に自害したのだろう。『太平記』の記述内容も以前よりは信憑性が高いとされるようになったが、個々の事件の評価は難しく基本的なところから検討を加えて行くしかない。とりあえず師直が高貞が謀叛(南朝とは明記していないが)を企てていると述べたことはガセネタであると思われる。ガセであろうと逃亡した高貞を放置して南朝と結んでもらっては困るので追討命令が出されたのだろう。久しぶりに出雲国の事を述べたが、とりあえずここまで。

塩冶高貞謀叛事件2

 同目録によると高貞滅亡後の興国二年八月二一日には朝敵追討の綸旨が吉野で頼源に下されたとする。これそのものは残っていないが、同年一二月一八日付で能義郡雲樹寺の覚明上人に対して祈祷の精誠を抽んずべし命じた綸旨は残されている。これに対して幕府方の人物に関する軍忠状や感状は残されていない。高貞自身も京都にいて北陸へ出兵する状況からは出雲国での危機的状況は考えにくい。高貞が南朝に鞍替えするような環境にはなかったのである。
 次に事件について「師守記」によると。三月二四日に高貞が逐電したことがわかって(『太平記』には高貞の弟四郎左衞門が師直に連絡したとする)、夜には将軍尊氏邸に多くの武士が集まり、桃井直常と山名時氏(『太平記』では高氏一族の大平出雲守も)に高貞を追っていくよう命令が出されたとする。そして高貞誅伐を命じた足利直義の文書は二四日のうちに出されている。逐電以前に高貞が謀叛を企てていることが判明していた事を前提としないと不可能な対応で、先ず師直が尊氏・直義に塩冶隠謀の企てを申して。それを知った高貞が逃亡したとする『太平記』の記述に合致している。「但馬村岡山名家譜」は時氏の動向を詳細に記している。今回の事件についても『太平記』には記されていない情報を記しており、独立したものである。そこでも先ず師直から高貞の叛逆を尊氏に訴え、それをうけた尊氏が山名時氏・桃井直常並びに高氏一族の大平出雲守に追討を命じ、次いで高貞が出雲国へ遁れたため時氏と直常に追わせたと記している。
 師直の訴えは『太平記』の言う「讒」言ではなく真実であったとの意見もあろう。亀田氏の見解もそうなのだが、それならば、畿内周辺にも南朝方として活動していた武士は珍しくなく(河内国の楠木氏)、そちらに逃げ込めばよさそうであるが、高貞は領国である出雲国へ落ちていこうとしている。『太平記』が師直の讒言の原因とした妻西台は身重の状況であり、とても出雲国へ落ちて行くのは不可能であるが、あえて実行している。実際には高貞は山陽道へ向かい、加古川で追手の山名時氏の手勢と戦い、一族で討死した人があったことが「佐々木系図」から知ることができる。高貞の甥(弟時綱の子)山城守宗貞は播磨国加古川で自害している。「佐々木系図」には記載が無いが、塩冶郷内高岡村を支配し、鎌倉時代には隠岐国守護代を務めた高岡氏でも当主師宗の子義宗が加古川で討死にし、弟は仏門に入ったとある。一方、西台は家臣八幡六郎が同道して高貞の幼子らと丹波路へ遁れたが、播磨国中部の蔭山で桃井直常の手勢に追いつかれ、遁れることは不可能と観念した八幡六郎が妻子を殺害し、宿に火を放ったとされる。「佐々木系図」に高貞の子である童子昌光が「播州生害」とあるのがこれに関する記述であろう。

塩冶高貞謀叛事件1

 塩冶高貞は『太平記』の巻21中の「塩冶判官讒死事」で知られ、さらにはこれが『仮名手本忠臣蔵』の素材として利用されたため、全国区となった人物であるが、地元での知名度は、苗字の地である塩冶地区を除けばさほど高くはないのではないか。藤岡大拙氏が『山陰の武将』の中で、高貞には人生で三度の大きな決断があったとし、二度までは成功につながったが、最後で滅亡することになったと述べていたのが印象的である。
 今回、高貞をとりあげるのは近刊の『観応の擾乱』で知名度がアップした亀田俊和氏の著書で、高貞は過去にも裏切っており、南朝と結んだのも同様のことで『太平記』の記す高師直のエピソードは事実ではないと述べていたからである。ただし当方が読んだのは氏の『足利直義』であり、前述の部分もこの本からの要約で、同氏の『高師直』でも確認したところ、同じ記述であった。『観応の擾乱』そのものは未読であるが、素材が重なるので、そう違わないと思われる。
 今回改めて関係史料を読むと不可思議なことが多く、亀田氏の解釈では説明がつかないと思わされる点が多々あり、高師直に関する記述にアレンジはあるにしても、『太平記』の記す内容が真実に近いように思われたので、その理由を以下で述べてみたい。
 亀田氏は高貞が裏切る人だとするが、前二回は客観的に見ても勝ち組への転身であった。ところが三回目は南朝と結びつこうとしたとすると、負け組への転身ではないか。確かに事件の起きた暦応四年の前後では、各地(九州・瀬戸内・北陸・東北)で南朝方による蜂起が行われているが、状況を変えるようなものではなかった。結果的に南朝が発した文書は残されなかったので、現在残る文書は圧倒的に幕府関係が多いのかもしれないが、客観的にみても一部の地域を除けば実際に幕府方文書が多かったのではないか。
 『太平記」が記すように高貞は出雲・伯耆国の武士を率いて北陸へ行く予定であった。これまでも水軍を率いて北陸の金崎城攻へ行っている(巻18)。では出雲国の状況はどうであろうか。高貞が幕府方となって以降、南朝方の出雲国守護は名和氏関係者が務めていたと思われる。暦応三年に南朝は延元を「興国」に改元し、各地での活動を強めているが、出雲国では興国元年六月二一日には名和氏一族村上兵庫允顕長に能義郡利弘保地頭職が与えられ、二五日には仁多郡比知新宮半分地頭職と大原郡淀本庄十分一地頭職がそれぞれ得勝寺播磨房歓全跡と菅孫三郎義綱跡に与えられている。この年前半の合戦に伴う給付であろう。比知新宮については二人に、淀本庄については一〇程度に分割されて与えられたことがわかるが、「~跡」に与えられているように、当人が討死したことによるものである。当然、恩賞の対象なのだが、一方では合戦は敗北で、大きな被害が出た可能性が高い。八月二三日には村上天皇が鰐淵寺南院に仁多郡三処郷地頭職を寄進しているが、建武三年正月一五日の後醍醐天皇による寄進を安堵するものであった。鰐淵寺僧頼源の文書目録によると、前者は大和国吉野の御所で、後者は山門(比叡山)籠城中に下されたとする。

2017年11月21日 (火)

毛利氏関係史料から6

 粉失状七通の中に毛利右近大夫下知状が含まれるが、其の他の六通は以下の通りである。年月日未詳僧都上仲契約状写は判読不能な部分が半分以上あるが質券であり、請返しと懈怠の場合の永代知行を約束している。「嫡子」とあり名主一族の一人であろう。正平一〇年(文和四年、一三五五)三月一七日左衛門尉為清・但治行綱連署奉書は「大葦殿渡状」とあるように、丹後国を実効支配していた山名時氏ないしはその子師義の代官であろう。「大葦氏」との関係だが、二人ともか、上位者である為清のみとともに、山名氏の安堵を大葦氏が自らの家臣である二人に行わせた可能性が考えられる。いずれにせよ、この時点ですでに出雲国土屋氏の一族大葦氏が山名氏が支配する丹後国に移住していたことが確認できる。幕府方の丹後国守護はこの前年の時点では仁木頼勝であり、山名氏の幕府復帰(貞治三年三月)直前の貞治二年一一月に守護として確認できるのは渋川義行であった。この文書の宛名「山上大輔公房」は前年の文和三年一〇月一一日には志楽庄政所から由緒相伝之支証に基づき名主職を安堵されているが、この文書は「三宝院殿御代官下知状」と注記があり、観応二年二月に尊氏が志楽庄を醍醐寺三宝院賢俊に寄進したことによるものである。この後、志楽庄内朝来村地頭職が醍醐寺領として続いていく。
 これが貞治三年八月には山名師義が守護となっている。貞治三年一〇月一五日片切沙弥某・比留田僧某連署奉書で「山上大輔房道順」の知行が安堵されているが、「山名殿代官下知状」と記されている。その中で重代相伝地で、毛利右近大夫下知状と先年の土屋土州遵行により安堵され、当方御方で忠節をしたことが述べられている。元亨二年の安堵者は「毛利」氏であることは確実で、正平一〇年の両人は大葦土佐守(ないしは土佐入道)の代官であった。残る一通は貞治五年二月一一日山上大輔房道順譲状である。親子契約をしたとして「八代勘解由左衞門行貞」に譲っている。

毛利氏関係史料から5

 毛利貞親下知状(堀口家文書)について補足する。花押の確認もできない写であり「□利右近大夫」との表記も気になるところなので、「堀口家文書」を確認した。
 文書は十通で、その内七通は写であるが、その理由は正文が失われ、至徳元年(一三八四)十月に粉失状が作成されている。そして「裏を封じた」ことを記した奥書が記されている。「裏封」とは必ずしもその文書が正しいことを証明するものではなく、自分たちが確認したのは確かにこの文書であることを確認し、それ以降の改変を封ずるものであることは笠松宏氏が明らかにしている。
 裏封の奥書は二つ記され、至徳元年十月九日に良快が朝来村内景守名文書七通の正文を以前に全て披見したが、粉失したというので案文に裏を封じて後証とするとしている。良快は九月十二日には景守名について競望があったの倉橋掃部助入道を始(初)めて名主に補任するとし、不義の子細が無ければ改替はしないとしている。奥書のもう一つは、十月二一日付で某が同様に裏を封じて、仮に正文を他人が持って来ても承引しないことを述べている。某の花押は良快のものと同一ではないが似てはいる。一族の関係者であろう。倉橋掃部助入道は具体的な比定はできないが、丹後国倉橋庄[郷](地頭職は平頼盛の子孫が継承し、近江国朽木氏から迎えた養子に譲る)に関係する人物であろう。
 永和二年(一三七六)六月一日行貞質券写によると、景守名を相伝してきた行貞が名田とその手継文書を質として一五貫文を借り、五年以内に一倍の三〇貫で請返す契約を結んでいる。約束が守れない場合は名田を永代知行することに異議を言わないとしている。相手の名が記されていないが、倉橋氏である可能性が高い。質券から八年が経過しており、請返しがなされず、倉橋氏が景守志楽庄朝来村景守名主職の安堵を良快に申請して認められたものである。ただ、倉橋氏が行貞から質物として得た正文をなぜ粉失したのかは不明である。

2017年11月19日 (日)

毛利氏関係史料から4

 元亨二(一三二二)年八月二五日には毛利右近大夫が丹後国志楽庄朝来村内景守名を馬三郎入道〻□に宛行っている(堀口家文書、宮津市史史料編)。毛利氏系図で時期・官職から適した人物を確認すると、時親の嫡子貞親しかいない。そうすると志楽庄が貞親領であったことが分かる。父時親、母で長崎氏出身の亀谷局のいずれから継承したかは不明である。貞親は文永末から建治初の生まれであろう。建久六年八月六日に志楽庄と伊祢保の領家から地頭後藤左衛門尉基清が濫妨を働くとの訴えを受けて、幕府が事実であるならば地頭職の三分一を没収し、他人を地頭に補任するよう、前掃部頭親能に伝えている。中原親能が丹後国守護であった可能性もあるが、この時期に京都守護であったためだろう。六波羅守護次第によると建久7年~建仁2年は京都守護。
 後藤基清は承久京方により所帯を没収されており、それが乱で勲功を上げた毛利季光に与えられ、宝治合戦で没収を免れ、その子経光ー孫時親ー曾孫貞親と継承された可能性と、長崎氏領であった可能性がある。建武元年に越後国の貞親が先代による謀叛に荷担するとの風聞によって貞親が長井氏惣領高冬に拘束された際に、安芸国吉田庄等とともに没収されたと思われる。暦応四年一〇月四日には足利尊氏が筑後国竹野新庄の替所として志楽庄地頭職を西大寺光明真言料として寄進している。次いで観応二年二月一日には醍醐寺三宝院賢俊に寄進している。後には志楽庄内春日部村のみが西大寺領として継続していく。
 毛利氏とは無関係だが、過去の記事との関係で触れると、応永四年六月晦日志楽庄文書目録をみると「山名讃岐守渡状一通」「守護代大葦遠江守渡状一通』「大葦長老状一通渡申状」とみえる。義幸が病気で弟満幸に交替する至徳二年七月以前のものだが、長老は「土屋大葦入道」と同一人物であろう。
 以上、毛利経光の子親忠と時親の子貞親の所領についてみてきた。毛利氏の所領が佐橋庄、吉田庄、加賀田郷のみでなかったことは明らかであろう。また、留守氏の所領相続も、その史料を細部まで検討しないとその実態の解明には至らない。あくまでも現在残っている史料から考えてきた。残らなかった史料をみれば、より異なった情報が得られる可能性はあるが、可能な限り、真実に接近してみた。これに対して、従来の毛利氏研究が字面をそのまま解釈しただけのものであったことは明白であろう。2日ほどまえにようやくその存在に気づいた2点の史料から「文書の声」を聴いてみた。

毛利氏関係史料から3

 亀弥丸はこれとは別に舎兄又三郎から余部村内田一七丁を譲られていたが、重病になったとして徳治三年(一三〇八)五月二八日に両方を舎兄である左衞門四郎に譲っているが、そこでは左衞門次郎家明には非分に煩わされ、敵対されたとして譲らないことを述べている。これについて後に家明の嫡子家任が、亀弥丸が舎兄の子ではなく、舎兄家泰に譲ったのは家政の素意に背くとして訴えたが、幕府はその時点で家泰に子がいなかったためやむを得ないこととして元亨四年(一三二四)六月二日に譲与を認めた。また、亀弥丸領をめぐって家明と実則の間でも裁判が行われている。
 元亨二年七月二七日、幕府は罪科により家明から没収していた知行分五分一を、別の理由から返している。元亨四年六月一九日に家明が嫡子家任と四保女子に所領を譲っている。
 家政と真妙の娘の結婚相手である毛利左近蔵人親元とは系図にみえる経光の庶子「伯耆守親忠」と同一人物であろう。大江広元が奥州藤原氏滅亡後、奥州で所領を得たこともあり、親元は経光から奥州で所領を与えられた可能性が大きい。そして毛利親元の妻は留守浄妙と真妙の娘であり、早くに死んだこともあってその娘に譲ったのだろう(陸奥留守文書、鎌二三〇九四)。
 永仁二年の時点で孫娘が一五歳前後とすると、毛利親忠は四〇歳前後=建長七年(一二五五)頃の生まれとなる。親忠の兄弟である時親はやや早い誕生であろう。親忠も経光から所領を譲られていた可能性が大きい。経光領は越後国佐橋庄と安芸国吉田庄だけではなかった。前に述べたように、経光の子はいずれもその名に「親」の一字を付け大江親広流との関係が深い。

毛利氏関係史料から2

 弘安八年四月二七日には沙弥行妙(家広)が宮城郡市場・河原宿五日市・塩竃津の在家を四郎左衛門尉家政に譲り、翌九年には行妙が、余部村浄妙(家政)知行分を家政の子家継に譲っている。これが後者である。家政は永仁二年一〇月一三日には叔父良弁(家広弟)から宮城郡内塩竃神宮寺とその他の田を譲られ、翌三年七月二三日に幕府の安堵を得ている。当初別の甥最家阿闍梨に譲ったが、最家が死亡し、これを継ぐ弟子がいなかったための措置であった。
 そして裁許状にあったように、永仁二年四月には外祖父留守四郎左衛門尉家政と祖母尼真妙が加判して孫大江氏に岩切村外が譲られたが、そこには庶子分を除くとあり、分割されていた。譲状そのものは残っておらず、それを安堵した永仁三年六月一二日の関東下知状のみ残されている。家明との裁判に敗訴した大江女子側が無効となった安堵状を去渡したのだろう。
 両者の間には娘しかいなかったため、家政は真妙に岩切村惣領地頭職を譲り、その一部を別の女性との間に生まれた家継に譲ったと思われる。次いでその一一年後、毛利(大江)親元と結婚していた娘が、両親に先立って亡くなったため、真妙は所領を孫娘大江氏に譲った。問題は真妙が夫家政より先になくなったことで、このままだと留守氏の本拠岩切村が毛利氏領となることを危惧した家政が「芳志無きこと」を理由に孫娘大江氏への譲与を悔い返して正安二年(一三〇〇)五月に嫡孫左衛門次郎家明やその妹比丘尼性善(一期分)や同じく孫である亀弥丸、松夜叉丸に譲ったのであろう。
  譲状には亀弥丸に男子がない場合は女子に在家二間・田五丁を譲り、残りは亀弥丸の芳志ある舎兄等の子(甥)に譲るよう書き置いている。孫に譲ったのは子家継がすでに死亡していたからだと思われる。
 但し、真妙が家政より長命であった場合も、同様の問題があり、「芳志無き」とはどういうことであろうか。岩切村は留守氏一族の中心所領であり、孫の大江氏女子が留守氏一族の男性と結婚することが期待されるが、それを拒否したことぐらいしか思いつかない。

毛利氏関係史料から1

 永仁二年(一二九四)四月十日に陸奥国留守左衞門尉家政(浄妙)妻尼真妙が孫である毛利左近蔵人親忠女子に陸奥国宮城郡岩切村外を譲り、翌三年六月十二日には安堵の御下文を賜った。ところがこの所領は浄妙が妻に譲ったものであった。浄妙は妻が先に死亡したことにより譲与を悔い返し、正安二年(一三〇〇)五月二一日に孫の左衞門次郎家明に譲り直した。後に大江氏女が留守家明による押領を訴えたが、徳治弐年(一三〇七)一一月二七日に幕府は悔い返しを認めて家明の勝訴とした(留守文書)。
 岩切村地頭職は陸奥国南宮庄内荒野七町とともに文暦元年(一二三四)七月八日に留守家元(伊沢家景の子)から娘の藤原氏字乙姫に譲られた。男子がなかったための措置であったが、間もなく家元は死亡し、同年一一月二九日には幕府が相続を安堵している。岩切村は岩切城と共に留守氏にとって中心的所領であり城郭であった。家元は京下りの公家出身である伊沢家景の子である。家景は頼朝から奥州藤原氏滅亡とそれに続く大河兼任の乱後、陸奥国留守所並びに奥州総奉行に補任され、年齢は不詳だが承久三年(一二二一)一〇月に死亡している。その子家元の死は一三年後であり、且つ娘乙姫しか子がいなかったことから、長寿ではなかったであろう。
 次いで文永六年(一二六九)一〇月一八日には宮城尼(乙姫)が養子左衛門尉家政に両所を譲り、建治二年閏三月一一日に幕府が相続を安堵した。父からの相続から三五年後であり、年齢は四〇歳前後であろうか。家政は伊沢家景の弟宮城家業の孫(家広の子)であり、これに先立つ文永二年三月二日には父(家元の死後陸奥国留守所)から陸奥国宮城郡高用名内之余部村・村岡村・椿村を譲られている。宮城尼の従兄弟ですでに「左衛門尉」に任官している。且つ実父から所領を譲られていることから、養子となった時点ですでに結婚して子どもがあったと思われる。
 その所領には本来の留守所であった惣領家から譲られた所領と、新たに留守所を継承した分家の所領からなっていた。弘安六年(一二八三)一一月一二日には家政が前者=岩切村・南宮内荒野七丁を年頃の奉公があったとして女房に譲り、子どもが違乱しないように命じている(これは余目文書)。真妙は宮城尼の娘ないしはそれに準ずる人であったと思われる。それがゆえに、家政は宮城尼の所領を真妙に譲った。

2017年11月13日 (月)

毛利貞親について5

 話を毛利氏に戻すと、貞親らが謀反に関わったことはなく、それがゆえに処刑されることもなかったが、毛利氏からすれば吉田庄地頭職が花山院氏の祗候人美乃判官全元に与えられたのは不満の大きいところであったであろう。加賀田郷も同様であったと思われるが、貞親の子親茂の船上山での勲功により本領である越後国佐橋庄南条は毛利氏領として残った。親茂とその兄弟が佐渡守となった千種忠顕の舎弟とともに越後国に下向したのはそのためであった。
 孫太郎親茂は貞親の庶子であるがゆえに吉田庄に入部していたが、その存在感は確実に上昇した。佐橋庄南条の7条中2条を祖父時親から譲られたのはそのためであろう。ただし本来の嫡子はその舎弟宮内少輔入道道幸(憲広)であり、結果として両者は吉田庄と佐橋庄南条の両方に所領を譲られたが、親茂(親衡)系が吉田庄を継承し、惣領である道幸(憲広)が佐橋庄南条を継承した。これに対して時親の兄で経光の嫡子であった基親の子孫が佐橋庄北条と毛利氏惣領を継承した。
 不思議なのは、元春が紛失状を作成した際の証人が長井治部少輔(時春)、長井出羽守(貞頼)、中條刑部少輔(広房)であり、長井氏惣領挙冬と頼重流惣領高広がみえないことである。中條氏は毛利季光の弟海東忠成流の惣領である。挙冬は貞和3年(1347)に死亡しており、紛失状作成時は健在である。長井高広は鎌倉幕府下における備後国守護こそ出雲国の朝山氏に交替しているが、室町幕府でも評定・引付で重要な役割を果たし、ブログで示したように足利直義・直冬との関係を背景に、中国探題直冬のもとで周防国守護に補任されている。
 挙冬については年未詳3月6日書状(醍醐寺文書)が残っており、そこでは晩年の挙冬が「柳原御坊」に茶を所望している。無心の申状は憚られるが、茶を渇望しているがため、そして今年は未だ新茶に対面もしていないのでと、言い訳を述べている。この時点では没落していたのではないか。その背景としては南朝方となったことが考えられる。「柳原御坊」について大日本古文書では日野(柳原)資明の子で叔父賢俊の弟子となり、後に醍醐寺三宝院門跡や座主、東寺長者となった「光済ヵ」とするが、高冬が死亡した時点で22才であり、当時49才であった賢俊の可能性もあるのではないか。
 長井氏惣領については、一族の貞泰は元弘収公地として本領を没収され、その後建武二年の不忠が原因となって建武4年に幕府から返されたのは僅かに4ヶ所であったと述べており。惣領家も同様ではなかったか。時秀の孫である惣領貞秀が早世したため、父宗秀が惣領に復活し、一族から養子を取り、その一人が高冬であったと思われる。建武二年の不忠とは幕府に対するものであり、動乱の開始時に南朝方となったことだと思われる(了)。

毛利貞親について4

 建武政権下の所領の没収と寄進には合理性を欠くものも随所にみられる。赤松円心への冷遇がその政権離脱につながったことは有名である。今回の一連の長井氏と毛利氏関係史料の分析を開始したのは、文永8年の摂籙渡庄出雲国能義郡宇賀庄の地頭が「因幡左衛門大夫」=長井頼重でありながら、長井氏研究でまったく言及されていない点と、建武2年3月18日に後醍醐天皇が宇賀庄地頭職を鰐淵寺に寄進した理由を検討するためであった。後者については解明されたとは言いがたいが、大日本史料を眺めていて、3月18日が後醍醐の皇女が誕生した日であることを知って微妙な気持ちになった。
 宇賀庄内には後醍醐の帰依を受けた弧峰覚明が開いた臨済宗雲樹寺があるが、それは牧左衞門入道善興が支援したとされる。以前は牧氏は得宗被官にもみえ、宇賀庄が長井氏領から得宗領となったため、元弘没収地となったと考えていた。ただ、その場合はもっと早く勲功の賞として有力者に与えられていたのではないかという疑問も生じる。牧氏は御内人となった一族だけでなく御家人の地位を維持した一族もあり様々である。一方長井氏は但馬国朝倉庄地頭にもなっているが、朝倉を苗字の地とする朝倉氏を自らが年預をつとめる摂津国垂水牧の年預代に起用しており、長井氏もまた様々な人材を組織化していた。また長井氏は大江広元以来朝廷との関係も持ち、長井泰重・頼重父子は摂関家惣領近衛氏の家臣という側面を維持していた。垂水牧は近衛家領であり、近衛氏→年預長井氏→年預代朝倉氏という経路で命令が実行されている。
 長井頼重の子貞重は弘安10年に安達氏との関係から鎌倉に召喚されており、平頼綱の独裁下では、長井氏惣領宗秀とともに冷遇されている。この時点で宇賀庄地頭職が北条氏領となった可能性はあるが、一方で覚明の記録によると、覚明に対して近衛家から出雲国出東郡福頼庄を寄進するとの申し出があったのを、覚明が固辞したことが記されている。雲樹寺は宇賀庄内なのになぜ福頼庄かとも思ったが、氏長者とともに支配権が移動する摂籙渡庄ではなく、近衛家領である福頼庄の方が好都合と考えたのであろう。この事実と長井氏と近衛家の深い関係を踏まえれば、近衛家が申し出た時点でなお長井氏が地頭であったと考えるべきと思うようになった。
 宇賀庄地頭職は鰐淵寺に寄進されたが、その後の史料は残っておらず、建武政権が崩壊したこともあって、鰐淵寺領にはならなかったと思われる。そして嘉慶2年(1388)9月26日には山名氏之が宇賀庄内の所領を雲樹寺に寄進しており、山名師義の子で叔父で山名氏惣領となった時義の養子となり、康応元年(1389)に時義が死亡すると伯耆国守護を継承している。父師義から養父時義が継承していたものを氏之が譲られたのであろう。宇賀庄地頭職は動乱の中、建武4年に蜂起国守護となった山名時氏に与えられた可能性が大きい。
 伯耆国には大江広元領からその子孫が関わった京都の六条若宮八幡宮に寄進されたが、伯耆国守護山名時氏に押領され、山名氏領となった国延保がある。広元が得たものは国延保地頭職であったと思われる。

毛利貞親について3

 貞親拘束の原因となった「阿曽宮」であるが、同時代には北条弾正少弼阿曽治時がいる。阿曽氏は北条時宗の同母弟時定が鎮西に下向して北条氏領肥後国阿蘇社領の領家・地頭となったことで始まる。同母弟桜田時厳の子定宗を養子として二代目とし、自らの晩年(実際には死の翌年)に生まれた実子随時が三代目となった。随時は第三代の鎮西探題にも就任するが、31才で死亡したため、その幼子は得宗高時の養子となった。14才で後醍醐を攻撃する軍に参加し、翌年には楠木正成討伐の大将として派遣されたが、若年であるため内管領長崎高資(円喜)の弟高貞がこれを補佐し、正成攻撃を続けたが、元弘三年五月には六波羅探題が滅ぼされた。治時は高貞並びに一族の大仏貞宗・高直兄弟とともに興福寺に楯籠もったが、六月に幕府が滅ぼされると出家して降伏した。
 建武政権は彼らを拘束していたが、建武元年三月九日には関東で本間・渋谷一族が鎌倉を攻撃して鎮圧されている。これは全国各地で先代方が蜂起する計画の一環で、京都では西園寺公宗のもとにかくまわれていた高時の同母弟泰家が公宗とともに、西園寺家の別荘北山山荘に招いた後醍醐を殺害する計画を立てていた。決行直前の6月に計画は発覚し、捕らえられた公宗は出雲国に配流となっったが、その移送途中の7月に名和長年によって処刑された。
 以上のような状況の下、拘束されていた阿曽治時・長崎高貞・大仏貞宗・高直等15人が東山阿弥陀峯で殺害された。その影響を恐れて密かに処刑されたとする。問題はその時期であるが、蓮華寺過去帳は3月21日とし、『梅松論』も処刑の原因は本間・渋谷氏の謀反だとする。これに対して『太平記』は公宗の謀反発覚後の7月9日に処刑されたとするが、事件の衝撃の大きさからしても後者の方が説得力があると思われる。
 幕府政所執事二階堂道蘊(貞藤)は、幕府の「東使」として何度も上洛し、朝幕関係で重要な役割を果たすとともに、不遇時代の夢窓疎石とも深い関わりを持ち、自らの所領甲斐国牧庄に招いて浄居寺(1305)、恵林寺(1331)を相次いで再興・創建している。幕府滅亡後もその才覚を評価されて死罪一等を許され、建武元年8月の雑訴決断所寄人にもみえ、牧庄と京都(右京区)の臨川寺北の屋敷を安堵されていたが、隠謀の企てありとして建武元年12月28日に処刑され、その所領と屋敷は当時後醍醐の帰依を得ていた夢窓疎石に与えられた(太平記、臨川寺文書)。
 越後国にいた毛利貞親が謀反の風聞ありとして京都で長井氏惣領で元弘三年九月頃には雑訴決断所の構成員にみえていた長井右馬助挙冬(高冬から改名)のもとに預けられたのはこの一連の北条氏関係者による謀反との関係ではないか。元春申状をよく読めば、反乱を起こしたとは書いてなく、謀反に同心したとの風聞により勅勘を蒙り預け置かれたとのみ記されている。その母が長崎泰綱女子であったための措置で、弟の親元・広顕も同様の扱いとなったと思われ、その結果として彼らが父貞親から譲られていた安芸国吉田庄と河内国加賀田郷が没収された。

2017年11月12日 (日)

毛利貞親について2

 以上のように、時親は長崎泰綱女子を母とする三人に所領を譲ったが、三人が母の実家との関係で謀反への同心を疑われ、吉田庄と加賀田郷が没収されたため、三人の子に佐橋庄を分割して譲り直した。加賀田郷は修理亮親元領であったが、それがゆえに隣接する得宗領の家臣であった楠木正成と関係を持ったのである。
 佐橋庄南条は時親の孫である孫太郎親茂、宮内少輔入道道幸(憲広)、修理次郎、広顕の二人の子に譲り直された。その後、加賀田郷が毛利氏領に戻ると、貞親からその子近江守に譲られた。吉田庄は貞親、親茂にそれぞれ一期分として譲られ、その後は元春領となるはずだったが、実際には貞親、親茂がそれぞれの子に譲ったため、対立が生じた。貞親は親茂を含む四人の子に譲り、親茂は師親だけでなく、匡時・直広にも譲ったため、曾祖父時親からすべてを譲られたと主張する元春との間に対立が生じた。
 佐橋庄南条は親茂分、その子宮内少輔入道分とともに修理次郎分、広顕の二人の子分に五分割されたが、親茂が安芸国吉田庄に移ると、その跡は舎弟の宮内少輔入道道幸(憲広)が継承した。それは宮内少輔入道が貞親の嫡子であったからである。孫太郎親茂は貞親の長子であったが、庶子であったため、早くから吉田庄に入部していた。宮内少輔入道道幸は佐橋庄南条を支配する一族の惣領であった。これに対して時親の兄基親の系統が北条氏であった。応長元年までには惣領前丹後守時元が時宗寺院である専称寺を建立し、庄内の所領を寄進している。康正二年六月一九日には北条氏の代々の惣領による寄進状が寺の焼失により失われたため、丹後守大江広栄により判形を改めた上で再寄進されている。途中の寄進状を欠いているが代々の惣領は「丹後守」に任官した可能性が大きい。
 南条氏の一族が北条氏を継承したとか、逆に北条氏から出た人物が南条氏を継承したとの両方の説があるが、関係者の名前は一致せず、基本的にはそれぞれ独立して代を重ねたとすべきである。康応元年六月二一日には足利義満袖判御判御教書により越後国佐橋庄地頭職が毛利大膳大夫入道道依に安堵されている。この人物を新潟県立歴史博物館HPの文書解説では毛利親茂(親衡)の子「毛利大膳大夫入道道心」と同一人物とするが、法名が「道依」と「道心」のように異なっており別人である。親茂の子は越後国佐橋庄南条を離れて安芸吉田庄で活動しており、この人物は北条氏惣領だと思われる。この文書のみ北条氏の文書を南条氏が入手して伝えたのであろう。ただし、この後の関係文書は残っていない。

毛利貞親について1

 中世前期の毛利氏を考える上でポイントとなるのが北条得宗の家臣(御内人)長崎泰綱女子を母とする貞親であるが、河合氏をはじめとする従来の毛利氏を論じた論考では、非常に存在感がなく、彼が相続した所領についても母の所領吉田庄内吉田郷と父時親の在京料所河内国加賀田郷のみであるように記されている。現在残されている史料の字面をそのまま解釈したものである。貞親が惣領でありながら時親は彼を飛ばして孫達に所領を譲ったという信じられない解釈がなされている。譲状が何度も作成されることを無視した議論である。
 河合氏の著書の記述では不明確であるが、一般的には建武政権のもとで毛利氏が吉田庄を没収された後に、越後国で貞親が新政府に謀反を起こした阿曽宮に同心したとして長井氏惣領右馬助高冬に預けられたと記されている。「阿曽宮」という皇族は確認できず、なぜ皇族がとの疑問も生じる。何より、船上山へ参陣した親茂がいた吉田庄が如何なる理由で没収されるかということが問題である。それは貞親が謀叛との風聞により拘束されたことしかありえないのである。
 一方、貞親拘束の影響は父時親と子親茂には及んでいない。ここで問題となるのが貞親の母が長崎氏出身であったことである。元弘三年の幕府滅亡の直後から全国各地で北条氏与党=先代による反乱が発生している。貞親が同心したとの風聞が生まれた謀反もその一つであった可能性が高い。実際に謀反を起こしたのではなく、あくまでも風聞であった。それが故に拘束されたが、死罪となることはなかった。貞親の兄弟にもその可能性はあるが、母親を含めて不明である。
 河合氏も紹介しているように河内長野市加賀田の「毛利修理亮遺跡(現在は伝毛利時親邸跡)碑」があるが、時親は「刑部少輔」で、貞親は「右近大夫」であり、修理亮には該当しない。関係者で修理亮であったのは時親の子四郎親元である。その子が毛利元春申状の中で「修理次郎」と呼ばれていることから確実である。申状には加賀田郷は貞親からその子近江守に譲られたことを聞いていると記されているが、当初は修理亮親元に譲られたのが、親元(四郎)もまた北条氏との関係を疑われて失脚したのではないか。それは広顕(五郎)も同様であり、親元跡の修理次郎と五郎広顕跡兄弟二人の計三名に越後国佐橋庄内南条の一部が譲られたのはそのためであろう。
 毛利氏が没収されたのは安芸国吉田庄と河内国加賀田郷であり、残ったのは本領である越後国佐橋庄のみであった。それが故に、時親が所領の譲り直しを行い、その孫達はみな越後国に下向したのである。そうした中、親茂の子太郎のみは安芸国にいたがため、一旦、母の実家三田入道の庇護下に入ったのである。その後、吉田庄と加賀田郷は毛利氏領に戻り、加賀田郷は幕府方となった貞親からその子近江守に譲られた。吉田庄内の貞親分となった吉田郷内上村と麻原郷内山田村はその子宮内少輔入道・近江守・上総介に分割して譲られた。ただし、宮内少輔入道は南条が、近江守は加賀田郷が中心であったため、実際に吉田庄に入部したのは上総介のみで、永和四年四月七日室町幕府御教書では、元春が吉田庄地頭職について、毛利大膳大夫と上総介等が押妨していると訴えたことがわかる。大膳大夫は元春の兄弟匡時であるが、上総介は貞親の子である。

2017年11月 9日 (木)

毛利氏の所領相続3

 安芸国吉田庄には親茂の子太郎がいたが、吉田庄が没収されたため、母の実家である三田入道のもとで生活していた。それが建武2年暮れに足利尊氏・直義兄弟が新田義貞討伐の軍勢催促を行うと、家臣とともに吉田庄の美乃判官の代官を追い出した。元春申状で吉田庄地頭職を建武2年3月に一円に知行したと記しているのも事実ではない。次いで尊氏方となった安芸国守護武田信武のもとに合流して軍功を積んだ。京都で関東から上洛してきた尊氏軍に合流したが、その直後に尊氏を追って上洛してきた北畠顕家率いる陸奥将軍府の軍に破れ、尊氏は体制を立て直すために九州に下り、太郎は武田信武とともに安芸国へ戻って、幕府方の大将軍桃井氏のもとで軍功を積んだ。そして九州から再上洛した尊氏軍に合流した太郎は尊氏の重臣高師泰のもとに属し、入京後南都に避難していた曾祖父時親に逢い、元服した。時親は出家して了禅と名乗っていた。越後国の一族は全て南朝方であったため、庶子親茂の子が毛利時親の後継者として師泰の偏諱を得て師親と名乗った。この後師親は時親の代官として高師泰のもとで軍忠を積み、了禅は引退して建武3年7月には安芸国吉田庄に下向した。
 建武政権下で投獄されていた祖父貞親は後醍醐に供奉し比叡山に入っていたが、後醍醐が下山したのをうけて11月には出家・遁世し、芸州に下向した。越後にいた父親茂に対しては建武3年10月に尊氏から軍勢催促がなされ、11月には一族とともに幕府方に転じた。ただし佐橋庄南条は南朝方が押さえており、親茂が後に越後国を没落して芸州に下ったが、その他の一族は越後に残った。河合氏が親茂が降伏後すぐ安芸国に下ったとするのも不正確である。
 建武3年7月に安芸国に下向する了禅は師親に譲状を書いたが、その時点では越後の一族は南朝方であった。それが同年11月には一族は幕府方に転じたので、翌4年正月16日に了禅が孫など5名への譲状を作成した。ただし、了禅の嫡子貞親についてはこれとは別に吉田郷内上村と麻原郷内山田村が一期分として認められた。貞親はこれを越後国に残った子である宮内少輔入道、近江守、上総介に譲ってしまい、元春との間で対立が生じる。
 元春の父親衡(幕府方に転じた際に親茂から改名か)は一期分ではあるが了禅から吉田庄地頭職を譲られた。そしてその元には元弘3年の上洛以降に生まれた匡時と芸州へ遷った後に生まれた直広がいた。両者は父親衡からの譲りを得たとして吉田庄を本領として知行することを主張している。また元春は越後国佐橋庄南条の親衡領は匡時と直広が譲られたであろうと述べているが、佐橋庄と加賀田郷にはまったく関心がないようである。吉田庄については、親衡の兄弟である近江守と上総介も父貞親の譲りを得たとして権利を主張している。対立が発生する迄は吉田郷と麻原郷内山田村を元春が支配し、麻原郷を親衡が知行していた。

 

 以上のように考えることで、元春申状と残された(作成された)譲状の関係が無理なく理解できるが、河合氏は最初に述べたように元春申状の史料批判を踏まえた内容理解が不十分なまま述べられてしまった。毛利氏が一族を挙げて越後国から安芸国へ遷ったという理解も誤りである。河合氏は南条毛利氏が安芸国吉田庄に移ったので、北条毛利氏が佐橋庄全域を支配下に入れたとするが、これも事実ではない。南条七条中の二条を支配する親衡の一族のみが安芸国に遷ったのである。

毛利氏の所領相続2

 毛利経光の所領が越後国佐橋庄と安芸国吉田庄のみであったかについても確認できない。南北朝期から戦国期にかけて因幡国でも毛利氏の活動が確認でき、その他の所領があった可能性がある。文永7年の経光から時親への譲状と、貞親譲状に記される文永年間の経光から時親の妻亀谷局への譲状の関係について、時親が義絶された可能性を指摘したが、そう考える必要は無かった。単純に亀谷局を重視して吉田庄を分割してその内の吉田郷を譲ったものであろう。ただしこの時点では下地中分(1296)は行われておらず、4郷の内の一つであった。また、毛利氏の中心所領は越後国佐橋庄であり、こちらでも同様の状況が考えられる。いずれにせよ、年代、内容という点からして実際に作成された譲状そのものではない。それは現在残っている文永7年の経光譲状、元徳2年の時親譲状も同様で、基本的には偽文書とすべきものである。
  時親の嫡子は亀谷局を母とする貞親であった。庶子親元と広顕には佐橋庄南条の一部が譲られ、貞親には安芸国吉田庄と時親が在京人として与えられた河内国加賀田郷(後の記事では修理亮親元が譲られたと考え直した)、さらには南条の大部分が与えられた。ところがこの貞親が建武元年に越後国で先代方の反乱に参加して(実際には風聞のみ)拘束されたため、貞親の所領が闕所とされ他の人物に与えられることが予想された。実際に安芸国吉田庄地頭職は領家である花山家の祗候人美乃判官全元に与えられた。
 安芸国吉田庄には貞親の庶子孫太郎親茂が代官として派遣されており、船上山の後醍醐のもとに参陣して勲功を上げていた。そうした軍功も考慮されたのか、越後国佐橋庄南条と河内国加賀田郷(後にはこちらも没収と考え直した)は没収を免れた。時親は吉田庄没収という状況のもと嫡子貞親分を譲り直し、佐橋庄南条を貞親の子である宮内少輔と親茂に譲り、その際に自らの庶子親元と広顕の子達にも譲り直した。加賀田郷は貞親の子近江守に譲られた。親茂は佐渡国司となった千種忠顕の弟に同道して越後国へ下っていったが、それは安芸国吉田庄を失った代わりに、越後国佐橋庄南条内を再分配により得たからであった。都には時親のみが残った。以上の譲り直しが確定するのは越後国の一族が幕府方に転じた後の建武4年であった。一族の毛利甲斐入道がそれぞれに対する了禅(時親)譲状を清書した。

毛利氏の所領相続1

 これまで6回に亘って述べてきたが、なお全体像の把握が不十分であったので、過去の記事はその時点での理解として、今回一から論じ直したい。
 河合正治氏は毛利時親を高く評価されたが、毛利氏一族の一部が安芸国に遷り、その子孫から戦国大名毛利氏が出ただけのことであり、時親への評価は過大で事実誤認に基づくものである。時親が90歳近くまで長生きをしたこと、その嫡子貞親が建武元年に越後国で先代方として蜂起し、鎮圧された(風聞のみであった)がゆえに一族の所領が闕所として没収される危機的状況となったこと、さらには貞親の子時衡と孫元春の政治的立場の違いから、元春申状が作成された。元春は自らが正当な毛利氏の継承者であることを主張するために、時親=了禅を持ち上げたのである。了禅からの譲りしか自らの立場を正当化するものはなかった。
 元春申状に記された内容相互の間に矛盾があり、事実でない点を除去しながら可能な限り真実に接近するしかないが、河合氏は元春の主張をそのまま事実として鵜呑みにして論じてしまった。
 元徳2年(1330)3月の時親譲状が残されているが、申状で元春は了禅の譲状は父宝乗が所持するものを含めてすべて了禅が70才以後のもののみで、70才以前の譲状はあってはならないと主張している。時親が70才とは河合氏の比定に基づけば元応年間(1319~21)前後で、元徳2年には80才前後であったと思われるが、何が言いたいのだろうか。元春は了禅が死亡した暦応4年(1341)に19才なので、元亨3年(1323)生であり、自分の生まれる前の譲状はないとの意味であろうか。そうすると時衡は建長6年(1254)の誕生で、経光譲状の年紀である文永7年には16才となる。この場合も元徳2年には時親は77才であり、これも元徳2年の譲状がその記された年紀に作成されたものではないことを示している。また元春は13才から了禅の代官として活動したと述べており、建武2年(1335)となるが、実際には翌建武3年以降である点はすでに述べた。

2017年11月 5日 (日)

淡路国大田文の地頭3

 中野栄夫氏「淡路大田文をめぐって」のコピーが国会図書館から届いたので読んだが、研究史の紹介が中心で踏み込んだ分析はなかったというのが正直なところである。石井進氏「『淡路国大田文』をめぐって」(栃木県史 しおり 史料編 中世Ⅰ)が引用され、「乱で没落した一二名の「国御家人」はみな「前地頭」と記されているが現実には下司の地位についていたにすぎなかった。この国で地頭が大量に出現したのは承久の乱の結果なのであり、以前から地頭が置かれていた地域は、おそらく治承・寿永の内乱以前に、平氏が支配していた部分に相当するのではないか」とある。
 石井氏も前地頭は実際は下司であると述べているが、地頭とは平家没官領・謀反人跡に置かれるものであるとの先入観が強すぎるのではないか。治承・寿永の乱後や承久の乱後に設置された地頭はそうであり、幕府御家人が敵地を占領する実績を追認される形で地頭となったが、平時に下司・郷司から地頭に移行している例も少なからずあり、地頭の本質は結果としては補任権を幕府が持つことにあるのである。
 ということで淡路国大田文で「国御家人」と記されている所領について関係史料を検索してみるが、承久の乱以前が地頭であったか下司・郷司であったかを判断できる史料は全くない、というより関係史料がほとんど残ってないのである。唯一、人によっては根拠とするかもしれないのが、石清水八幡宮領鳥飼庄のケースで、新地頭佐野氏と雑掌の間の相論に関して史料が残っている。
 佐野氏の地頭得分は新補率法に基づいていることがわかる。新補率法は前例がない場合に適応されるので、ここから佐野氏の前に地頭が補任されていなかったことを示すと言う人があるかもしれない。ただし、前例は地頭・下司の区別がなく、ここから乱以前は地頭ではなく下司であったとは言えない。
 出雲国大野庄は建春門院御願寺最勝光院が落成した承安三年前後に寄進・立券された庄園である。建春門院滋子は平清盛の妻時子の妹であるが、母が違うこともあって清盛との関係よりも後白河との関係が強く、大野庄も平家没官領・謀反人跡として没収されることもなく、下司職は紀季重―季明―季清と相伝され、季清が、建久元年(1190)10月28日に頼朝から地頭職に補任された。重源との関係、後白河院自身との関係もあって実現したのだろう(大野庄と大野氏4を参照)。
 建長五年一二月二〇日に大野庄地頭明長と雑掌承印の間の裁判について幕府が判決を出している。この文書は必要があって写されたものが、青方文書として偶然残ったものである。地頭の田畠在家と加徴米を雑掌が否定したので地頭が幕府に訴えた。加徴米といえば新補率法で定められた地頭の権限である。大野庄地頭は本来は加徴米は取らなかったが明長の父季明(季清の子)が領家から認められたものであった。大野庄地頭は領家の了解により下司から移行したものであったが、その得分が少なかったためか、新補率法のいうところの加徴米を取ることが認められたのである。大野庄についてもこの文書を根拠に承久の乱後の地頭であるとされたことがあったが、事実ではなかった。
 以上、石井進氏が貞応二年淡路国大田文にみえる国御家人が「前地頭」と記されているケースは実は下司であったとされたことに、具体的根拠はなかったことを確認した。

大野庄の成立

 出雲国大野庄は一二世紀後半に最勝光院が建立された際に寄進され成立したと思われる。吉田経房の日記『吉記』の承安四年(一一七四)二月一七日条に「院奏雑事六箇条事」の一つとして「大野庄使事」とみえる。経房は保元三年二月三日、後白河天皇の姉統子内親王が天皇の准母として立后された日に一七才で皇后宮権大進となり(同じ日に一二才の源頼朝は皇后宮権少進)、翌年二月一三日に上西門院への院号が宣下されると皇后宮権大進を辞して上西門院判官代となった(頼朝は上西門院蔵人に補任されるが同年一二月の平治の乱で伊豆に配流)。同様に仁安三年(一一六八)三月二〇日、平滋子立后の日に皇太后宮大進に補任されたが、翌年四月一二日に建礼門院への院号宣下が行われた日に皇太后宮大進を辞して建春門院判官代となった。
 経房と後白河院の密接な関係がうかがわれるが、承安三年一一月二一日には最勝光院の供養の功により従四位上に進んでいるように、建春門院並びにその御願寺である最勝光院との深い関わりを持っていた。最勝光院は建春門院の兄平時忠が責任者となり承安三年一〇月に完成し、諸国から所領が寄進された。『吉記』には大野庄使の詳細は記さないが、立庄に関する事であろう。
 仁安二年一〇月一九日には藤原朝時が出雲守であったことが確認され、次いで嘉応元年(一一六九)正月一一日にも朝方の子朝定が出雲守に補任されており、その父藤原朝方が知行国主であったとみられる。承安四年正月二一日には後白河の側近藤原能盛が初の国司として出雲守に補任されている。後白河が出雲国院分国主となったか。それが藤原朝定が養和元年(一一八一)三月六日に出雲守に重任しており、安元三年(一一七七)年に朝定が出雲守に復帰したと思われる。知行国主も父朝方であろう。朝方は仁安二年二月一〇日に皇太后宮権大夫を兼ねているように、上西門院との関係が深かった。
 そうすると承安四年正月から三年余りだけ後白河の側近で、平氏のクーデターの際には周防守を解任される能盛を出雲守としており、大野庄立券のための補任であった可能性が強い。その印象が強いのか、事実ではないが、安元二年一〇月には出雲宗孝を国造に復帰させ、仮殿遷宮を行ったことにされてしまった。仮殿遷宮は後任の朝定の時期であり、それゆえに朝定が重任したことはすでに述べた。大野庄の寄進・立券出雲国秋鹿郡の複数の領主が関係したと思われるが、下司に補任されたのは重源の兄である紀季康で、その子季明から大野氏名乗っており、50才を越えた父に代わり出雲国に下って現地の管理にあたったのだろう。

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