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2017年10月

2017年10月29日 (日)

備前国守護について3

 長井泰重が備後・備前国守護であったことが確認できるのは文永元年四月二六日に麦所当への課税を禁じた幕府の命令までで、文永三年七月には六波羅評定衆は嫡子頼重に交替している可能性が大きい。森幸夫氏は泰重が死亡したとの推定をしている。泰重に次いで備前国守護であることが確認できるのは伊賀光貞であるが、長井氏から伊賀氏への交替時期はいつであろうか。  
 長井氏が備前国守護に補任されたのは承久の乱後で、その背景には後鳥羽院が隠岐に、その子雅成親王が但馬に、頼仁親王が備前に配流されたことがあったとの仮説を提示した。頼仁の警固に当たった加地氏は備前国守護ではなく、頼仁の守護のみを担当し、過去に盛綱領であった児島を所領として与えられたとした。その配流された人々の警固も文永元年五月二三日に頼仁が死亡したのを最後に終了している。
 伊賀氏の備前国守護補任時期を示す史料はないが、伊賀氏が備前国長田庄地頭職を得たのはすでにみたように弘長二年以降である。弘安一〇年の時点では長田庄は式部孫右衛門尉頼泰、式部左衞門二郎光藤、式部八郎右衛門入道妙光女子に分割されていることが確認できる。同年の同国紙工保地頭式部六郎光高もその関係者であろう。彼らは伊賀式部左衞門尉から所領を譲られているが、その人物とは頼泰の前に陸奥国好島庄預所であった伊賀光泰であろう。
 文永五年二月二日には「式部十郎左衞門尉軄綱」という人物が備前国長田庄の非御家人・凡下人が庄内名田を買得していることを訴えたのに対して、幕府が非御家人・凡下人による買得を否定して元の如く軄綱が領知することを認めている。「式部十郎左衞門尉」との称号からは伊賀氏との関係がうかがわれる。その名前には「光」の字は含まれないが、伊賀氏の系図によれば光泰と頼泰の間に「宗綱」が記されており、可能性は高い。
 以上により、長井泰重から伊賀光泰に文永初年に備前国守護も交替したのではないか。
 「承久の乱後の備前国守護について」の原稿も誤植がいくつか見られたので修正した。

2017年10月28日 (土)

備前国守護について2

 この問題に関連して佐々木加地氏と伊賀氏の関連史料をみている。加地氏は承久の乱後と鎌倉幕府滅亡時の備後国守護と言われており、伊賀氏も14世紀初めの備前国守護とされる(佐藤進一氏、伊藤邦彦氏)。
 伊賀氏は弘安年間には備前国長田庄地頭であることが確認できるが、弘長二年の長田庄地頭「頼親」については、仁治二年一〇月二八日の武藤左衞門尉頼親(吾妻鏡)ぐらいしかヒットしない。ただこの前後にみえる「武藤左衞門尉」で名前が記されているのはいずれも「景頼」であり、頼親が景頼と同一人物かその兄弟(父親は武藤左衞門尉頼茂)ではないか。建仁二年の有力東国御家人加藤景廉から武藤氏に地頭が交替した可能性があるが、背景は不明である。いずれにせよ伊賀氏が長田庄を得たのは弘長二年以降の事である。
 備前国守護と後鳥羽院の子頼仁(児島宮)警備の関係については周知のとおりだが、寛喜二年一二月二七日には幕府がその宿直を地頭役として当番で庄官を以て勤仕すべきことを命じたことが確認できる。同年閏正月二九日には本領返還を求める信実の訴えが退けられている。貞応二年一〇月には幕府は宮の警固を加地信実の三男時秀から次男実秀に交代させている。この記事について佐々木哲氏のブログ「南北朝期の越後佐々木加地氏の系譜」では当初備前国守護となっていた時秀を信実が実秀に相続させようとしたところ幕府がその所領を没収してしまい、その間に長井泰重が備前国守護を兼務したとの解釈が述べられているが、学問的には理解できない見解とせざるを得ない。
 時秀は庶子として児島に所領を譲られていたと思われるが、嫡子実秀は越後国の所領を中心としていたと思われる。実秀の嫡子実綱には「加地」「小島」と両方の注記があり、備前国の所領も得ていた。
 このような加地氏による警固から寛喜二年には備前国内の御家人の当番による警固に変更された。加地氏は中心所領がある越後でも守護北条氏の代官であったが、備前国でも守護正員ではなく、代官ないしは警固専門であったのではないか。鎌倉末期の備前国守護も加地氏惣領実秀系の人物である。これに対して備前国中心の庶子時秀系からは南北朝期に幕府方・反幕府方と立場を変えて活動する飽浦氏が出ている。本ブログでも飽浦氏が隠岐国守護となったのではないかということが注目したきっかけであった。
 また備前国児島は佐々木盛綱が治承・寿永の乱での勲功の賞として与えられていたのではないか。現在残る盛綱が児島郡波佐川庄地頭を解任された文書は年号や内容に検討すべき点があるが、盛綱の旧領が児島にあったため、承久の乱後にそれが信実に与えられ、児島に配流された頼仁親王を守護することになったと思われる。加地氏は承久の乱で盛綱の子盛季等が京方となったことだけでなく、乱後にも信実の問題で所領を没収され、前述のように返還は実現していない。

2017年10月25日 (水)

国御家人の地頭化3

 前の原稿も修正したが、論理的問題があったので補足する。分国主・知行国主・国守と幕府の合意のもと可能なのは、全ての所領についての地頭化ではなく、公領に限られる。淡路国の状況から両方ともと判断したが、後鳥羽院領以外の庄園については院といえども介入できない。個別に庄園領主が了解するかどうかである。それは院が分国主ではなく、知行国主が摂関家等の院近臣以外で独立性を維持している場合も同様である。
 出雲国についても、承久の乱で討たれた人物として神西庄司太郎跡がみられていた。神西庄は源頼朝との関係が深かった吉田氏が領家で、文治2年7月には前園山庄前司師兼が頼朝の甥任憲大徳との関係を背景に、園山庄下司への再任の推薦状を求め、頼朝が吉田氏に推薦状を出したことが書かれているが、庄官の地頭化は実現していない。また、建永元年に平浜別宮下司秀信がみえるのは承元年間以前のことで問題とはならないが、建保二年(1214)に安楽寿院領佐陀御領の下司職に勝部四郎丸が補任されているのは、地頭化が庄園には必ずしも及んでいないことを示しているが、淡路国大田文をみて、すっかりそれらの点を忘れてしまった。
 もう一つは内蔵孝元が地頭に補任された出雲国内の所領である。国富郷(庄園)については、懇望により地頭に補任されていたが、やはり解任するとなると幕府の了解が必要となったことがわかる。問題はそれ以外の有力候補である湯郷・拝志郷、さらには忌部郷である。幕府が補任できたからにはこれらは平家没官領・謀反人跡として幕府が地頭補任権を有していないといけないが、果たしてそうかだろうかとも思っていた。それが出雲国内の庄園・公領の地頭化により、平家没官領・謀反人跡でなくても可能だと思い、了解してしまった。これらは公領であるから、承元年間に地頭化がなされ、内蔵孝元が地頭に補任されたことで間違いはないが、庄園については別と考えなければならないというのが、現時点の結論である。ただ、湯・拝志・忌部郷については本来の郷司がおり、彼らは地頭代という立場に置かれた。湯・拝志郷の郷司は勝部宿祢一族であったと思われる。

2017年10月24日 (火)

淡路国太田文の地頭2

 話がそれたが、憲法という語は「正理憲法」「正直憲法」という形で使用されており、その意味は明確であろう。「国守護所は国中狼藉を停止せしめ給うべき御憲法御使也」という「守護所」への訴えも見られる(鎌三二四一)。一方、承久の乱後に但馬国守護に補任された法橋昌明は同国進美寺から日置河内畠山林などへの濫妨を訴えられたのに対して、当該所領は忠清が延暦寺末寺進美寺に寄進したものだが、それを含む所領の地主職は忠清の子息忠行から昌明へ譲られており、畠山林が石清水八幡宮により押妨を受けた際に昌明から延暦寺へ連絡したが対処が遅いため昌明が押妨を解決した。忠清の寄進により寺領となったにもかかわらず、寺が忠清子息忠行の地主職を否定するのは不当だとしている。畠山林については進美寺衆徒からこれまでも時々訴訟があったので、憲法使大膳民部大夫範重が下向した際に、在庁官人等とともに評定を行い、道理に任せて裁定がなされて以後は訴訟も無くなったとして、守護昌明は進美寺側の訴えには従えないと回答している(鎌三七五四)。この史料は石見国大田文の最後に名前のみみえる「範重」を調べていて知った。石見国大田文が注進された際に「範重」も派遣されて確認したのだろうが、大田文データに不備があるとして再提出が命じられ、加筆修正の上提出された。その際には「範重」は立ち会わなかったが、最初の関係者として名前が記されているのだろう。但馬国にみえた範重と同一人物であろう。
 本論では、大田文に記された「地頭」は事実を記したもので、下司・公文と明確に区別して記されているということを確認している。承久の乱以前のある時期に、淡路国内の所領の庄官・郷司等は原則として地頭に切り替えられたが、国分寺庄は何らかの原因で領家・預所が直接支配する形になっていたことを記したものである。大田文はきちんと調査した結果を記したもので、高尾氏の理解は訂正されなければならないが、他の研究者がどう評価していることも確認する必要が出てきた。中野栄夫氏(国史学科在学中に編纂所に内地留学でこられており、ドイツ人留学生、五味文彦氏主宰のもと吾妻鏡を一緒に読んでいたお茶の水大の学生さんと撮った写真があるはず)論文が法政大学文学部紀要32号(1986)に収録されているようだが、島根大学にはなぜか当該号を含む複数号が所蔵リストにみられない。国会図書館へ複写を申し込むか、中国地方の公共図書館では岡山県立図書館が所蔵しているようなので、ここから片道分の送料を負担して借りるかである。国会図書館のデジタル化資料の中には著作権の関係で個人のPCでは閲覧できないが、公共図書館などでは可能なものがあるが、検索してもヒットしないためデジタル化は未だされていないのだろう。いずれにせよ「憲法」とは法の支配でいうところの法であり、ドイツ(あるいは朝鮮民主主義人民共和国等)流の法治主義のもとでの法ではない。

淡路国太田文の地頭1

 淡路国大田文について『兵庫県史』では高尾一彦氏が担当して述べている。近世史が専門のようだが、淡路国における水軍配置に関する論文名が記憶にあるが、読んだことはなかった。県史で気になるのは以下の記述である(一部省略)。
承久の乱以前の淡路国の地頭の多くは当然のことであるが淡路土着の武士であった。前地頭の名前を記したあと「国御家人」と注記していることで明らかであるが、彼らは前地頭とはいうものの、ほんとうは国領・庄園の下司や押領使なのであろう、と。
 その時点では地頭未設置の国分寺庄について、「本下司公文」は忠通先祖が相伝職だけど近年は領家が押領しているので、本証文に付けて伝領次第を憲法使に申せしむるなりと記されている。本来、下司・公文は存在したが領家が押領しているというのは意味が十分わからない点があるが、領家の派遣した預所が直接支配していたのであろう。これに対して幕府・守護側は、忠通の乱への関わりによっては其の跡へ地頭を補任できるとして、調査を憲法使に申し出ているのだろう。
 憲法使とは編纂所の鎌倉遺文データベースで検索すると本件を含め五件がヒットする。「憲法」のみだと一六三件と大変多くなる。このところ日本では憲法違反が続出しているが、肝心の番人が何の役割も果たさないので、違反が違反で無いかのような誤解が生じて悪乗りが続出している。憲法を理解していない政治家・裁判官には退場してもらわないとしょうがないが、それができるのは有権者のみであるが‥‥‥。
 占領下で吉田内閣が内閣による解散が可能かをGHQに確認したところそれは違反でできないとの回答であったため断念したもかかわらず、占領終了後、今回と同様、野党の選挙準備が整わないうちに自己都合で解散したため、解散後の総選挙には立候補しなかった前国会議員が自分の任期が勝手な解散で失われたため憲法違反だとして訴えたが、当時の最高裁長官が悪名高いあの人物であったため違憲とせず、現在の形となってしまった。
 長官とは日米安保条約が違憲であるとの一審判決が出た際に、政府・米政府と相談して一審判決を取り消した人物である。この人物は戦後間もない時期に参議院議員と文部大臣を経験したこともあり、そのような人物が最高裁裁判官になること自体が憲法の定める三権分立に違反しているとされたいわくつきの悪で、その悪行は、現在の首相と同様数限りない。その長官は東大名誉教授、文化勲章受章者となるから、「憲法」に照らして日本のレベルの低さはどうしようもない。政府の意向に従った勲功の賞として国際司法裁判所裁判官にもなっている。ちなみに文化勲章受賞を初めて辞退したのは陶芸を中心とする文化人河井寛次郎(1955)である。

2017年10月23日 (月)

佐々木泰清の子孫の名前2

 泰清の子の名前について述べたが、その孫の一部についても言及しておく。義重の子は重泰・季義・頼重・重宗の四人の男子がおり、重泰は不明だが、以下は順に二郎・三郎・四郎と記されている。ところが、重泰について正嘉元年の新日吉社小五月会の流鏑馬四番を祖父泰清が務める中で射手として「左衞門次郎重泰」とみえる。宝治元年の父義重に続いてその子重泰もまた射手を務めているのは、重泰が義重の嫡子であったためだと思われる。父義重は太郎であったが、その嫡子重泰は二郎であった。それは三郎頼泰の嫡子貞清が二郎であったのと同じである。貞清の場合は祖父泰清の後継者として「信濃次郎左衞門尉」と称している。父頼泰は信濃守には補任されていない。
 泰清の長子義重は次子で嫡子となった時清の同母兄で、その母は大井太郎朝光女子である。朝光は小笠原長清の子で、承久の乱の恩賞として八条院領信濃国大井庄を与えられた。後に実朝に仕えた叔母大弐局から出羽国由利郷を譲られた。その子次郎朝氏(小笠原氏系図では朝光の子は光長のみであるが、清和源氏信濃国大井之略系にあり)は弘安三年と正応四年の新日吉社小五月会の流鏑馬を務めており、六波羅探題評定衆であった。
 三子頼泰以下の子の多くは葛西清親女子が母である。千葉氏の一族であるが、弘安七年の新日吉社小五月会の流鏑馬三番に清親の孫「葛西三郎平宗清」がみえているように、在京人であった。六波羅探題での関わりの中で婚姻関係が結ばれたと思われる。三郎頼泰の嫡子貞清は得宗で執権でもあった北条貞時の諱名によると思われる。四郎義泰の嫡子師泰は貞時の後任の執権北条師時にちなむものであろう。とりあえず、北条氏との関係がうかがわれるのは以上である。

佐々木泰清の子孫の名前

 佐々木泰清は六波羅探題評定衆を務める一方で、出雲・隠岐国守護並びに隠岐守・信濃守にもなっている。その長子義重は「隠岐太郎左衞門入道」とみえるが、その名前は泰清の父義清と六波羅探題北条重時にちなむものであろう。宝治元年五月の新日吉社小五月会の時点では宝治合戦の前であり、重時は流鏑馬の一番を務め、泰清・義重父子は四番を務めている。宝治合戦後、重時は鎌倉へ帰って連署に就任する。
 次子時清は建長二年に「隠岐新左衛門尉時清」とみえ、文応元年正月には「信濃次郎左衛門尉」(時清)とともに三子頼泰が「信濃三郎左衞門」としてみえるが、正嘉二年に父泰清が信濃守に補任されたことによる。両者の名前は父泰清と北条時頼にちなむものであろう。
 四子義泰(弘安八年但馬国大田文では信濃四郎左衞門尉泰義)の名は祖父義清と父泰清にちなむものであろう。五子茂清の名は北条重時の子で六波羅探題となった時茂と父泰清にちなむものであろう。六子基顕は六波羅評定衆の同僚後藤基政の養子に入ったことによる。
 七子頼清の「頼」については誰にちなむか不明である。建長三年(1251)の生まれで、元服したのは北条時頼の死亡(1263)後である可能性が高い。大伴氏系図では湯清綱の養子に入ったかに記されるが、実際は清綱の後継者湯左衞門四郎(文永八年)の跡を継承している。
 八子宗泰は建長七年の生まれで、文永六年に一五才で元服している。その名は父と北条時宗にちなむものであろう。鎌倉には泰清の嫡子時清がおり、その仲介を果たしたのではないか。九子ないしは十子である義信の「信」については成案がないが、義信は四郎左衛門尉義泰女子を室としているように、泰清晩年の子で他の兄弟より一世代下(孫世代と同じ)となる。七郎左衞門尉頼清の子は湯泰信、佐世清信と「信」を付けている。泰信と清信の兄宗清についても誰にちなむか不明である。
 義信の兄か弟か不明であるが十郎左衞門尉清村は「駒崎」を苗字としている。詳細は不明だが。「駒崎」の地名は陸奥国にみられ、その地を所領とする有力御家人に養子に入ったのであろうか。「村」は北条政村の子で建治三年に六波羅探題となった時村によるものか。

2017年10月20日 (金)

毛利氏の神話6

 元春については吉田庄地頭職が没収されたので、母の実家である安芸国の三田入道のもとにいたとある。元弘三年の時点で元春は元服前の一一才であり、父親茂とともに船上山から入京したのではなく、吉田庄に残っていたが、所領没収により三田入道を頼ったのであろう。元春が合戦に参加するのは、足利尊氏・直義兄弟による軍勢催促を受けて吉田庄を占領した後で、武田信武のもとに入り、毛利家の家臣である代官とともに建武三年正月に上洛し、関東から上洛して都を占領した足利軍に合流したと思われる。ただし、この時点では足利氏を追う形で北畠顕家率いる陸奥将軍府の軍が迫っており、一月半ばの比叡山麓の坂本の戦いで敗れた尊氏が京都へ引き返したのに対して、武田信武軍は近江八幡城に籠城した。一月二七日の京都での戦いに敗れた尊氏は丹波国を経由して、九州へ下向して体制の立て直しを行った。武田軍は二月七日に八幡城を放棄して安芸国へ帰っており、一月晦日の時点で幕府方の元春に対して当時南朝方の貞親が譲状を書くことはありえないことと考える。元春の父親茂(宝乗)を含む毛利氏のその他の一族は越後国で南朝方として活動していた。
 元春は武田氏とともに安芸国に下向し、芸州大将に指名された桃井修理亮義盛のもとで軍功を積み、尊氏軍の上洛を待っていた。九州に下った尊氏は三月二日の多々良浜の戦いで南朝方の菊池氏を破って体制を立て直し、四月三日には東上を開始し、五月五日には備後国鞆の浦に着き、一〇日には海路と陸路に分かれて東進した。安芸国人も五月一八日の福山城攻めでは尊氏の側近高師泰の手に属して軍功を積んでいる。元春が師泰の諱名を得て「師親」と名乗るのはこれ以降の事であろう。さらに言えば、上洛して曾祖父了禅と合流してからで、了禅代としての軍忠もそれ以降の事であろう。元春の父親茂(親衡、親を下に付けている)が貞親の庶子であったのに対して了禅流の嫡子となる「師親」(親を名前の上に付ける)としたのは、唯一の幕府方であったためであった。
 以上のように、元春が尊氏方の高師泰のもとに入り、その諱名を受けて元服するのは建武二年ではなく、翌建武三年の半ば以降のことだと思われる。それを父宝乗やその一族との相論に勝つため、申状では都合のよい形に記し、譲状も作成されたとすべきである。河合氏が著書で述べられた内容と実際の状況の間には大きな懸隔があった。

毛利氏の神話5

 この外に毛利氏惣領丹後入道慈阿(時元)も越後国におり、毛利氏が一族を挙げて吉田庄に移住したわけではなく、佐橋庄南条を支配する一族は戦国には上杉氏の家臣となっている。元春申状の少し前に父宝乗が「郡山殿」(=元春ヵ)に送った書状では、吉田庄内の山田氏領に関連して、自分は了禅跡について分明な譲状・置文と毛利氏惣領慈阿の証状を持っていると述べており、元春が主張する内容をそのまま信じることはできない。元春は建武三年に敵方=南朝方であった貞親が記した譲状については無効とする一方で、同年正月晦日の貞親譲状を残している。
 貞親譲状はどうであろうか。残された中では唯一原本だとされている。元春にとっては父宝乗とその子達との吉田庄をめぐる対立に関して有効な面がある。貞親は子である親茂(親衡・宝乗)ではなく、孫である元春(師親)に吉田庄を譲っている。ただ問題となるのは、元春が建武二年に元服した際に高師泰から諱名を与えられ、師親と名乗ったこととの関係である。貞親譲状には「師親」とみえ、この点を裏付けるものとも思われる。さらにはこの時点から曾祖父了禅(時親)の代官として軍功を挙げたとし、それゆえに曾祖父から祖父と父を越して吉田庄を譲られたことになっている。
 元弘三年隠岐国を脱出した後醍醐は各地の武士に軍勢催促を行うが、安芸国吉田庄にいた親茂(宝乗)は軍勢催促の綸旨に応じて船上山へ参陣した。その時点では了禅以下の一族は悉く越後国にいた。申状によると、その時に出家前の時親から宝乗は吉田庄を譲られたというが、これも建武元年に貞親が北条氏に同意して謀叛に荷担して捕らえられ、吉田庄地頭職が花山院家祗候人美乃判官全元に給恩として与えられたことに対する対策であろう。これに対して宝乗は後醍醐の側近千種忠顕の舎弟とともに佐渡国司に同道して越後国へ下った。この時点の了禅は高齢で歩行ができないため、出家して奈良に忍んでいたとする。

 

毛利氏の神話4

 中世前期の毛利氏を論ずるためには、南北朝期の毛利元春の申状とそれに関連して残された譲状に依るしかないが、譲状が作成されたのが毛利氏にとってどのような時期であったかも検討する際に重要である。
 文永七年の経光譲状についてはすでに述べたが、実際に経光が作成したものとは別物である可能性が大きい。とりあえず了禅(時親)から吉田庄を譲られたとする元春にとっては必要不可欠なものであった。元徳二年の時親譲状は建武元年に時親の嫡子貞親が北条氏と結んで謀反を起こしたことにより、吉田庄が闕所になったことへのものであることはすでに述べた。今でも同様だが譲状は何度でも作成でき、一番の最後のものが有効となる。そのために所領をめぐる対立の中で譲状が偽作されることも珍しくは無い。
 毛利氏のもうひとつの所領である越後国佐橋庄南条については、時親が七条中五条を庶子(親元・広顕)等に譲り、残る二条が宝乗に譲られたと元春申状には記されており、元徳二年の譲状と同様に、ここでも貞親は出てこない。申状には貞親の子として宮内少輔・近江守・上総介等がおり、三人は吉田庄吉田郷内上村と同庄麻原郷内山田村を貞親(朗乗)一期の後は永代に譲られたことを主張しているとする。一方、申状では河内国加賀田庄は了禅から朗乗に譲与され、朗乗は近江守に譲ったことが述べられている。
 一方、宮内少輔は了禅の孫として従兄弟である修理次郎・顕親・冬元とともに了禅からの譲状を所持しており、それは元春が所持する建武四年の了禅譲状と同筆で、了禅の甥(兄で毛利氏惣領基親の子)甲斐入道が書いたとしており、正当な権利を持っていた。宮内少輔は越後国に在国とされ、三人の甥もその父が了禅の庶子として越後国南条内の五条を譲られており、当時は越後国にいたと思われる。佐橋庄南条内二条は実際には宝乗ではなく、宮内少輔が譲られていたのでなないか。前にも宝乗は貞親の庶子としていち早く吉田庄に入部していたのではないかと述べた。元春側は越後国内の所領については何も主張していない。
 近江守は元春申状では、越後国の所領を祖父了禅(時親)から、安芸国と河内国の所領を父朗乗(貞親)を譲られており、本来、朗乗の嫡子は近江守ではなかったか。ところが、越後にいた毛利氏一族は反幕府方であり、唯一の幕府方として元春は曾祖父了禅からの譲りを受けることで自らの立場を強化しようとしたのではないか。その立場とは安芸毛利氏の惣領である。

2017年10月13日 (金)

横田庄と女性5

 必要に迫られて上杉和彦氏『大江広元』、森幸夫氏『北条重時』、高橋慎一朗氏『北条時頼』(いずれも人物叢書)を読んだ。『北条時宗』はすでに読んでいた。それぞれに興味深いが、もっとも新たな発見があったのは森氏の本であった。二冊の論文集も読んだが、手堅いが、新たな知見が多くあった。
 表題との関係では、時頼の長子時輔の母について、高橋氏は出雲国横田庄地頭の三処氏の出身であるとの今野慶信氏の説を紹介し、その問題点には気づいていない。誤った説にはそれこそ沢山の問題点があるが、それは以前述べたので、時輔の母の名称についてのみ、再度確認したい。
 妙音については、弘安四年の横田八幡宮棟札には「御願主地頭平氏三所比丘尼尼妙音」とあり、南北朝期の裁判で岩屋寺側が作成した史料には「岩屋堂禅尼妙音」とある。戦国期の岩屋寺快円日記にはその冒頭に「横田庄岩屋寺再建立旦那関東最明寺殿後家六波羅之尼岩屋堂殿妙音、式部大夫時輔ノ母儀、於六波ラ滅亡、正和二年一二月廿八日、月忌也」と記す。「岩屋堂禅尼」「岩屋堂殿」というのは再建に尽力があったという意味で岩屋寺が使用している呼称であるのに対して、自らは「平氏三所比丘尼」と称している。
 『北条時頼』では時頼の安達氏出身の母の名称について、石井進氏の指摘を参考にしながら、時頼らが成長した後に、安達氏の別邸があった「松ヶ谷」内の松下に隠棲したため「松下禅尼」と称されるようになったとの説を示している。時頼の三浦氏出身の曾祖母「矢部禅尼」は泰時との間に嫡子時氏を生んだ後に離縁し、次いで三浦氏一族の佐原盛連との間に三子を生んだ後、三浦矢部郷に帰って出家して「矢部禅尼」と呼ばれた。安達禅尼や三浦禅尼では他の人との区別は難しいので、所領や居住地からその名が付けられた。
 妙音については棟札の「平氏三所比丘尼」が手がかりとなるが、平氏姓で出家して「三所」に住んでいる女性との意味となる。「三所」氏出身の女性との解釈は成り立たないのである。妙音は将軍頼経に仕えた「讃岐局」で、時頼の兄経時との間に隆政を生んだ「讃岐女房」とは同一人物であるが、時頼の側室としてみえる「三河局」とは別人であろう。

 

 最後に「快円日記」にあるように、死期が近づいたためであろう、妙音は京都・六波羅に移り、そこで死亡したことが記されている。子である時輔が二月騒動で殺害された場所であった。弘安四年の棟札に、時輔の時代に地頭代であった三所(三処)氏関係者はみえず、妙音が三処氏出身との説は100%誤りであるが、なぜかそれに気づく人が細川重男氏を含めて誰一人いないのは不可思議である。三処氏は出雲国衙の有力在庁官人勝部宿禰の一族である。出雲国の国御家人が東国御家人との間に結んだ婚姻関係の事例は、いずれも東国御家人の娘との結婚(嫁入り)である。東国御家人の息子を娘の養子にする事例(婿入り)も皆無ではなかろうが、ほとんどは前者のケースであったと思われる。何より、現在と異なり、複数の妻を持つことが一般的であり、出雲国に入部した東国御家人は東国御家人ならびに国御家人との両方との間に婚姻関係を、結ぶ例が珍しくは無かった。

2017年10月12日 (木)

弘長寺の建立2

 建長二年三月の閑院内裏造営目録では、二条面南油小路北一六本の柱のうち一本を「別府左衞門」が負担し、二条面西洞院東二〇本中の二本を「成田入道跡」が負担している。「別府左衞門」は行助の嫡子満資(光助)で、別府氏惣領であったことがわかる。その名前には「行」ではなく「助」を付けているところに、行助の相続に対する不満が現れているが、承久の乱で別符郷に匹敵するような大庄園来海庄の上に中須郷を得たこともあって、満助は早くから来海庄に入部し、庄内で開発が遅れている北部宍道湖側に弘長寺を建立して、開発の拠点とした。弘長三年一二月一五日に満資が記した弘長寺の縁起によると、主君である極楽寺殿(北条重時)と西明寺殿(北条時頼)の菩提と将軍並びに両北条氏の一家の繁昌のための作善としてこれを行っている。寺院の造営は弘長元年九月に始まっているが、同年一一月には重時が、次いで縁起作成直前の弘長三年一一月に時頼が死亡している。先に重時の名を記している事から、六波羅探題と連署を務めた重時とより深い関係があったと思われる。父行助は「次郎」であったが、満資は任官して「左衞門尉」となっている。
 当時の元号である「弘長」をその名に冠した弘長寺の宗派であるが、縁起中の「念仏三昧者弥陀之別願」といった表現から念仏系(浄土宗・浄土真宗)とも考えられる。現在は曹洞宗であるが、戦国期に再興する際に改宗したものである。北条重時は浄土宗を深く信仰し、鎌倉で地獄谷と呼ばれていた地に浄土宗極楽寺を開いたが、その死の翌年に時頼が叡尊を招いたことを契機に律宗が浸透したこともあり、重時の子長時の代に律宗に改宗したとされる。これを踏まえると、弘長寺はその開基の時点では浄土宗であった可能性が大きい。その後に満資が死亡したため、来海庄と中須郷はその後家が地頭職を継承した。建治元年の六条八幡宮造営注文には「別府左衞門跡」がみえている。

弘長寺の建立1

 元久元年(1204)一二月一八日に武蔵国別符郷をめぐる所領の相論について、将軍家(実朝)政所下文が出されている。父行隆の所領をめぐり、太郎能行と次郎行助が争ったのである。名前からすると行助が嫡子で、能行が庶子。当初は嫡子行助が160町余(後家分10町を含む)、能行が70町余と嫡子行助が多かったが、太郎能行が不満を持ち、所領の再配分がなされた。四郎行直は行助の同母(後家)弟で、能行は異母兄であったと思われる。この結果、相続分が減らされた行助が不満を持ち、裁判が行われたのであろう。幕府の判決は再配分を支持するもので、能行と行助がそれぞれ一〇三町一反大ずつで、残りを後家が10町、小林三郎の妻となっていた女子が10町、その他三人の女子が各2町の計6町、行直が20町であった。
 建久元年一一月の源頼朝の入京の随兵として武蔵国御家人「別府太郎」が、同族の「成田七郎」「奈良五郎」とともにみえる。
 これに対して不満を持つ行助(資)は承久の乱後にも幕府に訴えたが、安貞二年七月二三日に、維行(能行の子ヵ)所帯の証文を確認したところ、故右大臣の時に沙汰を経て裁許を得ているとして、行資の訴えを退ける関東御教書が「別符刑部丞」(維行ヵ)に出されている。
 別符氏は同族の成田氏とともに承久の乱で勲功を挙げ、恩賞として西国の所領を得た。文永八年の時点の出雲国内の所領としては、能義郡内では中須郷が「別府左衞門妻」、坂田郷が「成田五郎入道」の所領で、意宇郡内では来海庄が「別府左衞門妻」、宍道郷が「成田四郎」の所領であった。

2017年10月10日 (火)

国御家人の地頭化2

 一方、貞応二年の淡路国大田文には承久の乱の前の地頭と乱後の新地頭が記されている。当然、前の地頭とは承久の乱以前からの地頭で、淡路国では承久の乱以前に庄官・郷司が地頭に変更されていたことがわかる。出雲国についても、これまでは特定の所領について地頭への変更が行われたと漠然と考えていたが、淡路国と同様、公領についてはすべての所領が地頭に変更されたと修正しなければならない。
 承元年間の出雲国では院使による検注が行われており、これにより知行国主の上に院分国主として後鳥羽院がいたことがわかる。これに将軍実朝が協調する形で郷司・保司等の地頭化がなされたと思われる。なぜ後鳥羽はそんなことをしたのかという疑問は当然であるが、朝廷のもとに幕府が従属する体制が確立すれば、「地頭」化によるデメリットはなかったはずで、様々な名称のあった公領の現地管理者の一本化が実現したはずである。それができなかったことが、後鳥羽による倒幕の企てにつながったのではないか。
 淡路国における公領の地頭化が行われた時期としては、建永元年九月二二日の藤原隆清の知行国主補任から建保六年正月一四日の九条良輔の知行国主補任の時期であろう。隆清は坊門信清の弟で、信清女子が将軍実朝の室となっている。隆清のもとで淡路守を務めたのはその子である経清と師清である。その後、淡路守としてみえるのは源資俊であるが、その父家俊は後鳥羽側近で和歌所寄人・新古今和歌集編纂次官であった。次いで後鳥羽がその軍事力に期待した藤原秀康が淡路守となっており、源資俊と藤原秀康が国守であったのは分国主後鳥羽の下ではなかったか。資俊が建保二年三月二八日に淡路守に補任されたのは、藤原隆清が二月七日に死亡して知行国主が交替したことによる。なお坊門信清も建保四年には死亡しているが、その子忠信は承久京方となった。妹実朝夫人の歎願により処刑は免れたが、越後国に流罪となった。
 以上、承元二年九月六日御下文に関連して検討した結果、国造孝綱は大庭・田尻保の地頭に補任されたことが明らかになった。

国御家人の地頭化1

 建長元年一一月二九日将軍九条頼経袖判下文により、国造出雲義孝が出雲国神魂社領大庭・田尻保地頭職に補任されている。井上寛司氏はこれにより国造の御家人化が実現したと評価されたが、その下文には「承元二年九月六日孝綱給御下文之上、当知行無相違」云々と義孝の申請を引用した表現がみえる。
 承元二年には内蔵孝元が国内数ヵ所の地頭職を賜ったことが確認でき(吾妻鏡)、出雲大社権検校に補任された孝元と同様に、惣検校(神主)に補任された国造孝綱が地頭に補任されたと考えるのが論理的な見方である。その時点で出雲大社神主・氏人が自らの御家人であることを述べた将軍実朝の書状も残されている。
 これに対して、西田友広氏は文書が残っておらず、「地頭」であったかどうかは慎重な検討が必要であるとされた。鎌倉初期の西国の地頭といえば謀反人跡に補任されるものであるとのイメージが強いが、そうでないケースもあり、具体的検討が必要である。当方は承元年間の出雲国知行国主と国守は後鳥羽院との関係が深い人物であり、後鳥羽と将軍実朝の関係を背景に、国御家人の地頭化が進んだと考える。謀反人跡ではないが、一旦地頭になれば、庄園領主・国司側が幕府に相談なく解任することはできない。それがゆえに、「なぜ地頭に補任するのか」「他の国ではそのような状況があるのか」という疑問が生ずるのであろう。
 文永八年出雲大社三月会頭役結番帳では、国内の庄園・公領が約280町の20のグループの編成されているが、所領の下に記されるのは地頭の名のみである。例えば石清水八幡宮領安田庄ではそれ以前に下地中分が行われ、領家方と地頭方はそれぞれが一円支配を行っていたが、結番帳には地頭名のみ記されている。当然、領家方も三月会の頭役負担はしなければならない。そして、加茂(福田)庄と長海新庄は地頭名が空欄となっているが、徳大寺領長海新庄は頭役を負担し、加茂庄は子細を申したことにより勤仕していないが、その他の所領は地頭名が記され、頭役を勤仕している。
 基本的に庄園・公領の庄官や郷司は地頭となっている。それは承久の乱の影響であろうとの説があろうが、但馬国大田文をみれば、弘安八年の時点でも「下司」や「公文」が一定程度存在しており、彼らは御家人にはなっているが、任免権は荘園領主・国司が持っていた。それは文永二年の若狭国大田文でも同様である。承久の乱の時点の但馬国守護は安達親長であり、親長は乱の時点の出雲国守護の最有力候補でもある。親長ら西国守護に補任されて在京していた御家人の多くは後鳥羽方となり乱後没落した

2017年10月 7日 (土)

思い込み3

 前置きが長くなったが、島津について調べていて、アマゾンでそのカバーアルバム「SONGS」に多くのレビューが付けられていて驚いた。演歌など聴かないという人々が沢山購入し、レビーを寄せていた。そこでは、島津は演歌ではなくこのアルバムで扱っているような曲を歌えばよいとのおなじみの意見があった。島津の卓越した歌唱力を評価する立場から書かれたものであるが、以前、ちあきなおみについても、演歌嫌いのファンが同じようなことを書いていた。「ちあきは最高だけど、船村演歌はね、と」。ただそのコアなちあきファンたちは、現在ではちあきの作品の中で船村徹作品を最も聴くとおっしゃっている。言い訳のように船村作品は演歌ではないと言うが、本当だろうか。人間とその社会を描くには様々な形の歌が必要であり、「演歌」でなくては表現できないものがあると思うし、島津の存在価値は演歌を拠点としながら、ジャンルを超えて良い作品にチャレンジすればよいのではないか。問題は、それに応えてくれる良い作詞家・作曲家がいるかどうかの方である。
 いわゆる自分を「通」と思っている人々であるとないとに関わらず日本の人には先入観が強すぎる人が多い。先入観は別の表現をすれば近道(ショートカット)である。すべてを考えると時間がかかるので、自分が知っている範囲内で考えてしまうことであるが、これにはマイナスも大変多い。以前、日本における採用の問題や、世襲の多さについて述べたが、これも同様の近道である。いわゆるネオライトの人々の「ヘイトスピーチ」問題も同根である。相手や対象に関する情報が十分ないのに結論にいたる。このブログの題名「資料の声を聴く」はその対極にあるものとして続けているが、どうであろうか。時に先入観で判断してしまい、アップした直後に訂正することはよくあるが。 
付記 島津亜矢さんについては、前に述べたように船村徹リサイタルで聴いた程度でよくは知らないのだが、「通」と思い込んでいる人のコメントが気になったので述べた。

思い込み2

 同アルバムの「雨の夜あなたは帰る」も印象的な作品で、これを通じて作詞家吉岡治氏も認識させられた。すべてが良いが、とりわけ印象に残ったのは「なみだの宿」と「汽笛のあなた」という作品だった。前者は古木花江作詞とあるが、以前述べたように星野作品である。ロスプリモスの「たそがれの銀座」も古木名義の星野作品であると今日、ネット検索で知った。後者は横井弘氏の作詞で、船村氏との曲は舟木一夫「サンチャゴの鐘」など佳作が多いが知名度では別の作曲家とのコンビによる「あざみの歌」「下町の太陽」「夕焼け雲」や春日八郎・三橋美智也の作品の方か有名か。
 次いで星野作品としては「夜が笑っている」の翌年1959年に発売された浜口庫之助作曲の「黄色いサクランボ」であろう。おそらくはNHKのビッグショーなどを通じてこの作品が生まれる経緯なども知ったと思われる。北島三郎の第二作「なみだ船」については省略する。デビュー作は星野・船村の「ブンガチャ節」であったが、一週間で放送禁止となった。
 1963年にコロンビアのスタッフが独立してクラウンレコードを設立すると、星野・北島は移籍し、船村は残ったので、次に両者の作品が実現するのは1978年に船村氏がフリーとなってからのである。番組では触れられなかったが、この頃、ちあきなおみは「夜へ急ぐ人」を出した後は実質的にコロンビアを退社した形となり、ビクターからカバーアルバムが、ソニーエンターテインメントからは映画「象物語」のサウンドトラックが発売されたが、シングルは空白の時代となる。
 番組では名コンビが復活して、「風雪ながれ旅」(1980。北島三郎)「女の港」(1983、大月みやこ)が新たなヒット曲として紹介されたが、その上に「豊予海峡」(1986、大月)まで取り上げたことにはびっくりしたが、制作者の意図は感じられた。次いで、作詞家星野の珍しい弟子島津亜矢が登場した。島津については、船村徹作曲家生活45周年のコンサートがNHKで放送された際に、はじめてその「海鳴りの街」を聴いた。骨太の歌手だと思ったが、全く情報も持たなかった。後で知ったが、島津の10周年記念曲で初めて船村作品を歌ったとのこと。次いで星野の作詞家生活50周年記念曲「海で一生終わりたかった」(2003)の作曲が船村に依頼され、島津が歌った。この点については今回初めて知った。

思い込み1

 珍しく朝刊のテレビ欄をみると、船村徹と星野哲郎をテーマにした「二人の絆」という番組が放映されることを知った。ところが、その時間帯の別の局では阿久悠をテーマとした番組も組まれていた。それ以外にもう一つ別の歌番組も予定されていた。現在は裏番組の録音も可能なので問題はないかもしれないが、あまり番組を録画しない人間としては、なんとかして欲しいと思った。
 四月に退職したこともあり、今年は家事の中で夕飯の主担当になっており、準備のため居間に降りたが、その時点では番組のことは忘れていた。つれあいが別の歌番組を視ていたが、船村徹の番組もしているといい、チャンネルを替えた。開始から20分ほど経過していたが、自分の部屋でも視聴可能なチャンネルであったので、自分の部屋で視聴した。
 自分としては歌い手以上に作詞家、作曲家に関心があり、両氏それぞれの特集番組も見たことがあったが(生で視ることはほとんどなく、PCで後追い的に視聴する)、それとはひと味違った選曲であった。
 星野氏を認識したのは、北島三郎、水前寺清子の作品を通じててあろう。「人生の応援歌」という言葉も聞いた。そして気になる存在となったのは、ちあきなおみ『もう一人の私』に収録された「夜が笑っている」を聴いてからであろう。もしかすると、この局を初めて聴いたのは船村徹作曲家生活25周年記念リサイタルのアルバム(こちらはオリジナルの織井繁子)であったかもしれない。ちあきのファンサイトでこのアルバムが最初に発売されたのは、喝采でレコード大賞を受賞した1972年であることを知ったが、当方が認識したのは1975年に船村作品「さだめ川」をシングルで出したのをうけて翌年に72年版を再編集して出された76年版であった。同時期にシングルで出た「酒場川」が収録されていないのは何故かと思った記憶がある。「酒場川」については評論家伊藤強氏がテーマが暗いが名曲であると評価していたが、全くその通りだと思った。B面には「矢切の渡し」が収録されており、最後までどちらをA面にすべきか意見が割れたそうだ。

 

2017年10月 5日 (木)

出雲佐々木氏と長井氏3

 但馬国守護太田氏も一度は新日吉社の小五月会の流鏑馬に参加していることが確認でき、六波羅探題評定衆となった可能性はある(森氏は流鏑馬に二回以上参加が確認できる人物を評定衆と認定)が、石井進氏「鎌倉時代「守護領」研究序説」で他国の守護とは状況が異なるとされた但馬国守護太田氏は地頭領の田数の割合も低く、国衙近傍にもほとんど所領を有してはいない。そこで分析されなかった出雲国守護佐々木氏の出雲国内の所領は、典型とされたものに近い。
 佐々木氏は後鳥羽が配流された隠岐国にも所領を有し、前述のように但馬国内の朝倉庄にほど近い二ヶ所の地頭でもあった。長井氏は備前国の所領については史料を欠いているが、備後国には多数の所領を有し、備後・備前両国の守護であった。そして現時点では但馬国の配流地の最有力候補である朝倉庄と田公御厨の地頭であった。長井時広とその子泰重、並びに佐々木泰清は六波羅探題評定衆で、時広の嫡子泰秀と泰清の嫡子時清は、その時期はずれるが、幕府評定衆であった。泰清の兄政義も、無断遁世がなければ、佐々木氏一族を代表して幕府の要職に就任する可能性はあったのではないか。
 ということで、以上では長井氏と佐々木氏との共通点を、特に承久の乱後の対応という面から見てきた。おっと、大事な点を忘れていたが、泰重の嫡子頼重は六波羅評定衆で、但馬国朝倉庄地頭であったが、さらには、なぜか長井氏研究で指摘されたことはないが、文永八年には出雲国宇賀庄地頭(因幡左衛門大夫)でもあった。
 摂関家領宇賀庄は二四六町と、安楽寿院領佐陀社に次ぐ出雲国の大規模庄園である。平氏による摂関家領押領(摂関家と平氏の提携とする説も)により、平安末期の宇賀庄庄官は平家の家人で、平家没官領として大江広元に与えられた可能性もある。承久の乱時点での出雲国守護は但馬国守護もつとめた安達親長ないしは京方となった某氏であり、知行国主が後鳥羽の側近源有雅であるため、国御家人か東国御家人かを問わず数多くの出雲国武士が京方となっているため、宇賀庄の地頭についても交替した可能性もある。
 森氏が明らかにしたように、長井泰重・頼重父子は摂津国垂水牧の年預を務めるなど、近衛家と深い関係をもっていた。そして建治三年時点で頼重の年預代であったのが朝倉左衞門尉泰信であった(摂津勝尾寺文書)。長井氏は但馬国朝倉庄地頭を務める中で、在地の国御家人朝倉氏を家臣としていた。南北朝初期にはその子孫である垂水庄の朝倉重方・重光父子が尊氏のもとで軍忠を積んでいる。長井氏と朝倉氏の関係を緊密なものとしたのは但馬国朝倉庄に雅成親王が配流され、その管理が重要であったからではないか。雅成は後鳥羽の死後、一旦京都に帰ったが、その後、後嵯峨に替えて彼を天皇に付けようとする計画があるとの風評が生まれ、再び但馬国に戻され、その地で建長七年二月に五六歳で死亡した。
  越前朝倉氏も但馬朝倉氏から分れているが、五摂家の一つ一条家に仕えていた朝倉広景が一条家の御料所であった足羽庄に下向したのが起点で、その後、守護斯波氏ならびに幕府との関係で所領を得て戦国大名まで発展していくとされている。長井氏は観応の擾乱で支持した足利直義が敗北して以降、その地位を低下させるが、北陸では若狭国耳西庄と越前国徒都部郷を支配していたことが確認できる。

出雲佐々木氏と長井氏2

 但馬国守護太田氏は法橋昌明が頼朝時代の勲功(源行家を逮捕)により但馬国(平家物語によると太田庄)や摂津国に所領を得、鎌倉に居住して奥州藤原氏攻撃にも参加した。承久の乱時には後鳥羽院からの軍勢催促を受けたが応じず、乱後は京方となった安達親長に替わって但馬国守護となった。その子孫は太田庄を苗字の地として鎌倉末まで但馬国守護であったが、弘安八年の但馬国大田文には太田庄の地頭は「備前前司後室」とあり、北条時房の孫時広(建治元年死亡)の妻であり、守護大田氏の所領ではなくなっている。出石郷も一族の出石三郎信政領であったが、一時、白川三位家(神祇伯資邦王)の越訴により地頭を召し上げられている。
 承久の乱後但馬国には後鳥羽院の子雅成親王が配流され、守護昌明が護送しているが、問題は配流先である。配流先を『承久記』は朝倉とし、但馬国で江戸時代にまとめられた『雅成親王御由緒書』や『但州発元記』は現在の豊岡市高屋だとしている(大日本史料五の一)。『発元記』には守護代長九郎義泰が黒木の御所を建て、長井治郎と田結庄三郎が守護したと記すが、雅成が配流先へ護送されたのが七月二四日、昌明が守護に補任されたのは七月二六日である。
 地元の二史料は『大日本史料』に引用されているが、その内容を史料編纂所謄写本で確認すると、『吾妻鏡』に基づきながら記している部分もあるが、昌明が承久の乱の前から但馬国守護であると記すなど、記述には不正確な点が多々見られる。長井治郎と田結庄三郎にしても、長井氏は大田文では養父郡朝倉庄と二方郡田公御厨の地頭であるが、安美郡田結庄地頭は安芸左近蔵人重近女子である。田結氏は東国御家人のもとで下級庄官を務めていた可能性はあるがどうであろうか。「長井治郎」としては長井時広の子で備後国守護・六波羅評定衆となる泰重が「長井次郎」であるが、承久三年時点では時広の嫡子泰秀が一〇歳にすぎず、該当する人物はいない。
 以上のように配流先が高屋とする二点の史料は信頼性に問題があり、現時点では『承久記』が記す朝倉とすべきであろう。朝倉庄は前述のように六波羅評定衆となる時広の所領であった。前の記事で、時広が乱後に備後国だけでなく備前国の守護に補任されたとの説を示したのも、長井氏並びに佐々木氏の後鳥羽とその子雅成親王と頼仁親王の配流先との関係に注目したためである。

出雲佐々木氏と長井氏1

 備前国守護について、前回のブログのように考えたのは、長井氏と出雲佐々木氏との類似点からである。専門家である佐々木哲氏の説と『吾妻鏡』に記される佐々木信実の記事にもびっくりさせられた。信実の記事からはこの人物がしばらく備前国守護であったとは思われなかったのである。そこで、乱後最初から、ないしはごく短期間信実をへて六波羅探題の幹部である長井時広が備前国守護となった可能性を指摘した。
 出雲佐々木氏は佐々木兄弟の五郎義清が乱後に出雲・隠岐の守護となり、その子は嫡子政義が出雲国守護を継承し鎌倉で活動したのに対して、庶子泰清は出雲・隠岐に所領を得る一方で、後には六波羅探題評定衆にもなっている。ちょうど長井時広の嫡子泰秀が鎌倉を中心に活動して幕府評定衆となり、庶子泰重は備後国を中心に西国に所領を持つ一方で六波羅探題評定衆の筆頭として北条氏が就任した探題に継ぐ位置を占めたのと類似する。
 嫡子政義は三浦義村との対立から遁世し、泰清が両国守護となったが、泰清は嫡子時清を鎌倉に置き、時清が引付衆から評定衆に進んだのに対して、出雲国の所領は子に分割して譲ったが、塩冶郷を譲られた異母弟頼泰が、当初の出雲国守護(泰清→時清)代行から、時清の評定衆就任後は正員となった。その一方で、出雲国西部の要衝塩冶を譲られた頼泰に対してその同母弟富田義泰は東部の要衝富田庄を譲られるとともに、近江佐々木氏の重綱女子を妻として、但馬国朝来郡内の西明寺八町五反と法興寺六町四反の地頭でもあった(ただし名前は「泰義」とある)。後の船上山合戦では義泰の嫡子師泰が後醍醐方の勝利に貢献したのであろう、雑訴決断所頭人となるとともに美作国守護に補任されている。
 西明寺については領家が花山院前左大臣家(右大臣から太政大臣となった通雅)跡とある以外は比定地も不明であるが、但馬国大田文の記載順からすると、朝来市和田山町法興寺付近に比定できる「法興寺」(こちらは庄園領主も不明)の北側で養父郡との堺付近に所在したと思われる。何故、富田義泰が但馬国に所領を得たかについて、以前は母葛西氏や妻である大原氏の関係かと思ったが、現在では父泰清の所領であったと考えている。
  他の長井氏領とは若干異なるが、但馬国三宮水谷大社(現在の養父神社と養父市場の中間に所在したとされる)の神主となった大江広元の猶子重清がいる。広元の姉の子であった。六九町三反の内一〇町四反は阿美郷・石禾庄・善住寺・朝倉庄・高田郷の五郷に散在していた。関東御領で、領家職を幕府が持ち、水谷重清の孫で六波羅評定衆でもある左衛門大夫清有が弘安八年の預所であった。

2017年10月 1日 (日)

承久の乱後の備前国守護

 承久の乱後の西国では後鳥羽が隠岐、土御門が土佐、後鳥羽の子雅成親王が但馬、頼仁親王は備前に配流されているが、土御門は乱に関わらなかったこともあり、対応は監視とは異なっていた。乱後の守護は隠岐国は佐々木義清、但馬国が法橋昌明(大江姓)であるのに対して、備前国は佐々木加地信実となっているが、それで問題がないのであろうか。確かに承久三年に後鳥羽院の子頼仁親王を備前国豊岡庄小島まで遷すことを北条義時から命ぜられ、その子が守護したことが『吾妻鏡』に記されている。
 佐藤進一氏は佐々木盛綱の子信実を守護とした上で、次いで文永元年に田麦への課税を禁止するよう備後・備前国御家人等に伝えるよう命じられた長井泰重が備前・備後国守護として確認できるとする。これに対して、佐々木哲氏のブログでは備前国守護は承久の乱以降鎌倉末まで、佐々木信実の子孫が世襲したと述べている。佐藤氏は鎌倉末の元徳三年の幕府軍大将軍中の「佐々木源太左衞門尉 備前国」と『太平記』元弘三年二月にみえる「備前ノ守護加治源二郎左衛門」から、名前の違いはあるが加地氏が復活したとし、伊藤邦彦氏も同様の理解である。また、伊藤氏は元徳二年の文書に「先守護伊賀左衛門次郎兄弟」とあることから、加地氏の前任の守護正員は伊賀二郎左衛門尉光貞であるとした。
 佐々木哲氏は佐々木氏研究の専門家であるが、残された史料からは佐々木氏が備前国守護を世襲したとの説は成り立たないとすべきであろう。ここで問題とするのは、承久の乱後の備前国守護であり、当初から備後国と同様に長井氏(泰重の父時広)が守護ではなかったかとの説である。
 佐々木信実は佐々木氏兄弟の三郎盛綱の嫡子であったが、一五歳であった建久元年の工藤祐経とのトラブルの結果、盛綱から勘当され、弟盛季が後継者となった。ところが盛季は承久京方となり、その所領は没収された。これに対して信実は北陸道の軍で活躍して、盛綱流惣領の地位に就いたが、任官することなく寛元元年に六八歳で死亡するまで「兵衛太郎」のままであった。『尊卑分脈』に記す「左兵衞尉」というのは誤りである。一方で文人でもあったのか、承元三年には将軍実朝に硯を献上したりもしている。
 承久の乱後の寛喜二年正月には、度々の勲功を申し募り本領の返還を求めたが、所領には当知行している給人がいるため、便宜をみて対処することになった。宝治二年六月には佐々木次郎兵衞尉実秀法師が、亡父太郎信実の時に相論や自然に就いて召放たれた所領を、家之次第の文書を副えて与えられんことを求めている。貞応二年には頼仁親王=児島宮の御所警固を信実(入道西仁)の三男時秀から次男実秀に交替するよう幕府が命じたが、請文の提出が遅れて問題となったことが記されている。信実と時秀に問題があり、このような事態となり、所領を削られることもあったのだろう。理解は容易ではないが、時実には気性が激しすぎるなど性格に問題があり、武功には優れている反面、トラブルが絶えなかったと思われる。
 頼仁親王を児島宮まで信実が送っていったのは事実で、国内に所領を得たのであろうが、果たしてこの人物が備前国守護に補任されたのだろうかとの疑問が生じる。最後まで任官していないことからもその可能性は高いのではないか。あるいは、守護には補任されたかもしれないが、極めて短期間で失格となり、近隣の備後国守護で六波羅探題の重要人物である長井時広に交替したのではないか。そしてその後は備後国守護とともに時広の子泰重が継承したのではないか。なお、乱の時点では時広の兄大江親広が備前国守護であったとの説もある(伊藤邦彦氏により一つの可能性として述べられている)。

 

隠岐国守護代八島冠者の反乱

 『明月記』天福元年(1233)三月二日条に隠岐国守護・武士等私闘乱静かならずとの記事がある。続いて四日条には隠岐国守護佐々木左衞門が八島冠者を隠岐国守護代に補任していたが、闘乱に対処するため出雲国守護代が隠岐国に派遣された。八島冠者は出雲国守護代を殺害して、精兵を集めて城郭を構えたので、出雲国から兵を派遣しようとするが、険しく渡るのが難しかった。そこで精兵を派遣する方策が検討され、六波羅探題からの使者が何度となく出雲への往復を行っていた。「この問題が大事に至れば、天下の煩いか」と藤原定家は日記を結んでいるが、この結末を記した史料は残っていない。
 一方、『吾妻鏡』天福元年六月二〇日条によると、守護代が殺害され一時的に不在になった出雲国では、出雲大社神主出雲真高が刃傷狼藉に及んだと守護佐々木政義から注進があったので、幕府は張本人を召進むべしと命令じた。そして、実高を神主から解任し、内蔵孝元を新補している。隠岐国との関係は明確ではないが、出雲大社でも神主とそれ以外の人物の間に闘乱が発生したのだろうか。
 2007年にこの史料を分析した際には「重大事」について考えることもなく、ただ天福元年段階では出雲・隠岐国とも佐々木義清の嫡子政義が守護であるという佐藤氏以来の通説に対して、「佐々木左衞門」には政義だけでなく、その弟泰清も該当することを指摘して、関係史料を再検討した。後鳥羽院が隠岐で死亡した際の隠岐国守護は政義の弟泰清であることが確認できるが、『吾妻鏡』で政義の動向を確認すると、その時点では鎌倉での行事に参加しており出雲国守護であることは確認できる。義清は出雲国守護を政義、隠岐国守護を泰清に譲っていたことが明らかである。寛元四年九月朔日隠岐国都万院堺覚書をみても、貞永元年八月之比「当守護宇賀郷入部之時」とあり、寛元四年の守護と貞永元年の守護が同一人物であることは明白である。
 問題の「重大事」だが、天福元年段階では隠岐国に後鳥羽院が配流されており、このこととの関係を抜きにしては語れない。文暦二年(1235)には朝廷から後鳥羽・順徳等の配流先からの帰京を申し入れ、幕府がこれを拒否しているが、その前段階で八島冠者が隠岐配流中の後鳥羽を擁して反乱を起こすことも可能であった。

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