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2017年10月20日 (金)

毛利氏の神話6

 元春については吉田庄地頭職が没収されたので、母の実家である安芸国の三田入道のもとにいたとある。元弘三年の時点で元春は元服前の一一才であり、父親茂とともに船上山から入京したのではなく、吉田庄に残っていたが、所領没収により三田入道を頼ったのであろう。元春が合戦に参加するのは、足利尊氏・直義兄弟による軍勢催促を受けて吉田庄を占領した後で、武田信武のもとに入り、毛利家の家臣である代官とともに建武三年正月に上洛し、関東から上洛して都を占領した足利軍に合流したと思われる。ただし、この時点では足利氏を追う形で北畠顕家率いる陸奥将軍府の軍が迫っており、一月半ばの比叡山麓の坂本の戦いで敗れた尊氏が京都へ引き返したのに対して、武田信武軍は近江八幡城に籠城した。一月二七日の京都での戦いに敗れた尊氏は丹波国を経由して、九州へ下向して体制の立て直しを行った。武田軍は二月七日に八幡城を放棄して安芸国へ帰っており、一月晦日の時点で幕府方の元春に対して当時南朝方の貞親が譲状を書くことはありえないことと考える。元春の父親茂(宝乗)を含む毛利氏のその他の一族は越後国で南朝方として活動していた。
 元春は武田氏とともに安芸国に下向し、芸州大将に指名された桃井修理亮義盛のもとで軍功を積み、尊氏軍の上洛を待っていた。九州に下った尊氏は三月二日の多々良浜の戦いで南朝方の菊池氏を破って体制を立て直し、四月三日には東上を開始し、五月五日には備後国鞆の浦に着き、一〇日には海路と陸路に分かれて東進した。安芸国人も五月一八日の福山城攻めでは尊氏の側近高師泰の手に属して軍功を積んでいる。元春が師泰の諱名を得て「師親」と名乗るのはこれ以降の事であろう。さらに言えば、上洛して曾祖父了禅と合流してからで、了禅代としての軍忠もそれ以降の事であろう。元春の父親茂(親衡、親を下に付けている)が貞親の庶子であったのに対して了禅流の嫡子となる「師親」(親を名前の上に付ける)としたのは、唯一の幕府方であったためであった。
 以上のように、元春が尊氏方の高師泰のもとに入り、その諱名を受けて元服するのは建武二年ではなく、翌建武三年の半ば以降のことだと思われる。それを父宝乗やその一族との相論に勝つため、申状では都合のよい形に記し、譲状も作成されたとすべきである。河合氏が著書で述べられた内容と実際の状況の間には大きな懸隔があった。

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