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2017年10月20日 (金)

毛利氏の神話5

 この外に毛利氏惣領丹後入道慈阿(時元)も越後国におり、毛利氏が一族を挙げて吉田庄に移住したわけではなく、佐橋庄南条を支配する一族は戦国には上杉氏の家臣となっている。元春申状の少し前に父宝乗が「郡山殿」(=元春ヵ)に送った書状では、吉田庄内の山田氏領に関連して、自分は了禅跡について分明な譲状・置文と毛利氏惣領慈阿の証状を持っていると述べており、元春が主張する内容をそのまま信じることはできない。元春は建武三年に敵方=南朝方であった貞親が記した譲状については無効とする一方で、同年正月晦日の貞親譲状を残している。
 貞親譲状はどうであろうか。残された中では唯一原本だとされている。元春にとっては父宝乗とその子達との吉田庄をめぐる対立に関して有効な面がある。貞親は子である親茂(親衡・宝乗)ではなく、孫である元春(師親)に吉田庄を譲っている。ただ問題となるのは、元春が建武二年に元服した際に高師泰から諱名を与えられ、師親と名乗ったこととの関係である。貞親譲状には「師親」とみえ、この点を裏付けるものとも思われる。さらにはこの時点から曾祖父了禅(時親)の代官として軍功を挙げたとし、それゆえに曾祖父から祖父と父を越して吉田庄を譲られたことになっている。
 元弘三年隠岐国を脱出した後醍醐は各地の武士に軍勢催促を行うが、安芸国吉田庄にいた親茂(宝乗)は軍勢催促の綸旨に応じて船上山へ参陣した。その時点では了禅以下の一族は悉く越後国にいた。申状によると、その時に出家前の時親から宝乗は吉田庄を譲られたというが、これも建武元年に貞親が北条氏に同意して謀叛に荷担して捕らえられ、吉田庄地頭職が花山院家祗候人美乃判官全元に給恩として与えられたことに対する対策であろう。これに対して宝乗は後醍醐の側近千種忠顕の舎弟とともに佐渡国司に同道して越後国へ下った。この時点の了禅は高齢で歩行ができないため、出家して奈良に忍んでいたとする。

 

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