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2017年10月23日 (月)

佐々木泰清の子孫の名前2

 泰清の子の名前について述べたが、その孫の一部についても言及しておく。義重の子は重泰・季義・頼重・重宗の四人の男子がおり、重泰は不明だが、以下は順に二郎・三郎・四郎と記されている。ところが、重泰について正嘉元年の新日吉社小五月会の流鏑馬四番を祖父泰清が務める中で射手として「左衞門次郎重泰」とみえる。宝治元年の父義重に続いてその子重泰もまた射手を務めているのは、重泰が義重の嫡子であったためだと思われる。父義重は太郎であったが、その嫡子重泰は二郎であった。それは三郎頼泰の嫡子貞清が二郎であったのと同じである。貞清の場合は祖父泰清の後継者として「信濃次郎左衞門尉」と称している。父頼泰は信濃守には補任されていない。
 泰清の長子義重は次子で嫡子となった時清の同母兄で、その母は大井太郎朝光女子である。朝光は小笠原長清の子で、承久の乱の恩賞として八条院領信濃国大井庄を与えられた。後に実朝に仕えた叔母大弐局から出羽国由利郷を譲られた。その子次郎朝氏(小笠原氏系図では朝光の子は光長のみであるが、清和源氏信濃国大井之略系にあり)は弘安三年と正応四年の新日吉社小五月会の流鏑馬を務めており、六波羅探題評定衆であった。
 三子頼泰以下の子の多くは葛西清親女子が母である。千葉氏の一族であるが、弘安七年の新日吉社小五月会の流鏑馬三番に清親の孫「葛西三郎平宗清」がみえているように、在京人であった。六波羅探題での関わりの中で婚姻関係が結ばれたと思われる。三郎頼泰の嫡子貞清は得宗で執権でもあった北条貞時の諱名によると思われる。四郎義泰の嫡子師泰は貞時の後任の執権北条師時にちなむものであろう。とりあえず、北条氏との関係がうかがわれるのは以上である。

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