koewokiku(HPへ)

« 佐々木泰清の子孫の名前2 | トップページ | 淡路国太田文の地頭2 »

2017年10月24日 (火)

淡路国太田文の地頭1

 淡路国大田文について『兵庫県史』では高尾一彦氏が担当して述べている。近世史が専門のようだが、淡路国における水軍配置に関する論文名が記憶にあるが、読んだことはなかった。県史で気になるのは以下の記述である(一部省略)。
承久の乱以前の淡路国の地頭の多くは当然のことであるが淡路土着の武士であった。前地頭の名前を記したあと「国御家人」と注記していることで明らかであるが、彼らは前地頭とはいうものの、ほんとうは国領・庄園の下司や押領使なのであろう、と。
 その時点では地頭未設置の国分寺庄について、「本下司公文」は忠通先祖が相伝職だけど近年は領家が押領しているので、本証文に付けて伝領次第を憲法使に申せしむるなりと記されている。本来、下司・公文は存在したが領家が押領しているというのは意味が十分わからない点があるが、領家の派遣した預所が直接支配していたのであろう。これに対して幕府・守護側は、忠通の乱への関わりによっては其の跡へ地頭を補任できるとして、調査を憲法使に申し出ているのだろう。
 憲法使とは編纂所の鎌倉遺文データベースで検索すると本件を含め五件がヒットする。「憲法」のみだと一六三件と大変多くなる。このところ日本では憲法違反が続出しているが、肝心の番人が何の役割も果たさないので、違反が違反で無いかのような誤解が生じて悪乗りが続出している。憲法を理解していない政治家・裁判官には退場してもらわないとしょうがないが、それができるのは有権者のみであるが‥‥‥。
 占領下で吉田内閣が内閣による解散が可能かをGHQに確認したところそれは違反でできないとの回答であったため断念したもかかわらず、占領終了後、今回と同様、野党の選挙準備が整わないうちに自己都合で解散したため、解散後の総選挙には立候補しなかった前国会議員が自分の任期が勝手な解散で失われたため憲法違反だとして訴えたが、当時の最高裁長官が悪名高いあの人物であったため違憲とせず、現在の形となってしまった。
 長官とは日米安保条約が違憲であるとの一審判決が出た際に、政府・米政府と相談して一審判決を取り消した人物である。この人物は戦後間もない時期に参議院議員と文部大臣を経験したこともあり、そのような人物が最高裁裁判官になること自体が憲法の定める三権分立に違反しているとされたいわくつきの悪で、その悪行は、現在の首相と同様数限りない。その長官は東大名誉教授、文化勲章受章者となるから、「憲法」に照らして日本のレベルの低さはどうしようもない。政府の意向に従った勲功の賞として国際司法裁判所裁判官にもなっている。ちなみに文化勲章受賞を初めて辞退したのは陶芸を中心とする文化人河井寛次郎(1955)である。

« 佐々木泰清の子孫の名前2 | トップページ | 淡路国太田文の地頭2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 淡路国太田文の地頭1:

« 佐々木泰清の子孫の名前2 | トップページ | 淡路国太田文の地頭2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ