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2017年9月

2017年9月28日 (木)

大江広元と長井氏4

 上野国那波氏を相続した政広の関係では暦仁二年(1239)二月一七日に将軍頼経が入京して六波羅へ入る行列の中に「那波次郎蔵人」がみえ、宝治二年(1248)一二月二七日の近習結番に「那波左近大夫」、閏一二月一〇日に将軍宗尊親王が方違のため足利氏亭に入ったさいの供奉に「那波左近大夫将監政茂」がみえる。ともに政広の子政茂であろう。政茂は建長六年には引付衆となっている。正嘉元年一二月二九日以降は「那波刑部権少輔」としてみえ、翌二年元旦の椀飯には「那波次郎」が、弘長三年元旦の椀飯には「那波五郎」がみえる。
 広元の子忠成は承元二年に熱田大宮司家の養子に入り大宮司となったが、承久の乱以前にはその職を離れた。ところが、大宮司家の中には承久の乱で京方となり没落し田人物が多く、乱後には幕府が介入して承久三年七月に忠成の子忠茂を忠兼の養子に入れて大宮司としたとされる。他の兄弟との関係からして忠成は幼少期に養子に入り、その子忠茂も同様であったと考えられる。忠成が苗字とした蓮華王院領尾張国海東郷地頭職は大宮司家の憲朝が建久八年に補任されたが、承久京方により没収された。その跡に忠成が補任されたと思われる。
 忠成は嘉禄三年五月一一日に蔵人となり、七月一一日に左近将監、八月二日に叙爵している。時広に遅れること一〇年である。その後も昇進を続け、仁治元年に刑部権少輔、寛元二年には従四位下と位階では他の兄弟を上回っている。そして寛元三年には評定衆に加わり、宝治合戦後罷免され、文永二年に死亡している(系図纂要)。
 嘉禄二年九月一七日に散位大江忠成が敏満寺住僧等作田内厨田五丁を先例に任せて寄進している(敏満寺目安)。任官の前年であり、系図の記載を裏付けるものである。忠成は平等院領近江国大與度庄の地頭であったのだろう。藤原経光はその日記の中で、嘉禄三年六月一八日に内裏より中宮藤原長子の行啓に関する新蔵人大江忠成奉書が届いたことを記しており、忠成は公家として活動していた。その一方で七月五日には凶徒の事により伊勢へ下向しているが、伊勢国に所領を持っていた。寛元三年八月一五日に将軍頼嗣が鶴岡八幡宮放生会の臨んだ際の随兵にも「前刑部少輔忠成」がみえる。この年に評定衆に補任された。
 熱田神宮の大宮司家に養子に入った忠茂も、安貞元年七月一日に左近将監、暦仁元年三月七日の将軍頼家の大納言拝賀の際に「左近大夫将監忠茂」と昇進する一方、その娘は高倉茂通との間に有通を生んでいる。文武両道であった。

大江広元と長井氏3

 広元の子について、一般的には系図の順に親広、時広、政広(宗元)、季光、忠成、重清(猶子)の年齢順とされるが、その母についても不明で、毛利季光について建仁二年(1202)の生まれとされている以外は不明である。極端な場合、母親が別ならば、重清を除く四人が同じ年ということもありうる。
 親広は正治二年二月二六日の将軍頼家の鶴岡参詣の際に「源右近大夫将監親広」とみえ、他の子との間には一〇歳以上の差があった。これに対して時広は健保五年(1217)五月一七日に蔵人に補任され、毛利季光は建保四年一二月一四日に左近将監、五年二月八日に蔵人、四月九日に叙爵して従五位下と、時広よりも任官が早い。また嘉禄元年(1225)の将軍頼経御移徒の儀に親広の子左近大夫将監佐房とともに、季光の子「兵衛蔵人広光」がみえる。その弟親光は嘉禎元年(1235)六月二八日に「毛利左近蔵人親光」とみえるのが初見である。これに対して時広の嫡子泰秀は寛喜元年(1229)二月一日に一八歳で蔵人に補任され、三月一八日には「蔵人左衞門尉泰秀」とみえる。ここからすると、季光の生年は一〇年程度遡ることになり、時広より年長である可能性が高くなる。
 季光が承久の乱で活躍したことは『吾妻鏡』に詳細に記されているが、これに対して乱における時広の動きについては史料を書いている。兄親広は京都守護として赴任していたがため、後鳥羽に口説き落とされて京方となったが、その嫡子で鎌倉にいた佐房は幕府方であった。季光は天福元年(1233)一一月三日には評定衆に加わるが、新任ながら序列は摂津守中原師員、前駿河守平義村、隠岐守藤原行村法師に次いで四番目であった。宝治合戦では北条氏方とみられていたが、三浦義村の娘である妻の意向に従って三浦氏方となり敗死した。
 泰秀については、前回の続きを記すと、父時広が死亡した翌月の仁治二年六月に幕府評定衆となった。同年九月一〇日将軍政所下文にも「前甲斐守大江朝臣」と署判を加えている。宝治合戦では毛利季光とは異なり北条時頼方となる。建長五年一二月二一日に四二歳で死亡している。
 泰秀の弟泰重については確実な初見史料は天福元年五月一九日新日吉社小五月会の流鏑馬二番に「長井次郎泰重」としてみえる。「長井左衛門大夫」として任官しているのが確認できるのは寛元二年九月九日の時点である。ただし、承久の乱後、後鳥羽院四宮雅成親王が但馬国城崎郡高屋郷に配流された際に、新守護法橋昌明が担当し、守護代長九郎義泰が預り、黒木の御所の守護には長井次郎と田結庄三郎が当たったとの記録が残されている。雅成親王は後鳥羽院の死後許され生母修明門院と京都で暮らしたが、後に後嵯峨天皇に替えて親王を擁立する動きがあり、幕府は親王を寛元四年には再び但馬国高屋郷に送り返した。この時点では泰重は「左衛門大夫」である。雅成親王の守護に当たった長井次郎とは時広の官職を誤ったものであろう。長井氏の所領が但馬国に二ヶ所あったのもそのためであろう。ちなみに、文永八年の出雲国宇賀庄の地頭は泰重の嫡子頼重であるが、これも後鳥羽院の隠岐配流との関係で長井氏領になった可能性が大きい。宇賀庄は平等院領であり、平家との関係で鎌倉初期に謀反人跡として地頭が設置された可能性が大きいが、承久の乱で地頭の交替があった可能性もある。

2017年9月27日 (水)

九月末の近況

 まもなく今年度も半分を過ぎるが、思いもかけず、長井氏と毛利氏の問題に足をつっこんでいる。長井氏については、小泉宜右氏「御家人長井氏について」という専論が1970年発行の『古記録の研究』に収録されている。古記録の分野で研究を続けてきた高橋隆三氏の喜寿記念論集で、県立図書館を通じて国会図書館へ複写を依頼したが、論集の論文一つひとつが独立した著作で、小泉氏の論文の半分までしか複写できないとの回答であったそうだ。その結果、山口県下関市長府図書館から貸し出しを受けて利用することになった。図書館相互でのサービスで、利用者は片道分の郵送料を負担すればよいとのことで、本日、受け取ってざっと目を通した。すでに史料をかなり読み込んだので、それほど新たな点は無かったが、とりあえず研究のスタートとなる論文である。
 長井氏については六波羅探題評定衆であったこともあり、森幸夫氏『六波羅探題の研究』所収の論文は読んでいた。手堅く安心して利用できる著書で、論文集はこうでなければいけないと思った。その後、同氏の『中世の武家官僚と奉行人』が刊行された際に店頭で手に取ったが、購入には至っていなかった。それがたまたま、本当に久しぶりに書店に行ったら、なお置いてあったので、確認すると、長井氏に関する論文も収録されていた。奉行人佐治氏と佐分氏に関する論考も興味深いもので、やむなく購入した。痛い出費であるが、島根県の公立図書館に入る可能性はゼロだし、早急に内容を確認する必要もあった。
 先に先行研究を確認してから史料を読むのがオーソドックスな方法だが、一から自分で関係史料を読むことで初めて気づく点もある。史料と論文のコアな部分が揃ったので、ブログで次々とアップしていきたい。森氏の場合は長井氏の六波羅探題役人としての側面に絞って研究している。小泉氏の場合は在地領主長井氏の研究であるが、在地性が弱かったというのがその結論であるようだ。とは言え、庶子である田総氏と上山氏が戦国時代まで続いた備後国は、承久の乱から幕府滅亡まで一貫して長井氏が守護であり、重要な研究対象であるが、『広島県史』にはほとんど言及がない。

2017年9月26日 (火)

毛利氏の神話3

 貞親譲状で祖父寂仏・亡母亀谷局経由で譲られたとするのは「吉田庄」の誤記であろう。そうしないと先ず「吉田郷」のみという意味が通じない。すると、文永七年に吉田庄を譲られたのは時親ではなく亀谷局が正しいことになる。時親が死亡したために亀谷局に讓ることならありうるが、時親は健在である。当初は時親に譲っていたが、時親の不孝などにより悔い返した可能性が高い。これに対して父寂仏の死後に時親は自己の権利回復を主張したが、子貞親との間に問題も残り、貞親にではなく孫の親茂に譲る形を取ったのであろうか(その背景は後述)。ただし、経光には基親と時親以外に親忠と親宗がいたと系図は記しており、実際の経光による譲与はもっと複雑であったはずである。
 前述のように経光の子は「経」も「光」もその名に付けず、四人とも「親」を付けている。その中でも嫡子貞親と時親の二人が「親」を下につけているが、「親」といえば大江広元の長子親広との関係が想定できる。親広は承久の乱で京方とはなったが出羽国寒河江庄を維持し、その子で幕府方となった佐房の系統が幕府で活躍していく。越後国と出羽国は境を接していることもあり、毛利経光女子が大江親広の孫政広の妻となり、その間に元顕が生まれている。
 時親は建長年間前後の生まれであり、譲状を作成した元徳二年には八〇才前後であったと思われるが、この時点でも出家していないのは異例である。その子貞親も六〇才に迫っていたと思われ、そのような状況で時親と貞親の関係には微妙な面があったと思われる。
 次に貞親とその子親衡(親茂)について検討する。父時親からの貞親への譲状は残っていないが、元春申状によると、佐橋庄と吉田庄とは別に時親(了禅)が在京料所として河内国加賀田郷を得、これを貞親(朗乗)に譲ったとする。これに対して元徳二年三月五日時親譲状では下地中分後に地頭方となった吉田庄内吉田・麻原郷を孫子親茂に一円に讓っている。これも時親には貞親以外に親元・広顕などの子がいるなかで不自然である。さらに気になるのは孫太郎親茂(後に親衡)が貞親の嫡子であったかどうかという点である。親茂の兄弟の名前は不明だが、親茂は父貞親と異なり「親」を上に付けているのである。
 毛利氏一族が基本的に越後国佐橋庄を拠点として活動している中、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国船上山に拠った際に時茂は安芸国におり、軍勢催促の綸旨に応じて船上山へ参陣した。親茂が安芸国に居たのは河合氏が言うように「嫡孫」として派遣されたからではなく、貞親の庶子であったからであろう。河合氏は親茂の子元春(師親)が元亨三年生まれであることから、それ以前に親茂が安芸国へ下向していたとされるが、これは妥当な見解である。元春は安芸国の長井三田入道の娘との間に生まれていた。

毛利氏の神話2

 毛利時親に「修理亮」「刑部少輔」「陸奥守」の官職と六波羅評定衆であったと記す系図もあるが、一四世紀後半に元春が作成した系図には「刑部少輔」のみ記す。『尊卑分脈』所収大江系図には時親の官職に関する記載がない。代わりに所領をめぐる動向が詳細に記されており、官職が無かったという事を示す根拠とはならない。森幸夫氏「六波羅評定衆考」のリストには毛利時親は含まれていない。幕府評定衆と違い六波羅評定衆を直接示す史料はほとんどなく、森氏もその根拠を示しつつ、状況証拠で固めざるをえないようである。
 承久の乱後の毛利氏の本拠地は越後国佐橋庄で、安芸国吉田庄には代官が派遣されるのが原則であったと思われ、その毛利氏が六波羅評定衆にまでなる可能性はほとんどないのではないか。それが後に作成された毛利氏の系図の中で様々な書き込みがなされたのであろう。大江氏一族で六波羅評定衆をつとめた長井氏や中條氏(=海東氏、宝治合戦で毛利氏に与同したとして、幕府評定衆の地位を失ったが、その子孫が六波羅評定衆となる)の場合は公家の日記にも登場するが、毛利氏はみえない。
 時親は父からの譲状の年紀=文永七年には成人して結婚し子どもがあったと思われる。その子貞親の建武三年の譲状によると安芸国「吉田郷」は祖父寂仏から亡母亀谷局に文永年間に譲られ、亡母から貞親が譲られたとする。吉田庄は吉田郷・麻原郷・豊島郷・竹原郷からなっていたが、永仁四年には領家祇園社との間で下地中分が行われ、吉田郷・麻原郷が地頭方、豊島郷・竹原郷が領家方となった。
 文永七年に時親が譲られた「吉田庄」と文永年間に亀谷局に譲られた「吉田郷」の関係はどうであろうか。河合氏は寂仏が吉田庄の中心部である吉田郷を亀谷局に重ねて譲与したのは局の実家を意識しての配慮と解釈している。当時八〇才近かった時親の元徳二年の譲状では、吉田庄内吉田・麻原両郷地頭職を孫子毛利孫太郎親茂=貞親の子に譲っている。下地中分後の変化に対応したものとも解釈できるが、これなら「吉田庄地頭職」で十分である。また、嫡子貞親との関係が問題となる。これに対して建武三年正月の貞親の譲状には父時親のことは一切ふれず、先ず「吉田郷」のみを師親に譲るとしている。

2017年9月24日 (日)

毛利氏の神話1

 中世前期の毛利氏についても不十分な知識しかなかったが、一四世紀の芸石政治史を論ずる中で、安芸国吉田庄をめぐる一族間の争いを認識した。高校日本史の授業では、地頭から国人への変化の代表例として毛利氏が越後国と安芸国に所領を持つ中で、南北朝期には一族を挙げて吉田庄へ移住したことを必ず述べていたが、それは何に基づく認識であったのか。
 とりあえず、河合正治氏『安芸 毛利一族』を読み直してみる。宝治合戦で敗死した毛利季光とその子孫の動向について具体的に述べてあった。ところが、毛利家文書をみるとほとんど史料がないことを認識させられた。河合氏はその研究実績に基づき論ぜられているようだが、個々の点については裏付けがないのである。同族の長井氏についてここ一ヶ月以上にわたって調べており、毛利氏に行き着くことは必然であったが、その中で文書が失われ、相続争いが起こる中で、毛利元春(当初は師親)によって紛失状が作成されていることを知り、益田氏と共通すると思う一方で、「いやな予感」がしたのだが、それが現実のものとなっている。益田兼見が紛失状を作成した際にその内容を保証する人物として「道幸」という人物が登場し、これが毛利道幸だとする説があるが、「何故毛利氏が」という思いもあった。確かに同時期に越後国に拠点を持つ毛利氏一族に「道幸」は存在するが、残された花押は異なっている。おそらくは単なる名前の一致のみに基づく説であろう。
 文永七年に毛利寂仏(経光)が安芸国吉田庄と越後国佐橋庄南条を四郎時親に譲っているが、その譲状は袖判形式で、極めて簡素なもので、正しいものであろうか。紛失状が作成されたように原本ではなく写であるにしても、異例である。その他の子に関する言及もない。毛利氏初代となる季光については「四郎」とあるが、その兄弟を含めて明確ではない。経光についても「四男」との記述があるが、「四郎」かどうかは不明である。河合氏は経光の嫡子は佐橋庄北条を譲られた基親だとしながら、なぜ庶子である時親がより多くの所領を譲られたのかと疑問を呈している。そしてその回答は時親の室が得宗被官長崎泰綱の娘であり、その実家に配慮したとする。庄園としては佐橋庄は南条だけで二千貫、吉田庄は千貫と佐橋庄が大きいが、北条については明らかではない。
 河合氏は惣領基親が余り世に出ず、早く嫡男時元に家督を譲っているのに、時親は当時二〇才前後であったが、その後の活躍からしてこの時期に将来が期待される人物と見込まれていたからだといえそうであるとしているが、「その後の活躍」に関する根拠は全く示されていない。経光には基親と時親以外にも親忠・親宗などの子がいた(宮内庁書陵部蔵壬生本、佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について」。山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告 第41号)。

2017年9月14日 (木)

都野郷と吉良氏

 吉良氏については吉良上野介とその名前程度しか知らなかったが、足利氏から別れた一族で、初代長氏は足利義氏の庶長子で、嫡子泰氏の兄にあたり、長氏の嫡子満氏は足利泰氏女子を室としている。満氏の嫡子が貞義で父満氏が霜月騒動で安達氏方として討死したため、祖父長氏の養子に入った。貞義は晩年の暦応二年四月二三日に都野郷を京都・東福寺に寄進している。当然、都野郷地頭職であり、問題は貞義が都野郷地頭となった時期である。
 一般的には反幕府方であった都野氏領であった都野郷を与えられたとするが、史料を確認するとそのような断定はできない。はっきりしているのは、大和国檜牧庄の替わりに吉良上総入道貞義によって寄進された。暦応二年四月一六日に吉良貞義は檜牧庄を拝領し、七月五日に東福寺に寄進したが、何らかの理由でそれが不可能となり、同年に寄進された都野郷がその替わりとされたのである。
 吉良貞義は養寿寺本吉良系図によると、弘安の役に際して石見国に下向したとされる。幕府は西国に所領を持つ御家人に西国所領への下向を命じている。吉良氏はそれまでに都野郷を得ていたのではないか。徳治二年一二月七日六波羅探題下知状写によると、加志岐(有福)別符は建治元年に有福実長により五分の一が嫡子実保に、五分の四が後家妙蓮とその子道智に分割して譲られたが、その後実保分は没収され、東国御家人狩野貞親に与えられ、貞親と妙蓮・道智との間で裁判が行われている。嫡子実保が有福五分一を譲られたのは、それ以外の所領を譲られていないと理解できない状況である。実保は都野郷も譲られていたが、弘安四年以前に何らかの理由で有福五分一とともに没収され、都野郷については吉良貞義ないしはその父満氏に与えられたのではないか。そうすれば、弘安四年に吉良貞義が石見国に下向したとの情報を理解できるのである。
 この結果、都野氏は都野郷の一分地頭ないしは都野郷代官となり、そのことが都野氏をして鎌倉幕府打倒のための軍勢催促に応じさせたのではないか。石見国は観応の擾乱以降、貞治元年に大内氏が幕府に復帰するまでは反幕府方が優勢であり、東福寺の支配は困難であった。貞治三年一一月一五日室町幕府御教書により都野郷に対する波祢五郎左衛門尉の押領を排除して東福寺に引き渡せとの命令が守護に出されているが、その実行は簡単ではなかった。都野氏と東福寺との間では権益(地頭職)の調整がなされていたと思われる。

貞和五年の防長守護2

 佐藤氏は隣国周防の守護についても、貞和四年八月二一日将軍家執事施行状案までは大内豊前入道長弘が守護であったことが確認できるが、③翌五年閏六月一六日奉書の奏者である「右馬助」と④閏六月二九日幕府奉書の宛所「上総左馬助」を同一人物とし(佐藤氏は③は案文であり「左馬助」が正しいとするが、編纂所影写本では「左」とも読める)、上総左馬助は長門探題(足利直冬)制下の周防国守護とした。直冬追討令発令後の一二月二四日幕府奉書は大内豊前権守入道(長弘)に戻っているが、観応元年には直冬方に転じたため、これに替わって河野対馬入道通盛が幕府の命令を施行している。
 ここで問題とするのは「上総左馬助」である。彼は佐藤氏も指摘しているように⑤貞和二年一〇月一八日引付頭人奉書(新興寺文書)の宛所「上総左馬助」が初見史料である。これによりこの時点の因幡国守護であったことがわかる。左馬助の前任の守護は貞和二年一〇月頃に復活した吉良貞家で、後任は観応元年に確認できる今川頼貞である。すなわち、上総左馬助は同族の吉良貞家が奥州探題に遷任した跡を受けて因幡国守護となり、その後周防国守護となったことが確認できる。問題は人物比定であるが、佐藤氏は水野恭一郎氏論文の吉良氏一族との推定を紹介しているが、これが正解である。奥州吉良氏と呼ばれる貞家流に対して、三河吉良氏がいるが、ともに「上総介」となることが多く、その子孫は「上総~」という名で呼ばれている。但馬村岡山名家譜には正平一〇年に山名時氏が足利直冬とともに入京して尊氏軍と戦った際の状況が記されているが、その中にみえる「吉良左馬助」は上総左馬助と同一人物であろう。尊卑分脈には三河吉良流の貞義の孫有義(満義の子)に「左馬助」の付記がある。貞和三年六月八日には京都の吉良満義邸で足利直義の実子如意丸が誕生しており、吉良氏は直義与党の有力者であった。
 話を戻すと、足利直冬が長門探題に補任されるのも時を同じくして、周防国守護には上総左馬助(吉良有義)、長門国守護には義重流長井氏惣領高広が補任された。高広も直義が主導した康永三年引付・内談方の両方のメンバーに含まれ、直義方であった。貞和四年七月に花山寺浄土院の僧が山城国上桂庄について幕府に庭中状を提出し、長井縫殿頭高広が管領として申状に書銘を付して奉行人雑賀入道西義に渡したことが記されているように、この時点では高広は京都にいた。直義としては直冬をサポートする体制を構築したが、その後の観応の擾乱によりその体制は崩壊し、幕府は長門国守護には高師泰、周防国守護には大内長弘を補任した。一通の文書もその扱いを誤ると、何も得るものがなくなってしまうことを示す例であるが、佐藤氏が①を長門国守護の文書と考えられなかったのが不可思議である。とりあえず、南北朝期の因幡・長門・周防の守護について情報を更新した。

貞和五年の防長守護1

 長井氏について調べる中で、①貞和五年六月九日室町幕府御教書(長門忌宮神社文書)の宛所「長井縫殿頭」に注目した。なぜか『大日本史料』の編者はこれに「重継」と注記し、それに対して疑問を持つ人もなく今日に至っている。『南北朝遺文』と『山口県史』も同様の理解。「重継」とは長井泰茂流で備後国田総庄・長和庄・小童保・石成庄を支配した人物で、時代的には大きな矛盾がないが、「縫殿助」である。文書は長門二宮の造営が長門国守護厚東入道に命じてきたが全く行われていないため、厳密の沙汰を命じたものである。当時の「長井縫殿頭」は泰重流長井氏の惣領長井高広である。なぜか多くの史料に名を残しているにもかかわらず忘れ去られており、泰重流の惣領は高広の父貞重から弟の貞頼(実在が確認できるのは泰茂流の惣領)に交替したという誤った説が人名辞典に述べられているのは前述の通り。長井出羽守貞頼も引付方としてみえる。
 この文書をみて高広が長門国守護に補任されたと思い、佐藤進一氏『室町幕府守護制度の研究』下をみるが、氏はこの文書をスルーされている(大変正確な氏の分析にも誤りはいくつかある)。この文書とセットとなるのが②康永二年一一月一九日室町幕府御教書(同社文書)で、長門二宮の造営を厚東太郎入道に命じており、佐藤氏はこれを厚東太郎入道が長門国守護であった微証の一つに挙げている。大日本史料も①に続けて②に言及している。すべては「重継」である。長井氏と長門国との関係は、泰茂流の庶子頼茂が文永から弘安年間にかけて北条氏の下で守護代をつとめていたことはあるが、泰重流の庶子田総氏の活動は管見のところ備後国に限られている。
 佐藤氏は厚東入道崇西(武実)は貞和四年一一月九日に死亡しているが、死に先立ち嫡子武村が守護となったとする。長門守護職次第には貞和四年三月五日に武村が賜ったことを記すが、具体的例証はみつかっていないと佐藤氏は記す。次第は武村の次に「兵衛佐殿直冬」を記す。佐藤氏は在任期間は貞和五年四月の長門探題新補から同年九月に直冬に対する追討命令発令までとしている。まさにその時期に①があるのである。直冬に替わったのは前守護武村であったが、まもなく観応元年六月に直冬討伐の指揮官として下向した高師泰がこれに替わったとする。

2017年9月 8日 (金)

大江広元と長井氏2

 『吾妻鏡』には建久元年以降元久二年まで「長井太郎」がみえる。親広の官職を勘案すると時広である可能性が高い(訂正:武蔵国長井氏であろう)。親広の任官が確認できる正治二年の時点でも任官していない。建保六年五月一七日に京都で蔵人に補任され、六月一四日に鎌倉に帰ると、二七日に実朝に初参し鶴岡八幡宮参詣に供奉している。八月二〇日にも禁裏出仕のため上洛することを二階堂行村を通して申請したのに対して、将軍実朝は幕府家臣として関東に下向している身としては一時的であれ京都に帰参するのはよくないと反対したが、あえて許可を得て上洛した。この時点では「蔵人左衞門尉」であった。翌年正月には鎌倉へ帰り、正月二七日の実朝の右大臣補任を報告する鶴岡八幡参詣に供奉したが、実朝の暗殺により翌日「左衞門大夫時広」は出家した。兄親広は出家後京都守護として上洛したが、時広は鎌倉に残り、これが承久の乱の明暗を分けた。
 貞応二年に備後国小童保では御家人包俊が社僧㝡円を殺害した際に守護人長井入道=時広が地頭となったとする。包俊が地頭ないしは庄官でその跡が没収されたのだろう(祇園社社家条々記録)。元仁二年(1225)六月に父大江広元が死亡した際に時広は下向しなかったとする。西国で承久の乱後の対応に当たっていたのであろう。翌嘉禄二年(1226)には時広が聟を取ったとの記録がみえる(明月記)。嫡子泰秀は一五歳でようやく元服という状況であるが、その姉の聟を公家から迎え、朝廷との関係も重視していたのであろう。貞永元年(1232)一二月には北条泰時が広元時代の幕府と朝廷の間の文書を「左衛門大夫」(泰秀)に贈っている。
 時広の嫡子泰秀は父にならい寛喜元年(1229)二月一日に蔵人に補任され、二日後に左衞門少尉に補任された。文暦元年(1234)三月五日に北条経時が元服した際にも「左衞門大夫泰秀」がみえ、嘉禎三年七月一二日には左衞門大尉に補任されるとともに使宣旨を受けた。祖父広元と同様の形となり、暦仁元年(1238)閏二月一五日には甲斐守に補任された。その活動の中心は鎌倉で、幕府評定衆にも補任されているが、公家社会との関係も維持していた。寛喜元年に改元された際の史料にも蔵人頭卿と上卿(宣旨を出す際の担当)との連絡に「蔵人左衞門小(少)尉泰秀」としてあたり、五月六日には従五位下に叙爵した(経光卿改元定記、大日史5-5)。
 東大寺領茜部庄も大江広元の子孫が地頭となるが、その経緯について東大寺側は後に「不審」とする。貞応二年に地頭請所となり、地頭は時広から泰茂に継承されるが、実際の支配は長井氏の代官が行った。長井氏が地頭となったのは鎌倉初期ではなく、承久の乱後であろう。仁治二年(1242)五月二八日には時広法師が死亡した。年齢は不詳であるが、四〇歳前後であろうか。北条時房の娘が時広の妻となったが、時広の死後公家である藤原実任卿と再婚している。系図によっては「評定衆」と付記するが、評定衆となったことが確認できるのは弟の毛利季光と海東忠成であった。両者とも宝治合戦で三浦氏方となり、勢力を削られる。(泰秀について一部修正)。

大江広元と長井氏1

 しばらく更新をしていないが、最大の理由は大江広元の子孫長井氏を調べていて、訳が分からなくなったからである。西国守護であるが備後国との関係が一番深い。ところが広島県での研究は今ひとつである。鎌倉末から南北朝期にかけて二人の「貞頼」という名の人物がいるが、福原氏の系図などを根拠に同一人物だとしてしまう。両者の史料をみれば(一方は系図を除けば史料はない)別人であることは明らかである。福原氏の「貞頼」、あるいはその先祖である出羽守系の人々に「六波羅評定衆」との付記があるが、一次史料では誰一人確認できない。「六波羅評定衆」となったのは因幡守・掃部助系の泰重-頼重-貞重である。問題となるのが貞重の弟「貞頼」で「六波羅評定衆」との付記はあるが、一次史料は何も残っていない

 話を戻すと、長井氏は大江廣元の子時広が「長井庄」を得ていたことから「長井氏」と名乗ったとするが、長井庄には出羽国説と武蔵国説がある。出羽国は奥州藤原氏を滅ぼしたことで広元が寒河江庄と長井庄を与えられたもので、「出羽守系」がいることからもこちらが正しいと思われるが、実際に時広以下の子孫がこれを支配していた文書を欠いている。後には伊達氏の支配下に入るが、その前が問題である。奥州藤原氏が摂関家領の管理者であったともされている。広元の長子親広が得た出羽国寒河江庄は建長五年の近衛家領目録にみえている

 広元は公家出身であり、鎌倉に拠点を移してからも京都との関係を維持していた。それはその子も同様で、長子親広は実朝暗殺後出家し、その後京都守護となったが、直前に後鳥羽院からの依頼を受けて京方となった。後鳥羽院の初期の寵臣源通親の養子となっており、その関係が前提となったとの説もある。広元も幕府での地位がありながら建久2年4月には明法博士兼左衞門大尉、並びに検非違使に補任されたが、これに対して九条兼実が異例だとしてその日記『玉葉』で批判している。「明経博士ならともかく明法とは」、「検非違使なら左衞門少尉」で十分ではというものであった。左衞門少尉から大尉に進むのが普通である。実はこの官職は蔵人とともに長井氏によって継承されていくのである

 嫡子親広は養父の源姓を使用している。正治二年二月二六日には頼家が鶴岡八幡宮に参詣しており、その「御後衆」二〇人の中に「掃部頭広元」とともに「源右近大夫将監親広」がみえる。これ以降も広元とともにみえることが多い。それが承元三年正月に実朝が鶴岡に奉幣した際の使者として「遠江守親広」がみえる。「遠江守」は北条時政が補任され、この後も北条氏の有力者が補任されるポストである。建保三年一〇月にはこれに「民部権少輔」が加わっている。建保四年五月一三日政所下文には「民部権少輔」とのみみえる。建保四年六月には父中原広元とともに「大江姓」に戻している。そして実朝が右大臣に転任して政所始めがなされた建保六年一二月二〇日には「武蔵守」としてみえ、承久元年正月の実朝暗殺の翌日に出家して「蓮河」と名乗り、その後京都守護に補任されて上洛し、承久の乱で京方となったのはすでに述べた通り。その後に隠退生活を送った出羽国寒河江庄は摂関家領で、母の父多田仁綱が地頭代を務めていた。親広の官職は同時に父が生きていたこともあり広元とは異なるが、左衞門尉で検非違使の兼任は弟時広=長井氏が継承していく

囲碁将棋界の近況から5

 国内戦はさておいて、囲碁の国際戦では三星杯のベスト一六が出そろった。中国・韓国が7名ずつ、日本が2名である。これを直近で八強まで進行中のLG杯と比べると、今回の16名中、LG杯八強なのは中国の1位柯潔九段、韓国の2位申眞諝八段と日本の井山六冠の三人のみである。今回井山六冠は初日に敗れたが、相手の范蘊若六段は前回ベスト四のシード選手であった。井山六冠は前回不参加。各組四人中二人が一六強戦に進むが、井山・范の二人が実力上位と思われた。しかし、二日目に范蘊若六段が韓国の宋泰坤九段に敗れたため、最後の椅子を井山・范の再戦で争い、井山六冠の勝利となった。宋九段は過去に世界戦準優勝などの経歴があるが、最新の韓国ランキングは四六位と低迷していた。それが予選を勝ち抜いた好調さを維持している状況である。上位の実力差は紙一重なのであろう。続く一六強戦でLG杯八強の井山・申戦となり、もっとも注目される。要は一部を除けば大会毎に上位が入れ替わっている。とくに中国が顕著で、安定しているのは柯潔九段ぐらいではないか。韓国も同様であるが、ベテランの李世九段と朴永訓九段はなお国際戦で活躍している。二〇歳の柯潔九段も手の読みでは一〇代の若手には適わず、経験で勝負といっているから恐ろしい。将棋は王座戦が始まり初戦は挑戦者中村大地六段が羽生王座に勝利。まさに世代交代の波が押し寄せているが、なおトップは混戦状態。果たしてエースは登場するのであろうか。
 最近更新していないが、大江広元の末裔長井氏に関する疑問に基づき調べていたからである。一応決着したので、その記事をこれからアップしていく。

囲碁将棋界の近況から4

  囲碁界では最年少昇段した一七歳の芝野七段が本因坊リーグ入りを決め、一九歳で台湾出身の許家元四段が棋聖戦Aリーグで高尾名人とともにSリーグへの昇級を決めて七段に昇段した。囲碁・将棋でともに賞金が高額で読売新聞が主催する囲碁棋聖戦と将棋竜王戦のシステムはよく似ている。両タイトルともそれまで最高位であった名人戦に対して新設された。ともに最高位であった名人戦が契約更新時に囲碁は読売から朝日に、将棋は朝日から毎日へ移った。そのため、日本棋院と読売が新たに棋聖戦を創設し、将棋は名人戦が朝日と毎日に掲載されるという変則的な形となり、それまで毎日が掲載してきた王将戦は毎日系列のスポーツ日本に掲載された。一方で十段戦を主催してきた読売はこれを発展的に解消し、タイトル賞金最高の竜王戦を創設した。
 囲碁棋聖戦は当初各段戦を行い、優勝者がパラマス方式という下位段優勝者が上位段優勝者に挑戦し、最後に最高棋士決定ト-ナメントで優勝した棋士が挑戦者になった。将棋なら4段以上だが囲碁は初段からプロなので、2014年にS・A・B・Cの四クラスとなり、将棋の六組制以上にシンプルとなった。裏を返せば下のクラスは参加者が大変多い。Sリーグ入りの最年少は一六歳の一力七段である。
 将棋界では竜王と名人を最高位とするが、囲碁界では棋聖戦が単独の最高位である。将棋名人戦は順位戦を昇級してA級で首位とならない限り挑戦者にはなれない点で、実力と共に時間を要するタイトルである。竜王戦にもクラスがあるが、そこまでの時間は要しない。典型的であったのが、竜王戦を九連覇した渡辺氏で2004年に竜王となったがA級昇級は2010年で、名人挑戦はまだない。渡辺氏は20歳での竜王獲得だったが、羽生氏が最年少で19歳である。
追記 竜王戦は羽生二冠が挑戦者となりひさしぶりの羽生-渡辺の七番勝負となった。羽生二冠も万全ではないが、それ以上に竜王・棋王二冠の渡辺氏は不調である。竜王戦九連覇中は二日制の碁が特に強さをみせていたが、挑戦者になるまでは一日制であるがゆえにたのタイトルでは活躍しないと思っていた時期があった。羽生二冠が三連勝して竜王七期=永世竜王まであと一勝に迫ったこともあったが、そこから渡辺氏が四連勝ということもあった。渡辺氏も二〇一二年ニは一日制を克服して名実ともにトップとなったこともあったが、最近は不調である。八日の順位戦は勝利したが今年は5勝7敗。羽生氏も八日の挑戦者決定戦に勝って連敗を4で止めたが14勝11敗である。現在ランキング1位の豊島八段は17勝2敗。

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