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2017年8月

2017年8月28日 (月)

将棋・囲碁界の近況から3

 高尾9段の実兄は近世史家(そのブログには家族のことも述べてある)で活躍している割にはポストにめぐまれていなかったが、先日、NHKで忍者を取り上げた番組をたまたま見ていたら、三重大の准教授となっており、これでようやく落ちついて活躍できそうであるが、一方では家族は東京においての単身赴任であるようだ。実力の割にポストに恵まれない多数の人がいる反面、ポストに見合わない実力の研究者も山ほどいるので、日本の各分野の採用の方法をなんとかしないと、将来はさらに暗いのではないか。地方はさらにポストが限られるが、その採用も山梨市までいかなくてもずさんである。才能のある人を採用しない限り、地方の将来もまた暗い。
 「才能のない人はどうしたら」との疑問も出ようが、自分がどの分野に才能があるかを理解でき、その才能をのばせる社会にしていくしかない。実際には才能に気づかされることもなく、また、気づいても伸ばせないままの例もやまほどあろう。様々な才能が正しく評価されていく社会でなければならない。逆に言えばその役割以上に優遇されている職業があるのも確かである。国会議員などは重要なので、優遇の見直しではなく、本当に力量のある人が選ばれるシステムの構築が必要である。女性議員の比率も高めないといけないが、そのためには子どもの養育のあり方を、男性の役割とともに再考しなければならない。
 二世が多いのが日本の各分野の特徴であるが、一番の問題点は本当に才能のある人の伸ばす門戸を狭くしていることである。二世だから悪いというのではなく、ようは一人ひとりがどうかであるが、質の低下を招いているのは確かである。
 芸能の分野でも二世がほとんどだが、親子二代のチャンピョンなど、ボクシング・レスリングなどクラスが分かれている世界以外ではないのではないか。囲碁・将棋の世界をみても祖父以来の棋士もいるが、親子でタイトルなどという例は、ヒカルの碁の塔矢親子のモデルとなった羽根父子のみで、父羽根泰正9段は5タイトルだが、中部総本部の棋士のみ参加の王冠位4期と全棋士参加の王座1期である。子の羽根直樹9段は七大タイトル中4タイトルを通算8期(合計タイトル数25)保持しており、父を上回っている。直樹9段は父が棋士でなくても大成するセンスを持っていたから、この成績なのであろう。将棋の藤井4段にしても親は将棋を知らないということである。また、タイトル棋士を上回るセンスを持ちながらも大成できなかった棋士もいくらでもいると思われる。

将棋・囲碁界の近況から2

 同じ頃井山六冠も七月三〇日に山田九段に早碁棋戦である阿含杯で敗れるまで、二〇連勝に近づく勢いであった。この棋戦は決勝が一九歳の許家元四段を破った四〇歳の高尾名人と準決勝で山田九段を破った一八歳の六浦三段で行われ、その勝者は中国の阿含杯勝者と対戦する。現在は韓国のトップ朴九段が20連勝に近づいている。世界戦の夢百合杯では世界ランキング1位の柯九段と2位の朴九段が準々決勝であたり、朴9段が勝利し、前回優勝者が敗退。ベスト8は韓国の両朴氏二名を除く中国の六名は新顔のみである。準々決勝は両朴氏と2名の新顔が勝利。
 一一月には世界戦LG杯のベスト8の棋士が東京で、準々決勝、準決勝を行う。日本勢で唯一ベスト8に残っている井山六冠としてはまもなく始まる高尾名人とのリターンマッチとともに重要な戦いとなろう。であるからこそ、一力七段としては絶好調の井山六冠から王座タイトルを奪取するぐらいかぎりぎりの勝負でないと、国際棋戦での好成績はおぼつかないであろう。
 将棋界については新聞の将棋欄の記事とネットで知ったぐらいの知識しかないが、佐藤名人・豊島八段・菅井七段といった二〇代後半のトップ棋士がようやく羽生世代ならびに渡辺竜王に追いつき追い越せのレベルになったぐらいであろうか。以前述べたように現在は頭一つ抜けた棋士はいないようである。豊島・菅井両棋士は相次いで藤井四段に公式戦で勝利したことで、一般的には名前が知られるようになった。将棋レーテイングでは佐藤名人とこの二人がベスト3で、豊島・佐藤・菅井の順で四位が羽生三冠である。菅井七段は王位戦7番勝負で羽生王位を3勝1敗と追い込んでいる。
 以前は、プロとアマの差が一番大きいのが将棋と相撲だといわれていた。これに対して囲碁は同じような価値をもった手が複数あることと、人間の能力ではわかることが限られれているためか、人間同士の差がつきにくく、女性棋士が男性棋士に勝利することも珍しくなかった。それがAIの登場で大きく変化している。将棋界も早晩、時代の変化の波に巻きこまれることは確実であろう。
 とはいえ、囲碁も国際戦の影響で持ち時間が短縮されたことで、よい面と悪い面の両方の影響がみられる。持ち時間は囲碁の三大タイトルはリーグ戦4時間、挑戦手合い8時間だが、将棋の四大タイトルは、リーグ戦4時間(A級順位戦のみ5時間)、挑戦手合い8時間(王位・王将)と9時間(名人・竜王)となっている。手数は将棋は二百にとどくことはまずないが、囲碁は三百を超えることもそう珍しくない。

将棋・囲碁界の近況から1

 藤井四段の今年度のタイトル獲得の可能性もなくなり(NHK杯等の早碁は残っている)フィーバーも落ちついてきたが、冷静に観察すると、昨日の囲碁王座戦の挑戦者決定戦が二〇歳の一力遼七段と一六歳の芝野虎丸七段であったように囲碁界の方が若手の台頭が著しい。主に中国と韓国であるが、外国の影響を受けざるをえないからであろうか。
 芝野七段は全棋士対象の早碁棋戦である竜聖戦の優勝で八月一日付で三段から七段への昇段を果たした。決定戦に勝利して挑戦者となった一力七段は天元戦に次ぐ二度目の挑戦で、今年の天元戦でも挑戦者決定戦に進んでおり、序列一位のタイトル棋聖戦では最終戦を待たずにSリーグ一位を決め、これまた挑戦者決定トーナメントの勝者との間で挑戦者決定戦(アドバンテージあり)に進出している。一方では本因坊戦ではリーグ入りをかけた一戦で伊田八段に半目負けであった。三期前のNHK杯の決勝で敗れて以降、伊田八段を苦手にしているか。昨年のリーグ入りをかけた一戦でも伊田八段と同じ中部総本部所属の羽根九段に半目負け。名人戦も最終予選で伊田八段に敗退。
 一力七段の登場を受けて、木本七段以下少し年上の若手も芝野七段以下の世代も台頭しライバルとなっている。芝野七段とは二連敗の後、今年のグロービス杯の三位決定戦と今回の王座戦挑戦者決定戦で勝利して2勝2敗となった。名人戦でもリーグ入りをかけた本戦決勝で羽根直樹九段に敗れており、次期へ向けた予選では、現時点で本戦進出まであと1勝のところまで来ているが、先は長い。羽根九段は少し前まで井山六冠に対戦成績で互角であった。
 一力七段は国際戦での実績を見込まれ中国最高の甲級リーグにも参戦しているが、2戦してまだ勝利はなく、今回の井山六冠との二度目の挑戦手合いで善戦どまりで満足してはおられないだろう。本人が選択した途だが、「大学に通いながら勝てるほど囲碁はあまくない」といった批判が出る可能性もある。今年初めに中国・韓国のトップ棋士に敗れ、DEEP ZEN GOにも敗れて「どうした」と思われた井山六冠だが、その後の調子は本人がベストというもので、囲碁サイトでの早碁であるとはいえ、世界一位の柯潔九段にも二勝している。柯潔九段は続いて行われたアルファー碁との対戦で三連敗したが、その後は人間のトップ棋士相手に二〇連勝に近づく好成績であった。

2017年8月25日 (金)

出雲国の国御家人の婚姻3

 後家尼は庶子忠宗の娘で、国御家人で三処郷と横田庄を支配する三処長綱と結婚し、三処郷の一分を兄弟で承久ノ乱後秋鹿郷地頭となった五郎忠泰の子=姪に譲ったのであろう。後家尼が時輔に所領を寄進した背景には以上の事があったと思われる。国御家人長綱の側からすれば、東国御家人との結婚で自らの立場を強化したのであろう。長綱は左衞門尉に任官しており、一定の経済力(三処郷・横田庄地頭)とパイプ(土屋氏)を持っていたのである。
 続いて承久の乱後であるが、勝部宿祢一族の朝山善王兵衞尉の娘が承久新恩地頭として久野郷を獲得した常陸国御家人中郡重経に嫁いでいる。勝部宿祢仁多郡系の惣領であった仁多氏は郷司・下司としての所帯は奪われ、東国御家人の地頭の代官の立場にあったと思われるが、仁多四郎重房は娘を久野郷地頭重経の庶子道意に嫁がせている。すでに見たように、道意は嘉禄二年(1226)の生まれで、その結婚は寛元~宝治年間(1243~49)前後であろう。重房は道意の兄で惣領となった経氏の子清経にも娘を嫁がせている。また、国御家人佐々布三郎朝重は娘を道意の弟光経に嫁がせ、文永八年に小境保地頭であった小境(堺)二郎信盛は道意の子で仁多重房を母とする泰経に娘を嫁がせている。
 在国司朝山氏の場合は、一三世紀半ばの惣領昌綱が出雲国に入部していた東国御家人土屋四郎左衞門入道娘との間に嫡子時綱と泰綱を、佐治重家娘との間に輔頼をもうけているが、重家は北条重時・長時父子の側近であった(黄葉記、この点は西田友広氏による)。
 昌綱が在京人としての側面を持っていたためであろう。ちなみに、出雲国守護佐々木泰清の嫡子時清について、北条時頼の諱名を与えられたとする説があるが、重時・長時父子ではないか。弘長三年一二月一五日弘長寺縁起の中で来海庄地頭別府満資は主君として弘長元年死亡の重時の名を上げ、次いで同三年一一月に死亡した時頼の名を上げている。嫡子時綱の名前も北条長時ないしは守護時清にちなむものであろう。昌綱の従兄弟頼元の孫でありながら、世代的には昌綱と同様の多祢頼重も六波羅探題奉行人関蔵人の娘との間に昌頼をもうけ(西田友広氏による)、昌頼は昌綱の娘との間に辰若丸をもうけている。正安二年の杵築大社造営の奉行を命じられた多祢次郎左衛門尉頼茂は頼重の孫資頼の子に比定できるが、その娘を守護佐々木泰清の長子義重の孫貞泰に嫁がせ清秀をもうけている。
 以上、国御家人の立場から記した。

 

出雲国の国御家人の婚姻2

 問題となるのは妙音の出身であった。弘安四年の横田八幡宮の棟札に願主として「三処禅尼妙音」とあったため、三処氏の出身であるとの説が有力となったが、三処氏は勝部宿祢一族の国御家人であり、その娘が将軍家女房となり、執権北条氏との間に子をなすには理由が必要である。三処氏が東国御家人ならば、あながち否定されるべき見解ではないが、総合的に判断して三処氏が国御家人であることは確実である。
 「三処禅尼」という標記は、妙音が横田庄地頭となった後に、三処郷の地頭にもなり、「三処郷」に居住したことを示している。それはなぜであったのだろうか。石清水側は年貢の未進が一向に改善されないので、横田庄の下地中分を求め、幕府がこれを認めた。これに対して、三処氏側は三処郷もまた妙音に寄進したのだろう。三処郷は公領であるが、出雲国は文永年間には持明院統後深草院の分国であったが、弘安四年には大覚寺統亀山院の分国となり、各所領の支配を認められた公家(領家ないしは給主)が交替した。この年の横田八幡宮の棟札には妙音とその代官がみえるが、代官は三処後家尼の息子から交替している。三処郷についても公家との関係が悪化したため、後家尼は妙音に寄進したのではないか。妙音領とはいっても実質的には幕府が管理し、妙音は得分を得る立場であったと思われる。そうした中、妙音は横田庄のみならず三処郷についても代官三処氏を解任し、幕府関係者が代官となったと思われる。代官解任の理由は年貢の未進などどのようにも考えられたであろう。そのため、幕府が滅亡して建武政権が成立すると、後醍醐は三処郷地頭職を天台宗延暦寺の末寺で国内最大の寺院鰐淵寺に寄進した。
 「横田庄と女性」では、三処氏を時輔と深い関わりを持った三浦氏の一族であるとの説を示したが、同じ平姓で三浦氏から養子を迎えて深い関係を持つ土屋氏出身の女性で、大原郡久野郷地頭と結婚した女性に「三処郷地頭」との注記があったことから、後家尼は鎌倉初期に出雲国に複数の所領を獲得して入部した土屋氏の出身であるとした。女性の父は「土屋五郎忠泰」であるが、文永八年にはその子孫である「土屋五郎」が秋鹿郡秋鹿郷地頭としてみえる。秋鹿郡については建久二年には国衙在庁官人中原頼辰が郷司であり、土屋五郎忠泰が地頭となったのは承久新恩であった。忠泰は建長二年の「土屋弥次郎(忠宗)跡」に属し、惣領「土屋入道跡」に対する庶子であったが、土屋実遠の子弥次郎忠宗は早くから父の代わりに出雲国に入部していたと思われ、『吾妻鏡』には文治元年にその名がみえて以降、登場しない。平家との関わりが深い蓮華王院加賀庄も平家没官領・謀反人跡として土屋宗遠に与えられ、こちらは嫡子宗光=久留島典子土屋入道をへて評定衆にもなった光時に譲られた。加賀庄内持田村は庶子忠宗領となり、その子に比定できる三郎左衞門尉忠時が継承し、忠時は後には大野庄内にも権益を得ている。

出雲国の国御家人の婚姻1

 出雲国に入部した東国御家人の場合、同じ東国御家人の娘と婚姻関係を結ぶ一方で、出雲国の国御家人の娘とも関係を持つ例が多いことを確認した。それでは国御家人からみたらどうであったかを確認する。
 鎌倉初期に入部してきた東国御家人を婿に迎えるケースとして、神門郡朝山郷を支配していた朝山惟綱が乃木光綱を娘の婿とした例と、能義郡富田庄の神主布部氏が吉田庄地頭として入部してきた佐々木厳秀を娘の婿とした例が確認できる。前者はその後の承久の乱で朝山惟綱が没落したので、その間に生まれた四郎高定は当初は光綱嫡子との扱いであったが、光綱と承久の乱後の出雲国守護に補任された叔父佐々木義清の娘との間に生まれた太郎泰高と七郎景家がそれぞれ、乃白郷・日吉末社と乃木保を譲られ、高定は母の所領であった神門郡木津御島を譲られた。系図には惟綱の子として「朝山左衞門太郎光綱」を記すが、これが乃木光綱と同一人物かは不明である。後者のケースで誕生した泰秀は吉田庄を譲られ吉田氏惣領となった。
 以上の二例は国御家人の娘が東国御家人の男子と結婚したものであったが、逆の例もある。古文書や系図の明確な記載はないが、勝部宿祢一族で仁多郡を支配していた一族の三処長綱は、東国御家人の娘を妻に迎えた。長綱は治承・寿永の乱で闕所となっていた同族の横田兵衞尉跡の継承を認められていた。その死後は、子が幼少であったためか、後家として家の実権を持ち、横田庄の庄園領主石清水八幡宮の史料によると三処郷のみならず、横田庄の地頭でもあった。石清水側の主張によると、長綱が横田庄を地頭請所として申請し認められていたが、長綱の死後、後家尼が地頭になると年貢の未進が目立つようになり、石清水側は幕府に訴えた。そのため、後家尼は新たな請文を提出して、年貢納入を約束したが、しばらくすると未進が復活したため、石清水側は再度幕府に訴えた。後家尼側は幕府の命令に背いた下知違背に問われることを回避するため、文永元年に六波羅探題となって京都に赴任した北条時輔側と交渉し、地頭を時輔に寄進して、自らはその地頭代となる途を選択した。文永八年の横田庄地頭は「相模式部少輔」=時輔であった。
 実際の支配は代官となった後家尼の息子が行ったため、やはり未進が発生した。一方、文永九年二月には得宗で時輔の弟であった時宗が時輔を暗殺する二月騒動が起きた。時輔に替って地頭となったのはその母妙音であった。妙音は将軍に仕える女房であったが、最初は時頼の兄で執権であった経時との間に男子二人をなし、経時の死後は弟時頼との間に時輔を生んだが、時頼の後継者となったのは北条重時の娘が産んだ弟の時宗であった。

2017年8月23日 (水)

多祢氏について3

 これに対して沙弥浄覚が相続の経緯については、杵築一族中や多祢・朝山へも先に申したことを千家側に伝えているように、国衙の代表者である多祢・朝山両氏が重要な存在だと考えられていた。その後、観応の擾乱が始まり、出雲国内でも幕府派と反幕府派の間で激しい対立が続くが、文和三年に多祢郷は幕府方によって朝山義景に兵粮料所として預けられた。この時点では反幕府方が優位に立っており、朝山氏内部でも対立があった。多祢氏惣領が反幕府方に転じたため、その跡が闕所とされ、幕府方の中心である朝山義景に預けられた。
 応永二十四年には多祢郷は守護京極氏領となっていることが確認できる。朝山氏惣領が将軍の側近となり京都周辺に本拠を移したため、守護領に編入されたのだろう。京極氏は幕府奉公衆として石見国と出雲国に所領を持つ佐波氏を多祢郷の代官に補任したりしている。
 戦国期以前の長田西郷の状況を記した目録には郷内に多祢分田三町八反・山畠四反があったことが記されている。鎌倉時代に長田西郷を支配した長田氏は勝部宿祢一族の多祢氏の庶家であり、惣領多祢氏の所領があったことを示すものであろう。
 文明六年十一月二十九日には京極政高が尼子経久に意宇郡阿陀加江内青木分并多祢分等を安堵している。「青木」は郷内の地名で、後の平浜八幡宮神主青木氏の苗字の地であろうが、「多祢分」とは過去に多祢氏の所領があったことを示すものであろう。
 永正十六年に尼子氏が行った大社遷宮の儀式でも、武家役は本来朝山殿と多祢殿とが務めることになっていたが、前者は名代佐陀の別火が、後者は宍道六郎殿が代理を雇って実施している。尼子氏は遷宮の実施とともに、永享年間に中絶した杵築大社三月会の再興を図り、朝山氏惣領家から、佐陀神社に養子に入った朝山利綱から三月会の負担に関する旧記を提出させた。

多祢氏について2

 多祢氏惣領は二代目頼元を除けば「二郎」である。九郎頼元は兄資元の養子に入って惣領となったためである。資元と頼元の間にはそれほどの年齢差はなかったと思われる。
 出雲国守護三郎頼泰は、『吾妻鏡』文応元年(1260)正月一日条の「椀飯」に兄「信濃次郎左衛門尉」とともに「信濃三郎左衞門尉」として見える。その同母弟七郎頼清が建長三年の生まれなので、寛元元年(1243)頃の生まれであろうか。乾元二年(1303)四月以前には死亡しており、この時点では六十歳前後である。その子貞清は正安二年(1300)に守護であったことが確認でき、正中三年に死亡している。貞清の生年は文永年間半ば(1270)前後であろうか。清秀の祖父重泰は正応元年(1288)に四十二歳で死亡しており、宝治元年(1247)の生まれとなる。その孫となる清秀は徳治年間(1306~1308)前後の生まれであろう。頼茂の女子が佐々木義重の孫貞泰との間に生まれたのが清秀であるのは十分成り立ちうるものである。
 朝山時綱の父昌綱は文永五年に死亡しているが、時綱は文永八年の時点では「朝山右衛門尉」であり、元服して間もない時期であろう。そうすると時綱は建長年間の生まれとなり、守護頼泰と同世代で貞清よりも一世代年長となる。
 嘉暦元年十二月十七日に六波羅探題が杵築大社三月会頭役を安来庄領家遠江前司祐明が負担しないとして、代替の処置をして祭礼を遂げるよう「朝山出雲権守」に命じたことを国造に伝えている。
 多祢頼茂の後、多祢氏惣領は頼盛の弟頼宗の系統に移ったようで、その孫清頼には「多祢惣領、兵庫助」とある。実際に暦応元年十二月には三刀屋氏惣領信恵からの三刀屋郷押領の訴えを受けた幕府が、目黒太郎左衞門尉と多祢兵庫助清頼に下地を信恵に打渡し、遵行の請文を提出するよう命じられ、実際に翌二年正月に信恵の請取状を副えて請文(起請文)を提出している。
 康永二年に杵築大社国造の継承をめぐり千家孝宗と北島貞孝の間で相論が発生した。兄弟の父国造孝時は、当初清孝に譲ったが問題が発生したため、悔い返して弟の貞孝に譲る事にした。そうした中、前国造泰孝の後家尼覚日が清孝を一代限りの国造とし、その後貞孝に譲るという形で調整を図った。
 一期分として国造を継承した清孝は病弱であったこともあり、別の弟孝宗がその職務を代行していた。ところが死期が近づいた時点で、清孝は孝宗に国造を譲ってしまったのである。国造の継承については、覚日の甥である出雲国守護塩冶高貞が保証人となっていたが、その高貞が幕府への謀反を企てたとして暦応四年に追討されたことが、この事態をもたらしたことは確実である。

多祢氏について1

 勝部宿祢惣領朝山氏とともに、国衙在庁官人として重要な役割を果たしたのが多祢氏であるが、系図の記載を除けばその史料はほとんど残っていない。十二世紀半ばの出雲国衙庁事勝部元宗(出雲大社文書)の子多祢資元が飯石郡多祢郷を支配し、その子達は島根郡長田西郷・法吉郷、楯縫郡多久郷・万田庄・平田保や出雲郡建部郷?を支配すると共に、出雲国衙の庁事や官人を務めた(大伴氏系図)。
 建久二年の在庁官人等解には資元の兄弟明元・孝光と甥惟元が署判を加えている(同文書)。宝治二年の杵築大社遷宮を報告した建長元年注進状には在国司勝部昌綱と庁事勝部広政とならんで、多祢資元の養子時元が庁事として署判を加えている。また、注進状の記載内容には役人頼重とその子頼盛がみえている(同文書)。時元と頼重との間には二世代のズレがあり、資元の子頼元と孫重元は若くして亡くなった可能性が大きい。頼盛もこの時点で元服しており、貞永年間(1222-24)前後の誕生で、その父頼重の誕生も建仁年間(1201-04)前後であろう。頼重は文永八年(1271)に死亡しており、七十歳近くまで生きているが、子頼盛は同三年の死で四十歳過ぎ亡くなっている。
 頼盛には一族の朝山勝太兵衛入道惟孝女子との間に嫡子孫二郎資頼と庶子孫二郎?昌盛があった。朝山惟孝は朝山元綱や佐陀神主長元の弟であるが、十三世紀初めの誕生で、その女子も夫となった頼盛と同じ頃の生まれであろう。両者の間に生まれた資頼は仁治年間(1241-43)以降の誕生であろう。その同母弟昌盛は正応三年に死亡しているが、当時の年齢は四十代であろう。資頼の死没年代は不明だが、正応三年以降であることは確実である
 正安二年閏七月五日には関東御教書で、信濃次郎左衛門尉貞清・浅(朝)山次郎左衛門尉時綱・多祢次郎左衛門尉頼茂等とともに、杵築大社造営奉行の沙汰を行うことが神主に命じられているが、この多祢頼茂は「大伴氏系図」には登場しない。正安二年には資頼は六十歳前であり、同年の多祢次郎左衛門尉頼茂は資頼の嫡子であろう。
  佐々木系図一本には、泰清の長子義重の曾孫清秀についてその母は多祢次郎左衛門女子であるとの記載がみられる。清秀は元弘三年に関東で討死しているが、一方では叔父信重が同年には作道で討死しているので、元服して間もない時期と考えられる。

2017年8月17日 (木)

三処後家尼と土屋氏

 この問題について、再度情報を整理してみる。一つのきっかけは河内国伊香賀郷地頭となった光時の子六郎光康の子孫の残した古文書をみたことによる。もう一つは三処左衞門長綱後家について、三処郷一分地頭職を得ていたとする中郡氏について整理したことである。
 土屋氏は相模国御家人中村氏の一族で、土肥実平の弟宗遠が鎌倉初期に出雲国大原郡福田庄の地頭となったことで出雲国との関係を持った。その後、上賀茂社領福田庄は宗遠の代官実法法師の濫妨を賀茂社が訴え、頼朝はその要求を容れて、地頭職を停止した。ただし福田庄以外の所領も獲得した可能性は高い。
 土屋氏は三浦氏と同じ桓武平氏に属するが、三浦義明の弟岡崎義実の子義清が土屋宗遠の養子となったことで、両家の関係はさらに深まった。頼朝が挙兵した直後の石橋山の合戦には、宗遠と義清、さらには実子の弥次郎忠光が参加していた。これに対して嫡子宗光は文治元年の生まれであり、兄忠光とは一世代の差がある。
 義清とその一族は三浦氏一族から侍所別当となっていた和田義盛の乱に関わったことで、没落し所領を失った。これに対して宗遠の実子三郎宗光は北条氏方となって生き残り、幕府評定衆にもなっている。そして承久の乱では「土屋兵衞尉宗長」が一人を打ち取っている。建保七年正月二十七日、実朝は右大臣となりそれを祝うため鶴岡八幡宮へ拝賀に出かけ暗殺されるが、その際の随兵として登場している。嫡子宗光は三十五歳で同年七月に「土屋左衞門尉」として登場する。文暦元年には幕府評定衆となったが、その翌年に五十二歳で死亡した。
 系図では宗長を宗光の子とする。宗光の嫡子光時は寛元二年(1244)六月に将軍頼嗣が元服・任官した際に「土屋左衞門三郎」として登場する。同年八月には「土屋次郎時村」がみえるが、系図では宗長の子とする。一方、宗光の庶子六郎光康は承久の乱の恩賞として河内国伊香賀郷を得ている。建長二年の閑院内裏造営注文には「土屋入道跡」と「土屋弥二郎跡」がみえた。入道=宗光、弥次郎=忠宗の子忠綱であろう。建長四年四月には格子番として「土屋太郎左衞門尉忠宗」がみえるが、忠綱の子であろう。
 出雲国の土屋氏領で面積が最大の加賀庄は光宗から嫡子光時を経て、嫡孫の遠経に受け継がれた。遠経は佐々木信綱女子を母とする(佐々木系図)が、本拠とする相模国で活動し、出雲国には地頭代を派遣していた。文永八年の加賀庄地頭「土屋右衛門子」は「左衞門=光時」子の誤記であろう。千酌郷・大東庄内一分の地頭としてみえる「土屋六郎左衛門入道」は光康であろう。これに対して末次保の「土屋六郎」は光康の子であるが、伊香賀郷を継承した土屋氏系図に登場する康通とは別の子の可能性がある。出雲国守護佐々木義清の長男義重は土屋六郎左衛門入道女と結婚し、重泰が生まれているが、「泰」は母方の父光康にちなむものであろう(重泰は正嘉元年に「左衞門次郎重泰」と新日吉社流鏑馬にみえる)。
 重泰は正応元年(1288)四月九日に四十二歳で死亡しているので、宝治元年の誕生である。その祖父土屋六郎左衛門入道光康はそれ以前に出雲国に入部していた。光康の所領は相模国土屋、河内国伊香賀郷にもあるが、出雲国に居住していたと思われる。文永八年には土屋六郎左衛門尉が泰清の命を受けて内蔵孝元を追放したとの記事があるが、実際は建長年間以前の事件であろう。
 問題は忌部郷地頭土屋四郎左衛門入道との関係であるが、六郎左衛門入道女子が泰清子義重と結婚しているのに対して、四郎左衛門入道女子は文永四年には死亡した朝山昌綱と結婚しており、四郎左衛門入道の方か世代が一つ前である。すなわち四郎左衛門入道は光時や光康と同世代になる。建長二年の閑院内裏造営目録には「土屋入道(宗光)跡」家と「土屋弥次郎(忠光)跡」家の二つが見えている。文永八年に持田庄地頭としてみえる「土屋三郎左衛門尉(忠時)子」と秋鹿郷地頭である土屋五郎(忠泰)」は弥次郎忠宗の子と考えられる。そして忠泰女子が中郡道意(1226~78)との間に生んだ弥松丸ないしはその母が三処郷地頭であるとしている。弥松丸の場合も母から譲られる以外に三処郷との関係はみられないので、忠泰女子が三処後家尼から譲られた可能性が強く、後家尼は忠泰より一世代上と考えざるを得ない。

内蔵孝元の追放時期

  気になっていることについて確認すると、『根元録』の建長四年三月の記事である。出雲国を巡検していた守護佐々木泰清を「湯庄」に招いたとするものである。『根元録』は時代を追って記されているが、ここだけ次の安貞元年の杵築大社修理の記事と相前後している。建久元年の義清の記事も『吾妻鏡』の記述に基づいたものでありながら、頼朝の死後の事件を生前に記すなど時代が前後していた。泰清が国内を巡検するとすれば、兄政義の無断出家によって出雲国守護に補任された時期であるとするのが合理的ではないか。守護の交替は仁治四年正月から七月までの間である。それ以降の時期で泰清が出雲国を巡検する時期としては、寛元二年が有力である。この年十月十五日に隠岐国では都万院との境界問題について、賀茂の地頭代中内兵衞尉季茂が守護の前で杵築大明神に境論をしないことを誓っているのである。この年に泰清が隠岐国だけでなく出雲国の実態を掌握するために巡検する可能性は大きい。ただし、これでも安貞元年以降のこととなるが、義清ならびに嫡子政義が最初に出雲国に入部した時点でのことである可能性もある。泰清が孝元についてよく知っていたのは建治三年五月七日の嫡子時清宛書状で「孝元の身を始」と述べていることから確実である。
 もう一点は、孝元追放が文永八年九月だとするものである。結番帳の作成は各グループの面積のバランスをとり、地頭が同一人物ならその所領を同じグループにしている。泰清の長子義重領は、ある時点までは泰清領であったが、これを同グループにすると面積が大きくなりすぎるために、これを別グループにしている。結番帳の完成と伝達は十一月であるが、九月時点での孝元追放により再編成をすることは不可能である。また、孝元の祖父忠光と対立した国造兼忠は仁安三年(1168)に死亡し、忠光が「押領」したとされるのは保元の乱の前である。父資忠と対立したのは国造孝房とその子孝綱であるが、孝綱も承久の乱後はその活動は確認できず、弟政孝も寛喜三年に子義孝に交替している。以前孝元について、承元二年には元服して間もない時期と述べたのは合理性がなく、十年以上その生年は遡ると考えられる。
 その孝元が文永八年まで生存していた可能性は低いのではないか。建長元年の遷宮注進状をみると、前年の遷宮の祭の流鏑馬十五番のうち九番は湯・拝志両郷と佐世郷のグループであり、この三郷が同じグループなのは文永八年結番帳の一番の相撲頭と共通する。何が言いたいのかと言えば、孝元追放は遷宮が行われた宝治二年以前ではないかという点である。この前年十月には孝元本人ではないが、同族で国富郷地頭代であった孝綱を鰐淵寺が排斥しようとした事件も起きている。宝治この時点は半年後の三月会のみならず一年後の正殿遷宮を控えた時期であった。
(追加)根元録は貴重な史料であるが、人名の比定や事件の年次には正確さを欠いているのも事実であり、活用する場合は傍証を示しつつ説を提示する必要が大きい。

2017年8月15日 (火)

山名氏家臣としての土屋氏2

 土屋遠江入道は以前言及した大葦氏である。大葦氏は加賀庄地頭土屋氏の一族である。加賀庄に隣接するが独立した所領であった大葦(北野末社)は文永八年には香木氏が地頭であったが、その後土屋氏領となり、その一族が大葦氏を称した。布志名宗清も永和元年八月十五日には但馬国守護山名師義の守護代であったが、師義の死後は、その子義幸・満幸ではなく惣領を継承した弟時義の執事になっていた。時義の死後は時熈に仕えたと思われるが、一時時熈は将軍義満の命を受けた山名氏清・満幸に討伐されて失脚し、備後国内に逃れた。その後、明徳の乱で氏清・満幸が没落すると時熈が山名氏惣領に返り咲いたが、そのもとでは布志名宗清の関係者である佐々木筑前入道善円が備後国守護代をつとめていた。
 応安五年には山名師義の但馬国守護代として大葦入道がみえ、同七年には師義被官として土屋大葦入道が確認できる。一方で、同七年には丹後国芋野郷半分地頭職について、土屋五郎右衛門尉の押領を停止し、竹藤宮内少輔に沙汰付け、請取状を提出することが山名五郎に命じられている。師義の死後は嫡子義幸の丹波国守護代として康暦二年には大葦遠江守信貞がみえる。大葦氏は師義の家臣となり、その領国である但馬と丹後に移住したのであろう。布志名宗清は師義の死後も但馬に留まり新惣領時義の執事となったのに対して、大葦氏は義幸の丹後国守護代となった。
 ところが至徳二年三月には大葦氏惣領前遠江守信貞が山名時義の備後国守護代としてみえる。同年七月には丹後国守護が病気の義幸から弟満幸に交替したことが確認できる。これにより大葦氏惣領信貞は移動したのである。一方、至徳四年に義幸が守護に復帰すると土屋土佐守が守護代となり、その命令を大葦次郎左衛門尉宗信が伝えている。その後再び満幸が丹後国守護となったが、満幸時代の丹後国守護代はについては史料を欠いている。
 明徳の乱で大葦一族は分裂した。『明徳記』よると「丹後ノ守護代小葦ノ次郎左衞門尉」が満幸方の将として奮戦している。これが宗信であろう。一方、惣領信貞は山名時熈のもとで生き残り、前述のように応永八年には但馬国守護代として「土屋遠江入道」がみえる。次いで、応永二十一年には侍所頭人山名宮内少輔満時が東寺掃除散所法師の課役免除を土屋越前守に伝え、越前守がこれを施行している。満時は山名氏惣領時熈の嫡子であり、その侍所頭人の代官を務める土屋越前守は垣屋熈続と同一人物であろう。垣屋氏は大葦氏の同族で、大葦氏が明徳の乱で大半が没落したのを受けて前面に出てきたのであろう。なお応永五年十一月には因幡国守護山名氏冬の守護代として土屋次郎がみえる。

山名氏家臣としての土屋氏1

 以前、土屋氏一族の大葦氏について述べた。古代氏族研究会公認HP「古樹紀之房間」を通して土屋氏一族の大葦氏や垣屋氏について知り、関係史料を確認した上で述べた。参考文献として宿南保「但馬山名氏と垣屋・太田垣両守護代家 -垣屋・太田垣両氏の系譜究明から迫る-」(石井進編『中世の村と流通』)についても確認していたが、今読み返すと垣屋氏の成立について述べた部分に問題があることに気付いたので、東国御家人と出雲国の問題とからめてみていく。
  南北朝動乱の中、出雲国の反幕府方国人の中には、山名氏が幕府に復帰し、出雲国守護が京極氏の実行支配が回復した時点で、山名氏領国に移住した例がいくつもみられた。其の後の明徳の乱で山名満幸方として敗れ没落した人々もあった。明徳の乱で土屋氏一族が氏清方として奮戦し討ち死にしたことは『明徳記』に記されている。この土屋氏は相模国御家人であるが、山名氏の幕府復帰までは出雲国で活動していた。以前、出雲国と石見国の国人の比較をし、出雲国は国外に移った国人が石見国より多いことを述べた。石見国こそ反幕府方の拠点であったにもかかわらず。それは石見国人が鎌倉幕府成立以前からの国御家人が多く、一方出雲国は治承・寿永の乱や承久の乱を通じて大量に入部した東国出身者が国人の多数派であった。守護塩冶氏一族もである。
 布志名氏は湯氏の庶子であるが、その祖宗清は父頼清が湯氏に養子に入る前に生まれていた。これに対して湯氏の祖泰信は出雲国有力在庁官人勝部宿祢の女子を母とし、戦国末期までは出雲国で活動している。布志名氏は後醍醐天皇との関係から一貫して反幕府方として幕府方国人と激しく対立しており、それがゆえに山名氏領国への移転を選んだのだろう。在地出身の朝山氏惣領が京都に拠点を移したのも、幕府方の中心として山名氏等反幕府方と激しく対立していたことが理由の一つである。伯耆国名和氏も山名氏が反幕府方の中心となった時点で、それまで山名氏から大変な圧迫を受けていたため肥後国へ移住した。
 宿南氏の論考の問題点は垣屋氏の成立を論じながら明徳の乱以前の事に言及されなかったことである。その祖とされた垣屋弾正が明徳の乱で山名時熈の危急を救って討死するにはそれなりの背景があるはずで、ある日突然登場することはありえない。
 応永八年十一月二十四日に但馬国守護常熈(時熈)が守護代土屋遠江入道に朝倉庄を三宝院雑掌に沙汰付けるよう命じている。この人物を宿南氏は『明徳記』にみえる垣屋弾正の後継者幸福丸であろうとしつつ、年齢上の矛盾が大きいとした。そこで『明徳記』が物語性を強めるために弾正の息子を故意に幼くしたのであろうと述べられているが、これこそ恣意的な解釈である。その後の垣屋氏をみても「遠江守」一人もみえず、遠江入道と垣屋氏の関係は確認できない。応永十二年にみえる「垣屋遠州」も「垣屋、遠州」の可能性がある。繰り返しになるが垣屋氏に該当者はいないのである。『京極家譜』には山名兵士の土屋一党である大足治郎左衛門尉、同平次左衞門、同宮内左衞門、同治郎右衛門、米原平九郎、同平五等五十三名を討取ったとする。

2017年8月14日 (月)

出雲佐々木氏の婚姻3

 頼泰は乾元二年(1303)四月十一日以前には死亡していた。異母兄時清は嘉元三年(1305)に六十四歳で死亡しており仁治三年(1241)の生まれとなるが、建長元年(1249)には「隠岐新左衛門尉時清」とみえて元服・任官しており、嘉禎元年(1235)頃の生まれとも考えられる。三郎頼泰は同母弟七郎頼清が建長三年(1251)であることからすると、寛元元年(1246)の頃の誕生と推定できる。仮定の話だが乾元二年死亡とすると、五十八歳となる。茂清を後述のように宝治元年の生まれとすると、その女子は文永年間前半の生まれで、二十歳となるのが弘安十年(1287)頃で、この時点の頼泰の推定年齢は四十二歳となり、これもギリギリ可能かという状況である。
 正安二年(1300)時点で貞清はすでに左衞門尉に任官・元服し、守護の職務を行っているので、弘安年間(1278~1288)初には生まれていた可能性が大きので、茂清女子が母ではない。そうすると貞清は死亡した正中三年三月二十八日時点では四十歳後半となり、その嫡子高貞は永仁末年(1299)前後の生まれと推定でき、鎌倉幕府が滅亡した際の年齢は三十代半ばとなる。布志名判官と呼ばれた雅清は建武三年に四十一歳で死亡しており、永仁四年(1296)の生まれとなる。隠岐国守護佐々木清高はその前年永仁三年の生まれとなる。このように三人はほぼ同年齢であったと考えられる。塩冶高貞についても母は「二郎左衛門女」とあるのみであるが、すでに泰清の嫡子時清ではないかとの説を示した。布志名雅清については湯郷一分地頭であった布志名宗清の庶子であることも明らかにした。
 三女は「頼信妻」とあり、これは湯七郎頼清の子で湯郷を譲られた十郎泰信の子頼信ヵとも思うが、こちら逆の意味で世代が一つ分違う。これが成り立つとすれば三女は茂清の晩年の子ということになる。泰信は文永十年(1273)の生まれであり、頼信は早くて正応三年(1290)前後の生まれか。これに対して三女の父茂清は同五年に死亡している。茂清の弟七郎頼清は建長三年(1251)の生まれであり、五郎茂清を宝治元年(1247)の生まれとすると、死亡時は四十六歳となり、ギリギリ成立可能かという状況である。
 孫の世代へ移ると、荻原茂頼の嫡子貞茂は松田九郎女子を妻としている。具体的比定は困難だが、安来庄地頭松田氏の一族ではないか。宗茂の子義高と源信重妻となった女子のことはすでに述べた。もう一人の女子が上山佐師清の妻となった点も前回触れたので、ここで一旦おわりとする。

出雲佐々木氏の婚姻2

 以前述べた内容の補足をする。
 出雲佐々木氏相互の婚姻関係の中心に富田四郎義泰がいることはすでに述べたが、もう一人南浦五郎茂清の役割も重要である。中心所領は美保郷内南浦で、正応五(1292)年正月二十九日に死亡しているが、その子には塩冶郷内北部の荻原を苗字の地とする荻原三郎左衞門茂頼、隠岐国の摂関家領重栖庄を苗字の地とする重栖四郎左衛門宗茂、嫡子である南浦五郎扶清、宗茂の同母弟である六郎宗経と三人の女子がいた(佐々木系図)。
 このうち「宗」の字を付ける宗茂と宗経の母は三井藤内左衞門藤原資忠の女子であった。三井氏で「資」の字を名に付けると云えば、竹崎季長がそのもとに属して弘安の役に参加した三井資長(姉婿)が知られている。三井氏は二階堂行忠が建長四年に長門国守護に補任された際に守護代として三井資平が長門国に入部し、モンゴル襲来時は三井新左衛門季成が守護代であり、資長はその関係者であった。宗茂は正中二年に四十八歳で死亡しており、弘安元年の生まれである。
 宗茂の子越中守・四郎左衞門義高の妻は泰清長子義重の孫信重の娘である。一方、宗茂の娘が信重の妻となっている。信重は頼重の子である。信重には「源左衛門尉、元弘三年四月三日作道討死」との注記がある。船上山からいち早く上洛していたのだろう。なお佐々木系図には義高に「正中十三年九月朔日死亡、五十三歳」と注記するが、父宗茂の記述と矛盾し、「正平十三年」の誤りである。反幕府方であったことがわかるが、こ時点の出雲国では山名時氏の影響下、大半が反幕府方であった。
 長女は富田義泰の庶子六郎羽田井頼秀(苗字は船上山の戦いの恩賞として伯耆国羽田井を得たからヵ)の妻、次女は「頼泰妻」とあり塩冶頼泰ヵとも思うが、世代が一つ分違い、そうならば後妻ということになる。その兄弟の宗茂が四十八歳で死亡しているが、頼泰の嫡子貞清が死亡する前年である。

2017年8月13日 (日)

久野郷地頭中郡氏

 大中臣氏系図にみえる常陸国中郡氏で、出雲国に所領を得て入部したのは、中郡六郎太郎経元の末裔である。中郡氏は蓮華王院領常陸国中郡庄下司となった一族で、経元には系図に「右大将御上洛随兵之時、此中郡六郎太郎与深栖太郎番之」とあるが、「吾妻鏡」建久元年十一月の頼朝上洛の際に後陣随兵の十七番に「中郡六郎太郎」と「同次郎」、十八番に「深栖太郎」がみえる。深栖太郎は前足利一門也とあり、足利氏との関係があった。建久六年三月四日に頼朝が上洛し、十日に石清水八幡宮から東大寺に向かった際の随兵にも「中郡太郎」がみえる。これが「中郡六郎太郎」と同一人物であろうか。
 これ以降は系図の記載によるしかない。承久の乱での勲功により経元は出雲国久野郷地頭職を獲得し、出雲国内に活動範囲を広げていたが、常陸国中郡では預所との相論の中で悪口の咎で所帯を没収され、経元の嫡子六郎太郎重経とその一門は出雲国に移住した。重経は文永六年八月十五日に六十四歳で死亡しており、元久三年(1206)の生まれで、承久の乱の時点では十六歳であった。当初は常陸国を中心に活動し、国井十郎左衛門尉政久女子と結婚し、嫡子径氏が誕生している。重経女子の二人は東条内亀谷一分地頭職を譲られているが、これは母の祖父東条四郎兵衛尉忠幹の所領であったと思われる。
 これに対して重経の末子四郎経道は出雲国の有力御家人朝山善王兵衛尉女子が母であり、出雲国に移住してからの子であったと思われる。元弘三年五月日鰐淵寺住僧頼源軍忠状(鰐淵寺文書)によると、頼源は五月七日に八幡から京都へ発向し、竹田河原と六波羅西門で軍忠をつんだとしているが、その際の証人は中郡彦次郎入道と朝山彦四郎であった。両者とも経道の関係者として行動を共にしていたと思われる。
 重経の子をみても嫡子径氏は三刀屋郷地頭諏方部禅師女子と結婚し、重経の子清径は朝山氏と同族(勝部宿祢)の仁多四郎重房女子と婚姻関係を結んでいる。重経の次子道意も仁多四郎重房女子ならびに相模国御家人で出雲国に入部していた秋鹿郡秋鹿郷地頭土屋五郎忠泰(三処郷一分地頭で文永八年の土屋五郎は忠泰の子ヵとしたが、年齢を考えると本人である。忠泰の父が三処後家尼と兄弟ヵ)女子と婚姻関係を結んでいる。 道意の子達も、嫡子六郎泰径が信濃国御家人で出雲国三沢郷に入部していた飯島又次郎為綱女子ならびに国御家人で縦縫郡小堺保地頭小堺二郎信盛女子と結婚している。また道意女子の一人が下総国御家人千葉氏の一族である千庭神保与一胤久の妻となっている。
 重経の第三子三郎光経の場合も、下野国御家人で出雲国に入部していた多胡六郎右衛門尉清綱女子ならびに国御家人佐々布三郎朝重女子と結婚し、その女子は千庭神保孫太郎重胤、中郡一族泰経の子貞経や氏経の妻となっている。このように一族間の結婚もみられるようになった。

2017年8月12日 (土)

将軍実朝と出雲国5

 次いで、建暦三年(1213)には国富郷を「一円不輸地」として鰐淵寺領とすることが、先ず後鳥羽院庁下文で決定された。これを受けて知行国主と国守による庁宣が出され、その上で、鰐淵寺領を管轄する延暦寺を構成する無動寺検校坊政所の下文ならびにその施行状が鰐淵寺に向けて出されたのである。すでに孝元は国富郷地頭を解任されていたが、内蔵氏が本主として権限を持つ国富郷は、鰐淵寺にとっては喜んでばかりはおれないものであった。一円ではなく散在を望んだというよりも、杵築大社権検校を御供の未進により短期間で解任された孝元との関わりを望まなかったのである。
 建保二年(1214)の土御門院庁下文の問題に移る。これは承元二年以降の流れの中で理解しなければならない。承元二年に杵築大社神主は国造孝綱、権検校内蔵孝元の体制がスタートしたが、利害の対立が表面化し、国造孝綱は知行国主・国司側に孝元の解任を働きかけた。後鳥羽院中心の朝廷が勅勘とする宣旨を出し、それをうけて知行国主源有雅は孝元を改易する庁宣を出し、そして幕府にもそれを認める下文の発給を求めた。
 これに対して領家は、承元四年(1210)十二月に、孝元の任免権は自分にあるとして、越権行為を行った国造孝綱を神主から解任し、新たに国衙の庁事中原頼辰の子孝高を神主に補任するとともに、孝元と結ぶ秦大夫貞未が神人に背く行為があるとの訴えを含めて、事態の報告を「杵築大社神官中」に命じている。
 これで事態が解決に向かった訳ではなく、翌建暦元年六月には知行国主が「神主孝綱」の行為として大社神田十町八反を引き募ることと、留守所に神田への課税を免じるよう命じている。孝元側も逆に「関東下文」により大社領を押領せんとしたが、領家の命令を受けた神主中原孝高と権検校出雲頼孝が孝元を追い出すことで決着した。国造孝綱はライバルの内蔵孝元の排除には成功したが、領家から不信感を持たれ、神主をめぐる新たなライバルをとして」、有力庁事中原頼辰と国造家出身の女性との間に生まれた中原孝高と、出雲氏の一族である頼孝が登場した。
 この事態を打開するために国造孝綱が本家土御門院に働きかけた。庄園支配の実権は領家が有するが、土御門は後鳥羽院の子であり、ここに期待をかけ、孝高に不当性を訴えるとともに、知行国主並びに幕府の協力を期待したのである。しかし、幕府は朝廷との協調よりも、これまでの領家との協力関係を重視し、この要請は効力を発生しなかったと思われる。そして、国造孝綱は三代将軍実朝が暗殺された直後の建保三年十一月に父の申し置きに従うとして、弟政孝に国造と惣検校を譲り渡すとの去文を渡した。この後については題名を改めて述べたい。当主は実権の無い本家に訴えてもしかたがないと思っていたが、この時期には効力を発生する可能性があったのである。

将軍実朝と出雲国4

 内蔵氏が国富郷地頭から地頭代となったのは承久の乱で京方となったためであろう。これに対して、承元二年の権検校に続いて天福元年(一二三三)には杵築大社神主にも補任されている孝元は、幕府との関係を背景に、京方とはならなかったのだろう。権検校解任の際に、国造家を支援する出雲国知行国主源有雅と対立していたことのその選択の原因であったろう。
 また、「根元録」によると孝元は文永八年九月までは湯郷地頭であり、拝志郷と忌部郷についても同様であったと思われる。そうでなければ天福三年の神主補任はなかったであろう(父資忠は建久元年完成の杵築大社本殿造営の中心でもあった)。それが原因は不明だが、守護泰清により館が焼打され伯耆国へ追放され、その跡は湯郷と拝志郷が「大西二郎女子」、忌部郷が「土屋四郎左衛門入道」であった。内蔵氏が後任となった国富郷との違いがあるのである。
 問題は承元二年に孝元が地頭に補任される以前の湯郷・拝志郷・忌部郷である。湯・拝志郷は勝部宿祢一族への本領安堵がなされたと考え、忌部郷は考えの外にあった。すなわち、両郷は勝部宿祢一族が支配していたが、朝廷(後鳥羽院と知行国主源有雅)と幕府(将軍実朝)が連携する中、従来の勝部宿祢一族は新地頭孝元のもとで地頭代となったと。湯郷を支配していた人物は一族内の調整で、佐世郷地頭に補任されたと。文永八年の佐世郷地頭が「湯左衞門四郎」であるのはそのためだとしか考えられないとしたのである。
 その考えに対して、今回、三郷は佐々木高綱の所領となった乃木保・乃白郷・日吉末社と同じく、謀反人跡として幕府が支配することろとなったのではないかと考えた。やはりその本主は勝部宿祢一族であった、と。そして承元二年に幕府は内蔵孝元に三郷を与えたのではないか。国富郷と異なり大きな問題が発生しなかったのはそのためではなかろうか。国衙の所在した大草郷も元久二年には東国御家人と思われる「助光」が地頭で、その代官「家重」が入部して支配に当たっていた。

将軍実朝と出雲国3

 以前2までを述べたが、その補足をしてみる。
 そこでも、建暦三年の楯縫郡国富郷の鰐淵寺領化と建保二年(一二一四)八月の土御門院庁下文による国造孝綱の神主并惣検校補任については言及していたが、掘り下げが不十分であった。
 国富郷の問題では、内蔵孝元の国富郷地頭補任の問題との関係がある。孝元が杵築大社権検校に補任され、国内数ヵ所の地頭に補任されたのは承元二年(一二〇八)十一月であった。数ヶ所の一つが国富郷であれば、その他の所領が問題となるが、意宇郡湯郷と拝志郷であるとして、勝部宿祢の所領である大原郡佐世郷の問題との関係についても推測をしてみた。それが、「忌部総社神宮寺縁起」並びに「忌部総社神宮寺根元録」を読んでいて、孝元は忌部郷地頭にも補任された可能性が大きいことをようやく認識した。
 国富郷の問題については、「鰐淵寺」の成立に焦点を当てて論じた井上寛司氏の論文があるが、そこでも国富郷には鰐淵寺の支配に先行して在地領主による支配があり、それが鰐淵寺側が国富郷百町ではなく、他の形での所領の獲得を望んだ原因であったことが述べられている。内蔵孝元が国富郷地頭を解任されても、その後任もまた内蔵氏であるように、内蔵氏と国富郷の関係は鰐淵寺領となる以前からのものであった。内蔵孝元の父で杵築大社惣検校となった資忠には隠岐国在庁官人としての側面があったことが明らかであるが、出雲国内の公領にも足場を持っていたのである。内蔵氏は本来は国造家と同様、出雲宿祢一族で、出雲国衙の在庁官人でもあった。
 孝元領となった「数ヶ所」という表現は、少なくとも三ヶ所以上あったことを示すもので、湯郷・拝志郷・忌部郷が含まれても問題はない。「根元録」では「拝志郷」を「林邑」と標記しており、三郷を含めて「湯庄」と表現しており、それは古代律令制の「忌部神戸」の伝統を継承するものであった。問題はこの三郷と内蔵氏や幕府との関係である。国富郷は承久の乱後、幕府評定衆狩野為佐が地頭となり、内蔵氏が地頭代を務めている。これに対して鰐淵寺側は宝治元年(一二四七)に内蔵孝綱は鰐淵寺の経田・神田等に濫妨を働いており、彼が地頭代のままでは三月会の頭役負担を鰐淵寺は拒否するとして、その解任を求めている。その結末は史料がなく不明だが、文永八年の地頭は為佐の子為成であった。為佐は文暦元年(一二三四)に幕府評定衆となり、嘉禎三年(一二三七)には肥後守、延応元年には大宰少貳に補任されている。宝治元年には六十七歳と降礼であったが、弘長三年に八十三歳で死亡している。為成が「甲斐三郎左衞門」と呼ばれたのはそのためである。

2017年8月10日 (木)

忌部総社神宮寺根元録3

 少しずつ意味を理解しつつあるが、佐々木高綱領となった乃木保・乃白郷・日吉末社(まとめて「乃木」と標記する)と忌部郷は隣接することもあり、関係が深かった。忌部郷から日本海水運につながるためには、福富(現在の乃木福富)と関係が重要であった。「乃木」に入部した高綱の関係者が忌部郷を押領したとすると、その時点で忌部郷はどのような状況にあったのであろうか。後のことからすると、幕府が管理し関係者に与えていた所領であろうか。また、湯郷と忌部郷の関係も深く、縁起と根元録は両者を併せたものを「湯庄」として記述している。湯郷・拝志郷も忌部郷と同様の状況であろう。根元録によれば、湯庄地頭となった内蔵孝元が館を構えたのは湯郷と忌部郷の境界の地であった。これまで、孝元が地頭に補任されたのは国富郷と湯郷・拝志郷としてきたが、忌部郷も有力である。それは守護佐々木泰清の命を受けて孝元を追放した土屋氏が文永八年の忌部郷地頭としてみえるからである。
 次いで根元録には、文永八年冬に泰清の子七郎頼清が湯庄に居住し西意宇郡総地頭に補任されたとする。「総地頭」は他の史料で確認できないが、一方で意宇郡は近世においては東部が杵築大社の縄張りで、西部が佐陀神社の縄張りであった。「西意宇郡」という枠組みは存在した可能性がある。文永八年の時点で、泰清は長子義重にしか所領を譲ってはいないが、頼清は他氏へ養子に入るという特別な扱いであった。湯郷・拝志郷については、微妙であるが、勝部元綱の孫で湯清綱の子である「湯左衞門四郎」が佐世郷地頭となっていることを説明するためには、それしかないと思われる。「数ヶ所」とした場合、常識的には「三ヶ所」以上であろう。
 頼清の子が湯郷・拝志郷・佐世郷の地頭となっているので、頼清が三郷の地頭となったのは間違いない。大伴氏系図でも湯左衞門尉清綱の養子として七郎頼清が記されており、湯氏女子との結婚により、地頭職を得たものである。となると、「大西二郎女子」も湯氏(勝部宿祢)の一族であったことになる。
 佐々木系図一本によると、頼清の長子二郎宗清は頼清子が養子に入る前に誕生している。次子の十郎泰信以下(五郎泰秀、七郎清信)は湯氏女子を母として生まれた可能性が高い。嫡子は父頼清と同じ「七郎」を名乗り佐世郷を譲られた清信であるが、泰信・泰秀も独立した所領を譲られている。佐世郷は大原郡系勝部宿祢一族にとっての中心所領であった。これに対して、養子に入る前に生まれた宗清は、湯郷一分地頭である布志名村の地頭にとどまった。宗清の嫡子は二郎貞宗で、後醍醐の隠岐脱出を助けた「三郎雅清」は庶子であった。貞宗は「隠岐守」と注記されるが、弟雅清の栄達の余得を得たのであろう。
 根元録は頼清の嫡子清信を「三男信清」と誤って記している。これは「亀井系図」の影響を受けたものであろう。建治三年正月に「信清」が中沢氏女子と結婚したとの記事は年次が間違っていよう。清信も養子入り後の子で、正中三年に死亡しており、文永末年から建治年間の生まれと考えられ、建治三年結婚は早すぎる。父頼清がこの時点で二十七歳である。

忌部総社神宮寺根元録2

  安貞元年五月に幕府から守護佐々木泰清と国司藤原昌綱に杵築大社修理を建久元年の例に準じて行うように命令が出されたとする。ただし、この時点の守護は父佐々木義清である。昌綱も国司ではなく在国司で、勝部宿祢である(後世に大伴姓や藤原姓を名乗る)。この時点では昌綱の父勝部元綱である可能性が大である。前年の嘉禄二年十月から仮殿造営が始まったが、十二月から翌年五月まで半年間の空白があり、造営が進まなかったと思われる。この間、知行国主二人が相次いで死亡している。そこで幕府が介入したかどうかは不明だが、新たな知行国主平有親のもとで五月から造営が再スタートをして、七月に仮殿遷宮が終了し、正殿造営の段階へと移行した。八月に幕府が伊志見村を寄進したことは確認でき、この根元録の記載内容は人名を除けば正しい情報に基づいている。ところが、正殿造営が足踏みをしてしまう。
 天福元年(1233)五月に神主出雲真高が刃傷事件を起こして守護によって身を拘束される事件が起こり、内蔵孝元が神主に補任されている。寛喜元年(1229)から正殿造営が開始されているが、これが軌道に乗るのは嘉禎二年(1236)以降である。この間、神主には真高が復帰したが、造営が進まなかったため、文暦二年(1235)九月には造営文書を所持しているとして仮殿造営時に神主に補任された政孝の嫡子義孝が補任された。内蔵氏が地頭であった国富庄は承久の乱後は幕府評定衆である狩野為佐に替わっていた。承久京方によるのだろう。これに対して幕府とのパイプを持つ孝元は所領を没取されることはなく、乱後も湯郷地頭であったと思われる。それがゆえに神主に補任されたのである。
 建長四年三月に泰清が出雲国内を巡検したことは確認できない。『吾妻鏡』によると四月十四日には将軍頼嗣の鶴岡八幡宮参詣に従っている。泰清は六波羅探題評定衆として京都で活動しつつ、鎌倉と出雲国の間を移動していた。この時点では内蔵孝元などから社寺の由緒の説明を受け、所領を寄進したことが記されている。なお根元録が内蔵孝元を中原孝元としたのは、後世の国造家関係者の誤り(出雲氏ではないとする意図も感じられる)の影響を受けたもの。
 幕府並びに守護と深い関係のあった孝元も、文永八年九月には泰清の命を受けた土屋六郎左衛門尉によって湯庄内の館を焼き打ちされ、伯耆国に追放される。土屋氏はその功により忌部西邑地頭に補任されたとする。そうすると忌部西邑も孝元領であった可能性が高くなる。根元録では忌部を含む湯郷を「湯庄」と表現している。文永八年十一月の地頭を確認すると、湯郷地頭は「大西二郎女子」で同女子は拝志郷の地頭でもあった。土屋氏は六郎左衛門尉ではなく「土屋四郎左衛門入道」が忌部保地頭としてみえる。佐々木系図によると泰清の長子義重と土屋六郎左衛門女子との間に重泰が生まれている。また在国司朝山昌綱の嫡子時綱の母は「土屋四郎左衛門入道」であった。泰清は建治三年五月七日の嫡子時清宛の書状の中で、「国の於力者孝元」に言及しており、両者が深い関係にあったことは間違いない。

 

2017年8月 9日 (水)

忌部総社神宮寺根元録1

 縁起を受けて寿永三年(1184)の宇治川合戦に佐々木高綱が義経のもとで先陣を切ったところから始まる。その功で高綱は雲州外六国をあたえられ、左衞門尉に補任された。六ヵ国が守護職かどうかとその時期が問題である。なお、縁起と根元録では湯庄の中に忌部郷が含まれているとの前提で書かれている。実際には湯郷であり、忌部郷とは独立した所領である。
 建久元年(1190)に頼朝が平治の乱後始めて上洛し、後白河上皇の御所に赴いた際に、佐々木隠岐守義清が前衛を務めたとするが、『吾妻鏡』の関係部分にみえるのは佐々木兄弟の内、三郎盛綱と左衞門尉定綱で、高綱や義清はみえない(上洛に供奉したのは事実)。ただし、頼朝が死んだ後の正治二年(1200)十月十日には「貢金五百両・馬二十疋を京都に奉らる。今日進発す。佐々木五郎義清御使いとしてこれに相副う。」とあり、これを年次を誤って記していると思われる。根元録では朝廷に対して馬二匹が湯庄の牧場産であることを述べたことが記されている。この時点で義清が出雲国と関係があったかについては、その可能性は強いと述べるしかない。根拠としては、義清と同年齢の異母弟六郎厳秀にはこの時点で出雲国内の女性との間に嫡子泰秀が誕生している。出雲国吉田庄をそれ以前に与えられ、入部していたのである。義清自身も所領を得ていた可能性は大きい。
 一歳年長の高綱(平治の乱後誕生するが、幼少であり京都に残ったとする。乱後父秀義が渋谷重国のもとに身を寄せ、その娘との間に生まれたのが義清。厳秀の母は不詳)が出雲国乃木保や乃白郷を得ていたのは確実である。義清は兄高綱の子光綱を養子にしているが、光綱は文治三年(1187)の生まれである。これも出雲国の女性との間に生まれた可能性がある。
 なお、根元録には高綱の関係者である近江住人佐々木石雲坊が湯郷に下向し、湯郷内の神社仏閣を整備し、忌部郷を押領したことも記す。「押領」とはあるが、そこに記されているのはやはり神社仏閣の整備と土地の開発、ならびに牧場での合戦用駿馬養成である。乃木に高綱の関係者が下向したのは確実であるが、個々の記述が事実かどうかは不詳である。問題となるのは平家滅亡時に湯郷がどのような扱いになったかであり、これまでは勝部宿祢一族が支配していたが、後に幕府と朝廷の交渉で内蔵孝元が湯郷地頭に補任されたと考えてきた。これが鎌倉幕府の支配下に入っていたとすると、孝元の地頭補任はより理解しやすくなるが、微妙である。
 孝元は承元二年十一月に頼朝の命を受けて杵築大社権検校に補任されるとともに、出雲国に下り大社に参詣したとする。当然、頼朝ではなく三代将軍実朝の誤りであるが、この記事も『吾妻鏡』を参照した可能性が高い。孝元は杵築大社神主にもなった内蔵資忠の子であるが、これ以前には都周辺にいたと思わせる記述である。資忠は隠岐国の有力在庁官人でもあり、京都にも館を構えていた可能性は高い。資忠は国造孝房に代わって神主となり、その後も孝房の子孝綱との間で神主職をめぐり対立したが、頼朝の支持を得た資忠が優位に立っていた。なぜ承元二年なのかは不詳だが、最もわかりやすいのは父資忠が死んだためである。孝元は文永八年(1271)までは生存が確認でき、承元二年の時点では元服したばかりという状況であったと思われる。そのため、杵築大社神主は孝房の子国造孝綱が補任され、新設された権検校(神主は惣検校とも呼ばれる)に孝元が補任されたことになった。それとともに孝元は出雲国内で数ヶ所の地頭に補任されたのである。
 その後まもなく、孝元が神供を納めないため、神主を解任された。抵抗したようであるが、最終的には幕府も解任に同意した。ただし孝元本人というよりはサポートする人々の問題ではなかったか。次いで孝元は建保四年(1216)五月十三日以前には鰐淵寺領国富郷の地頭も解任され、内蔵孝幸が後任に補任された。地頭による押領の結果、地頭職そのものが停止される例もあったが、国富郷は停止されなかった。鎌倉幕府の意向とともに、内蔵氏と国富郷の関係が重視されたと思われる。

 

2017年8月 7日 (月)

忌部総社神宮寺縁起を読む2

 しかしそれでも不満は解消せず、十一月には星上山への報復が計画されたが、それを知った経隆は神宮寺に平原・乃木・法吉三郷の年貢を分与し、焼かれた坊の修理を行うとともに、神宮寺の本寺である鰐淵寺から神宮寺の座主を迎え、国内への勧化を行って融和を図った。七年の勧化の後、後白河天皇が即位した保元元年に本堂を建立し、寺号を護国山常楽院とした。
 次いで安徳天皇の養和元年(1181)二月には、国司藤原朝定が天皇の意向を受けて国内の勅願寺と祈願社に不動明王像と経典を収める方針を示したが、実際に実行されたのが星上山だけであったことを知った神宮寺等が国司屋敷に嗷訴を行った。ここでは国司屋敷が出雲郷にあったことが記されており、出雲府中で出雲郷の占める位置が上昇していたことがわかる。衆徒は嗷訴後星上山を攻め、これを焼き打ちにした。僧兵が台頭し、これが源平の争乱につながったと縁起は記している。
 国司藤原朝定も重任を含んで三期にわたり出雲守を務めている。一期目にも重任を望んだが、後白河の側近藤原能盛が出雲守となり、朝定は石見守を一期務めた後に、出雲守に復帰していた。その父藤原朝方が知行国主であった。二期目途中に杵築大社が顛倒し、仮殿造営が始まったが、正殿の造営はなお途中であった。その事業を行うために朝定は養和二年三月に重任したが、造営が遅れる中、寿永二年閏十月二十六日に死亡している。造営は父朝方とその子朝経に受け継がれた。
 「縁起」に書かれた内容がどこまで事実を反映しているかどうかを確認する術はないが、三期にわたり出雲守を務めた経隆と朝定が出雲国の人々に強い印象を与えたのは確かであろう。最も注目すべきは、すでに述べたように国司館が出雲郷に所在した点である。出雲・石見国の武士団の記事で述べたように、当時の出雲国衙在庁官人筆頭の勝部孝盛-助盛父子は出雲郷の郷司であったと思われる。

忌部総社神宮寺縁起を読む1

 これまでつまみ食いしかしたことのない標記の史料の院政期の部分について検討を加える。この縁起と続編となる「忌部総社神宮寺根元録」については、藤岡大拙氏が『山陰-地域の歴史的性格』で全文を紹介された。大正~昭和初期に編纂された『島根県史』の中で、野津左馬之助氏が利用していたが、何故か写本は作成されず、全貌は明らかではなかった。
 当方は「布志名判官考」という論文を書いた際に、その関係箇所は精読したが、他の箇所は読んでも頭に入らないというのが実態であった。そこで、今回、書き下し文と現代語訳の中間的なものを作成し、内容を検討してみることにした。
 院政期については、主に天台宗神宮寺と岩坂郷の星上山(真言宗星上寺)との対立について述べられる。堀河天皇の治世の康和元年(1099)に神宮寺衆徒が近郷に対して狼藉をなす者に処罰を加えていたが、時の国司・郡司はこれを賞すことがなかったため、南都北嶺に倣って勧請した春日明神の神木と延暦寺にちなむ久多見山王の神輿を担いで国司・郡司屋敷に嗷訴したところ、要求が通って寺用穀庫が福富浜(乃木ヵ)に造られたことを記す。
 次いで近衛天皇の久安三年(1147)七月には星上山僧徒が岩坂郷民を率いて神宮寺の熊野にあった所領を荒らした。これを国司藤原経隆に訴えるが、馬耳東風であり、国司館に嗷訴したが、経隆は却って星上山僧徒を扇動し、神宮寺(護国院)が焼かれてしまったとする。この時期は久安元年に杵築大社遷宮が終わり、これを推進した藤原光隆に代わって、光隆の前任であった経隆が出雲守に再任された形となった。経隆は院近臣藤原基隆の子で、最初に出雲守となった時点ですでに成人であった。そして今回は重任しており、最初を加えると三期にわたって出雲守であった。神宮寺の静覚上人は隠岐に流され帰らなかったとする。
 八月に経隆が焼けた神宮寺の検視を行ったところ、勧請した春日社と山王が焼失を免れた理由を聞いて畏み、祭事料田五町を寄進するとともに、両社の祭主を佐草神主の兼務とし、藤原氏の氏神である春日社については屋根の葺き替えを行った。

2017年8月 5日 (土)

平安末期の出雲・石見国武士団3

 大伴氏系図との関係で述べると、塩冶氏は登場しない。それは系図が14世紀半ばまでの大原郡系の人物を中心に記し、その他では仁多郡系を12世紀半ばまで記している。神門系と飯石郡系は10世紀前半の分立時点までしか記していない。塩冶氏は神門郡系であったが、その跡を同じ神門郡系の政光が継承したと思われる。
 多久氏は建久2年と5年の在庁官人解に署判している明元の子明政に「多久太郎」との注記がある。これまた神門郡系で、没収されたその跡を大原郡系の明元が万田庄とともに継承を認められたのだろう。
 朝山氏もこの時点では神門郡系で、それが大原郡(元宗)系の惣領佐世守安の嫡子惟元に与えられたと思われる。建久2年と5年の在庁官人解状で惟元が序列最下位の位置に署名しているのは、父の兄弟に対して若年であったからである。木次・身白氏が、益田兼高に追討が命じられた「木須幾次郎兄弟」であろう。神門郡系が勝部宿祢の惣領であるが、勝部宿祢本来の拠点は大原郡であったため、神門郡系が大原郡内にも所領を有していたのが、これで所領を失い、その跡には東国御家人が補任された可能性が高い。
 横田兵衞尉は、仁多郡系が仁多氏と橫田氏に分かれた内の、橫田氏の子孫であろう。その所領横田庄は没収され、仁多氏の一族三処左衛門尉長綱が継承を認められたと思われる。そうした中、国衙が所在する意宇郡に関する地名を名乗る人物は登場していない。勝部宿祢惣領家は公領としてその面積が最大規模で、国衙に隣接する出雲郷をその所領としていたと思われる。古代律令制下では出雲郷は西部の斐伊川東岸に所在したが、平安期には東部に移り、従来の出雲郷には、千家・北島村と出西郷が成立した。竹矢郷もその可能性があるが、一方で、正嘉二年10月15日に平浜八幡宮惣検校を八幡庄代官職に補任した「郷司左衞門尉」がおり、北条氏が竹矢郷地頭職を得たのは、それ以降の可能性がある。

平安末期の出雲・石見国武士団2

 一の谷合戦で平家は破れ、平家方となった武士の仲には戦死したものもあったであろう。益田氏等の石見国武士に横田兵衛尉と岐須木次郎兄弟の追討が命じられているのは彼らが生き残って出雲国に帰国したからである。敗北した平家が西に逃れたため、対平家において石見国は重要な役割を占め、頼朝は一刻も早くこの掌握を図ったのである。そこで一の谷で敗北した御神本氏惣領「案主大夫」季兼の跡の受け皿として浮上したのが庶子である兼栄-兼高父子であった。御神本氏領の大半を元の如く与えたのである。長村氏は三好俊文氏が、石見国では東部の勢力が治承・寿永の乱で没落し、その跡に入部した守護がその拠点を国衙から離れた東部に追いたとの仮説を示したのをうけて、平家方となった「案主大夫」を邑智群の阿須那の武士に比定したが、根拠に乏しいものであった。石見国では中部から西部を拠点とする御神本氏一族が多数派であったが、その御神本氏は平家方となったのである。そこで大江廣元奉書の「権介かねたか一人ぬけいて々御方にまいり」との言葉が生まれたのである。ただし、この奉書は原本が失われた中で作成されたこともあり、この時点の兼高を「権介」表記するなど問題が多い。
 出雲国から一の谷合戦に参加したことが記されているのは以下の通り。
 塩(円)屋大夫、多久七郎、朝山、木次、身白が一党、富田押領使、横田兵衞尉惟行(澄)
朝山から身白までの三人を一党と考えていたが、富田押領使の前までの五名が一族であることを一党と述べたとすべきであった。すなわち、五名は「大伴氏系図」中の「神門次郎仲政」に始まる神門郡系の人々であった。これに対して十二世紀半ばの勝部宿祢No2の元宗の子にはこの乱で打撃を受けた人が居ない。「横田兵衞尉」は仁田太郎政賞に始まる仁多郡系に属した。系図の上で両者が分かれたのは10世紀前半である。富田押領使については、出雲国に押領使が設置された際に補任された清滝静平の子孫ではないかとの説がある。清滝氏は建長元年の杵築大社遷宮注進状にも見え、鎌倉時代にまで国衙在庁の有力者として存続していたことは確認できる。いずれにせよ非勝部宿祢っである可能性が高く、その所領は没収され、守護等の有力東国御家人に与えられた可能性が高い。

平安末期の出雲・石見国武士団1

 長村祥知氏により、毛利家文庫遠用物中の平安末の石見国に関する二点が紹介された(『鎌倉遺文研究』33、2014年4月)のを受けて、島根県中世史研究会で報告をした。そのまま、雑誌に載せたいとの事で、原稿を渡し、受け取ったところまでは連絡を受けたが、何かの理由で本日まで、掲載されていない。それはよいとして、どのような意見を持ったかを述べてみたい。このブログでは「但馬国山口家任について」(2015年2月)という記事がその影響を受けて書いたものである。
 史料のうち一点は益田家文書でおなじみの大江弘元奉書である。今回の写には、頼朝の袖判があったことが記されていることは注目される。これを元暦元年ではなく2年のものである可能性を述べたこともあるが、やはり元年のものである。その注記には「益田の家元祖より三代目権介兼高」とある。四代目とすれば系図と一致するが、これをそのまま三代目と解釈すれば、系図とは異なるものとなる。本ブログでは、国兼-兼栄-兼高が正しいと繰りかえし述べてきた。
 問題はもう一通の寿永2年10月20日の源義仲下文である。そこでは、義仲が川合源三さねひろ(実弘ヵ)を石見国押領使に補任して都落ちした平氏の追討のため四国に動員したが、無断で帰国してしまったことを受けて「石見国在庁の大名ら」に、押領使になって狼藉停止に従うことを求めている。本来あった宛名がないようにもみえるが、宛名は「石見国在庁大名等」であり問題はない。義仲の父義賢の弟義広が出雲国武士を組織化していたことで、義仲もある程度の情報を持っていたことなる。ただし、石見国東部の川合氏を押領使に補任したのは国衙の最有力者である御神本氏一族が平家方であることを知っていたためであろう。
 義仲が最初の川合氏宛の下文を出したのは、9月19日に平家追討のため西国に下る直前であったと思われる。ところが、平家からは国外の合戦に赴いた川合氏らの所領を押領・没収することが行われたため、川合氏は帰国したのだろう。それに対して、平家との合戦が迫っていた義仲は軍勢を催促して強化を図ったのだろう。しかし、閏10月1日の水島の戦いでは、日食に戸惑ったことだけでなく、思うように兵が集まらずに敗北したのだろう。石見国から新たに義仲のもとへ参集する武士がなかったのに対して、義仲が敗死した1月20日の半月後に戦われた一の谷合戦に平家方として参加したのは「安(案)主大夫」と「横川郡司」であった。
 このうち「案主大夫」について長村氏が音の類推から「あすな」ではないかとしたのは、学問のレベルを逸脱するものである、苦し紛れとはいえ、大変な問題である。「あんじゅ」と「あすな」ではあまりにも違いが大きい。「案主大夫」とは益田氏の系図で国兼の嫡子とされる季兼(兼実とするものもあるが疑問)である。これに対して兼高の父兼栄は国兼の庶子であったと思われる。「季兼」と「兼」を下に付けるとともに。国兼の父「宗季」や益田庄立券の中心となった石見守源季兼にちなむ名前を付けているのに対して兼栄は「兼」を上に付けている。これ以降、益田氏一族は「兼」を上に付けていく。

漆治郷は公領か2

 万里小路氏の雑掌虚成によると、教円父子は国司が交替する隙を狙って公領に濫妨をし、院宣を偽作したことで違勅の院宣が出されたところ、逐電したという。教円の後任が虚成であった。長田氏の狼藉については知らないと回答した。後任の領家堀河局の雑掌兼俊も、教円の日頃の沙汰については知らないが、狼藉を訴えられた昌重がその事実を否定したため、事実確認がなされようとした時点で教円が逐電したことを述べた。
 教円の行動はともかく、何故領家が交替したのだろうか。その答えは日吉社領ではあっても本家が寺門から山門に代わった(戻った)ためである。こう考えることで、本家が山門か、寺門であるかに関係なく、正税が日吉社での祈祷に宛てられたことの意味がわかる。漆治郷は鎌倉後期には公領から庄園となり、その税は日吉社、本家(円宗院→延暦寺)、領家(万里小路氏→堀河局)、地頭で配分されていたのである。寺門のもとでの領家が万里小路氏であり、山門では堀河局が領家となった。領家とは言っても永代のものではないのである。杵築大社領でも従来の領家松殿兼嗣が本家が代わったことで、新たな領家廊御方が補任され、これに対して、兼嗣側が自らの権利の正当性を主張し、幕府で裁判が行われた。
 最後に教円が国司交替の隙を突いたとされるが、それは正安二年の時点の知行国主日野俊光から、翌三年に藤原為方に交替したことである。俊光は持明院統と関わり深い公家であった。為方はその父中御門経任が亀山上皇の側近であったにも関わらず、弘安十年に持明院統の伏見天皇が即位すると、後深草上皇の側近になっている。為方もまた持明院統系の公家であった。
 文永年間に後深草の院分国となった出雲国は、弘安四年には亀山の院分国に代わった。後深草は長江郷を祇園社に寄進していたが、自己の分国ではなくなったために、長江郷の代わりに土佐国永武郷を寄進した。実際には、亀山上皇も長江郷の寄進は継承した。その後間もなく亀山院分国から後深草院分国に戻った可能性がある。それがために、持明院統系の日野俊光が知行国主で、続いて中御門為方に交代した。これにより長江郷のように国衙領で寺社に寄進されたり、側近に与えられていた公領では寄進の見直しや領家の交替がみられた。教円父子はその混乱をついて一仕事しようとしたのではないか。
  最後に表題の点についてコメントをすれば、漆治郷は出雲国が後深草院の分国であった文永年間に山門に寄進されたが、形の上では神仏習合のパートナーである日吉神社領となった。領家には持明院統系の公家が補任された。それが、弘安四年に、出雲国が亀山の院分国となった際に、本家は寺門に変更され、大覚寺統系の公家が領家となった。そして正安三年に出雲国が後深草ないしはその子伏見院の分国になったことにともない、漆治郷の本家は山門に戻り、領家も持明院統系の公家に替わった。漆治郷は文永年間以降は公領ではなく、庄園であった。

 

漆治郷は公領か1

 漆治郷について、『松江市史』通史編中世第1章(当方は2章を担当)では、「領家万里小路中将の権益の外に、延暦寺・日吉社の権益も存在していた」とし、漆治「郷」と称されていることや、延暦寺に寄進されたのが漆治郷の正税であったことからもわかるように、庄園化しておらず、公領であった、と述べている。確かに文書の系統的理解は容易ではないが、日吉社や延暦寺の権益は本家職に関わるもので、それに対して公家が領家職を持っていたと整理できるのではないか。
 年未詳七月十二日院宣(鰐淵寺文書)で国衙の妨げを止めて実検を実施することを認められている「侍従三位」も領家である。藤原家時に比定されるのが一般的であるが、この時点の年齢が高すぎて別人である可能性が高い。これを弘安の役ではなく文永十一年の文永の役の時点のものであるとする意見もあるが、日付からは弘安の役に関わる文書である可能性が高く、後年、鰐淵寺が円宗院の関係者から過去の文書を購入した際の目録にも「弘安四年」と注記されている。
 一方、地頭職は文永八年段階では下野国の有力御家人宇都宮氏の娘であったが、永仁四年、五年段階では将軍久明親王の側近平顕棟と平氏女(平賀氏妻)が地頭であった。宇都宮氏は藤原姓であり、その地頭職が幕府の管理するところとなり、将軍側近とその一族の女性に与えられていたのだろう。この後、美濃国池田氏が地頭職を得て出雲国に入部したことも確認できる。
 正安三年十月四日後宇多上皇院宣(鰐淵寺文書)で文永院宣により漆治郷の本家職が山門に返されている。日吉社との関係は微妙であるが、後に鰐淵寺が支証文書を購入した円宗院は園城寺=寺門の関係寺院であり、日吉社領である事には変化がないが、その実権が寺門から山門に移ったとの意味であろう。
 元応二年三月二日関東下知状(飯野八幡宮文書)によると、正安の頃、日吉社領漆治郷の雑掌教円が長田西郷地頭長田昌重の狼藉を訴え、昌重は幕府の召文に応じなかったとして召文違背の咎で所帯を没収された。これを昌重の子貞昌が訴え、教円の訴えた狼藉は事実ではなく、召文に応じなかったのは嘉元元年に杵築大社三月会の頭役を負担するため下向し、その直後の閏四月に死亡したためだとした。この訴えを受けた幕府は、教円の時代の領家万里小路中将と、その後任の領家である堀河局に確認した。
補注:文永八年時点での地頭を小山氏娘から宇都宮氏娘に修正。

2017年8月 3日 (木)

鎌倉前期の出雲国司4

 建仁二年(1202)十月二十九日に藤原範光が大宰大弐を辞して、その子光実が出雲守に補任されたが、翌三年正月十二日には源敦賢に交替している。範光と光実は丹後国に遷任している。顕俊-宗行-公実の三代の出雲守はいずれも一年未満の短い期間で交替している。敦賢の父源有雅は後鳥羽院の側近として承久の乱後処刑されるが、その妻の中に藤原範光の娘で、順徳天皇の乳母であった女性がいた。範光の孫となる有雅の嫡子資雅は正治二年(1200)の誕生であるが、この時点で資雅は四歳でしかない。父有雅が二八才であり、異母兄敦賢も幼少で、出雲守に補任された時点では後鳥羽院の分国で、実務は父有雅が行ったと思われる。有雅は安元二年(1176)の生まれで建仁三年正月には従四位上、十月には右近衛中将となり、元久元年に正四位下、承元二年に蔵人頭、翌三年には参議となり公卿に列せられている。
 範光は元久二年(一二〇五)三月二十六日に春宮行啓に関する院の賞として従二位に登り、翌三年四月三日には春宮権大夫に補任された。これを承元元年(一二〇七)に辞し、同年三月十五日に出家し、建暦三年(一二一五)四月五日に六〇歳で死亡している。
 この後、出雲守として見えるのは、建保元年(一二一三)の和田義盛の乱の際に、殿上人として鎌倉にいて、戦功を賞せられた藤原長定である。長定は難波経長の子であるが、伯父宗長と叔父雅経は蹴鞠の名手と知られ、朝廷と幕府の両方に仕えた。特に飛鳥井雅経は和歌の名手としても知られ、後鳥羽院の和歌所寄人にも選ばれ、院の近臣としても重んじられた。これに対して、源有雅も代々雅楽を行う家に生まれ、父雅賢から和琴と催馬楽を伝授され、嫡子資雅に伝えている。有雅は建保元年十二月二日には宗長、雅経、坊門忠信(源実朝室の兄弟)蹴とともに鞠で使用する紫色の革の襪の着用を聴さている(明月記)。藤原長定が出雲守であった際の知行国主は源有雅であったと思われる。以降、承久の乱まで有雅が出雲国知行国主であった。
 建暦元年(一二一一)六月日の国司庁宣には、袖判が押され、奥の「大介源朝臣」には花押がない。国守は源敦賢、知行国主は源有雅であろう。有雅は承元二年(一二〇八)七月に蔵人頭に補任され、翌三年正月には参議となって公卿となっている。国司庁宣が出された建暦元年六月二十二日には正三位に除せられている。

鎌倉前期の出雲国司3

 「鎌倉前期の出雲国司」と題して承久の乱の前までの出雲国司について述べたことがあったが、丁寧に調べれば、なお明らかになる点があることに気づいたので、再び述べたい。
 鎌倉時代最初の杵築大社遷宮は建久元年(一一九〇)に行われた。その正確な月日については二つの異なる月日が記されており、どちらが正しいかを確定することは難しいが、杵築大社政所が承久二年に作成した史料によるべきで、遷宮の翌年とはいえ、建久二年に神主職をめぐる対立の中で国造を支持する立場から記された解状には問題があると思われる。国造家にとっては記録を残したくない造営・遷宮であったのだろう。それを中心的に進めたのは、鎌倉幕府将軍源頼朝の支援を受けて神主に補任された内蔵資忠であった。
 これまでなら遷宮終了を以て知行国主・国守も交替していたが、建久九年九月に出雲守に補任された藤原家時の父親綱の姉妹が朝方の子朝定の母であり、この時点でなお藤原朝方が知行国主であった可能性がある(公卿補任には「朝方卿申任之」とある)。朝方は後白河院の近臣であったが、建仁元年(一二〇一)三月に死亡している。
 これにより知行国主が交替し、藤原顕俊が出雲守に補任されたと思われる。顕俊は後白河院の近臣葉室(堀河)光雅の子だが、本人は後鳥羽院庁下文の署判者としてみえ、且つ兄光親は承久の乱の首謀者の一人として処刑されているように後鳥羽院の近臣であった。前回のブログの時点でもここまでは確認していた。ただし、公卿補任によれば、叔父の葉室宗頼が大宰権帥を辞して猶子顕俊(兄光親のもとで和泉守)を出雲守に申し成したとある。顕俊の後任の藤原宗行が葉室宗頼の養子となった点は確認していたが、顕俊もまた宗頼の養子となっていた。
 早くも建仁元年(一二〇一)十二月二十二日には藤原宗行が出雲守に補任されている。宗行の父行隆は後白河院の子二条天皇に仕えていたこともあり不遇を託っていた。その時期(一一七四)に生まれた五男宗行は葉室宗頼の養子に入って「宗行」と名乗った。養父宗頼は兄堀河光雅と異なり不遇を託っていたが、鎌倉幕府成立で朝廷の体制が大きく変わる中で、後白河院の近臣高階泰経に代わって大蔵卿に起用され、その後、九条兼実に仕え、その失脚後も後鳥羽の乳母を妻として実権を握った源通親に登用され、建仁二年正月には通親の妻の連子で鳥羽院の子土御門の母となった任子(承明門院)が入内(院号宣下)したことにより正二位に進み、同年七月二十三日には権大納言に昇進したが、翌三年正月二十九日に死亡している。以上の事によれば、葉室顕俊と宗行の時期の知行国主は養父葉室宗頼であろう。

2017年8月 1日 (火)

近況8月1日

 膝の状況はあまりかんばしくない。右だけでなく左にも少し違和感があるので、久しぶりに膝を冷やした。日常生活にはほぼ支障はないのだが、この状態ではどんどん外に出て歩くという気分にはなりにくい。とりあえずは自転車で図書館通いか。
 固定電話の調子が悪く、子機2台中の1台は使用不能となってしまった。ただし、親機はコンセントが外れていたようで、まだ使えることが後で判明したが、その時点ではすでにネットで注文し、本日到着した。
 そうしていたところ、昨日の朝、不幸にも携帯電話が洗濯されてしまいお釈迦様になった。一時は固定、携帯の両方が使えなくなった。ということで、本日、初めてのスマホを導入した。新製品の出る前なら、以前の機種がもう少し安く契約できたかもしれないが、在庫がないとのことで、その後継機種にした。とりあえず2年で、2年後に実態が分かった上で選択をすることにしよう。とはいえ、蟻地獄に足の片方だけ入ってしまった気もする。業者の仕組みは2年毎に機種変更するのが一番良いかのようになっているj。
 インターネットはスマホの回線ではなく、メガエッグを利用するので、早速、家のWiFiに接続しようとするが、マニュアルもなく、悪戦苦闘してなんとかなった。ルーターのボタンを押せばできるはずと思っていたが、やはり暗号を入力するしかなかった。この文字の入力にも一苦労である。副産物としては、関東の研究者の人に連絡をとるため、フェイス・ブックのアカウントを登録したのに、パソコンでは一向にログインできなかったのが、今回、スマホを使ったらできた。そして研究者に連絡をとることもできたので、まずまずか。本日はこれにて。

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