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2017年7月

2017年7月31日 (月)

湯原幸清と河副久盛9

 実際には尼子軍本体は天文七年と八年の後半には東部への出張しており、西部には新たに松田経通を派遣し、出雲国から武田氏のもとに派遣した赤穴氏や近所である石見国邑智群の小笠原氏と連携して対応している。小笠原氏は毛利氏と大内氏の間を裂くための「計策状」も作成しているが、効果はなかった。また尼子氏も年末から年初にかけれはどの年も一旦富田城に帰っている。地元の国人と連携するため、湯原は播磨ないしは美作に在陣していたのではないか。後に牛尾氏に養子に入り牛尾遠江守幸清と改名して、天文二十年代には尼子誠久とともに美作国に常駐している。
 今回はここまでとするが、従来は文書の年次比定が混乱しており記された情報の活用が不可能であった史料について、そこから明らかになる情報を整理した。また、西部戦線が緊張したので、尼子晴久が三月まで在陣した播磨国から慌てて帰国し吉田攻めを行ったというのが現在の通説であるが、尼子氏側でも毛利氏のみとの対立ならよいが、大内氏との関係が決裂する可能性は強くなっており、その際には尼子軍本体を西部に派遣することにしており、吉川氏だけでなく友好関係にある武田氏や石見国人に対してしきりに情報の提供を求めていた。天文九年に比定できる正月二十一日松田経通書状では「播州表理運ニ成行候間、定而可為帰陣候哉」とあるように、天文九年の初めに尼子軍本体は出雲国に帰っていた。この書状をなぜ天文八年に比定するのか、全く理解に苦しむところである。幕府の大館常興日記の同年三月三日条を読めば、詮久と経久はともに出雲国に居たことがわかる。
 予定は変わることもしばしばあるが、月も変わるので、しばらくブログの記事のアップはほどほどにして、論文の整理と作成に重点を置いていきたい。その過程でアップすべき点がでれば、紹介したい。今回は文書の日付に注目した。その違いが重要な点を知らせてくれるのに、なぜかこれまで看過していた。

湯原幸清と河副久盛8

 天文七年二月五日にも尼子氏から吉川氏に連絡をしている。山県郡については尼子氏が支援するので毛利方との合戦を続けることを求めている。吉川氏からは前年に経久・詮久から馬・太刀を送られた返礼がなされており、尼子氏がこれに対するお礼も述べている。そして同日付で河副が単独の書状を吉川氏家臣に送っている。これにより河副が富田城にいたことがわかるが、河副は西部方面遠征には出かけず、書状の差出人に湯原がみえないのは東部戦線に留まっていたからだと思われる。そして今回は内田泰家も尼子詮久と同日で書状を出しており、彼もまた富田城に戻っていた。これは一時的なものであろう。併せて吉川七郎兵衛からも所領安堵の礼が届いており、こちらは経久、河副、内田がそれぞれ単独の書状を出している。七郎兵衛尉は湯原に対する御礼も送ってきていたので、これについても内田が述べている。
 尼子方からは南方の儀は合戦によりうまく言っているが、弥々油断無きことを伝えている。平賀表も堅固で、志和地についてはまもなく落居するとして、尼子氏方が安芸国では優位に立っていることがわかる。ちなみに、毛利元就の嫡子隆元は前年十二月一日に人質として山口に到着しており、毛利氏にとっては厳しい状況であった。それゆえに問題となるのは大内氏の出方であり、注進を続けることを求めている。武田衆も毛利氏との堺目に動くので、絶え間なく連絡しており、油断があるなら連絡してほしいと述べている。そして、尼子氏の西部への出張が決定したらすぐに連絡するので、馳走いただければ目出度いとしている。すべては大内氏の動き次第で、それに対応することを約束している。

湯原幸清と河副久盛7

 湯原・河副は富田城に帰っていたことを述べたが、六月十七日付で詮久のみから上本地については武田へ意見したので、現時点では変化がないが、繰り返し伝えるので安心するようと述べている。そして同日付で湯原・河副の連署書状が森脇・吉川氏宛に出されているので、両者が富田城にいたことがわかる。それによると、吉川氏は境氏を派遣して尼子氏に申し入れたことがわかる。毛利表と小石見表は最近は平和であり喜ばしいが、毛利表は堅固に対応する必要があると述べている。
 それとともに、河副単独で略式の書状を両者宛に送っているが、ここでも取り乱しているので、一書で境(坂井)殿を通じて述べたとする。湯原がこの後、東部遠征に参加するため、窓口として富田城に居る河副単独の書状も出したのだろう。実際に、天文五年十二月以降、本願寺とも連絡を取り始めながら、準備を進め、天文六年十一月には本願寺から今回の進発が本意に達したことを珍重として太刀や布を祝儀として送っている。証如上人日記十二月二十四日条には尼子氏関係者との音信のやりとりが記されているが、そこに「湯原次郎右衛門 尼子内者、足軽大将ヲスル者也」とみえ、湯原が軍事的に重要な役割を担っていた事がわかる。この年の遠征では備中・美作を制圧し、播磨国に入ったが、冬に入ったため、年内に出雲国に戻っている。その事を述べたのが、『江北記』の亀井安綱書状であったが、『江北記』ではこれを天文五年のものと誤っている。

湯原幸清と河副久盛6

 尼子氏との関係を深めようとする福屋氏が支配下に置いていた石見国小石見郷では、岡本氏を中心にこれに反対する動きが顕在化して福屋氏との間に合戦が起こった。これに対して大内方も出兵して細腰要害へ誘導していると各地から聞こえているが、尼子方の福屋氏への影響が無いかどうか、音信不通なので、福屋氏のもとに使者を派遣して状況を知らせてほしいと述べている。安芸国に関しては、厳島神主家の覚悟とこれに対する大内氏の出方を知りたいとして、使者の派遣を依頼している。各地で大内氏との対立が生じ、大内氏側が面目を失いつつあるとの意見が各地から寄せられているが、吉川氏の意見を聞きたいとしている。境目に位置する吉川氏ならば情報があるだろうとしている。
 一方、尼子氏が吉川氏に安堵した山県郡内の所領について、毛利氏から使者を派遣して様々言ってくるが、その主張には根拠がなく、返事は一切していないことを伝えている。武田氏との間の上本地については、以前伝えた通りで替わりはないので安心してほしいとする。その一方で、尼子氏が東方遠征の準備に入っているためか、「折節取乱候」と十分述べる余裕がないとも記している。
 すると、書状を出した直後に新たな情報を得たので、翌日には連署で書状を出している。毛利だけでなく、天文三年に元就の娘が嫁いだ宍戸氏からも御礼が来たが、返礼はしていないことを述べている。福屋氏と小石見郷については邑智郡の河本から三原氏がやって来て、大内氏が別儀を考えていることを伝えたが、一方、福屋氏からは加勢を要請する野坂氏が派遣された。ただし、今のところ福屋家には特別なことは起こっていないとしている。

湯原幸清と河副久盛5

 三吉氏は大永七年の合戦でも尼子方で、天文四年には毛利氏の攻撃を受けており、この時点でも立場に変化はなかった。山県郡、武田方、平賀氏(頭崎城)、石見国邑智郡ならびに福屋領並びに邇摩郡の状況を把握して述べている点からして、最も適切な場所と考える。出雲国西南端の赤穴庄よりはるかに好都合な場所である。湯原・河副は吉川氏がさらなる入魂を示せば、経久・詮久にさらに伝えると結んでいる。
 五月三日には大内氏家臣の野田隆方と内藤興盛が連署で湯原と河副に、経久と詮久から太刀と馬が送られたことを喜ぶ返書が出されている。その後、湯原・河副は富田城に帰ったと思われ、これに代わって、五月二十五日には内田泰家が、翌二十六日には泰家と石橋信安が連署で吉川氏に書状を出している。
 湯原・河副は天文五年三月頃に備後・安芸方面に出張してきた。それは当然、国人を含めてかなりの軍勢を帯同したものであり、これにより安芸国と備後国北部を制圧したと考えられる。ただし約一年が経過したこともあり、一部の残留部隊を残して尼子氏の軍勢は出雲国に引き上げたと思われる。当座はこれで十分と考えたのだろう。
 内田泰家書状ではこの間しばらく吉川氏から連絡がなく不安であったが、連絡を受けて無事と確認して安心したことを伝えている。吉川氏に詮久から馬が送られたことを伝えるとともに、湯原・河副の両人も合戦での活躍を期待していることを述べている。この時点では吉川氏と毛利氏の合戦も本格化していたのであろう。

湯原幸清と河副久盛4

 吉川氏側が要求した武田氏との所領問題については、経久・詮久の了解を得て二度ほど使者を武田氏のもとに派遣したが、女房衆の意向だとして使者を無駄に帰してしまい、約束を守れなかったことをわびるとともに、私達家臣だけではなく経久も事態を認識すべきであると述べている。武田氏と吉川氏は対毛利氏では味方であるが、堺目の所領をめぐり対立していた。
 七月二十七日にも、吉川氏への返事として湯原・河副連署書状が出された。吉川氏側から「又四郎殿」がその家臣とともに出陣して尼子方であることを示したことが肝要であり、尼子方もそれに応えるので安心するよう伝えている。「又四郎」が三月十四日の書状にみえた「御子息」であろうが、興経の子ではなく、吉川式部丞ないしは森脇縫殿允の子であろう。所領をめぐっては塩冶興久の乱の時に毛利氏によって滅ぼされた高橋氏の牢人衆が所領回復のため動いているが、吉川氏領とした宇次井・曽田に狼藉を働くのは曲事であるとして、尼子方から申し入れたにもかかわらず、改善していないのは残念だとして、重ねてはっきりと伝えるので安心するよう伝えている。
 次いで吉川家文書として残されたのは天文六年に比定できる三月八日の経久と詮久の書状である。これ以前にも両者の書状は送られているが、これが残されたのは、吉川興経に山県郡先知行地の知行を安堵したからである。毛利氏との間で対立があり、従来は吉川氏は毛利氏に従う立場にあったため、十分自己主張できなかった所領について、吉川氏が「先知行」だとして尼子氏がお墨付きを与えたのである。毛利氏との対立では吉川氏を支援するという事である。この書状を湯原・河副は二日後の十日付の書状とともに、吉川氏に送っている。三月十日に湯原・河副のもとに八日の書状が届いたということで、湯原・河副の居た場所を考えるヒントとなる。三月十四日の書状で見聞きした木屋原城と甲山城の状況を述べているので、備後国三次近辺に居たのではないか(安定的に確保できる点では赤穴庄であり、訂正する)。

湯原幸清と河副久盛3

 この二通についても述べたことがあるが、以前は詮久は出張に参加したと考えていたが、経久と詮久の安堵状が同じ日なので、両者とも富田城に居たと考え直した。また、山内氏跡を認められた多賀通続の子=山内聟法師には「御宿所」と注記があるので、多賀山親子は蔀山城にいたのではなく、この山内氏攻撃に尼子氏方として参加し、このままだと山内氏惣領家が断絶してしまうとの想いから、通続が提案して尼子氏が受け入れたものである。
 吉川氏側は尼子氏に対して、なお備後国の平和の継続を求めているが、湯原・河副は前回、それが無理なことは十分説明済みだとしている。前述のように吉川興経はこの当時十九歳と思われ、元服の際に大内義興の諱名を得ているように、天文四年までは大内方であった。毛利氏が尼子氏との契約に違反し、山内氏を支援する動きを示したため、尼子氏は天文二年末ないしは三年初めに山内氏の甲山城攻撃から撤退する際に、毛利氏側が派遣していた家臣福原氏を富田城に連れ帰った。これについても毛利氏側は出雲国人赤穴氏に約束違反で前代未聞だと批判している。
 吉川氏からは、毛利氏に布野を渡さなかった(以前紹介した住本氏はこれを「尼子氏が布野に出動しなかった」と解されるが、意味が不明となる)理由について質問があったのだろう。湯原・河副は、尼子方としては布野を与える選択肢も持っていたが、布野を渡しても毛利が山内に内通したのは確実だったと反論し、山内氏も降伏間近であり、いまさらそんな事は言わないように求めている。三月十四日に多賀山聟法師に山内家の相続を認めてはいるが、実際にはこれをもって多賀山氏が山内氏を説得し、滅亡を回避するためのものであった。攻撃は続いており、山内直通が聟法師に譲ったのは六月であった。なお、最初に述べたように経久と詮久が同じ日付で宿所にいる多賀山聟法師に安堵する書状を送っており、この時点で詮久は経久と同様、富田城にいた。

湯原幸清と河副久盛2

 蔀山城は享禄二年七月には落城寸前まで行ったが、大風雨により尼子氏が撤退して難を逃れた。それが享禄四年七月に毛利元就と尼子詮久の間に兄弟契約が結ばれ、尼子氏が興久の妻の実家山之内氏への圧力を強める中で、降伏に追い込まれたのだろう。塩冶興久が自害した年次についても諸説あるが、尼子氏過去帳にみえる天文四年十二月三日が正しいと思われる。尼子氏による木屋原・甲山城攻撃が山之内氏を追い詰めた結果、興久の自害につながったのであろう。
 吉川氏が尼子氏に入魂したのは、山県郡内の所領をめぐる毛利氏との対立を尼子氏の支持で有利にするとともに、尼子氏と同盟関係にある武田氏との問題を解決するためであった。吉川氏は尼子氏と結ぶとともに、尼子氏と同様、武田氏のもとで番衆を務めていたと思われる。
 吉川興経の出生年については永正五年ないしは十五年の両説がみられるが、享禄三年までは「千法師」、翌四年に「次郎三郎」とみえるので、永正十五年に生まれ、十四歳で元服したと思われる。天文五年の段階では十九歳となる。音信②の最後に「御子息」が登場し、湯原・河副に音信を送っているが、興経ではなく吉川氏側の窓口となっている森脇縫殿允祐有ないしは吉川式部丞経世の子であろう。
 吉川家文書として残された書状で三月十四日付に続くのは同年に比定できる四月二十三日の湯原・河副連署書状である。この間、三月二十一日には、経久と詮久が、早くから尼子方となっていた多賀山通続の子が山内家を継承することを認めている。山内直通の娘の婿養子となる形を取ったが「山内聟法師」と呼ばれているようにその時点では元服前であった。

湯原幸清と河副久盛1

 湯原幸清と河副久盛は天文五年の尼子氏の備後・安芸国出張で、現地の情報収集と富田城への連絡を担うなど重要な役割を果たしたが、吉川氏宛の書状の年次比定が容易ではないため、書状に記された貴重な情報が十分生かされずに本日まで至っている。それとともに問題となるのが、両者が拠点とした場所がどこかということも考えなければならない。従来は天文六年後半から湯原幸清が西部方面への出張に参加したことを強調してきたが、それとともに河副ならびにその関係者の居場所の変化も見ていく必要がある。
 現在残る文書で、時期的に最も早いのは天文五年に比定できる三月十四日書状(尼子235)である。ただし、これは吉川氏からの音信②への返事であり、それ前に出張してきた尼子氏へ連絡を取った音信①があり、それに湯原・河副が返信Ⅰを出すとともに、音信①を富田城にいる詮久と経久に送ったと考えるべきである。吉川興経からの接近を尼子詮久は歓迎している。以上のように、湯原と河副は経久と晴久から離れた場所に居ることが大前提となる。
 吉川氏からの音信②では①より尼子氏への入魂と吉川氏からの具体的希望が具体的に述べられていたと思われる。これに対して湯原・河副の返信Ⅱでは、最初に備後国小屋原城と甲山城の状況が述べられ、次いで大内氏並びに毛利氏との関係が述べられる。毛利氏は関係が悪化したのは尼子氏に原因があるように大内氏に言っているが、享禄四年七月の毛利元就と尼子詮久の兄弟契約が結ばれてから今日に至る五~六年間、尼子氏としては相手への無沙汰せずやってきたことを述べている。その一方で、大内氏から安芸国西条奉行弘中隆兼に使僧が送られるとの吉川氏からの情報を受け、和平が続かない可能性を述べている。
 尼子方は天文二年後半にも甲山城を攻撃していたが、続いて天文四年には多賀山氏の蔀山城と山之内氏の甲山城の中間に位置する小屋原城を攻撃している。それが天文五年三月の時点で落城間近と、湯原・河副は述べている。その前提として蔀山城の多賀山氏は尼子方になっていたと思われる。

永禄二年の尼子晴久2

 晴久は七月二十八日には温泉津から神魂(伊弉冉)社に御供を送り、九月二十七日には大田御陣におり、十月二十四日には出雲国に戻り、伊弉諾・伊弉冉両社に参拝している。七月二十六日杉原盛重書状によると、雲州衆が江川東岸にある福屋氏の河登(上)城を攻撃し、渡河を図ったのだろうが、吉川元春・熊谷氏らと後詰に向かったところ、出雲衆は温泉津まで引き上げたとする。多くの死者を出し、再びの攻撃はないであろうと予想している。二ヶ月後にも大田におり、別ルートからの渡河も図ったのだろうが、毛利方の厚い壁に阻まれ、小笠原氏は降伏してしまう。
 今回説いているのは、この本格的出兵の少し前にも晴久が小笠原氏救援のため、石見国邑智郡の小笠原氏の温湯城の付近まで出かけていたことである。この時点では福屋・佐波と吉川氏によるもので、これを抑えることは可能であった。その目で尼子氏発給文書をみると、永禄元年九月十三日に晴久が羽根駿河守に与えた安濃郡大田郷に相違が生じたので、代わりに刺賀郷内六十貫を与え、二十三日には出雲国安国寺に寺領を安堵し、翌年正月十九日に神門郡妙見神主職を波多野氏に安堵して以降、晴久の文書は三月十日の小笠原長雄への書状を除けばみられない。
 永禄二年の貼紙がある七月十四日尼子義久安堵状(佐草家文書)のように、晴久の留守中は嫡子義久が権限を代行したとも考えられる。同年に比定されている四月二十八日尼子義久書状(日御碕神社文書)もあるが、これは義久の花押によれば永禄六年以降のものである。そしてこれも永禄二年の貼紙がある十月五日尼子氏奉行人連署書状があるが、これは大田陣から撤退する途中で出されたものであろう。永禄二年における二度の石見国出兵は晴久が小笠原氏を重視していたことを示す。弘治二年には山吹城を落城させ、陶氏の滅亡により孤立していた小笠原氏の危機を回避させることができた。たらればを言っても詮無いが、毛利氏が小笠原氏を包囲した段階で出兵しても、よほどの兵力差がなければ対処できなかったのではないか。その意味で、四月六日の時点で毛利氏出兵計画を知ったが、尼子氏の対応よりはるかに早く毛利氏が石見国に出兵したことが、今回の結果につながった。この一方で、この年の五月以降、将軍足利義輝による雲芸和談が進められていたことが、尼子氏にとって誤算を生んだのだろうか。

永禄二年の尼子晴久

 この問題に関しては、「尼子氏の石見国進出をめぐって」の中で、永禄二年にしか比定できない三月十日尼子晴久書状について述べたことがある。先日の竹表での合戦で小笠原大蔵丞長正があげた勲功を賞するだけでなく三百疋を与えるというものである。晴久が尼子氏家臣(河副氏ヵ)からの報告を受けて、小笠原氏惣領長雄に宛てて文書を出している。竹表では尼子方の小笠原氏と毛利方の佐波氏が戦ったもので、井上寛司氏が弘治二年に両氏が竹表で戦った際のものとされた。
 これに対して長正は弘治二年十月五日の時点では「助十郎」と呼ばれており、大蔵允となったことが確認できる確実な史料は永禄元年五月二十五日小笠原長雄書下であることから、この文書は毛利氏が石見国に本格的に進出してくる永禄二年のものであるとした。年未詳四月六日晴久書状(小笠原大蔵允・同源五郎宛)も残っており、これを井上氏は永禄元年(弘治四年)に比定されたが、永禄二年のものであるとした。そこでは近いうちに毛利氏が其表に指出すとの河副久盛からの注進を受けて、油断なきことを求めている。そして、現実のものとなった際には対応することを伝えている。
 何が問題かというと、三月十日には小笠原長雄も書下で三月一日の竹合戦での大蔵允の勲功を賞しているのである。晴久の行為は家臣からの注進を受けてからのものであるが、小笠原長雄の場合はその日のうちに知ったはずである。偶然日が一致したというより、その時点で晴久と長雄がすぐ連絡の取れる極めて近い場所にいたことを意味するのである。とすると、三月前半の時点で晴久は石見国に出兵していたのである。そして一旦富田城に引き上げたところ、河副と福屋氏から毛利氏出兵の連絡があり、再び出兵を準備に入り、小笠原氏救援のための大規模出兵を行ったのである。

2017年7月28日 (金)

観応の擾乱期の出雲国3

 出雲国における観応の擾乱のポイントの一つに貞和六年八月十二日の反幕府派の挙兵と、翌日の幕府派国人との白潟橋での合戦せがある。これ以降、山名時氏が幕府に下る貞治二年までは、出雲国でも反幕府方が優位に立ったのである。
 当時の出雲国における反幕府方の中心は小境平五郎小境元智が共ニ旗揚げしたとする佐々木六郎左衛門尉と伊藤弾正左衛門尉である。この内、伊藤氏は土屋氏とともに七月には大原郡阿用庄蓮花城で幕府方と戦い、佐々木氏は来島庄内由木城や野萱、下子城で幕府方と戦っていた。そして八月には伯耆国から反幕府方が攻め込んで来るとの情報を得て安来津を警固していた幕府方国人と出雲国の佐々木信濃五郎左衛門尉・同六郎左衛門尉らが戦っている。
 幕府方は白潟橋での戦いの反幕府方の中心物として土屋氏と佐々木氏を上げている。出雲国内に攻め込むとの観測が流れた伯耆国凶徒とは名和氏の一族であろう。塩冶高貞が幕府方に転じて以降、南朝方の出雲国守護には名和氏関係者が補任された可能性が高い。そして高貞滅亡後はその遺児貞宗らが名和氏と合流して幕府方の守護代吉田厳覚らと対抗していたと思われるが、幕府方が優位に立っていた。それが、変わりつつあったのである。
 そのきっかけを作ったのは中国大将軍足利直冬であった。貞和七年七月十七日には直冬が石見国に派遣した桃井左京亮が三隅郷に到着し、石見国人への軍勢催促を開始している。師直・師泰以下を誅伐せよとの直冬の命が出され、それをうけての行動であった。実父尊氏と義父直義両殿の御意を受け継ぐとする曖昧な立場は、六月十五日に尊氏による直冬追討の軍勢催促状が出されたことで不可能となり、直冬が師直・師泰誅伐の軍勢催促を行ったのであろう。文書そのものは残っていないが、それを受けて石見国には桃井氏が入部した。七月一日には直冬が内田氏と高津氏に感状を出しており、これが独立して最初の文書であろうか。
 当然、出雲国・伯耆国にも催促は行われ、それまで劣勢であった高貞遺児や名和氏による反転攻勢を可能とし、これに呼応するものが続出した。出雲国で挙兵し白潟橋で幕府方と戦った小境伊藤元智も、軍忠状を正月二十六日に出雲国に発向してきた御大将(左近大夫将監義継、桃井左京亮義郷の関係者か)に提出し、その証判を受けている。三月十五日に鰐淵寺に御祈祷の巻数は主人にお見せしたとする奉書を出した修理亮は御大将義継の関係者であろう。三月二十一日には直冬自身が鰐淵寺に祈祷をすることを命じている。そして観応二年三月には京極高氏に代わって直義派の山名時氏が出雲国守護となった。三刀屋氏惣領信恵の嫡子助直は正月以来の軍忠について三月に山名時氏の証判を得ている。一方、庶子助貞は四月には太宰府の直冬のもとに着到状を提出している。そして六月七日には石見国に派遣されていた桃井左京亮義郷が出雲大社領を安堵している。この前後の関連事項は「小堺保地頭伊藤氏関係文書」を参照のこと。(以前の1と2に追加)

2017年7月27日 (木)

新宮党討滅事件のまとめ3

 その際に利用されたのが、国久から所領を譲られるはずであった氏久であった。国久が晩年の子で自分と年の変わらない与四郎(ほそき)を寵愛していることが、氏久の不安・不満であった。また、母の実家多賀氏も陶方であったが、父の従兄弟多胡辰敬が毛利氏と結んでいるとの誤った情報を得たため、晴久にこれを密告し、自らの立場を良くしようとしたのだろう。氏久の不満は晴久も知っており、これをすぐに信じることはなかったが、そこに佐世清宗が佐世郷から富田城に急いでやって来て同様の情報をもたらしたがために、晴久はこれを信じてしまったのである。佐世清宗が毛利氏と結んでいたかは不明だが、尼子国久とその子達を外戚とする義久の時代になれば、富田衆内部の力関係に大きな変化が生じたのは確かであり、清宗のもとにも毛利氏から多胡氏に関する誤った情報がもたらされたのだろう。
 毛利氏が残した「尼子家破次第書」や「遠用物」はまさに毛利氏が「おら知らねぇ」ことを主張するために作成・残されたものである。「遠用物」の中には、毛利隆元が朝廷に、陶氏に対する治罰の綸旨が出されることを求めた文書と将軍義輝に対して晴賢・隆世の治罰を命じた後奈良天皇綸旨が残されていることを川岡勉氏が論文で紹介している。当時の状況から朝廷がこのような綸旨を出す可能性はなく、隆元がその発給を求めた文書を朝廷に出すのも非現実的で、明白な偽文書である。それは当時の後奈良天皇綸旨をみればわかる(「綸旨」という言葉は使っておらず、奏者は官職と名前を記している)。
 毛利氏は自らの行為を正当化するため、後でこのような文書を作成したのである。これが正しいものなら、当然、原本が残されたはずである。尼子氏の吉田攻に対して籠城した際の記録も、籠城から間もない時期に作成されたもので偽文書ではないが、尼子氏の軍勢が三万であったことを含めてかなりの誇張が含まれている。タイムリーヒットではなく、逆転サヨナラ満塁ホームランで勝利したかのように記録を残しているのである。「尼子家破次第書」や「遠用物」に記された内容には事実も含まれているが、最後は「おら知らねぇ」ということを主張している。

新宮党討滅事件のまとめ2

 その意味で長谷川氏の説く「先見性」は多胡には当てはまらない。晴久がガセネタを信じた背景としては、晴久の代になって新宮党と多胡氏が冷遇されており、晴久がその不満を知っていたためと佐世清宗の証言である。一族衆の筆頭であった国久は政権中枢から塩冶に追いやられ、その嫡子誠久も美作国に派遣され、幕府から守護に補任された晴久のもとでは富田衆の筆頭の地位とされた。多胡辰敬も同様に石見国に派遣され、晴久近臣が受領に任官する中、左衞門尉のままであった。
 キーマンは事件の前年に死亡した晴久の室であった国久の娘と、尼子誠久の嫡子氏久である。彼女の死と氏久の行動がなければ、将来的にはともかく、天文二十三年という毛利氏にとって陶・尼子氏にって挟撃される可能性が高まった時期に事件が起きることはなかった。氏久は他の兄弟と母親が違う可能性を指摘したが、系図には氏久のみ多賀美作守隆長娘の子とされており、興久の乱により氏久の母は離縁された可能性が強い。誠久が隆長の娘と結婚したのは祖父経久の意図であり、氏久の誕生は歓迎されたが、その直後に暗転したのである。
 「遠用物」では氏久は祖父国久のもとで育てられたとされる。母の実家多賀氏は大内義隆滅亡後は陶氏の家臣となっていた。尼子晴久も陶氏との連携を意図していたと思われる。興久の乱が毛利元就の調略によって起こったため、晴久が毛利氏と組む可能性はなかった。吉田攻めの際の進路についてもすでに述べた通りである。それとともに、境を接し、直接対立していたのは毛利氏であった。
 尼子晴久が出雲・隠岐に加えて六ヵ国の守護に補任された際、安芸・石見が除かれたのは大内氏が両国と深いかかわりを持ち、それを後継する陶氏の存在があったからである。実際に晴久が陶氏と大内義長のもとへ使節として雲樹寺の善瑞を派遣していたことも確認できる。この中で毛利氏としては、尼子国久とその一族が毛利氏と結んでいるとの疑惑を晴久に持たせるのが唯一の打開策であった。

新宮党討滅事件のまとめ1

 これまで何度か論じてきたが、ようやく関係データも集まり、ゴールが見えてきたように思われるので、以下に述べていく。
 この問題に関心を持ったのは、新宮党館跡(島根県指定史跡)が尼子国久と嫡子誠久の館ではなく、庶子敬久の館であることを確信したからであった。後者が富田城から離れた新宮後谷にあったのに対して、富田城絵図に新宮前谷に描かれている館こと、国久・誠久の館であった。これと「尼子氏破次第書」の記述を結びつけ、晩年の国久が寵愛した「ほそき」とは敬久であると述べた。
 その時点では毛利家文庫に残されている遠用物については承知していなかったが、長谷川博史氏の論文で、尼子誠久の妻の父多賀美作守が塩冶興久の乱で興久方となり、敗北後播磨国に逃れた事が紹介されていた。そして長谷川氏が『山口県史の窓』通史編中世の中で全文を紹介し、「破次第」では多賀美作守隆長と多胡左衞門尉辰敬が混同されているが、多胡辰敬が大内・尼子両氏を敵に回して毛利氏と結ぶ先見的選択をした可能性があると、より踏み込んだ分析をされた。また、これをみることで、「ほそき」が敬久ではなく、米原正義氏の説かれた末子の与四郎であることがわかった。そこから、敬久の登用は父国久の意向というよりも晴久による新宮党で自らよりもやや年長である誠久の牽制と考えた。
 軍記物は尼子国久が毛利氏と結んだとの疑いを持った晴久が、新宮党を討滅したとしている点では一致している。それに対して、「破次第」や「遠用物」では、尼子氏は自滅したのであり、「おら知らねぇ」と述べている。実際には桜井センリのコマーシャルと同じく、「おら知らねぇ、おら知らねぇ、新宮党が滅ぼされた、おら知っちょーる」であった。
 「破次第」では多賀左衞門尉とその娘の子尼子氏久のみ登場する。多胡ではなく、多賀とすることで、陶氏の家臣となっていた多賀氏と氏久の関係と、その情報を得た晴久と佐世清宗の判断によるとしている。一方、「遠用物」では、多賀美作守の孫である氏久に加えて、国久の妻の兄弟である多胡左衞門尉が登場し、直接的には多胡の動きが晴久と清宗による討滅をもたらしたとする。ただし、多胡辰敬が毛利氏と結んでいたというのは討滅の直後にガセネタであったことが分かったので、多胡はその後も尼子氏の家臣であった。

2017年7月26日 (水)

尼子経久の伊予守任官時期4

 肝心なことを忘れていたので付け加える。この記事を書き始めたのは以下の事を述べるためであったが、これまで述べた内容は文章を書きながら、「そうか」と気づかされた点である。最初はまったく予期していなかったものとなった。
 永正八年十一月の三通の書状に関する浜口氏と川岡氏の説に対して最も疑問に思ったのは、経久ないしは政久の家督が認められた御内書であるならば、当然、文書は佐々木寅介氏所蔵文書として原本が残っているはずなのに、残っていないという点と、安堵ならば御判御教書ではないかという点である。両者の説が成立するためには残すはずが何らかの理由で失われてしまったという事情が存在したかであるが、どうであろうか。何より尼子民部少輔宛の三通は残っているのである。
 重要な文書でありながら、佐々木家文書に残っていないものとしては、天文二十一年四月二日に尼子晴久を出雲国・隠岐国の守護に補任した将軍足利義藤御判御教書がある。これを伝える奉行人奉書しか残っていない。他の六ヵ国については両方が残っているにもかかわらず。さらに、他の人はなぜか気づかないが、天文二十四年の初めに尼子晴久を修理大夫に補任した後奈良天皇口宣案も残っていない。ただし、こちらは復元され、なぜか天文二十一年十二月三日の口宣案とされた。この点については以前に述べたのでここでは詳細は省略するが、島津貴久は天文二十一年六月に従五位下に進み、同日に修理大夫に補任されたが、尼子晴久は十二月三日には従五位下に進んだのみである。貴久の口宣案には義藤の袖判もない。現在佐々木家文書として残っているのは後に毛利氏の口宣案をまねて作成したものであることを述べた。本来の従五位下に任ぜられた十二月三日の口宣案も残っていないことになる。
 すべてが説明できるわけではないが、出雲国・隠岐国の将軍御判御教書は将来的なことから毛利氏が没収したのではないか。実際に永禄十三年には尼子勝久を担いで尼子家再興を図った動きが顕在化した。そうした際に、天文二十一年の御判御教書を根拠に幕府に勝久の守護補任を求めることも可能である。勝久が尼子義久と結べばありえたのではないか。これに対して他の六ヵ国の場合は出雲・隠岐国と異なり、一部を除けば尼子氏が安定的に支配した実績はなかった。
 ということで、永正八年の御内書が尼子氏に関するもので、当然残っているはずが、何らかの理由で残っていないとの主張に対して、何らかの理由はないことを述べた。京極氏御料人の地位を認めてもらう文書はまさに尼子氏が国内を平定するために必要であったが、それが実現するとその必要性は失われた。

尼子経久の伊予守任官時期3

 それを踏まえて後者の3通をみると、すべて十一月二十五日付で宛名も「佐々木尼子民部少輔」である。差出人は種村視久が二通④⑤、伊勢貞就⑥が一通である。④⑥は内容も共通で、「御家」の儀について尼子氏の希望どおりに将軍自筆の御内書が出されたことを伝えているが、その表記から伝達経路は貞就→視久→寿光院→尼子民部少輔であることがわかる。視久は詳細は寿光院が申すとしたものとは別に⑤を出している。問題は「尼子民部少輔」が誰かという点と、御自筆の御内書の内容である。
 御内書について、浜口誠至氏が尼子経久が家督を認められたものと考えたのに対して、川岡勉氏は「民部少輔」は政久で、経久から政久への家督継承が認められたこととした。前述のように、この時点での尼子氏の代表者は経久であり、民部少輔が政久だとすると、この永正八年の船岡山合戦に経久が政久を派遣していたことになる。ただし、⑤をみると、船岡山に赴いたのは尼子家の雑掌寿光院であるので、民部少輔として働きかけをしたのは当主であった経久である。この点では浜口氏の説が正しいが、問題は内容である。そのヒントは⑤にある「御料人之事、内々申入候、御下向目出度存候」である。御家の儀=出雲国守護京極家の問題で、永正五年に京極宗済が死亡し、吉童子への譲与がなされたが、それに対する将軍による安堵はなされていなかった。この時点で吉童子の生存は不明だが、永正十二年二月に赤穴郡連が仁多郡馬来で経久と対面した際に、八幡にいる治部少輔(在宗、永正四年二月三日死亡)御料人が御屋形とされたので出頭せよと命じられている。御料人とは後家と同じく家督に準ずる立場であるが、幕府から御屋形として認められたのであろう。まさに、永正八年十一月に将軍御自筆の御内書で認められたのである。それを証明するのが前述の永正十一年六月二十八日平浜八幡宮棟札に記された「守護佐々木京極殿」「守護代伊予守殿」であった。
 この時点の民部少輔が経久であるならば、経久の伊予守、政久の民部少輔任官はそれ以降のことになる。これにより幕府とのパイプができ、それを背景に両者の任官が実現したのであろう。となると①から③の吉川氏に送った書状は永正九年のものとなる。
 以上、文明八年に京極氏と尼子氏が能義郡土一揆を鎮圧したとの説には裏付けがないことを確認するとともに、尼子経久・政久父子の任官時期とそれに関する幕府並びに吉川氏との関係について論証した。

尼子経久の伊予守任官時期2

 そうした中、政経の命令を受けた牛尾氏や三沢氏が経久を排除したとされるが、幕府に対して表面を整えたものに過ぎなかった。まもなく、尼子経久は復活し、京極政経は文明十八年には上洛した。この結果、出雲国には守護の成員のみならず正規の守護代も不在の状況になった。この政治的空白は明応九年に政経が出雲国に再入国し、経久が守護代に復活することで解消するまで続いた。
 永正四年六月十七日に流公方足利義尹から大内義興とともに上洛するので忠節をするように命じているが、出雲国関係者では京極大膳大夫(政経)、尼子民部少輔(経久)、宍道兵部少輔が御内書を与えられ、多賀氏・広田氏・朝山氏が大内義興から命じられている。奉公衆「佐波善四郎」(誠連)も見えるが、注記がなく扱いが不明である。問題は尼子経久が上洛したかである。
 永正五年十月二十五日に京極宗済(政経)は吉童子宛の譲状を作成し没したが、その直前の二十一日には尼子経久と多賀経忠に後の処理を託した。経久が民部少輔であったことが確認できるのは永正七年五月二十五日の多賀経忠書状までであり、伊予守に任官していることが確認できるのは永正十一年六月二十八日平浜八幡宮棟札写である。
 この間の史料として問題になるのが、永正七年から九年の間に比定できる尼子伊予守経久と民部少輔政久が吉川氏へ送った三通の書状と、永正八年十一月二十五日の「尼子民部少輔」宛の三通の書状である。前者は①十二月二十八日尼子伊予守経久書状(吉川次郎三郎宛)、②二十九日経久書状(駿川宛)、③三十日民部少輔政久書状(駿河宛)である。経久が伊予守である点と政久が永正十年九月十日に死亡している関係で前述の三年間に限定される。経久は当主吉川国経と祖父経基との両方に送っているが、①で巨細は駿州に申し入れるとしており、実際の代表者は経基であった。経久室=政久母は経基の娘であった。政久が経基のみに書状を出しているのもそのためである。一方、尼子氏の当主=代表者はこの時点でも伊予守経久だということがわかる。

尼子経久の伊予守任官時期1

 尼子経久が民部少輔に任官していることが確認できるのは文明十一年三月日の清水寺再興奉加帳である。ここでは出雲国人も奉加に応じているが、文明八年の能義郡土一揆の中心である松田氏や能義郡関係者はみえない。経久の父刑部少輔清貞は文明八年九月二十一日室町幕府奉行人奉書で守護京極政高の注進に基づき忠節を賞せられているのを最後に姿を消している。応仁二年と文明三年にかけては出雲国内各地での戦闘に関わる文書が残っているのに、文明八年は富田城が攻撃を受けた事件以後は史料が残っていない。これにより、尼子氏が土一揆を鎮圧したとの説が根強くあるが、土一揆の原因となった京極政高による美保関舟役免除の破棄と美保関をめぐる尼子氏と松田氏の対立からみて、これで終わった可能性はほとんどないと思われる。史料の残り具合を総合的に勘案すれば、京極氏と尼子氏は土一揆を鎮圧できず、土一揆優位のもとに決着した可能性が高い。関係史料が残されなかったのはそのためである、と。刑部少輔清貞は引退に追い込まれ、嫡子経久に交替した。その経久が京極政経から安堵された所領は能義郡利弘保、同郡下今津、意宇郡阿陀加江跡半分・竹内分等でしかなかった。そして経久は父とは違う「民部少輔」に補任された。
 清貞の終見史料となった奉行人奉書から川岡勉氏は尼子清貞が「政高の信頼を勝ち取っていく」と評価しているが疑問である。細かい点であるが「この年、政高はいったん出雲国から出国したようであるが、(奉書によれば)幕府が政高に再入国を命じ、その際清貞に協力を求めたことが分かる」と述べているのも不可思議な説明である。幕府は今回の軍忠を賞した上で、重ねて問題があればすぐに政高に合力せよと命じているだけである。重ねては「入国」ではなく「合力」に掛かっている。なによりこれは清貞宛の文書である。
 その後も、守護被官を含む国人による所領の押領が続いており、京極氏は対応できていない。そのことが尼子経久の方針転換をもたらした。父清貞は京極氏の守護代として反守護派の国人と対峙したが、最終的には引退に追い込まれた。京極政経も文明十四年十二月四日には持清判形に任せて牛尾五郎左衛門尉に対して段銭を免除している。その直後の十二月十九日に幕府は出雲・隠岐両国の段銭免除を破棄するの決定を行い、尼子経久に命じたが、経久は寺社本所領を押領し、御所御修理段銭の徴収にも協力しなかった。これにより幕府が文明十六年に経久追討を命じても、国人達のほとんどが京極氏の敵となった(赤穴郡連置文)。

2017年7月22日 (土)

快円日記と古代ヨリ聴書

 古代ヨリ聴書(A)に快円日記(B)のダイジェスト版が含まれていることを述べたが、実例で確認する。
冒頭の部分は、北条時輔母妙音による岩屋寺再建からはじまる。
A 横田庄岩屋寺再建立旦那、関東最明寺殿後室、六波羅之尼岩屋堂殿妙音、式部大夫時輔母、於六波羅滅、正和二年十二月廿八日、月忌也、
B 横田庄岩屋寺再建立旦那、関東最明殿後家、六波羅之尼岩屋堂殿妙音、式部大夫時輔スケノ母儀、於六波ラニ一滅亡、正和二年十二月廿八日、月忌也、
問題の大永三年の浜田天満畷の戦いについても以下の通り。
A 今年富田尼子殿御石州三角御出陣、留守エハ富田ノ城ニテ護摩ヲ焼申也、則快円此時富田、大内殿御馬廻衆各、土井田・杉・大スモ向候、出雲衆不残□□□也、
B 此快円、富田尼子殿御要害ニテ、霜月廿一日ヨリ同廿八日迄、護摩焼申候、石州ミスミノ御陣留守祈祷云云、大(義興)内殿御馬廻衆各々、トヰ田殿・杉殿・大スモ殿衆取向候畢、出雲国衆ハ一人モ不残着陣也、大永三年癸未霜月日、
Aの最後の部分は判読不能であるが、Bに基づいて書かれたのは確実である。
最後に岩屋寺の檀那の一人としてみえる上郷泰敏に関する部分を掲載・比較する。
A 一、岩屋寺四天王モ昔ノ四天王ハ永正十一年尼子経久ヨリ三沢遠江守為忠藤ケ瀬城御責候時、当寺諸堂本尊共一宇モ不残焼畢、然ヲ、院主快円大僧都依進、上郷兵庫助泰敏現物五十貫文ニ造畢、京ノ七条之大仏師左京法眼下国シテ造、同仏壇興行也、貞享四年迄百四十九年ニ成、此上郷殿塩冶之讃州甥也、三沢二所縁之人也、当寺二王堂モ此仁檀那也、
B 一、岩屋寺本堂之縁、享禄年中ニ張雖相調、藤ケ瀬城ノ三沢信濃守為国ヲ尼(経久)子殿御攻時、岩屋寺諸堂寺被レ壊畢、然ヲ、四天王造立付、彼縁ヲモ、天文八年己亥潤六月三日ヨリ、院主快円興行シテ再造ナリ、本願経聖明円房、三所社村ノ山ヨリ取リ仕候、大工井本、奉行教〔蔵脱〕坊秀鏡ナリ、一、当寺四天王、昔ノ四天ハ、此亥年前弐拾五年ニ、三沢遠江守為忠ヲ藤ケ瀬城尼子伊与守経久御責候時、当寺諸堂本尊一宇不残焼畢、然ルヲ、院主快円大僧都依勧、上郷兵庫助泰敏現物五十貫文ニ造畢、京ノ七条之大仏子〔師〕左(康京秀)法眼下国シテ、年行事常泉坊中将ノ処ヲ宿ニシテ作リ候也、同仏壇興行ナリ、此上郷殿ハ、塩冶之讃州之甥ナリ、三沢依二所縁一牢人之時事也、当寺二王堂モ此仁檀那ナリ、子息才徳丸大林坊ニ登山ニ付テナリ、此二王堂本立モ院主快円興行、尼子民(詮久)部少輔殿御合力、材木ハ久比次〔須〕殿、同息五郎殿院主ニ手習ニ依テナリ、
 快円日記に岩屋寺再建の上郷兵庫助泰敏が檀那として登場する。泰敏は佐々木系図に記されているが、その人の甥と記される塩冶讃州(讃岐守)はみえない。これについて、「古代ヨリ聴書」の別の部分では、塩冶参州(三河守)の甥とする。こちらが正しく、明応十年三月八日に死亡した塩冶三河守貞綱の甥となる。貞綱の兄弟政通の子誠勝(小法師丸、上郷左衛門大夫)が弘治二年に塩冶郷内上郷の杉村神社の造営を行い、社内にある金幣一本は上郷兵庫助の寄進という(雲陽誌)。系図では上郷泰敏を四代後とするが誤りであろう。泰敏は誠勝の兄弟であろう。政通も五郎であり、塩冶興久の乱時に大内氏へ派遣された塩冶五郎右衛門尉が泰敏ではないか。それを系図では政通の曾孫とする高忠が山口に逗留したとするが、布志名氏の系図が湯氏の政通系の系図を流用したための混乱であろうか。尼子氏滅亡後も三沢氏所縁の上郷氏は生きのび  、塩冶郷の支配を行っている。
 以上のように「古代ヨリ聴書」の『快円日記』の要約部分は貞享四年に書かれたものであり、快円日記が残っていない時期を検討する貴重な史料となる。なお、快円日記については、鳥取県史の翻刻に基づいている。

鳥取県史中世史料編2

 県史に関連して、松江市域の「北野末社」(文永八年杵築社頭役結番帳)の関係史料が観応元年四月十八日大僧正慈厳譲状に伏せられた曼珠院門跡領目録で、北野社別当職に続いて記された社領の一つとして「出雲国天満宮」が見えている。これが北野末社のことであろう。島根郡持田庄が後白河院の命で平清盛が造営した京都の蓮華王院に寄進・立券される前に現在の大芦の地域に北野天神の末社が勧請されたもので、鎌倉初期に「北野天神縁起絵巻」が作成されるよりも前である。
 残念な点としては、名和氏関係史料がまとめられたにもかかわらず、興国四年六月一日左衞門少尉源高重願文(鰐淵寺文書)が洩れてしまったことである。貞治五年三月二十一日権少僧都頼源送進鰐淵寺文書目録には「伯耆美作判官高重願書」とあり、その花押とともに名和高重であることの決定的証拠であるのに、曽根研三氏『鰐淵寺文書』で何の根拠もなく「高岡高重」とされてしまった。この点については鰐淵寺文書について述べた記事で『大社町史』では編者に「名和高重」であることを伝えて正しく表記してもらったが、『南北朝遺文』が「高岡」のままであったためか不明だが最新の『出雲鰐淵寺文書』でも「高岡高重」の亡霊が復活してしまったことを述べた。曽根氏も曽根氏だが、きちんと確認すれば誰でもわかることである。最終的には歴史的センスがあるかどうかで、ある人は疑問を持ち確認するが、それがないひとはそのまま通りすぎてしまう。県史で是非訂正しないと、永遠に嘘が真となってしまう。前の記事の江北記所収亀井安綱書状も相変わらず天文五年のものとなっているが、これについても検討をしてもらいたい。
 花押編があるのは良いが、鳥取県史に限らず「原本」のみから収録するのはどのような意味があるのだろうか。学生時代に「青方文書」が瀬野精一郎氏編で上下二巻で刊行されたが、それまで原本とされた文書の多くが写である可能性を指摘され、多くの文書には「花押影」と表記された。原本かどうかの識別は大変難しい(現在原本とされていても100%ではない)ことを認識したが、原本である以上に歴史的に信頼できるかどうかが大切だと思う。その先は研究者が検討すれば良い。「花押影」と表記して掲載すれば、歴史研究は遙かに進むのに、これも不可思議である。必要性から影写本のように原本に似せて作られる文書もあり、原本には及ばないが貴重な情報を与えてくれる。

鳥取県史中世史料編1

 元弘三年四月に足利高氏が後醍醐方に付くとして全国の武士に軍勢催促状を出したが、『鳥取県史』史料編でそれらがまとめて掲載された。その中で最も略式なのが益田家文書に残っている一通である。書状形式であるが唯一末尾が「謹言」で、「可被参候」とある。ここから分かるのは一族の惣領ではなく庶子であることである。「一族を相催し」とあってもその範囲は狭かったと思われる。残念ながら宛所が切り取られているので具体的な名前は不明だが、元弘三年八月二十九日の「御神本三郎兼衡」宛の後醍醐天皇綸旨も、宛所が末尾ではなく本文中にあり略式であり、関連文書かも知れない。ただし、益田家文書には御神本氏一族以外の文書も含まれているので、その可能性もある。
 次いで「恐々謹言」であるが「可被参候」としたものが「野介高太郎」(美作国野介地頭高氏の庶子ヵ)宛と「片山三郎太郎」(丹波国和知庄地頭片山氏惣領、東国御家人)宛の二通。「可被参候」より丁寧な「可有合力候」とするのが「周防五郎三郎」宛の一通で、越前島津家の忠兼に出されたものである。これに対して島津氏惣領の「島津上総入道」宛は四月二十九日付で「令合力給候者本意候」とより丁寧である。「合力候者本意候」のものとは「給」の有無が異なっているが、この間に扱いの差を見るべきかは微妙である。「海老名人々御中」(東寺領播磨国矢野庄)は有で、「安保弥三郎」「結城上野入道」(宗広)「小笠原」(惣領貞宗)「「阿蘇前太宮司」(惟時)が無である。六波羅探題を滅ぼす前日の五月六日付けの「長井弾正蔵人」(備後長井氏惣領)宛も無である。「同心」することを伝えてきた「大友左近入道」(大友氏惣領貞宗)には四月二十九日付で「為悦候、其子細御使に申し候畢」と返事を出している。

 

2017年7月21日 (金)

江北記の記述2

 年月日を記さない「毛利元就知行注文写」(毛利252)が残されているが、これは天文五年の尼子氏の軍事行動の結果、それ以前に獲得した所領の多くを放棄せざるを得なかった毛利氏が、大内方に留まり、後に所領を戻してもらうために作成したものである。その作成時期は元就の嫡子隆元が人質として山口に赴いた天文六年末であろう。大内氏が、毛利氏が尼子方に寝返るかもしれないと思うほど、天文五年の軍事行動の影響は大きかった。ところが、この注文を除けば関係史料が残っていないのである。ここに歴史研究の難しさがある。尼子方が吉田攻の前哨戦として毛利方と戦っていることを示す直接的史料は天文八年以降しか残っていないが、この間の事を記した川副久盛等の書状は残っている。それが『出雲尼子史料集』ではすべてを天文八年とする的外れな比定がなされた。天文六年後半に東部戦線に移動した湯原も吉田攻めの直前には西部戦線に帰っている。
  尼子氏は天文六年後半から東部への軍事活動を展開し、対毛利・吉川の担当者のうち湯原幸清を西部から東部に移動させているが、西部についても赤穴氏や石見国の小笠原氏を派遣して、吉川氏・武田氏との連携を図っていた。東部遠征ではっきりしているのは、これを行ったため安芸遠征にこれまでにない数の中国地方の国人を動員できたことである。
 天文九年の安芸国遠征が平賀氏・武田氏の救援が主たる目的であったなら、尼子氏の侵入経路は全く違ったと思われる。軍記物には尼子国久が備後路から迫ったが失敗したために石見路に変更したとするが、現在では事実ではないとするのが通説である。尼子方の総勢は毛利氏が言う三万人はあまりに過大であろうが、これまでになく多かったこととその動きが早かったのは間違いない。目的は毛利氏制圧にあったのである。それは尼子氏と毛利氏の間では周知の事実であった。享禄三年から四年の毛利氏の調略によって興久の乱が発生したことは互いに分かっていた。経久・詮久にとっては興久に勝利するには大内氏の支援を求めるしかなかった。毛利氏との兄弟契約などは腸が煮えくりかえる中で行われた。尼子氏が毛利氏に抱く不信感の深さ(お互い様かもしれないが、経久亡き後の晴久にとっては、元就が経久に抱いた不信感はわかならい)は湯原幸清と川副久盛の連署書状を見れば一目瞭然であるが、結果としてそこにこだわったため遠征は効果をあげなかった、元就は晴久のリベンジを許さなかったのである。

江北記の記述1

 天文五年に尼子氏が備中・美作国へ出張したとの根拠となっているのは、十二月二十六日亀井安綱書状を収録し、その後に天文五年十二月に出雲尼子氏の陣所へ下村・村田氏を使者として派遣し、その時の亀井宗四郎返礼の案文がこれだと解説している「江北記」である。ただし、この解説には亀井宗四郎を安綱に比定するなど問題があり、かなり時間が経ってから付されたものであろう。
 「亀井宗四郎」は快円日記にも登場し、天文五年の横田庄岩屋寺の仁王堂の建立のため、尼子詮久とその御局(尼子国久女子とは別人)、ならびに横田庄に権益を持つ立原・中井・馬来・亀井・疋田・宇山・池田氏等の尼子氏家臣が勧進に応じている。横田庄は永正十一年に三沢氏が尼子氏の家臣となった際に、竹崎が亀井秀綱領となったが、享禄四年に塩冶興久方であった横田三沢氏(為国父子)が尼子氏に攻められて富田城に幽閉された際に、さらに尼子氏領が増えたと思われる。
 亀井安綱は天文二年の尼子経久寄進状に添状を出しており、経久の家臣であり、後には「亀井太郎左衞門尉安綱」とみえ、天文八年以前には岩屋寺本堂の逗子仏壇のための木を寄進している。それは安綱が父秀綱跡の横田庄を抱えていたからであった。安綱が宗四郎でないことは明白である。これに対して、天文九年の竹生島奉加帳には太郎左衞門尉安綱とともに「藤左衞門尉」がみえ、これが「宗四郎」で、父秀綱が能登守に任官する前と同じ「藤左衞門尉」となっている。兄安綱が惣領で弟国綱が庶子である。
 以上のように時間が経ってから記された江北記の解説文の利用には注意が必要である。何より天文五年の尼子氏の軍事活動の中心は備後国と安芸国東部であった。また、天文六年後半に尼子氏が東部遠征を行い、「証如上人日記」天文七年正月十日条には尼子氏が本国で越年するために年内に退陣したことが記されている。天文六年十二月の時点では播磨への乱入が迫り、赤松氏はそれを心もとないとし、本願寺側は赤松氏の本意になることを願うと赤松氏に伝えている。播磨国への本格的侵入は天文七年であり、亀井安綱書状でも来年の早い内に播磨へその働きをなすと述べている。

2017年7月20日 (木)

史料の誤読

 「大永三年の尼子氏」の記事で、大永三年の浜田・天満畷の戦いとその前後の尼子氏の動きについて、長谷川博史氏の解釈の誤りについて述べていたが、この度、「快円日記」の全文が『鳥取県史』古代中世史料編2に収録されたので、再度確認してみた。これまで、日記の原本も写真も見たことがなかったこともあり、早速確認してみた。そうしたところ、誤読・誤解釈の前に、『出雲尼子史料集』で翻刻した文には肝心な一字が抜け落ちていたことに気づかされた。
 長谷川氏は「一人も着陣せざる也」と読んだ上で、「これによれば、尼子氏の軍事行動は、本国出雲国衆の軍事力に依拠したものではなく、むしろ少数精鋭による拠点的な奇襲攻撃を主体とするものであったと推測される。このことは、経久率いる尼子軍の行動が迅速であり、その行動範囲も極めて広いことと、符合しているように思われる。この段階の尼子氏は、国衆を十分に動員できるほどの内実を備えていなかったことをうかがわせている」(松江市史通史編2中世)と述べた。
 ところが、鳥取県立博物館が所蔵する原本から翻刻して収録した『鳥取県史』には「一人モ不着陣」ではなく「一人モ不残着陣」と翻刻されていた。そこで県立図書館の史料を検索すると「快円日記」がヒットしたので、それを閲覧した。原本から直接かは不明だが、複写したものが貴重書としてあったので確認したところ、『鳥取県史』の翻刻が、正しかったことを確認した。
 本ブログでは長谷川氏の翻刻を正しいとした上で「不着陣」とは動員に応じなかったのではなく、合戦が長期化し大内方の援軍が到着する中、大内方がいくら挑発しても、尼子方の国衆は誘いに応じなかったとの意味だとして、長谷川氏の解釈は文脈を無視したものだとした。ところが原文は「残らず着陣した」というもので、長谷川氏の解釈とは真逆のものであった。
 想像するに、氏が最初に横田コミュニティセンターの写真版を筆写した際に誤り、その後、史料集に掲載する段階でも気がつかなかったのだろう。繰り返しになるが、翻刻が誤ってない場合も、長谷川氏の解釈は成り立たないと論者は思っていた。国人を支配下に置いて間もない時点で富田衆のみ動員して対外遠征をしたらどうなるかは自明であろう。とりわけ、敗北したら、すべてがおしまいである。長谷川説ではまったくつじつまが合わないし、同合戦について、年次が一年ずれてはいるが、最も的確に記録しているのは「都治根元」である。『陰徳記』などは内容はともかく年次は前後が混乱している。

2017年7月18日 (火)

吉川氏の当主交代

 錦織勤氏は延徳二年から明応四年の間に経基から国経への当主の交替がなされたとされ、その根拠として年未詳閏八月十九日是経書状をあげる。そこでは駿河殿が隠居して三郎殿が嗣いだとあり、氏は三郎殿を国経に比定したが、三郎=元経ではないか。国経は延徳二年(1490)には四十八才であり、その時点で「三郎」であったとは考えられない。明応四年(1495)には国経が向雅楽助に所領の安堵を行い、同八年三月七日には福屋孫太郎(豊兼)に対して起請文を提出している。続いて三月九日には三隅藤五郎興信が吉川治部少輔(国経)にたいして契約状を与えている。
 氏は永正六年(1509)までに国経から元経に当主が交替したとする。これ以降、永正十四年まで元経(この時点では治部少輔に任官)の発給文書が確認できる。ところが、元経の文書はこれが最後になり、永正十八年(1521)には国経の発給文書が復活している。それは孫の「千法師」(興経)を補佐する形のものであり、錦織氏は元経が死亡もしくは引退したためだと述べている。系図によれば元経の死亡は大永二年三月六日であり、これによれば永正十八年以降もしばらくは生存していたことになる。
 そこで注目すべきは、当時の吉川氏では院政的な体制が取られていたのではないかということである。永正六年の時点で国経は六十七才で、死亡したのは八十九才である。永正六年に国経の父経基は八十二才であるがなお健在で、死亡したのは九十三才である。
 永正九年頃、経基と孫である当主元経が尼子経久・政久父子と尼子氏と毛利氏の婚姻について意見を交換している。『出雲尼子史料集』では次郎三郎を国経に比定しているが、錦織氏の主張する元経が正しい。国経と元経の官職を確認さえすれば、正しい答えを得ることができるが、それをするかどうかが歴史的センスなのだろう。そして国経の文書が復活した永正十八年は経基が死亡した翌年である。経基が生きている間は彼が吉川家の「治天の君」であり、子の国経から孫の元経に当主を交替させたが、経基の死により国経が「治天の君」として千法師(興経)を当主にしたのである。とはいえ、元経に当主を譲った国経も文書は出している。それが院政との相違点である。

六月二日是経書状について

 以前、福屋氏の惣領を見た際に言及した文書だが、今みると年次比定が明らかに違っているので、再度みてみたい。問題なのは以下の記述である。
年未詳6月2日是経書状(吉川家文書)に「今月(先月か)21日に福屋宮内少輔」が死亡した」ことがみえる。同文書には高橋大九郎が引退に追い込まれ、命千代が高橋氏に入って毛利被官になったことも記されている。大九郎とは永正12年の惣領高橋元光討死後に惣領となった甥の興光である。大永5年まで高橋大九郎興光は大内氏方に転じた毛利元就と共同歩調をとっており、是経書状は大永6年以降のものとなる。引退したはずの興光はその後尼子氏と接近し、享禄2年には毛利氏により滅ぼされている。

 文中に登場する「千法師」を吉川興経に比定する大日本古文書の比定を鵜呑みにした結果であった。ポイントとなるのは「高橋大九郎」が毛利氏と和与を結ぶ条件として隠居することになり、新たに「命千代」が高橋に成って、毛利被官になることである。命千代については、益田氏と契約を結んでいた人物と同一であり、寛正年間末以降の誕生と推定した。「安芸守」を武田元綱に比定している点は正しい。そうなると興経とは生存年代が重ならず、別人を考えなければならない。
千法師は宛名に見える「吉川治部少輔」=吉川国経の子元経(1459~1522)である。書状は文明元年(1469)前後のものであろう。命千代は母が高橋氏の出身であったのだろうか。
 書状では最初に福屋宮内少輔が五月二十一日に死亡したことを記す。この時期の福屋氏当主は清兼であったが、その子弾正忠が殺害される事件も起きている。宮内少輔は清兼の子教兼であろうか。ただし弾正忠とは別人である。教兼は吉川之経(1415~1477)の娘を室としており、その女性(智光禅尼)は文明五年(1473)四月二十八日に吉川元経から買取った田一反を西禅寺に寄付している。同日で元経(→経基)が寄進のため禅尼に売却したことを「福屋人々」に伝えている。夫教兼の死に伴うものであろう。 続いて書状では佐波・都治・天野方への奉書が到着したことを記す。吉川氏に関わることで芸石三氏に紛争解決への協力を求めたものであろうか。以上が修正点であるが、続いて吉川経基、国経、元経、興経の当主交代に関連して確認したい。

2017年7月16日 (日)

高橋氏の滅亡と興久の乱2

 赤穴氏は経久方であったが、その惣領佐波氏も興久の乱では経久方であった。出雲国北西部の国人と寺社はいずれも興久方であった。尼子氏と外戚関係にあった多賀氏は島根郡・縦縫郡・飯石郡に所領を持ち、京極氏の一門である宍道氏は意宇郡内宍道・来海と島根郡内加賀庄の所領を持ち、いずれも興久方であった。これに対して出雲国南部での支持は三沢氏の対応が惣領家と庶子の横田三沢氏で分かれたように、思ったほどひろがらなかった。その理由の一つが当初予定されていた毛利氏の支援が行われず、逆に経久側を支持したことであった。
                         補足
 大永6年から享禄4年までの動きを確認すると、備後北部では尼子方の攻勢が続いていたが、安芸国南部では大内方が武田方を攻撃していた。北部では享禄2年7月に蔀山城が落城寸前となったが、この戦いに武田氏家臣木村氏が派遣されているように、武田氏は大内氏の攻撃をしのぎきったと思われる。享禄元年12月に大内義興が死亡したこともその原因となった。高橋氏が蔀山城攻撃に参加した可能性も大である。
 その間隙を突く形で毛利氏が享禄2年5月に高橋弘厚の松尾城への攻撃を開始した。蔀山城の合戦は7月末までには終了している。当然、尼子氏や武田氏からの高橋氏支援も行われたはずである。享禄2年8月16日には山県郡で毛利元就が某と合戦を行い、佐伯氏に感状を与えている。翌3年7月24日にも元就が山県表で某と合戦を行い、粟屋氏に感状を与えている。広島県史年表では前者を高橋方とし、後者を高橋(尼子)方している。時期からして妥当な比定で、共に高橋氏と戦ったものであろう。ただし、前者の時点では尼子氏の援助が可能であったが、後者は興久の乱勃発でその余裕はなくなったと思われる。高橋氏の系図では興光の死を享禄3年12月4日としているが、一族による暗殺かどうかはともかく時期的には適切ではないか。享禄2年7月二十一日大内氏奉行人奉書により豊前国の高橋大九郎先知行分が周布氏に打ち渡されていることをもって高橋氏の滅亡を享禄2年にすることはできない。上下庄が享禄3年7月15日に元就に与えられており、松尾城主他橋弘厚が死亡したのはそれ以前であろう。高橋氏は興久の乱により分断されたまま毛利氏に滅ぼされたのである。阿須那藤掛城主興光は享禄3年12月11日に元就に阿須那が与えられており、その直前に滅ぼされたのである。
 芸備諸国における大内方と尼子方のバランスを大きく崩したのが塩冶興久の乱の勃発であった。直前に杵築での三度目の万部経読誦が行われていたように、経久方ではまったく予知していなかった。興久の乱により尼子氏の権力が飛躍的に拡大したとの評価はありえない。

2017年7月15日 (土)

高橋氏の滅亡と興久の乱1

 高橋氏の滅亡について、通説の享禄2年説に対して、本ブログでは享禄3年説を唱えたが、住本雄司氏「享禄四年毛利元就・尼子詮久兄弟契約の背景と意義」(備陽史研究『山城志』第22集)では享禄4年との説が出された。享禄4年の結ばれた兄弟契約がどこまで踏み込んだものだったかと関係していよう。住本氏はかなり踏み込んだものであったと考えられている。
 2000年の論文作成時には享禄4年11月23日尼子経久書状の中で述べられている「森山・同山中・河淵」が「先年高橋退治之刻」より尼子氏が支配したことについて、「高橋氏の滅亡時」と解釈していたが、ブログでは滅亡を通説の享禄2年ではなく3年に変更するとともに、尼子氏が高橋氏を攻撃して尼子氏方に組み込んだ大永6年頃に尼子氏方の所領となったという解釈に変更していた。
 「去年已来不知行」となった所領については、享禄3年の塩冶興久の乱の影響と漠然と考えていたが、具体的なものではなかった。今回、住本氏は高橋氏が塩冶氏を引き入れようとしたと毛利元就が述べている点から高橋氏は塩冶氏方であったとされたが、どうであろうか。
 興久の乱が起こったことにより、尼子氏関係者は興久方か経久方かの選択を迫られたはずである。両方からの働きかけもあっただろう。ただし、高橋氏の場合は乱の前年である享禄2年から毛利氏によって松尾城の父高橋弘厚が攻撃を受けており、阿須那藤掛城の興光にしても救援したいが、毛利氏は和智氏や大内氏西条奉行弘中氏をも動員しており、高橋氏にとって尼子氏の内部対立などは歓迎すべからざることであった。高橋氏が塩冶氏に救援を依頼したのは、塩冶と富田の距離の違いによる。なにより享禄2年段階で両者の対立は表面化していない。
 享禄三年以来三ヶ所が不知行となったのは、阿須那高橋氏が毛利氏の攻撃を受け、所領が占領されたことによる。尼子氏領となったとはいっても内実は高橋氏が年貢を尼子氏に納めていたというものではないか。
 問題は、尼子経久が赤穴光清に3ヶ所を進め置くので切り取るよう命じた4月12日書状と同年7月10日の契約状の関係である。享禄3年3月に塩冶興久の挙兵で始まった乱は当初は興久方=反経久方が優勢とみられていたが、翌4年4月には興久が本拠の塩冶から脱出し、妻の実家である備後国山内氏へ逃れているように、大勢が決しつつあった。同年6月11日に比定できる書状の中で経久は横田要害について森脇治部が調法を行ったとして、横田を獲得後はその一部を三刀屋対馬守に約束している。三刀屋氏には三沢氏から養子に入った(三刀屋氏女子と結婚)人物=三沢紀伊守がおり、また、横田三沢氏とは別に三沢郷を本拠とする惣領がいた。従来、三沢氏は興久方だと言われていたが、実際には経久の調法もあって分裂した。興久方となった横田三沢氏に対して、惣領三沢氏や三沢紀伊守は経久方であった。そして同年8月からは尼子氏により横田攻撃が開始され、横田三沢氏の惣領為国とその弟は降伏して富田に連れ帰られた。

2017年7月14日 (金)

おら知らねぇ

 今から二十数年前であろうか、同じ職場の三十才前後の教員が「おら知らねぇ、おら知らねぇ、キンチョールのせいだよ、おら知らねぇ」と口ずさんでいた。意味は誤解の生じようのないもので、生徒が点が取れなくても「おら知らねぇ」というものである。最近の失言続きの元農相のようなことはない?
 このCMはクレージーキャッツの一員桜井センリ氏によるもので、正確に何年のものとはいえないが、氏がキンチョールの宣伝を行ったのは1966~1971年だという。当方はその時期や誰がやったのかは全く記憶がなかった。メロディを聴いたことがある程度であった。ネットでも「ドリフ」の誰かだと思っていた人もあるようだが、それ以上に間違いであったのは最後の部分は「おら知らねぇ」ではなく「おら知ッチョール」であった。
 この言葉が想起されるのが、現在の日本の政治・経済界のリーダーと言われる多くの人々は本音が「(後のことは)、おら知らねぇ」であり、時に「知ッチョール」ことを「おら知らねぇ」ということである。最近の国会での「偽証」も「どうせわからない」と高をくくっている面と、「そんなことは口がさけても認められない」との二つの想いからであろうか。しかし、少なくとも欧米諸国にはそうでないリーダーがかなりいるし、正しい証言をすれば責任を問わない(減ずる)システムもある。ロッキード事件のコーチャン会長の証言もそれで得られた。
 「姉歯現象」というのも自分の勝手な造語だが、現在の日本の状況を示すものと考えている。2005年~2006年に報道された耐震偽装マンションに関わるものだが、偽装があっても大地震などがなく、例えば30年ほど逃げ切る事ができれば、値段も安くて得だった、という考え方である。日本の原発推進派の人々はまさにこの「姉歯現象」に基づいており、その本音は「おら知ッチョール」なのに「おら知らねぇ」と言い逃れることである。中国電力が島根原発周辺にある宍道断層の長さについて、少しずつ「もっと長かった」ことを認めているが、これなども大変ひどいことである。地域独占体制でなければ、今回の読売新聞の読者のように契約解除ができるのだが。
 「姉歯」をネットで調べると、元アナウンサーで次期衆議院選挙に千葉1区からの出馬を表明している人物が、問題となった姉歯物件は東日本大震災でまったく問題がなかったということを述べていたようだが、実際は物件の多くは取り壊されたか耐震補強がなされており、補強されなかった物件のうち2件については内部配管の断裂が発生しているとのことである。東京に住んだことのあるひとなら自明であろうが、体に感じる地震の多いこと多いこと。『吾妻鏡』を読んでも地震の記事が大変多い。過去に大きな地震があった地域では将来も大地震が発生する可能性が大だが、ない場合も、最近の熊本、大分の事例をみればないとは言えない。なによりもあっても史料が残っていない場合(実は過去にもあった)が多いのである。変な例えだが、誰でも自分の先祖をたどれば同じように古い時代まで遡れるはずであるが、実際に史料が残っているのは天皇家など特別なものである。本来天皇家が特別古い存在ではないのだが、特別なものと思い込んでしまう。

2017年7月13日 (木)

多賀隆長と多胡辰敬

 「尼子家破次第」と「遠用物」から新宮党討滅事件についてみてきたが、前者の「多賀と紀州申し合い、芸州(毛利)へふつくり、晴久ニ腹きらせ候するたくミ候」については、多賀美作守隆長の死後も多賀美作守隆忠が大内氏家臣としての立場を継承していたが、義隆滅亡後は陶方であり、毛利方ではなかったことが明らかになった。多賀氏を通じて毛利氏と結ぶことはありえないのである。
 一方、後者の「多胡辰敬色立近々之様取沙汰仕候」については、これがなぜ討滅につながるのかという疑問が生じる。多胡が吉見=反陶方=毛利方と連絡を取っていたことと、福屋氏が尼子氏と結んで陶方の小笠原氏を攻撃したことはつじつまがあっている。これが討伐理由になるなら、晴久は陶氏と結ぼうとしていたことになる。永禄六年八月に出雲国能義郡の臨済宗寺院雲樹寺の善瑞は、晴久の代に大内義長へのお礼の使者として罷り下ったことを「守護方への奉公」の一つとして述べている。晴久が大内義長・陶晴賢と雲防和談の件で連絡を取っていたことは確実である。ただし、その場合でも、新宮党討滅後も多胡辰敬その人は討滅されず、その後も尼子方に止まっているという問題がある。
 とりあえず言えるのは晴久の判断に佐世清宗が大きな役割を果たしたことと、討滅直後には新宮党の謀反は誤りであったことが判明したことである。前に述べた翌天文二十四年二月二十八日尼子晴久寄進状の文言もあるが、同年六月二十八日立原幸隆書状で国久を「紀州様」と呼んでいることでもあきらかである。とするならば、陶・毛利・尼子氏間で様々な調略合戦が行われている中で、晴久が判断を誤り討滅してしまったとしか言えないのではないか。黒幕に指名した佐世清宗が尼子氏奉行人文書の署判者として初登場した天文二十四年八月十四日以降、晴久が死亡して義久の時代になるまで署判者として見えないのも不思議である。初登場の時点で立原幸隆に対して上位にある(署判が最後)というもの理解できない。そして、これも繰り返しになるが、仮に討滅がなければ、義久の時代に尼子氏内で主導権を握ったのは誠久以下の新宮党であった。
 さらに理解に苦しむのが氏久の行動であり、尼子国久の跡をめぐり叔父与四郎(ほそき)に不満を持ったとするが、氏久は誠久跡の後継者でもあるはずである。考え出したらきりがないが、氏久の誕生前後に祖父多賀隆長は興久の乱で国内から追放されており、氏久の母=隆長女子と氏久は微妙な立場に置かれた可能性もある。氏久の弟達は異母弟の可能性もあり、それがゆえに孫四郎氏久は父誠久ではなく祖父国久の後継者となった可能性もある。
 最後にこのブログで主張してきた経久没後の新宮党の扱いの問題がある。晴久が意図的に祖父の路線を変更したもので、新宮党には不満のあるもので、当然晴久もそれは分かっていたものである。「いじめっこの後ろめたさ」(これがない人もいるが)が、晴久をして「逆意必定」と思わせたこともあろうか。とりあえずここまでとする。

多賀美作守隆長と左京亮元竜

 元竜は隆長の孫ではないかとした点について補足する。
 弘治三年七月八日に筑前国の多賀美作守隆忠が敗死している。この点については長谷川氏が「遠用物所収「覚書」にみる史料の可能性」ですでに指摘している。隆忠は大内義隆の家臣であったが、弘治三年の大内氏滅亡により大友氏に降伏したともされる(宗像記)。合戦では隆忠とともに多賀彦四郎も討ち死にしている。
 占部氏の系図によると占部豊安・尚安父子は多賀隆長とともに天文十一年の大内義隆の出雲遠征にも参加している。それが義隆が陶晴賢に滅ぼされたことで占部氏と多賀氏(隆長の後継者が隆忠)の立場は変化する。
 天文二十四年七月に占部尚安の嫡子尚持が多賀隆忠の許斐岳城を攻撃し、これを奪った。十月には毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を滅ぼしているが、そこに尚安・尚持父子が参加している。多賀隆忠を大友方とするが、天文二十四年七月段階では陶方であった。それに対して、不満を持つ占部氏が攻撃し、反陶氏で挙兵した毛利氏のもとに参陣している。
 弘治三年四月に陶氏によって擁立された大内義長(大友義鎮の異母弟)が自刃して毛利氏による防長支配が確立した。七月には毛利氏と通じた反大友派が次々と挙兵した。そうした中、七月八日に多賀隆忠が許斐岳城を奪回せんと攻撃してきたが、彦四郎ともども討ち取られた。陶晴賢のクーデター後、多賀氏は陶氏方であった。とはいえ、隆忠の死後、その関係者が降伏して毛利氏方となったのではないか。毛利氏の出雲国攻めに参加した多賀左京亮元竜はその関係者(隆忠の子)ではないか。元竜の名は毛利氏の家臣になった後に改名したものであろうが、元竜の後継者は「元忠」と名乗っている。孫が祖父にちなむ名を名乗ることは珍しくない。
 ということで、多賀美作守隆長が出雲国で切腹した後もその後継者により家は存続し、陶氏のクーデター後は陶方となり、陶氏滅亡後に毛利氏の家臣となったのではないか。本来出雲国の有力国人であった多賀氏は、塩冶興久の乱後も庶子家が尼子氏家臣として続いており、毛利氏にとっても調略に活用しうる存在であった。また、隆長死亡後も美作守隆忠がその跡を継承し、尼子誠久の嫡子氏久は隆長女子を母としていた。毛利氏、陶氏の両方から尼子氏に対する働きかけはあったであろう。そして新宮党討滅による尼子氏の弱体化でより大きな利益を得たのは陶氏ではなく毛利氏であった。

2017年7月12日 (水)

七月の近況

 痛めた右膝についてはかなり改善したが、右足全体が腫れている原因がわからず、内科医から紹介状をもらい、総合病院で診察を受けた。いろいろな事があったが、最終的に、右膝を痛めて動かなくなった事と机に座ってパソコンで原稿を打ち込んでいたことから、リンパ浮腫になったとされた。
 室内での運動過多で膝に水がたまり、その状態で小走りに道路を横断しようとして右膝の筋を痛め、ついでリンパ浮腫になった。本来は家で立ちっぱなしで料理することが多い女性にみられる症状であったが、近年はデスクワークの時間が長すぎる男性にもみられ、そうならないための圧迫タイプの靴下も販売されている。とりあえず、ふくらはぎのサポーター、右足を圧迫するための包帯、専用の靴下、ももを圧迫するサポーターなどを購入して使用している。
 「悪貨が‥‥」で某首相一派ASKと「少数派」の共通性について述べたが、問題なのは「少数派」が主導権を握り「少数派」でなくなっていることである。マスコミにはニセ知識人が度々登場し、根拠のない意見を恥ずかしげも無く堂々と述べている。まるでそれが自分の役目であるかのように。そういった偽者が発した言葉(例えば「対案を出せ」)が、同様に愚かな人々によって、その良し悪しも検討せず、錦の御旗のように使われている。嘘も繰り返し聞いているとそれが嘘であることがわからなくなるという「大本営発表」の悪夢が再現しているかのようである。
 たまたま「激論クロスファイア」(田原総一郎)で高橋洋一と郷原信郎の議論が行われた事を七月十二日になり知って視聴したが、それについて支離滅裂なコメントを載せているブログがあり驚いた。支離滅裂な背景には答えを出す情報を得るために視聴するのではなく、自分のVSOP(Very Special One Pattern)な考えをただ述べるという某首相、某大統領と同根の姿勢がある。「あんなバカでも首相、大統領になれる」ということで自信を持っているのだろうか。ただし某首相はどうしようもない「バカ」であるが(日本の権力者がバカであることを国民に周知するのがマスコミの役目とのコメントもあったが、そんなことは誰でも知っている自明のこと)。某大統領は「バカ」ではないかもしれないが、そうとうゆがんだ意見の持ち主である(某首相の母方の祖父に近い?某首相は男系の血が濃いとするのだが)。「自己弁護」に終始するという愚者である点では二人は共通ではあるが。

2017年7月11日 (火)

新宮党討滅と多胡辰敬4

 長谷川氏は遠用物との関連で天文十一年七月朔日相良武任書状にも言及された。その中で大内氏が「尼子」に給地を用意している事実を確認できる点が、「遠用物」の中で誠久に尼子氏家督を約束したという雜説が流されたと記されていることを裏付けるものではないかと思われる、としている。慎重な表現ではあるが、極めてわかりにくい表現である。細かいことを言えば「ものではないか」と「思われる」が重なっており、「ものと思われる」とすべきである。
 この書状は三沢文書に残されている。三沢氏の庶子である横田三沢氏の為国父子は塩冶興久の乱への関わりから尼子経久の攻撃を受けて降伏し、富田城内に幽閉されていたが、天文五年には殺害されている。三沢氏惣領三郎四郎(→左京亮)は無事であったが、永正十一年の尼子氏による攻撃を含めて、三沢氏は尼子氏に不満を持っていたであろう。大内氏に与同したため、大内氏の敗走後、惣領左京亮は富田で殺害され、吉田攻で討死した三沢為幸の子才童子丸が三沢氏惣領となった。才童子丸は父為幸が天文九年十月十一日に討死したことで、四才で横田庄を管領した。大内氏による尼子氏攻に際しては三沢氏惣領とともに才童子丸(横田三沢氏)も大内氏方になったが、年少であることと三沢氏跡をすべて没収するのは得策でないため、尼子氏は七才の才童子丸を三沢氏惣領とした。その一方で才童子丸の所領であった横田庄は没収して尼子氏家臣に分け与えている。
 書状の最後には七月三日に対面することを伝え、この書状を関係者に披露することを求めている。相手は三沢氏惣領左京亮の家臣であろう。三沢氏が代表して大内氏と交渉をしていたのである。三刀屋氏惣領も大内氏方となったが、こちらは殺害されたり、所領を没収されてはいない。三刀屋氏は最後に富田城に入り尼子方に寝返ったが、三沢氏は、牛尾氏惣領民部左衞門尉(川津氏)、多賀隆長とともに首謀者として寝返りは不可能であった。
 問題は書状のそれまでの部分である。そこでは、①神西御扶助事、②宍道・尼子両人給事、③佐波給事、迩摩衆下行事が述べられるとともに、来る三日に対面することを伝えてほしいとしている。②の尼子給について、尼子誠久に尼子氏家督を約束したとの雜説が流されたことを裏付けるものではないかとの説があるが、「宍道給」と併せて考える必要がある。
 宍道給とは、塩冶興久の乱で興久方となり晴久により殺害された宍道経慶の遺児に対する給分である。兄=後の隆慶は大永七年(1527)生で、天文十一年の時点では十六才で、尼子氏の敗退を受けて、大内氏の出雲国攻めに協力することを申し出たものである。これに対して「尼子給」が誠久に関するものであれば、誠久がいくら神水を呑んで弁明しても甲斐はなかった。この「尼子」氏とは塩冶興久の遺児清久であろう。清久も隆慶も実父を祖父(清久)ないしは曾祖父(隆慶の母は国久女)にあたる尼子経久とその孫晴久により殺害されていたのである。
 ①の「神西」とは神門郡神西庄の神西氏惣領久通本人ないしはその関係者で、久通もまた興久の乱により惣領の地位を追われていた。③の「佐波」氏は天文五年に尼子氏から攻撃を受け、山口牢人中となっていた一族の佐波興連のことであろう。④の迩摩郡衆は天文九年の尼子氏の吉田攻の前後に石見国東部で行われた尼子方との合戦における功に応えるものであった。

新宮党討滅と多胡辰敬3

 最初に書いたが、多胡辰敬は新宮党討滅後も生き残っていることを述べた。これからも、遠用物の末尾には疑問符が付くのである。尼子氏久と佐世清宗が同じことを言いながら、前者は相手にされず、後者が採用されるのも不可思議である。よく調べた結果なら、当然多胡辰敬がその後も尼子方であることはありえない。
 長谷川氏は多賀と多胡の二人の行動が最後の部分で混同されているとされたが、それでは説明がつかないのである。「親類共」が多胡に同意しても「紀伊守」「式部少輔」が切腹に追い込まれることはなく、責任をとって隠居させられ、「その跡が自分に与えられると思ったのだろうか」の部分も納得いかない部分である。誰がこう思ったのだろうか。ここからは「親類共」の中に国久・誠久は含まれないようにも思える。
 多賀隆長とその子孫について考えてみる。氏久ハ隆長女と誠久の間に生まれていたが、誠久の妻は天文十八年四月二十四日に死亡している。氏久以外の誠久の子の母が隆長女かどうかは不明。天文二十年に「孫四郎」とみえるのが氏久であるのは系図の記載でしか確認できないが、事実であろう。その仮名から国久・誠久の後継者であることは間違いない。その時点で十代半ばであろう。新宮党討滅の時点では二十歳前後となる。
 隆長は世代的には国久と同世代であろう。天文十二年に切腹に追い込まれるが、彼と毛利氏による尼子氏攻めに参加し、長田東郷・西郷等を与えられた「多賀左京亮」との関係はどうであろうか。隆長の子なら誠久と同世代であるが、その場合は父隆長とともに大内氏による尼子氏攻めに参加し、切腹させられた可能が高い。隆長の孫ならば氏久と同世代になる。永禄五年の時点で氏久が生存していれば三十代前半である。
 前に述べたように、多胡辰敬は、毛利氏ではなく反陶氏の吉見氏と連絡を取っていた(この部分も毛利氏がとぼけており、連絡はあったかもしれないが)。福屋氏の立場も陶氏方の小笠原氏を攻撃しており、多胡氏と福屋氏は同じ立場になる。こうした動きを晴久が全く知らないことはあり得ないであろう。そうしたことを踏まえると「遠用物」の末尾の部分には疑問が多い。「尼子破次第」の「多賀と紀州が申し合わせて芸州へふつくり晴久に腹を切らせ候するたくミ」の方が説得力はある(これが事実だと言っているわけではない)。氏久は多賀隆長を祖父としていた。断言はできないが、「多胡」と「多賀」がごちゃ混ぜになっているとは思われない。

2017年7月 9日 (日)

三月二十三日津森幸俊書状について

 1997年刊行の『富家文書』でこの文書を最初に見た。同年刊行の『大社町史』史料編にも収録された。朝山二郎左衛門方が「本庄」に同意して毛利氏と結ぼうとしたため腹を切らせたことを、尼子氏直臣である富田衆の津森氏が冨兵部大輔に伝えている。「本庄」に関する情報を冨が提供したことを披露し、隠新の雜意も確実だとして、村民と足若とともに討ち果たしたことも伝えている。その外の隠岐氏の家臣には異議は無く、「隠豊」の存分通りであるとしている。本庄=本城常光ではないかと思い、常光が毛利方となる永禄五年のものとすることは可能かと検討したが、常光の離反は六月であり無理であった。『冨家文書』には長谷川博史の解説が付いており、そこでは「本庄」が塩冶八幡宮神主の本庄氏ではないかとの説も提示されていた。
 朝山二郎左衛門は佐陀神社神主の一族であるが、近親の朝山日乗が出雲大社の関係者と毛利氏の仲介をした関係で二郎左衛門が切腹に追い込まれた可能性もあると思った。佐陀神主朝山氏も神魂神社神主秋上氏と同様、一族が尼子氏家臣に組み込まれており、それに対する不満があったのであろう。宛名の冨氏は出雲大社上官であるが、ここでなぜ塩冶神主が登場するのかは理解できなかった。
 現時点でこの文書を素直に読めば、「本庄」は長海「本庄」を支配していた人物であろう。長海「新庄」は隠岐島主である守護代隠岐氏惣領豊清が支配していたことは文書から確認できるが、本庄も隠岐氏の所領だとされている。尼子氏方である「隠豊」(隠岐豊前守)に対して「隠新」(=隠岐新左衛門尉の略か)が毛利氏と結ぼうとし、「村民」(=村上民部左衞門尉ヵ)と「足若」(=足立若狭守?)はその支持者となるか。「村民」は天文十三年九月二十七日隠岐氏家臣連署書状で署判している村上民部左衞門尉幸歳ないしはその子であろう。署判位置からは家臣の中の最有力者となる。
 毛利氏はこの時点で島根郡の荒隅と和倉山の確保を目指し、次いで尼子氏方の拠点である白鹿城攻めを計画しており、中海と日本海水運につながる本庄の重要性は高かった。その後の毛利氏支配下でも本庄は富田城主毛利元秋を補佐する天野隆重領となっており、重要所領であった。尼子氏側も本庄と佐陀神主が毛利へ現形するとの情報を得て未然に討伐したのであろう。
 ただし、討伐によっても毛利氏の勢力拡大は防ぎきれず、永禄六年五月の時点で、佐陀神主朝山氏の関係者は在地を離れ、富田城に籠城することとなり、九月二十日には神主一族の朝山賢正院が神主の継承を認められ、朝山家が再興された。これに対して毛利方は六月二十四日には多賀左京亮に対して意宇郡乃白ならびに島根郡東長田と国屋を与えている。多賀氏は守護京極氏の下では尼子氏に次ぐ勢力を持ち、尼子経久の孫誠久は多賀氏惣領美作守隆長の娘を妻に迎えていた。ところが、経久の三男で塩冶に養子に入っていた興久が出雲国西部と南部の勢力を背景に父に叛旗を翻した際に多賀美作守は興久方となり、興久の乱が失敗しすると、国外に逃れざるを得なかった。その後、大内氏の家臣となり天文十一年から十二年の大内氏の出雲国攻めでは案内者として重要な役割を果たした。それが失敗したため、多賀美作守は島根郡法吉郷内の白鹿城で切腹させられた。多賀左京亮はその後継者と思われるが、今回の毛利氏による攻撃でも案内者として重要な役割を果たしたため、三ヶ所の所領を与えられた。現実に毛利方がその所領を実効支配していた中での宛行であった。三ヶ所の内、長田は15世紀後半以降は多賀氏領であった。

2017年7月 6日 (木)

布志名氏再論2

 宗清には嫡子二郎左衛門貞宗がいた。従五位上への昇進と隠岐守への補任は、弟雅清の後醍醐天皇への貢献によるものだろう。建武政権下で隠岐守に補任されたのは塩冶高貞であるが、南北朝の動乱で高貞が足利尊氏方となったことにより、南朝は貞宗を新たに隠岐守に補任したのだろう。従五位上も弟雅清の従五位下を上回るものである。『群書類従』所収の佐々木氏系図では宗清は「八郎」となっていたが、別本の「二郎」が正しく、その嫡子は「三郎左衞門尉雅清」ではなく、二郎左衛門尉貞宗であった。布志名判官雅清は布志名氏の庶子であったのである。
 雅清は建武政権下で若狭国守護に補任されたが、系図一本が記すように、建武三年正月の京都での戦いで戦死し、その子「布志那二郎光清」が武者所の五番にみえている。群書類従本佐々木系図では光清を「三郎左衞門尉、出羽守」とする。雅清の嫡子であれば「三郎」であるが、布志名氏の惣領ならば「二郎」となる。光清のその後の消息は不明であるが、動乱開始の早い時点で死亡したと思われる。
 その後、永和元年(1375)には山名氏惣領師義(以前の記事では時義としたが訂正)の但馬国守護代として、「布志名」がみえる。翌二年には師義が死亡して、弟時義が新たな山名氏惣領となるが、至徳二年には山名氏惣領時義の執事として「布志名殿」=「前越前守宗清」=「善勝」が登場する。次いで応永十年には山名氏の備後国守護代として「佐々木筑前入道」=「善円」がみえる。両者の花押は似ており、後者も布志名氏であろう。南朝方であった布志名氏は光清の死後も伯耆国名和氏と同様南朝方であり、観応の擾乱期には反幕府方として出雲国に勢力を伸ばした山名氏と結んだ。そして山名氏が貞治二年(1363)に幕府に復帰し、京極氏が出雲国守護となると、山名氏領国へ移住し、時氏の死後は後継者師義の但馬国守護代に、その死後は新惣領時義の執事として仕えた。
 雅清の法名は「覚信」で、兄貞宗の法名は「明円」である。雅清の子光清は父の死により若くして後継者となったが、本人もその後まもなく死亡し、その子は無かった可能性が大きい。一方、兄貞宗の子には宗信と宗具(貞)がいた。山名氏領国へ移住した後の布志名氏として見える「宗清」と「善円」は雅清-光清ではなく、兄貞宗(明円)の末裔であろう。布志名の地にある臨済宗明国寺も貞宗(明円)にちなむものである。

布志名氏再論1

 中世の湯郷は出雲国衙在庁官人筆頭の勝部宿祢領であったが、東国御家人中心の鎌倉幕府の支配下で生き残りを図るため、出雲国守護佐々木泰清の子七郎頼清を婿養子に迎えた。系図上で頼清の長子とされる八郎(次郎ヵ)宗清の子が後醍醐天皇の興脱出を助けた布志名判官である。
 頼清は徳治二年(1307)十月に57才で死亡しており、建長三年(1251)生まれとなる。弟の高岡八郎宗泰が建長七年の生まれなので、問題はない。宗清は系図一本に文永八年(1271)に生まれ、正平十二年(1357)に死亡したと記され、八十七才まで生きたことになる。文永八年十一月時点の湯郷と拝志郷の地頭は「大西二郎女子」で、佐世郷地頭は「湯左衞門四郎」である。
 大西氏と湯氏はともに勝部宿祢一族であった。「大伴氏系図」によると湯左衞門清綱は承久の乱後の勝部宿祢一族の惣領となった元綱の養子となってその所帯を譲られた。元綱は勝部宿祢一族中の元宗(大原郡)系惣領朝山惟綱の弟であったが、勝部宿祢惣領某(神門郡系)と兄惟綱が承久京方により所帯を没収されたことにより、勝部宿祢全体の惣領となった。それに伴い、それまでの所領佐世郷を養子清綱に譲った。佐世郷は元宗系にとっての本領であった。
 これに対して湯郷と拝志郷も元宗系の本領であったが、文永八年十一月の直前までは出雲大社神主(惣検校)となったこともある内蔵孝元が地頭であった。その所領が没収され、本主である元宗系の大西二郎女子に返された形となった。承元二年に内蔵資忠の子孝元が出雲大社権検校に補任された際に、出雲国内数ヵ所の地頭に補任されているが、その中に国富郷・湯郷・拝志郷が含まれていた。大西氏については、承久京方により所帯を没収された大西庄司がいた。元宗系の人物であったと思われ、「大西二郎女子」もその関係者である。
 宗清は頼清が湯氏に養子に入る前に生まれた子である可能性が大きい。これに対して養子に入ってから生まれた弟三人に三ヶ所の所領が分割して譲られた。湯郷は十郎左衞門尉泰信に、拝志郷は五郎泰秀に、佐世郷は七郎左衞門尉清信に譲った。泰信については系図一本に文永十年の生まれとされ、この時点では頼清が養子に入り、湯氏女子との間に子が生まれていたことになる。

2017年7月 4日 (火)

新宮党討滅と多胡辰敬2

 現代語すると、「吉見氏の被官が、多胡左衛門尉が申した事があったためか、この前の(尼子氏が)小笠原口へ動くことについて、毛利氏に申したが、毛利氏は前後の事情が理解できなかったため、これを福屋氏には申し入れなかった。」となり、多胡氏が連絡を取っていたのは毛利氏ではなく、吉見氏側ということになるのではないか。不思議ではあるが、これも毛利氏側を混乱させるための調略としてならあるうる。
 毛利氏、大内・陶氏側では、福屋氏が小笠原氏攻撃を開始したことについて、これをやめさせようとしていた。尼子氏に付け入る隙を与えることになる。大内の代官問田氏は福屋氏は尼子氏と結ぶ意図があるとして、小笠原氏側を支援しようとしている。毛利氏が一旦引き上げるように申し入れても大内氏に注進して意見を聞かなければならないとして、引こうとはしない。
 福屋氏による重富氏討滅について述べたところで、福屋氏が姻戚関係のある小笠原氏を攻めたのは、尼子氏と結ぶことを決断したからだと述べた。その福屋氏と尼子氏の間の連絡役が多胡辰敬であったのではないか。毛利氏側もそのような福屋氏側の意図は十分知っていながら知らない振りをして書状を書いている。福屋氏側にとっては多胡氏の先にあった新宮党が滅ぼされてしまったことは衝撃的であったろうが、この期に及んでは毛利氏と結ばざるを得ず、知らない振りをして述べているのである。あるいは福屋氏としては、毛利氏と尼子氏の両方と結んで陶・大内氏側を圧倒することも選択肢にはあったかもしれない。これに対して、毛利氏側は、尼子氏が陶・大内氏と結ぶことさえ阻止すればよく、尼子氏と本気で結ぶことなど考えていないように思われる。
 小生としては尼子氏近臣の佐世清宗(玄友)こそ裏で毛利氏と通じていたとしか思えないのだが、これを史料により証明することはできない。その後の毛利氏のもとでの佐世氏の特別扱いという状況証拠しかないのである。
  佐世清宗(玄友)は中郡(大原郡)の所領から登城して多胡の動きを報告したとあり、大原郡佐世に居たことになる。天文二十二年の連歌師宗養を招いての会も大東の馬田尾張守の会の次に清宗が記されており、これも佐世の館での開催となる。本来は出雲佐々木氏の一族であり、竹生島奉加帳には出雲州衆の最初の源氏の場所に名前があるはずだが無い。それが表舞台に登場するや、奉行人奉書の署判者の最後に署名している。晴久時代には天文二十四年八月十四日の1点しか残っておらず、新宮党討滅との関係で警戒された可能性がある。しかし義久の時代(本来なら義久の母の生家である新宮党が中心となるはずであった)となると主役の位置を占め、次いで毛利氏による攻撃が始まるといち早く富田城から退いている。別に裏切ることがよくないと言っているわけではないが、尼子氏滅亡のキーマンであることは間違いない。

新宮党討滅と多胡辰敬1

 この問題については、長谷川博史氏が毛利文庫遠用物を利用されて述べられた(山口県史の窓 通史編中世)。そこで多胡辰敬が「いち早く大内氏・尼子氏の両方を敵にまわす選択肢(毛利氏と結ぶ)を選ぶ決断をしていた可能性がある」と述べられたことについて、「想像を超えており虚を突かれた」と述べ、尼子氏がこの時期に衰退期に入っていたとの長谷川氏の評価ともども「ゆっくり考えてみたい」と結んでいた。今でも不明な点が多いが、いけるところまで述べてみる。
 冷静に考えると、多胡辰敬は永禄五年に毛利氏が石見国東部を本格的に攻撃した際に討ち死にしたとされており、「多胡氏が毛利氏と結んだ」という風聞は誤りだったことになる。最初にこの点を確認しておく。ただ、調略としてそのような行動を採った可能性までは否定できない。最終的に(おそらくはすぐに)多胡氏、新宮党による裏切りは事実ではないことが確認できたのであろう。この点は天文二十四年に修理大夫に補任された晴久から出雲大社、日御崎社、揖屋神社への所領寄進状を見ても明らかである。謀叛が事実であった場合と、晴久が意図的に新宮党を滅ぼした場合には、寄進状の中で新宮党への批判が述べられたはずである。
 天文二十二年から二十三年にかけての石見国では、西部で吉見を陶氏(大内氏)が攻撃しており、東部では福屋氏による小笠原氏攻撃が行われていた。これとは別に毛利氏も出兵し、永安氏を攻撃している。その一方では上使が尼子氏に働きかけて、陶・益田氏と吉見氏の間の和談を進め、防(陶)・雲(尼子)和談も進めようとしていた。
 そうした中、毛利氏(隆元・元就)が福屋氏への手紙の中で、尼子晴久により尼子国久・誠久ら新宮党が滅ぼされたことを極めて簡単に述べている。この手紙は「福屋上野守」への返事であり、新宮党討滅についても、福屋氏側からの手紙で言及されていたので、補足説明も必要なく、簡単に述べていると思われる。福屋氏側からは「吉見江書状」についても述べられていた。多胡氏については以下の通りに述べられている。
  吉見被官罷下ニ、多胡左衛門尉申儀共候哉、此前至小笠原口動之事、申下候つれ共、前後未及思惟候条、不申入候き。

大家庄と関係文書の伝来2

 この御教書の内容からわかるのは、承久二年二月二十四日当家御下文に任せて惟行を安堵せよとあり、養父国知に対して領家が安堵したのが承久二年であった。承久の乱後、大家庄住人行公が濫妨をするので、国知が六波羅探題に訴え、今回のような御教書を受けて領家からも濫妨停止の命令を得ていたのだろう。それを今回は惟行が相続したとして領家の下文による安堵を求めて六波羅探題に訴えたのだろう。幕府が関わるのは領家難波氏が関東伺候公家であったためである。
 ③建治三年(1277)十月九日には沙弥上蓮奉領家御教書が出されている。大家西郷地頭が狩集(倉)について惣公文である当郷地頭を訴えたことに対する判決である。代々の領家検注で狩集について確認され、所当公事を東郷地頭が西郷にも負担させて収めていたのであろうが、これに対して西郷は東郷地頭の「進退領掌」権を否定したが、西郷側が提出した証文は根拠がないとして、東郷地頭の惣公文としての権限が再確認された。
 東郷地頭が大家氏であり、西郷地頭は非益田氏系御神本氏である井尻氏であった。文書はこの裁判に勝利した大家氏が伝え、それが後に大家領が益田氏のもとに入ったため益田家文書として残った。その他の関係文書もあったが、益田氏から毛利氏へ移され、さらに外に流出したため、長府毛利家文書、古証文、保坂潤治氏所蔵手鑑として残っている。
 ④永仁三年(1295)十二月六日六波羅御教書では、大家庄内福光郷雑掌と地頭福光氏の間に検注以下条々で裁判が行われ、福光氏の惣領である周布氏に対して、福光氏が提出した文書の正文を提出するよう命じている。福光兼継は福屋氏の出身であるが、福光郷を譲られた周布氏女子と結婚していた。⑤嘉暦三年(1328)四月十日領家御教書では、西郷内津淵村の検注以下について雑掌と地頭の間に和与が成立したことを了解したことを伝えたものである。宛所は切り取られている。
 とりあえず、庄園支配に関する文書の内容を確認した。④は地頭である周布氏が、⑤は同じく石見吉川氏が残したものである。津淵村は福屋氏領であったが、福屋氏出身で永安兼祐と結婚した良円が譲られ、良円から孫の良海を経てその子に譲られた。幕府方であった石見吉川氏の経明が南朝方であった一族跡を恩賞として獲得した際に、関係文書を入手したものである。

大家庄と関係文書の伝来1

 石見国知行国主ならびに国守の分析結果を踏まえて、摂関家領大家(大宅)庄について再度述べてみたい。
 大家庄が皇嘉門院に寄進されたのは知行国主藤原忠実-国守源国保の二期八年が終了して、国主忠通-国守源季兼の時代であろうが、前の時代に体制の整備(広範囲な所領をまとめて庄園として立券・寄進する)が進められていたと思われる。承久の乱直前の大家庄惣公文が「国知」という人物であったのはそのためである。
 雅国-国保父子も忠実・頼長派ではあっても摂関家家司の一員であり、それは保元の乱の直後に尾張国小弓開発庄の問題で雅国から平信範に出された書状でわかる。尾張国は長承三年(1134)二月から天養元年(1144)正月までは忠実が知行国主であり、この間の国守は源師盛-源成雅-源憲俊と村上源氏である雅国の一族であった。師盛は雅国室の兄弟で、その父師俊も永久年間(1113-18)に国主忠実のもとで尾張守であった。成雅は雅国の従兄弟で安芸守の後任、憲俊も雅国の従兄弟で、その娘は成雅室という状況で、この間に立券された庄園の領家(預所)に村上源氏一族の関係者が補任されたのだろう。
 大家庄の初見史料は安元二年(1176)に藤原頼輔が皇嘉門院領大家庄の領家に補任されたという記事(玉葉)である。頼輔の娘が九条兼実との間に良平を生んだことがその背景にあった。皇嘉門院領は治承四年(1180)五月には兼実の嫡子良通に譲られたが、良通が文治四年に病死したため、頼輔の孫良平が継承したが、暦仁元年(1238)十二月十四日に良平が九条家の祈願寺成恩院に寄進した。これを踏まえて井上寛司氏は、本家九条家-領家・本所成恩院と整理されたが(温泉津町誌)、そうではなく、本家成恩院-領家・本所藤原頼輔流とすべきである。成恩院の前は本家九条良平(頼輔孫)であった。
 藤原頼輔は摂関家との関係を深める一方、豊後国知行国主として九州における半平家方の組織を行ったが、その後、子の頼経が嫡子宗長とともに源義経との関係を疑われ解官・配流されたが、後に復帰し、宗長は難波氏として、その弟雅経は飛鳥井氏として、蹴鞠を通じて朝廷と幕府の両方との関係を深めていった。両者の甥である長定は殿上人で且つ出雲守でありながら、建暦三年(1213)には鎌倉にいて、将軍実朝に三代集(古今・後撰・拾遺集)から女房の歌を選んで編集し描いた絵二十巻を献上し、和田義盛の乱では勲功を上げて恩賞を与えられている。
 ①承久三年(1221)十月日関東下知状により大家庄に対する守護使の入部が停止されている。この時点で九条道家の子三寅が次期将軍として鎌倉に迎えられていたこともあるが、頼輔流と幕府の関係もこの下知状獲得の背景であった。頼輔の孫宗長は嘉禄元年(1225)まで生きている。次いで、②寛元元年(1243)十一月二十三日関東御教書により、幕府が「源次郎」に対して養父国知から惟行が譲られた大家庄惣公文職を安堵するよう伝えている。「源次郎」は宗長の孫教継と教俊のいずれかであろう。宗長の子はこの時点で44才であり、飛鳥井氏にも年齢的に該当する人物はいない。

2017年7月 1日 (土)

石見守源国保と益田庄2

 国保の母は同族の源師俊の娘である。その姉妹には忠実の子頼長との間に兼長を生んだ女性がいる。国保と兼長は従兄弟になるが、兼長は保延四年(1138)の生まれである。母方の祖父師俊も承暦四年(1080)生まれであり、保国の母は天仁年間(1108ー10)前後の生まれで、夫雅国との間には年齢差があったと思われる。そうしてみると保国は大治年間(1126-31)前後の生まれで、石見守となった久安二年(1146)の時点では二十歳未満である可能性が大である。何が言いたいかというと、国保は知行国主忠実(ないしは頼長)のもとでの石見守で、且つ実務を担ったのは父修理権大夫雅国とその目代であるということである。
 諸氏家牒本石見益田氏系図では益田氏の祖となる国兼の父を宗季とし、その四人の子を国季・国兼・国頼・国宗としている。四人がすべて「国」の字を名前に付けるのは二期八年間の源雅国・国保父子による支配を反映したもので、兄弟の中では一族で継承されてきた「季」の字を持つ「益田太郎国季」が嫡子だと思われる。
 保元の乱の敗北の影響は御神本氏一族のみならず、石見国衙の他の有力在庁官人にも及んだはずである。美濃郡西部の地域が、東部に先行する形で「長野庄」として立券されたのはこの時期であったと思われる。寄進先は崇徳院ないしはその関係寺院であったと思われる。それが、保元の乱で崇徳・頼長方が敗北したことで、勝利した後白河院の支配下に入り、崇徳の死後、その怨霊を鎮めるための崇徳院御影堂の一つとして設けられた粟田宮社に寄進されたのだろう。
 これに対して美濃郡東部が益田庄として知行国主藤原忠通・石見守源季兼のもとで立券された。御神本氏四兄弟の関係にも影響した。その中で雅国・国保父子との関係が弱かった人物が新たな惣領になり、季兼の一字を取って「国兼」と改名し、益田庄を立券し、忠通の子皇嘉門院に寄進した。当然、国兼は12世紀半ばの人物である。
 保元の乱は長野庄にも影響し、益田兼栄が長寛二年(1164)には長野庄内高津郷下司に補任されている。高津郷は本領主高津氏が後に復活するが、これ以外にも鎌倉期に益田氏が支配した長野庄内飯多郷・安富郷、あるいは岩田氏と競合した得屋郷の権益を獲得した可能性がある。前述のように、雅国自身は籠居しながらも庄園に関わってはいた。その影響力は低下したであろうが皆無となったわけではない。邇摩郡大家庄も益田庄と同様、最終的には石見守源季兼の時期に皇嘉門院に寄進された。後に長野庄と大家庄に「国」の一字を付ける現地の関係者がいるのは雅国・国保時代の影響である。これに対して、益田庄を支配する益田氏の当主にはそれ以降「国」を付ける人物は登場せず、その系図においても源季兼の娘が嫁いだ日野氏に益田氏のルーツを求めている。源季兼が立券した庄園で最大の能登国若山庄領家職は、源氏ではなく女系の日野氏に継承されていく。

石見守源国保と益田庄1

   仁平二年八月二十五日、関白忠通が家司藤原(中山)忠親に命じ、石見遷任の功を募り、公家の御為に仏像百体を造るよう命じている(山槐記)。この記事に関して、摂関家の知行国を分析した五味文彦氏は「大和は翌年に石見に遷ったが、その後の忠通知行は『山槐記』仁平二年八月二十五日条から知られるので、石見国は継続して忠通知行とみなされる。」と述べ、天養二年一月以降の源清忠、久安二年(1147)一月以降の源国保、仁平三年閏十二月以降の源季兼は、知行国主忠通のもとでの石見守だとされた。清忠と季兼については問題ないが、国保については妥当であろうか。知行国主の任期が原則二期八年という点とも関係してくる。季兼の後任の石見守は摂関家家司藤原永範である。天養二年(1145)正月の源清忠以来とすると永範の任期が終わった応保元年(1161)まで四期十六年間も忠通が石見国知行国主であったことになる。
 遷任の功により仁平三年閏十二月に石見守となった源季兼は各国で国司を歴任しつつ、摂関家領を立券してきた人物で、この前後も摂関家の中では忠通との関係が深い。問題は村上源氏源雅国の子国保であるが。父雅国は源国信の子で、天永三年(1112)七月二十七日に元服しており(中右記)、寛治年間(1087-94)前半の生まれであろうか。天養二年(1145)から久安五年(1149)にかけて知行国主忠実のもとで安芸守を務めているが、これ以外の国守については確認できない。仁平三年(1153)七月二十五日に「修理権大夫源雅国」が石清水奉幣使として派遣され(平戸記)、保元元年(1156)に比定できる十一月九日書状(兵範記紙背文書)でも「修理権太夫雅国」と署名している。
 書状では尾張国小弓開発御庄預所として、現地の庄官の訴えを摂関家家司平信範に伝え、問題解決のための摂関家政所下文の発給を求めているが、一方で自身は「籠居」していると記す。同年七月の保元の乱で主人である忠実が敗北側になったからであろう。ここから、雅国の子である保国もまた同様の状況に置かれていた可能性が大きい。

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