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2017年6月

2017年6月29日 (木)

中原宗家について

 仁安二年(1167)正月二十七日に隠岐守と確認できる中原宗家(女御となった平滋子の家司)は同年十二月三十日には伊豆守源仲綱と入れ替わる形で遷任している。滋子が建春門院の院号を得るのは二年後。仁安三年三月二十日に高倉天皇の即位に伴い、後白河上皇女御平滋子が皇太后に冊立され、関係者に授位がなされた。その中に「大属従五位下伊豆守中原宗家」が見えている(兵範記)。
 仲綱は摂津源氏源頼政の子で、安元二年(1176)から治承四年(1180)まで再び伊豆守であったことが確認できるが、承安二年(1172)から治承元年(1177)までは仲綱の父頼政が伊豆国知行国主であったことが確認できる。美福門院の死後は後白河院の関係者が隠岐守となっているが、問題は平家との関係である。安元二年(1176)正月三十日に隠岐守に藤原惟頼が補任される。ただし、同年七月八日に建春門院は死亡。
 中原宗家は後白河院庁主典代で、院庁下文に署判するとともに年預として実務を担当していたが、建春門院庁の院司を兼ねた。それが女院の死により本来の後白河院の近臣に戻った。治承三年十一月の平氏のクーデターでは「大蔵大輔中原宗家」が解官されている。一方で清盛は宗家から後白河の院領目録を提出させ、所領を高倉院領に移行させようとした。宗家については「後白河院北面諸司、同年預、造酒正、大蔵大輔、伊豆守、正五位下」と記すものもあり(『洞院家記』巻之十四)、同一人物である。「後白河院北面暦名」にも中原宗家(前伊豆守)と見える。
 藤原惟頼は仁安二年(1167)八月に丹波守、承安四年(1174)正月に佐渡守に補任され、安元二年正月三十日に隠岐守に補任され、治承三年十月二十五日時点でも見任が確認できる。祖父顕能は「夜の関白」と呼ばれた顕隆の子であったが三十三才で死亡している。そのためか、子である頼佐・重方・顕方はいずれも国守止まりで、頼佐も康治二年正月三十日に若狭守から阿波守に遷任していることしか確認できない。
 惟頼の従兄弟である藤原重頼は永万元年(1165)に日向守から佐渡守に遷任していた。その母は藤原清隆女子で、室は源頼政の娘である。その没年は不明だが、建仁二年(1202)には「相模守重頼」が、承元三年(1209)八月には「重頼 遠江」が、建暦元年(1211)三月には宜秋門院が春日社に行啓した際の侍に「重頼」が、建保元年(1213)三月には越前国守護大内惟義の「代官重頼」が見える。重頼の室二条院讃岐については建保四年閏六月九日の内裏百番御歌合の参加者として「二条院讃岐」がみえる。幕府と朝廷の両方で活動している。

2017年6月28日 (水)

隠岐守藤原信盛と美福門院

 資憲の後任の隠岐守は不明であるが、久安三年(1147)正月二十八日には「隠岐守従五位下藤原信盛。蔵人」とあり、蔵人であった信盛が補任された。信盛の父顕盛は白河院の近臣長実の子で、その姉妹には美福門院がいる。長実は四ヵ国の知行国主となり、子や娘婿を国守に起用した。顕盛も越前守・伯耆守・尾張守を歴任したが、父長実が死亡した翌年の長承三年(1133)に三十五才で死亡した。
 長実が死亡すると、鳥羽院は祖父の近臣を排除したため、知行国は失われた。その後、長実の娘得子が鳥羽院の寵愛を得て美福門院となり、分国を認められたが、鳥羽院の意向もあり自らの兄弟を登用することはなかった。 代わりに国守となったのは早世した兄顕盛の子俊盛(1120年生)や兄長輔の子長明・隆輔・実清や自らの乳母美福門院加賀の父親忠、その子の隆信(似絵の名手)であった。これに対して隠岐守となった信盛もまた顕盛の子であった。信盛は仁平二年(1152)二月九日には上野守に補任されたが、翌三年三月十三日に死亡した。兄俊盛は保延二年の備後国・丹後国、天養二年の越前国、仁平二年の丹後国、保元二年の讃岐国と美福門院分国の国守を歴任している。
 こうしてみると、信盛が国守となった隠岐国と上野国もその時点では美福門院の分国であった可能性が高い。上野国守はその後、藤原重家が重任して二期務め、後任は前述の藤原隆信である。重家は長実の弟藤原顕輔の子(美福門院の従兄弟)で、美福門院の養子で近衛の後継者とされた二条天皇(後白河の子)の側近となっている。隠岐守は信盛が上野守となった同日の除目で藤原家輔が補任されている。信盛は隠岐守を延任し、家輔に交替したと思われる。家輔の父家長は長実の兄弟家保の子で美福門院の従兄弟であり、隠岐国もまた美福門院の分国であった可能性が高い。仁平四年正月三日には「隠岐守宗輔」が頼長のもとを訪れたことが記されているが(『台記』)、「家輔」の誤りであろう。父家長は一方では藤原忠実・頼長父子に接近し、その前駆を勤めている。そのため家長は崇徳院方であったとされ、乱後には出家している。隠岐守が保元二年正月に源雅範に交替したのもそのためであろう。雅範は村上源氏源顕房の孫であり、その父雅兼も保元三年十二月二十日の二条天皇即位に伴い十七日の御即位叙位では「美福門院御給」として院の推挙により従四位上に叙せされている。また、雅兼の娘=雅範の姉妹は藤原俊盛の室であった。この時点でもなお隠岐国は美福門院分国であった。五味文彦氏『院政期社会の研究』を読みながら、新たな情報を追加した(雅範について修正)。

隠岐守藤原資憲と崇徳院2

 資憲は後の保元の乱で崇徳院が敗北したこともあり、その後は出家したようで、揖屋庄の牓示石が国衙により引き抜かれた際には、「領家勘解由次官資憲入道」が庄官を率いて原状回復を行っている。とはいえ、その女子は平教盛(1128~1185)の正室となり、嫡子通盛(1153年生)、次男教経(1160年生)、後鳥羽天皇の養育にあたり順徳天皇の祖母となった教子を産んでいる。教子の生年は不詳だが、その子範茂は文治元年生、順徳天皇を生む重子は寿永元年生まれである。こうした点を考慮すると、保元の乱後も資憲は揖屋庄領家としての実権を保持したと考えられる。建久十年四月日某家政所下文により大宅資澄から子宗澄への別火并上官職の譲与が安堵されている。三位以上の人物の政所からの発給文書であり、資憲の子教子を妻とした藤原範季ではないか。範季は娘重子が建久八年に後鳥羽の第二皇子(順徳天皇)を生み、後鳥羽天皇の侍読を勤めた功により建久九年十二月十五日に従三位に除せられ公卿に列せられていたのである。
 話を戻すと、資憲と父実光(1147=久安三年死亡)は隠岐国のみならず、出雲国にも影響を及ぼした。国造兼忠のライバルとして出雲大社領の立券を行い神主に補任されたと思われる内蔵資忠の父とは「忠光」であった。資忠が「資憲」の一字を付けているのは当然である。内蔵資忠は出雲大社神主であるとともに隠岐国在庁でもあった。十二世紀後半の揖屋社別火は「助字(安)」「助(資)澄」といずれも資憲の一字を付けていた。さらには、因幡国住人長田兵衞尉実経が平家方となりながら許され、幕府の有力御家人となったのは父長田高庭介資経の大功によるものだった。この父にも「資」の字が付いている。資経は頼朝が伊豆に流される際に一族の資家を同道させたという。長田実経は「広経」と改名して御家人となったが、その後文応二年三月二十日の引付結番にいたるまで「長田兵衞太郎」、「長田兵衞太郎広雅」「長田左衛門尉広雅」がみえるが、すべて同一人物で「長田兵衞尉広経」の子であろう。 資憲は鳥羽院のみならず崇徳院の近臣であった。

隠岐守藤原資憲と崇徳院1

 保延四年(1138)五月二十日鳥羽院庁下文(平安遺文5001)の署判者として「勘解由次官兼隠岐守藤原朝臣(花押)」として藤原資憲が見える。ともに従五位下の官職である。資憲は儒者として公卿となった日野実光とその叔父有定の娘の間に生まれ、鳥羽院の近臣となる一方、天養二年(1145)には崇徳天皇の御願寺成勝寺に出雲国揖屋庄を寄進し、その領家となっている。実光には出雲守を務めた高階重仲女子との間に元永二年(1119)に生まれた長男資長がおり、保延四年には蔵人から右衛門尉に補任され、従五位下に進んでおり、資憲とは年齢が近いと思われる。実光は有信の子であるが、父方の祖父実綱と母方の祖父実政の関係で「実光」と名乗ったのであろう。藤原実政は肥後国鹿子木庄の領家として有名な人物で、大宰大弐・従二位にまで昇進したが、宇佐八幡宮との紛争により辞職に追い込まれ、さらには伊豆国に配流された。実綱と実政の父は資業であり、資長・資憲の名は曾祖父にちなむものであろう。
 二十歳前であった資憲が勘解由次官と隠岐守を務めた際には、勘解由長官の経験もある父実光が知行国主であったと考えられる。一方、同年十一月十六日鳥羽院庁下文(同5004)の署判者には見えず、資憲の位置には「勘解由次官兼信濃守」として署名のみで花押がない。兼信濃守なら藤原親隆となるが、あるいは誤記であろうか。その場合でも資憲が隠岐国に下っていたために花押を欠いているのだろう。康治元年(1142)十二月十三日鳥羽院庁下文案(同2491)には「勘解由次官兼下野守藤原朝臣」として見えるが案文であり花押の有無は確認できない。その後、天養元年十二月には下野守を任期途中で辞任し、翌二年には出雲国揖屋社を立券している。その際には鳥羽院庁下文が出されたはずである。

崇徳院について2

 鳥羽院は近衛天皇の子孫に皇位と庄園の継承を期待していたが、近衛は病弱で子どもを持つ前に17才で死亡した。近衛の母美福門院の養子となっていた崇徳院の子重仁親王が後継者として有力視されていたが、美福門院と信西入道はもう一人の養子守仁親王を後継者とし、その父後白河天皇を中継ぎの天皇として即位させた。これにより崇徳院との間に対立が生まれた。
 これとは別に、摂関家でも藤原忠通と弟頼長並びに父忠実の間で対立が生まれた。忠実は白河院により引退に追い込まれ、不本意ながら忠通にその地位を譲っていた。ところが大治四年に白河院が死亡したことにより忠実が復権すると、忠通との関係が悪化した。忠通に後継者がなかったため、天治二年(1125)に一旦は忠実が謹慎中に生まれた23才年下の頼長がその養子となり後継者となったが、康治三年(1143)に47才の忠通に実子基実が誕生したため、忠通は頼長との養子関係を解消した。次いで、頼長と忠通がそれぞれ近衛天皇に養女を入内させて外戚の座をめぐり対立した。これに不満を持つ忠実は、久安六年(1150)には忠通から摂関家の氏長者の地位を奪って頼長に与えるとともに、翌年には関白である忠通の地位はそのままに、頼長は鳥羽院から内覧の宣旨を獲得した。
 ところがその直後から頼長は鳥羽院の近臣や有力寺社との間にトラブルを連発して孤立して行くようになる。その最中に病弱であった近衛天皇が死亡すると、忠実・頼長父子が呪詛したためだとの噂が流れ、頼長は内覧の地位を停止された。そして、前述のように、崇徳の弟後白河が天皇に即位したため、崇徳が院政を行う可能性は失われた。こうして崇徳院と頼長が不満を持つ中、保元元年(1156)7月には鳥羽院が死亡した。
 最初の問題に戻ると、近衛天皇の死までは、鳥羽院・美福門院と崇徳院の間には大きな対立はなかった。崇徳の御願寺成勝寺にも庄園の寄進が行われていた。鳥羽院の乳母藤原家の夫であった藤原清隆も、崇徳即位の翌年にはその母待賢門院別当を務める一方、近衛が誕生して立太子されると妻家子は乳母と、自らは春宮亮となり、近衛が即位すると蔵人頭と任ぜられた。
 これを二股と評価する向きもあろうが、清隆にとっては矛盾ある選択ではなかった。清隆は平忠盛女子も妻としていたが、忠盛もまた待賢門院の別当を務めた経歴を持ち、その正室池の禅尼は崇徳の子重仁親王の乳母であった。家子を母とする清隆の嫡子光隆も一方では待賢門院の兄藤原実兼女子を妻としていた。 後白河の即位までは、鳥羽・美福門院と崇徳の対立は決定的なものではなく、崇徳も実子重仁の即位に伴う院政の実現を期待できる状況にあった。双方には対立のみならず利害を共通にする側面があったのである。以上の点を前提として以下では出雲守と隠岐守・石見守についてみていく。

崇徳院について1

 崇徳院と言えば、保元の乱(1156)で敗北して讃岐国へ配流となり、長寛二年(1164)に46才で讃岐国で死亡したことが知られている。また、安元三年(一一七七)に僧兵の嗷訴、平安京での火災、鹿ヶ谷の陰謀により社会不安が増大し、後白河院と藤原忠通の関係者が相次いで亡くなったため、怨霊対策として崇徳院御影堂や粟田宮社などが建立された。平安末期の出雲大社神主をめぐる対立では、国造側が内蔵(出雲)資忠が讃岐院宣により社務を押領したとして批判している。
 この崇徳院については父鳥羽院との関係が、早くから悪化していたとの説と、後白河天皇の即位の前後に悪化したとの説がある。前者に立てば、異母弟近衛天皇の即位(一一三九)以降、崇徳は無力であったことになるが、後者を採用すると、全く異なる結論が導き出される。後者に関連して、崇徳の子重仁親王は近衛天皇の生母美福門院の養子となっており、次代の天皇の最有力者であったという事実がある。これと鳥羽院が近衛天皇の系統に皇位と庄園を譲りたいとの意思があったことは矛盾しない。現実には近衛は病弱で後継者の誕生の可能性は低かった。ここからすると、前者は成り立たない気がするが、『松江市史』でこれについて述べた西田氏は前者の立場から記述している。内蔵資忠が讃岐院宣により押領しようとした時期も問題となるが、少なくとも退位した後のことであろう。無力であるなら、讃岐院と結んでも詮は無く、意味があったから結んだのであろう。
 崇徳天皇が御願寺成勝寺を建立したのは近衛天皇に譲位した年であった。この成勝寺領庄園のいくつかは寄進された時期が確認できる。時代順に記す。
 ①天養二年(1145)二月六日但馬国浅間寺(十八町六反) 上座法橋増仁寄進
 ②天養二年八月十八日 丹波国福貴御園 民部卿入道家寄進
 ③天養二年 出雲国揖屋庄              下野前司資憲朝臣寄進
 ④久安元年(1145)十一月月三日 信濃国広瀬庄 大仏師行智寄進
 ⑤同年十二月二十七日 山城国久世御園 右衛門督家寄進
    ※藤原家成 康治二年三月二五日から久安六年八月二五日まで
 ⑥同年十二月日 丹波国池上寺     阿闍梨寛季寄進
 ⑦久安二年一二月五日 阿波国法林寺    上座法橋増仁寄進
 ⑧久安六年(1150)三月二十六日 相模国国分寺 上座法橋増仁寄進
 ⑨仁平二年(1152)八月十五日 出雲国飯石庄  上座法橋増仁寄進
 ⑩仁平四年(1154)六月三日摂津国難波庄        阿闍梨教智寄進
  成勝寺領の庄園は小規模なものが中心であるが、建立直後だけでなく、その15年後までみられる。久安元年八月には母である待賢門院が死亡している。上西門院は後白河より1才年長で、太治元年(1126)に生まれ、保元三年に後白河の准母として立后し、翌年に院号を与えられて上西門院となった。そこに蔵人として仕えたのが13才の源頼朝であった。母待賢門院領は院が再興した法金剛院に付けられ、上西門院に譲られた。

2017年6月21日 (水)

元宗流勝部宿祢一族3

 こうした状況は承久の乱により大きく変化した。勝部宿祢一族の惣領であった助盛や塩冶郷政光の系統や、惟元から大原郡系の惣領の地位を継承した嫡子惟綱も没落した。それに替わって勝部宿祢一族の惣領となったのは惟綱の弟元綱であった。万田郷司明元の嫡子多久太郎明政も京方で討死したことが系図に記されている。明元流は万田庄(本庄・新庄)の継承を認められた。孝光系でも平田郷を支配した明広、法吉郷を支配した盛孝、光元が所領を没収され、乱後は東国御家人が地頭となっている。明広についてはその名前から明元の子で孝光のもとに婿養子に入ったのではないか。その他の三人はいずれも父孝光の一字を名前に付けている。
 これに対して資元流は多祢郷と西長田郷(本来は東長田郷とともに神門系ないしは仁多系の所領か)を確保しており、ダメージは少なかったと思われる。ただし、資元の養子に入った頼元の子建部七郎政元については、乱後に東国御家人桑原氏が入部している。一方惣領となった元綱の弟石坂兵衛入道貞元は父惟元から石坂郷を譲られていたのだろうが、京方により石坂郷には東国御家人恩田氏が入部した。系図に登場しない人物としては、大原郡の大西庄を支配する大西庄司が乱により没落している。その一族である大西二郎女子が、文永8年には意宇郡湯郷と拝志郷地頭としてみえるが、これは直前に内蔵孝元領が没収され、本領主の一族に返されたケースである。佐世郷地頭が湯左衛門四郎であるのは、湯郷が承元2年に孝元領にされたことに対して、湯氏(当初は惟元の子元綱ヵ)に大原郡系の本領である佐世郷の継承が認められたものである。乱後元綱が勝部宿祢一族全体の惣領となり朝山郷を支配すると、佐世郷は養子湯左衛門清綱に譲られた。文永8年の「湯左衛門四郎」は清綱の子であるが、その後、出雲国守護佐々木泰清の子頼清を婿養子に迎え、佐世郷・湯郷・拝志郷を譲ったことにより、勝部宿祢系湯氏から出雲佐々木氏系湯氏に交替した。
 以上、過去にも同様の分析をしたことがあるが、理解が深まった気がしたのでまとめてみた(後に一部修正した)。

元宗流勝部宿祢一族2

 建久2年から1名減少したのは「明元」と「孝光」の兄で、系図には「多祢庁事」と記される資元が死亡したことによるのではないか。系図には明元を「万田庁事」、孝光の子明広を「平田庁事」などと記すが、本来の「庁事」での使用とと「郷司」の意味での使用の両方のケースがあると思われる。勝部宿祢全体惣領の助盛は神門郡系ではあるが、その所領としては公領で最大の意宇郡出雲郷であったと思われる。
 以上からわかることは、勝部宿祢一族の中で、12世紀には神門郡系と大原郡系が中心であったことである。筆頭こそ神門郡系の孝盛と助盛であるが、建久2年には在庁官人勝部宿祢6名中4名を大原郡系が占めるなど、庶子であった大原郡系の台頭が顕著である。それは神門郡朝山郷、楯縫郡万田・多久・平田郷、島根郡長田西郷などを所領としていることからもうかがわれる。これに加えて建保2年7月25日には勝部四郎丸が島根郡と秋鹿郡にまたがる佐陀社の下司に補任されているが、この人物も大原郡系である。
 神門郡系は惣領の座は確保したが、治承・寿永の乱で没落したものがあった。一の谷合戦に参加した中で、勝部宿祢であると思われるのは多久七郎、浅山・木須幾・身白(三代)が一党、横田兵衛尉である。多久氏は神門郡系、横田氏は仁多郡系であるが、「浅山・木須幾・身白が一党」が問題である。神門郡系、大原郡系いずれの可能性もあるが、大原郡系であれば、平安末期にすでに朝山郷は大原郡系が支配していたことになる。系図では朝山庁事惟元の父は佐世庁事守安であり、惟元の時代=鎌倉初期からとなる。系図の記載を重視して、「浅山・木須幾・身白が一党」は神門郡系としておく。木須幾(木次)・身白(三代)は大原郡で佐世郷に隣接するが、そこにも勝部宿祢惣領である神門郡系が所領を有していたことになる。それが、治承・寿永の乱の結果、佐世郷司であった守安は朝山郷と佐陀社を継承して勢力を伸ばし、惟元は朝山郷・佐陀社等を継承した。

元宗流勝部宿祢一族1

 勝部宿祢一族については、「大伴系図」によりその具体的姿が明らかになったが、その一方では、これは元宗系勝部氏=大原郡系の系図であり、仁多郡系・神門郡系・飯石郡系の一族については、一部を除き12世紀以降の記載は無いのである。一部とは仁多郡系については久安元年の遷宮に関わった元宗と同世代と思われる「仁田権守重兼」まで記している。これに対して神門郡系と飯石郡系についてはその五代前(10世紀前半)までしか記されていない。
 久安元年の遷宮時には五人の庁事が確認でき、少なくとも筆頭の孝盛と五番目の元宗が勝部宿祢であったと思われるが、孝盛も系図にはみえない。後の勝部宿祢惣領が朝山氏を名乗っていることから、勝部宿祢一族の惣領は神門郡系であった可能性が高い。
 出雲国には12世紀半ばに8ヶ所の石清水八幡宮別宮があったが、勝部宿祢一族がその成立に深く関わっていると思われる。8ヶ所の内、公領の一部を割いて別宮領としたのが、日蔵別宮・新松別宮・白上別宮・大田別宮である。日蔵別宮は飯石郡多祢郷と、新松別宮は神門郡朝山郷と、白上別宮は大原郡佐世郷と、大田別宮は神門郡塩冶郷と深い関わりを持っている。
 残りの4ヶ所の内、横田別宮も勝部宿祢一族が寄進の中心であった可能性が大きい。一の谷合戦に参加し没落したのは「横田兵衛尉惟澄」ないしは「惟行」であった。その跡の継承を認められたのは同族の三処長綱であり、その子として景長・実綱・実直がみえる。いずれも勝部宿祢一族によくみられる「惟」「綱」「景」「長」をその名に付けている。最大規模の能義郡安田別宮については関係史料を欠き不明である。意宇郡平浜別宮と飯石郡赤穴別宮については庄官ないしは祭祀にあたる惣検校が「紀姓」であり、石清水八幡宮の関係者が派遣された可能性が大きい。以上のように、大伴系図の4系統に対応する形で勝部宿祢が勢力を拡大していたことが確認できる。
 これに対して、治承・寿永の乱後の出雲国衙では在庁官人等解により12名の有力在庁官人が確認できる。筆頭の庁事が5名、大判官代が1名、その他が6名である。勝部宿祢は最多の6名を占めるが、庁事は序列順に勝部宿祢1・中原朝臣2・藤原朝臣1・出雲宿祢1である。3年後の建久5年の解状は10名が連署しているが、名前が記され、裏書きにはどこの郷を支配していたかが記されている。2名減は勝部宿祢1・出雲宿祢1である。在庁官人筆頭は「勝部宿祢助盛」であるが、なぜか裏書には一人だけ所領が記されていない。「盛」の共通性から、久安元年遷宮時の庁事筆頭孝盛の関係者で、神門郡系である可能性が高い。序列7番目の「勝部宿祢政光」には「塩冶郷」と記され、これも神門郡系であろう。6番目の(惣大判官代)「明元」、7番目の「孝光」、10番目の「惟元」については大原郡系で大伴氏系図に記されている。惟元の所領は「朝山郷」であり、大原郡系の惣領であったと思われるが、明元と孝光の甥にあたるため、序列は最後となっている。

2017年6月19日 (月)

PCの近況2

 そして必ずしなければいけないおまじないが、タッチパッドでタップを不可とすることである。H8230のサイトからドライバーをダウンロードして、インストール。そして再起動後にタップは無効の設定をすれば、きわめてよい道具となった。この原稿もH8230で入力した。以前も述べたが、H8260も7から10へアップするか、8.1からアップするかで違いがあった。どちらかは忘れたが、一方では起動時にエラーが出て使えなかったが、もう一方では問題なく、現在はSDDに10をインストールして使用できている。これも久しぶりに使うと、ややキーボードのストロークが大きいが、これはこれでやはり良い。普段はデスクトップでロジクールのK810キーボードを使用。これは大変よいのでに2台利用しているがこちらはストロークは比較すると浅く、気分良く入力できる。
 レノボR61Eもビスタから7に変えた。こちらはクリーンインストールでプロ版を入れた。全体としてもっさりしているのでSATAを高速化するドライバーを導入したい。当初はセレロンでWXGA、有線LAN、HDD80Gだったのを、CoreDuo2、R61用の高解像度液晶、無線LAN、HDD160Gに変更した。チップセットが965の前期版であったのが惜しかった。こちらも一太郎2015プレミアムとオフィス2007プロをインストールした。最初にオフィス2016をインストールしたが、認証ができないので変更した。あとはSATAの高速化で効果があれば、近い将来にSDDに換装したい。キーボードに期待して購入したが、どうも今ひとつではある。シンクパッドは二台目だが、前もそうであった。高級機種を買えば違うのかもしれないが、そこまでの必要性は感じない。こちらもタップの無効化は必須である(インストール後、記事に加筆予定)。
  導入したのはドライバーではなく高速対応バイオスであった(レノボの提供ではないので自己責任)。導入後HDDのスピードを計測したが、今一で、H8230を計測したらはるかに早い。こちらは古くSATA150なので遅いはずと思い、ハード情報表示ソフトで確認したら、TCLタイプのSDDが入っていた。以前2個購入した内の一つをこれに入れたが、うまくいかず放置していたのであろうか。どおりでスムーズと納得。一方のレノボはSATA300に対応したはずなのだが、いかんせんHDDそのものが遅いのだろう。ただし、導入前ほどもっさりとはしていないので、当分これで使用する。情報をよく読むと、バイオスの変更により、換装ができなかった新しいタイプのCPUにも対応したようだ。折りに見てT9500等のCPUとSDDの換装にチャレンジすることとする。ただし、SDDにするとXPの使用はしない方が良いということになる。今の内に試してみるか。間をとってハイブリッドHDDもありか(加筆部分はシンクパッドで入力)。

PCの近況

 パソコンについても、使用できるものとしないものに分ける必要がある。ネットを前提とすると、現時点ではウィンドウズ7以降が必須である。ビスタで起動すると、サポートが終了したとの警告が出、サポートするインターネットエクスプローラーにも制限が加わる。ネットにつながなければXPで十分であり、XP専用機も別に設定する予定。以前のソフトを使いたいため。
 中古機をオークションで集めかなりの台数所有するが、その選択のポイントは画面とキーボードである。VGA画面も年齢が上がった身にはありがたい面があるが、高解像度のPCなら必要に応じて使い分けることができる。外付けでは27インチの4Kモニターも使用しているが、普段は電源を入れず、3モニター(WUXGA,WQXGA,4K)が必要な場合に使う。いわば第三の男である。最近はさらに高解像度なノートもあるが、コストがかかるし、外付けで代替できるのでFHDでとどめている。ただし、WUXGAより縦120ドット少ない。
 WUXGAのノートで古いものはFMVのH8230である。H8260も所有し、こちらが問題なければ出番が少ないが、不注意で落下させたら、画面が表示されなくなったので、こちらは液晶を取り外し、デスクトップPCとして利用している。VGAポートとUSBのアダプターを使えば、2画面(WUXGAとFHD)が容易に実現ずる。H8230は11年前の機種で実際には思い出した際にのみ利用していたが、元々は高級機種で、独立したビデオカードを搭載し、キーボードも秀逸である。ただし、H8260以上に熱を持ち、ファンがうるさい。
 富士通が正式サポ-トしているXPとVISTAのデュアルブートで利用していたが、悩ましかったのは、SDDを利用するには7以降でなければ対応していない点であった。SLCタイプなら問題ないが、現在のMLC、TLCでは書き込みの問題があるそうだ。その後の記憶はないのだが、久しぶりに起動したところ、なぜか7と8.1がインストールされていた。そして前者はエラーが出てしまい、後者はものすごく遅くて使い物にならないのである。すでに述べたSDD対応のためであったのだろう。
 とりあえず7ということで、再度インストールするが、やはり起動時にエラーが出る。そこでクリーンインストールではなくVISTAからアップグレートする方法をとったところ、問題なく起動した。所持するライセンスの関係でこちらはホームプレミアム版である。とりあえず、一太郎2015プレミアムとオフィス2010プロをインストールした。起動も早く、これならとりあえずSDDは必要ない。本来HDDは80Gだが、前回の無謀なインストールの際に、320Gで7200回転のものに交換していた(これは誤りで240GのSDDであった)。

2017年6月17日 (土)

建久五年在庁官人等解3

 造営旧記には康治元年(一一四二)の仮殿遷宮時に兼忠の弟兼成と子顕兼がみえる。これとさきほどの想定を併せると、兼経は兼忠の嫡孫(顕兼の嫡子)の可能性が高い。以上のように登場人物の生年などを想定しつつ考えると、宗孝は兼宗と国経女子の間に生まれた女子と結婚したことで、兼経死亡時に初めて国造職に補任された。その背景には宗孝の一族の経済力があり、杵築大社領出西郷は国司による寄進ではなく、宗孝の一族が開発したものであった。とはいえ、兼経の子石王冠者からすれば、自らが「兼」をその名に付ける国造家の代表であり、宗孝は女婿に過ぎないことになる。孝房の子孝綱はライバルとなった在庁官人中原頼辰の子孝高は国造の外戚に過ぎないと批判したが、実は「孝」をその名前に付ける系統の初代宗孝も同様であった。その宗孝の立場を正当化するのも、建久五年の解状が国造義孝の時代に作成された背景であった。
 現在、女系天皇には反対だとの意見を言う人があるが、日本の天皇は男系が続いて来たのが他国にない独自の点だというが、そもそも「男系」「女系」の区別が無意味なのである。その意味で宗孝が娘婿であろうと良い悪いの問題ではない。戦国期の千家国造の継承をみてもいくらでもあるのである。養子として後継したのは大昔に分かれた家だが男系だという人があるかもしれないが、ちょっと考えるとナンセンスである。好き嫌いは好みの問題でしょうがないが、良い悪いという問題ではない。現在のようにDNA鑑定があるわけでもないのである。
 孝綱の子とされる経孝を神主に補任する幕府文書も後に作成されたように、国造家内部での国造をめぐる争いも続いていた。国造孝綱は建保七年(一二一九)の時点で、弟政孝に国造職と惣検校職を去渡した形になっているが、これも後に作成されたものであり、実際に政孝が国造となったのは嘉禄二年(一二二六)のことで、その時点で相当の年齢だった政孝は家譜によると在職六年という短期間で寛喜三年(一二三一)には嫡子義孝に代わっている。政孝が一躍表舞台に登場したのは、杵築大社の仮殿造営が進まない中、造営旧記を所持していたことであった。この旧記は建久二年の国造孝房と内蔵資忠の神主職をめぐる裁判の証拠資料として写されたものであった。その裁判は源頼朝と領家藤原光隆の関係を背景とする資忠が勝利したが、その旧記が後々ものを言ったのである。
 最後に付け加えると建久五年の解状は内容の問題は言うまでもなく建久二年の解状と比較して形式に問題があり、署判者の称号の違いもみられる。建久二年の在庁官人は庁事五人と大判官代七名であるが、建久五年は庁事五名は共通だが、惣大判官代四名と大判官代一名である。貴重な史料ではあるが要検討文書である。

建久五年在庁官人等解2

  孝房が国造に補任されたのは事実であろうが、それに対して兼経の子石王冠者が異論を唱えたのである。父兼経の死から十八年が経過しており、その遺児も元服をして石王冠者と名乗り、国造職への補任を求めたのである。これに対して解状では石王冠者が証文を全く持たず、国造も四〇余代改易による交替がない職だとして正当性を主張する。実際には父兼経が国造職に補任されており、「証文を持たずに」と「改易がない」というのは事実に反することであった。一方で、神主職についても言及しているのは、この解状が作成された時点で、神主職をめぐる対立があったからである。
  解状には明記されてはいないが、二〇〇四年の論文では兼経を宗房の嫡子兼家の子であると推定した。今回改めて考えて、この部分は神主をめぐる対立で勝利した兼忠の正当性を主張するためであり、兼経は兼忠の子ないしは孫ではなかろうか。兼経の子が幼少であったため宗孝が継承するのも、宗房が死亡した際と同じ対応が取られたことになる。
  ここからは建久二年の在庁官人等解状を併せて考える。そこには孝房からみて、「曾祖父国経」「祖父兼宗」「伯父兼忠」と記している。国経は家譜では頼兼の前任国造で、当時は国明ー国経と「国」を名前に付ける一族が連続して国造となった。これに対して頼兼は同族であるが国経の兄弟や子ではないと思われる。国造の継承も親子に限らず、兄弟や一族の中から選ばれていた。家譜では国経が頼兼に国造を交替したのは延久四年(一〇七二)と記され、少なくとも国経の子はこの年までに生まれていたことになるが、国造は頼兼の系統へ移った。孝房が曾祖父とする国経と祖父とする兼宗はその名前からみても親子ではないので、国経女子と兼宗の間に生まれた子が孝房の父ないしは母である。宗孝が兼忠の年の離れた弟である可能性もゼロではないが、やはり名前に共通点がないため、兼忠の年の離れた妹と結婚したのが宗孝で、その間に生まれたのが孝房となる。仮に国経女子を一〇七〇年の生まれとすると、国経の孫女子は一一一〇以前には生まれた可能性が高い。その結婚相手である宗孝も同様である。一一一〇年の生まれとすると、兼忠から兼経に国造が交替した一一六八には五九才、兼経が死亡した一一七六年には六八才となり、かなり高齢である。宗孝が十年しか国造を務められなかったのはそのためであろう。その子孝房も一一四〇年頃の生まれとすると、父が死亡した時点では四七才。石王冠者が建久五年以前に国造職を望んでいることから、石王冠者を父兼経の死亡の前年一一七五年頃の生まれと、兼経を一一五〇年頃の生まれと想定できる。

建久五年在庁官人等解1

 これについては国造宗孝との関係で何度か述べてきたが、少し理解が進んだので以下に述べる。この解状は出雲国在庁官人に関する重要な資料であるが、一方では後に作成されたものだということを忘れてはならない。
  何のため、いつ作成されたかというと、出雲氏内部での国造職をめぐる対立で、勝利者となった家を正当化するためである。その時の訴訟ではなく、今後に備えてのもので、作成時期は弘安四年に国造義孝が神主兼国造でなければ杵築大社造営と遷宮はうまくいかないことを過去の事例から主張した際に作成されたものである。もとよりその内容には意図的誤りが含まれている。
  建久五年当時、出雲孝房と石王冠者の間で国造の地位をめぐる対立があった。その当時もこのような解状が作成されたかもしれないが、内容は国造が神主をめぐる対立で優位に立った時点で作成された。神主と国造は本来別物であるが、それを神主に国造が付くべきものとしている。
  解状では孝房の父宗孝について述べている。出雲兼忠の嫡子として神主職と国造職を相続したとするが、本来は神主だけでなく、国造も相伝する対象ではない。国造は出雲国守が、神主は領家が補任するものである。
  そして兼忠の正当性を説く。出雲頼兼が国造職を嫡子宗房に譲ったが、一年で死亡し、その嫡子=後の兼家が幼少であったため、弟の兼宗が相続した。その嫡子が兼忠であると。兼忠は久安の遷宮時の国造であり、その後、杵築大社領が成立すると、内蔵忠光と神主職をめぐり対立し、建久二年の在庁官人等解状によると、忠光を追放し、神主職に補任されたとしている。
 ここからが問題で、孝宗は兼忠から神主・国造職を譲られたが、国造職については留守所に働きかけ、石王冠者の父出雲兼経が補任されたとする。その時期について、関連する偽文書である安元二年の国司庁宣では「平治の頃」というあいまいな表現をしているが、家譜では兼忠は仁安三年まで国造の地位にあったとしており、明確に矛盾している。
  その後、安元二年に兼経が死亡したため、神主である宗孝が国造職に復帰したとするが、実はこの時点で宗孝が初めて国造職に補任されたのである。一つには兼経の子がまだ幼少で国造に補任できなかったためで、国造職をめぐる争奪戦に宗孝が勝利したのである。ただし、宗孝はその時点では五十才を超えた年齢であり、十年後の文治二年には死亡し、嫡子孝房が相続した。ただし、孝房を国造職に補任する国司庁宣は文治元年十一月となっている。これは『吾妻鏡』の記事で翌年五月に出雲孝房に替えて同=出雲資忠を惣検校に補任したとの記事があるからで、当然その前に孝房が国造と神主に補任されていなければならない

2017年6月14日 (水)

資料の作成と廃棄

 現在も行政で作成された文書が公文書かどうかや、公文書の廃棄の是非が問題になっている。はっきりしていることは日本における公文書の扱いが遅れていることである。米公文書館(2720人)と日本の国立公文書館(47人)の人員は54対1である。英は600人、仏は570人、独は790人、お隣韓国でも340人である(国立公文書館の機能・施設の在り方に関する提言、平成27年3月、内閣府設置の調査検討会議報告)。以下に政治家の見識が低いかを示している。日米関係の公文書が明らかになるのはほとんどが、米で非公開期間の過ぎて公開された文書を日本の研究者が閲覧してであるが、日本政府は公開しないよう要請しているというから、あきれてしまう。真の意味での民主主義・国民主権を理解していなければ政治家として要件を欠いているのに、首相以下大半が無免許運転なのである。
  このブログでは、過去の歴史について後になって作成された資料(整理したものと偽作したものがある)や廃棄されて残らなかった資料について述べている。後者についても様々な方面から接近しそれを復元しようとしている。中世前期の杵築大社解明の重要資料として「治暦・永久旧記」がある。過去の情報を建久二年に整理したものであるが、意図的に建久元年の遷宮に至る経過の部分は写していない。造営はライバルである内蔵資忠(なぜか国造家の史料では中原となり、研究者もそれを確認せず利用していたが、出雲氏である)が中心となって行われた。その部分は残したくないので廃棄したのである。
 弘安四年に作成された出雲義孝による大社造営之次第注進状も、なぜか原本は残っていない。写しが「千家古文書写乙」(前半部分)と「千家家譜旧記写」(後半部分)としてバラバラに残された。国造家がライバルを蹴落として勝利したために重要性が低下したこともあるし、後のデータを加えて新たな別資料が作成されたこともあったのかもしれない。二〇〇四年に両者が一体のものであることを論文で明らかにするまでは、誰も気づかなかったのも不可思議である。そういう視点から資料を見ることがなかったのであろう。前述の旧記についても作成時期と意図に気づいた人はいなかった。そうした状況で文書を解釈するのでは、真実に接近することは困難である。
  文永八年の杵築大社三月会頭役結番帳も、なぜか前欠である。佐草家に写しが残っているので、前欠部分の復元は可能だが、三月会の重要性が低下したこととともに、実際の運用はうまくいかず、有力社家領が頭役負担を拒否して、早々と二十番編成だったのを十九番編成に修正しなければならなかったこともその一因だろう。
  建武三年頃作成された出雲孝時申状(あるいはその判決文も)も廃棄されたが、近世の佐草自清によってその大部分が写され、なんとか利用が可能となった。自清は千家国造家の出で、北島国造方上官である佐草家に養子に入った人物である。そこで証拠として提出されていながら残されていない文書も多い。正和三年八月二十七日関東下知状では裁判となっていた神主職と社領の内、前者については国造側が勝訴したものでありながら残されていない。残したくない内容が含まれていたのだろう。
  鰐淵寺文書に残る「杵築大社旧記御遷宮次第」も大社側に残っていた史料に基づき作成されたものであろうが、大社側は残さなかった。雲樹寺との関係で神宮寺が設けられた関係資料も雲樹寺側にその写しの一部が残されたが、大社側は廃棄してしまった。「あったはずのものがないことにされてしまった」のである。
  以上のように歴史を研究する際には、単に現在残っている資料の表面をなぞることに終始してしまうと、結果として歴史を偽造してしまうことがあり、専門家としての力量が試される。

千家家譜から

 これまで「北島家譜」を引用することが多かったが、当然「千家家譜」も作成され、これも東大史料編纂所に謄写本があり、閲覧可能である。一つの記事を紹介する。
  尼子経久による杵築大社の神仏習合の強化を記したものとして、『懐橘談』中の「国造雅孝記」を引用した一文がある。
  尼子経久に仕える明星客院という祈祷師が両部神道を勧め、大永四年には大日堂を建立し、大永七年には三重塔を建立した。次いで天文六年には輪蔵を建立してその中に一切経を収め、永正七年の造営時には伯耆国より鐘を買い取りて寄付したとする。尼子経久の娘婿であった北島国造雅孝は仏教的要素に抵抗はあったが「国主の旨そむきがたき故」と答えたという。ただし、輪蔵については「杵築大社旧記御遷宮次第」(鰐淵寺文書)が記す天文八年造営開始、九年完成が正しいと思われる。天文六年に大社造営が開始されたが本願の死亡で中断していた。
  千家家譜には「家記」から寛文七年に大社本願寺を破却したとしてそれに至る経過を引用している。明星客院が勧めたという点は同じである。それに続けて大永四年に大社域内に初めて大日堂を建立し、同七年には三重塔を建立。ついで天文九年に輪蔵を建立したとするが、その際に国造豊俊(これも娘婿か、ただし千家家譜によるとその時点の国造は豊俊の甥である高勝である)が神代以来の社法を以て尼子氏に訴えたが、経久は武威を示して強いて塔堂を建てたため、それ以降僧侶が武威を借りて私意を逞しくし社内で誦経することとなったと記す。これを信じるとすれば、神宮寺は南北朝期の国造清孝の時代からあったが、「大社域内」が問題であったことになる。とはいえ「域内」とは狭い意味で、現在の千家・北島両国造の屋敷がある場所は「域外」となろう。寛文七年には往古の如く正殿式造営となり塔堂を廃して本願を滅したと記す。
 ちなみに、『懐橘談』では両国造の分立について北島方の主張(どう評価するかはそれそれであり両者とも幕府から認められたが、事実としてはこちらが正しい)に基づいて書いたため、千家方から抗議をされたようで、「千家家譜」には著者黒沢石斎からの詫び状が掲載されている、事実関係に触れることなくとにかく謝っている。

2017年6月13日 (火)

尼覚日をめぐって

 覚日は国造泰孝の妻で、夫の死後は「後家」として決定権を委ねられた女性であるが、その父は一般的には出雲国守護佐々木貞清だとされ、2004年の論文でもそれに基づき分析を加えた。泰孝の父義孝の名は佐々木義清ないしはその子で出雲国守護を相続した政義との関係であろう。これに対して佐々木泰清は当初は父義清から隠岐国守護を相続していたが、兄政義の無断出家により、出雲国守護をも併せた。守護として初めて出雲国に長期に亘って滞在し、その支配の基礎を確立した。
  国造義孝の花押も当初のものから泰清の花押に近い形ものに変化している。そして義孝の嫡子泰孝の名は泰清にちなむものであろう。泰清の子で塩冶郷を譲られ、出雲国守護にもなった頼泰については、鰐淵寺への寄進状や伝達文書が残っているが、その実像には不明な点が多い。頼泰の嫡子貞清の名は父ではなく祖父泰清と得宗北条貞時にちなむものであろう。泰清と国造義孝はその活動期間から同世代の人物とみられる。国造泰孝も頼泰と同世代の人物と思われる。それが覚日が貞清の子とすると、国造泰孝との間には2世代の差が生まれていまい、これはいくらなんでも大きすぎる。覚日は頼泰の子で貞清の兄弟とすべきであろう。 そうすると、覚日は泰孝の子孝時と同世代となる。『日本系図大観』の佐々木氏系図では頼泰女子について「尼覚日」「第53代出雲国造泰孝室」としており、当方が未見の系図にはそう記しているものがあるのだろう。
  泰孝はその死に際し、孝時に国造・神主職と杵築大社領を譲ったが一期分であり、その後は覚日が孝時か福得かいずれの子孫に譲ることを委ねた。覚日の実子福得が当時元服前であったための措置であった。福得は成人して孝景と名乗った。これに対して、泰孝の子で庶子とされた五郎は貞孝で、孝時・孝景とは「孝」の位置が異なっている。貞孝は父の死亡時にはすでに元服をしていた。
  さて問題は、孝時・貞孝・孝景の名は誰にちなむものかということである。後継者の候補である孝時と孝景の名からは守護佐々木貞清との関係がみられない。一方、「貞孝」の名は貞清と関係するかもしれない。孝時と孝景は在庁官人筆頭の朝山氏にちなむのではないか。守護泰清の時代には在国司朝山昌綱がいたが、昌綱の嫡子は時綱であり、嫡孫は景綱である。貞清は晩年には近江佐々木氏のアイデンティティーである「近江守」に補任されており、出雲国内よりは六波羅探題など京都での活動が中心であったのであろうか。
  一期分とされた孝時は自らの後継者を一旦は三郎清孝としたが、後にこれを悔い返して六郎貞孝とした。叔父に五郎貞孝がいたにもかかわらず同名にしたのは出雲国守護塩冶高貞との関係しかありえない。ただし、泰孝の後家であった覚日の助言を受けて、清孝の一期分としての相続は認めた。前代と同じように、三郎清孝と六郎貞孝が後継者候補であり、五郎孝宗は庶子であった。建武二年時点の「あかこまろ」は翌三年には「六郎貞孝」として軍忠状を提出しており、元服間際であった。この点と孝時の死が迫っていたために、問題のあった清孝に替えて貞孝に譲るという判断が一旦は下されたのであろう
  後継者決定権を委ねられた覚日は、自らの子孝景ではなく、孝時の子を国造・神主の後継者とし、これ以上の混乱を避けた。そのために自らの所領を孝景に譲り、守護塩冶高貞に協力を求めたが、高貞は日野掃部左衛門入道と一族の富田弥六入道(富田義泰の庶子頼秀)に対して、孝景以下の輩が異論を申した場合は急いで注進せよと命じた。父の死からまもなく30年で子を持っていた可能性の高い孝景からすれば異論があったであろう。

2017年6月10日 (土)

船村徹氏遠行す2

 船村作品の一部しか知らないが、吉田旺作詞、舟木一夫唄の「津和野川」も逃避した男女を男性側から描いている。周りの情景を描くことで男女の気持ちを描いている。吉田旺と言えばちあきなおみのデビューから最後まで様々な作品を書いているが、船村・舟木と組んで12ヶ月の男女の愛をアルバム「暦」(2017年11月に再発売予定)にまとめている。ちあきなおみのカバー曲で大変コアなファンに人気のある「居酒屋「津軽」」も吉田旺の作品。当方はこの曲も細川たかしのアルバムではじめて聴いた。細川が「矢切の渡し」でレコード大賞を受賞した1980年代半ばか(1986年の「哀愁の船村メロディー こころの唄」)。吉田には「冬隣」(すぎもとまさと)「立待岬」(浜圭介曲、森昌子唄)「東京砂漠」(内山田洋曲、クールファイブ唄)「恋文」(佐藤勝曲、由紀さおり唄)などもあり、ちあきの吉田作品のカバーアルバム「三分劇」でオリジナルとは全く違う編曲となっている。
 話は次々と拡散していくが、船村メロディーは限りなく間口が広い。日本初のロックとされる小林旭「ダイナマイトが150トン」(関沢新一作詞、舟木一夫「銭形平次」が有名か)、限りなくしっとりした島和彦「雨の夜あなたは帰る」(吉岡治作詞)などもある。美空ひばりの曲にも定番があるが「坊やの終列車」なども船村本人は好んでいたようだ。今日もネットを検索して1968年の「スナッキーで踊ろう」(三浦康照作詞)という作品を知った。三浦康照氏も初めて聞いた名前だが、昨年12月に90才で亡くなっていた。シャンソン歌手森サカエ「空」(星野哲郎作詞)「北窓」(水木れいじ作詞)も独特の世界を表現している。
 船村氏の作品でどうして忘れてはいけないのが本人がメインで唄った作品であろう。「母のいない故郷」「海のにおいのおかあさん」「都の雨に」、前述の「居酒屋「津軽」」などであろう。いろいろ述べたが、代表作を選ぶことができないほど守備範囲の広い作曲家であるが、最初に述べたように、その核は新しい=オリジナルな曲の作成であったろう。自分が選ぶベスト10の中で何曲も触れられなかったありさまである。どれが本領とはいえないが、晩年は墨絵の世界のような作品を作ろうとしていたが、そのジャンルの最高の役者であるちあきなおみが歌手活動を停止したことは、やむを得ないとはいえ、痛恨の極みであったろう。「夕笛」(西条八十作詞、西条には市川昭介作曲の「絶唱」もあるが、こちらら曲が先行、夕笛は詞が先行だという)をオリジナルの舟木とちあきで聞けばその墨絵の世界の一端はうかがえるが、舟木も1980年代以降は本来の豊かな声が出なくなってしまい、その後継となる歌手も現れなかった。とりあえず個々の作品の作者はネットで確認した。
訂正:「かもめの街」はちあき哲也の作詞で、吉田旺の作品としたのは記憶違いだった。また、舟木のアルバム「暦」はすべて吉田旺作詞であるが、船村の作曲は12曲中3曲のみ。

船村徹氏遠行す

 作曲家船村徹氏が2月に84才で亡くなった。昨年に手術を経験し、その後の文化勲章受章だったが、受賞後4ヶ月で「遠行」した事になる。「遠行」とは仏教用語で、石見銀山の開発を述べた銀山旧記でも使われている。これをみた近世史家(鉱山が専門)は銀山の技術を大工が但馬国生野銀山に伝えたとの珍解釈をしてしまった。小学生の頃、船村氏と囲碁棋士藤沢秀行氏に関心を持ったが、両者に共通するのは「独創性の追究」であろうか。
 4月には五木ひろし「男の友情」「わすれ宿」が発売になった。船村作品を今後も唄って後世に伝えるとの意図という。前者は有名なので、後者に関して勝手な妄想を述べたい。
 「かくれ宿」について船村氏は作詞家中山大三郎氏の置き土産と述べていた。この作品は細川たかしのアルバムで初めて聞いたが、中山氏は2005年に64才で死亡している。もっとも有名な曲は「人生いろいろ」であろうか。
 どのような経歴かと思って調べてみると、作詞家星野哲郎氏の弟子となり、その後、作詞・作曲家となったとある。「人生いろいろ」は浜口庫之助作曲とあるが、「珍島物語」は作詞・作曲の両方を行っている。浜口庫之助と中山の師星野哲郎と言えば「黄色いサクランボ」がある。子どもの頃ドリフターズの全員集合で聞いた覚えがあるが、昭和30年代前半の、星野の初期の作品である。今聞いてもまったく古さを感じさせない。「かくれ宿」は中山の代表作とまではなっていないが、五木ひろしも1979年のアルバムに入れたことがあり、瀬川瑛子がシングルを発売し、船村の弟子鳥羽一郎もシングルのB面に入れたことがあった。中山・船村コンビの作品としては船村と同郷である栃木県出身の森昌子「寒椿」がある。
 前置きが長くなったが、ここでは「わすれ宿」の詞に注目したい。歌謡曲では男女の愛が最も取り上げられるテーマであるが、「許されない恋」も多い。この曲では女性に語らせている。このジャンルの船村メロディの代表作といえば「女の宿」(星野哲郎詞、大下八郎唄)であるが、こちらは男女いずれの立場ではなく、第三者の眼から両方を描いている。船村・星野・大下と言えば「なみだの宿」もある。作詞は女性となっており、一説には星野の妻あけみの作品ともされたが、実際は星野自身の作だという。こちらは女性の立場から述べている。知名度は劣るが、船村氏やカバーしたちあきなおみのファンからすると、「なみだの宿」は「おんなの宿」以上の評価を受けている。自分も船村メロディのベスト10(具体的に考えたこともないし、とても決められないのだが)に必ず入れる作品である。

あちら立てればこちら立たず

  これまで一太郎で文書作成を行ってきたが、後の処理を考えるとワードの方が汎用性が高い。ただしワードは縦書きで複数ページを表示すると、横書きと同様左が先で右が後に表示されて使いにくい。これをとりあえず解決する方法はネットで公開されており、表示フォントにアラビア語を加えると日本語の縦書きと同様に左右に表示してくれる。ただし、すでに縦書きで作成されたものについては良いが、新規作成すると入力した文字が右下から表示され、全く使えない。
 ということで横書きの文書はワードパッドで入力することにした。保存はリッチテキストの形式が標準で、テキスト形式も選択可能である。とりあえずリッチテキストでワードでも読むことができるので、その後ワード形式でも、テキスト形式でも、さらには2007以前のバージョンなら一太郎形式の読み書きも可能である。ただし、2010以降は一太郎からシェアを奪う必要性が無くなったのか、読み書きはできなくなった。一太郎で作成したものは、一太郎の側でワードの2003までの形式に保存するか、ワード2007で変換するしかない。ただし、一太郎で変換をするとファイルサイズが大変大きくなってしまう。それをワード2007以降で読み込み、2007年以降の形式で保存すると大変コンパクトになる。
 オフィスのフォーマットが変更された際に、2003以前でも新フォーマットが読めるようなコンバーターがネット上でマイクロソフトから提供されたが、その文書に変更を加え保存すると、一気にファイルサイズが大きくなったことを思い出す。一太郎は不要かというと、当然のごとく日本語変換はATOKでなければ使い物にならない。ただし、今後はATOKはパスポートで使い、一太郎はたまにバージョンアップしたい。2011以降は毎年アップしてきたが、パスポートならマックを含めて10台のPCにインストールできる。オフィスも365も個人版は2台だが、ビジネス版なら5台までインストールできるそうだ。
 一太郎と花子を併せて使うと、比較的簡単に画像(読み込んだファイルの配置は一太郎より花子の方が柔軟にできる)や系図・地図(ともに花子で作成)を組み込んだ文書が作成できる。それをPDFにすれば印刷業者や他者にも渡すことが可能である。ただし、印刷業者がそれを修正しつつ業界のフォーマットにするのは大変か。今回の「芸石政治史」の論文ではそれで行ったが、業者がファイルを読み込めず、入力したがために誤植となった部分があった。
 そうならないためには業者にはインデザインかワードでファイルを渡す必要がある。インデザインについては、『よくわかるindesignの教科書』を読了後ストップしているが、CS6バージョンでマスターして、それを最新のCCバージョンで応用できればよいか。ただし、業者は最新バージョンに対応していない場合があり、現時点ではCS6で作成するのが無難である。最新バージョンの解説本はネットでPDFをダウンロードする形で入手したが、そこでようやく「インデザインは脚注はできても後注には対応していない」ことを知って愕然としたが、ネットで観ると実質的に後注に印刷する事が可能なようだ。ワード、一太郎ともに後注が可能だが、ワードならそのファイルをインデザインで使用することができる。これもすべてはワードが標準で、一太郎は年配の人中心のマイナーな存在となったからであろう。この文はワードパッドで作成した。

国造政孝譲状について

 二〇〇四年の論文では元暦二の国造宗孝譲状は偽文書とし、弘長二年の義孝譲状は正しいものとしたが、その間にある孝房譲状、孝綱去与状、政孝譲状についてはあいまいにしていた。今回はそれに案を提示することとなる。
 問題となるのは国造職のみならず杵築大社惣検校職も譲られたり、去り与えられていることである。義孝譲状も同様だが、弘長二年段階では領家の実質的不在の中、国造側が惣検校職だけでなく権検校職を含めて安定的に確保できる状態が生まれており問題はない。ところが建久五年と建保七年段階では惣検校(神主)は国造孝房と国造孝綱ではなく、それぞれ内蔵資忠と中原孝高であった可能性が高い。内蔵資忠は建久元年の遷宮が終了すると惣検校に復帰し、それに対して国造孝房が在庁官人と結んで惣検校を望んだが、建久三年七月にも資忠が領家から補任されている。資忠は源頼朝との関係を有し、頼朝は領家藤原光隆との関係を有していた。それを背景に、頼朝が光隆に資忠の惣検校補任を働きかけ、実現していた。頼朝は正治元年(一一九九)、光隆は建仁元年(一二〇一)に死亡しているが、そのもとでの国造の惣検校復帰は困難であった。孝綱の惣検校復帰が確認できるのは承元二年であり、この年には資忠の子孝元がこれまた幕府の推薦を受けて領家から権検校に補任されている。これは資忠の死にともなう変更であると思われる。領家と幕府は国造孝綱の請文に基づき惣検校に補任する一方で、惣検校の権限を分割する権検校を新設して、これに孝元を補任したのであろう。幕府はそれと同時に孝元を出雲国内数カ所の地頭にも補任している。これまた任命権者への働きかけ、同意を得てのものであろう。これを可能にしたのが後鳥羽上皇と幕府将軍源実朝の関係であった。
 それでは寛喜三年(一二三一)の政孝譲状はどうであろうか。この前後の惣検校については嘉禄元年(一二二五)と二年に国造政孝が惣検校に補任されているが、天福元年(一二三三)までには政孝のもとで権検校であった出雲実高が惣検校に補任されていた。それはこの年に実高が刃傷の狼藉を起こしたため、惣検校が内蔵孝元に交代していることからわかる。
 この間の経過については、建治二年の領家下文で、嘉禄造営時に造営旧記がないために仮殿造営が遅れていたのに対して、政孝が旧記を所持しているとして惣検校補任を求め、領家が旧記を国造以外が所持することを禁じた上で政孝を惣検校に補任したと記されている。嘉禄の仮殿造営については顛倒の時期を含め混乱しているが、その背景に造営の遅れがあった。それが軌道に乗ったことが確認できるのは嘉禄二年三月の「御仮殿木作神事次第」からで、嘉禄三年七月には仮殿遷宮が完了した。次いで寛喜元年一一月から正殿造営が開始されたが、これまた当初は進まず、嘉禎二年(一二三六)二月以降軌道に乗っている。寛喜元年七月には出雲実高が権検校に補任されており、この時点では国造政孝が惣検校であり、そのもとで造営が開始されたが、間もなく惣検校は出雲実高に交代したと思われる。
 寛喜三年三月二十五日の時点では政孝は惣検校ではなかった可能性が大である。仮にあったとしても安定的に確保できておらず、この時点で子義孝への譲状に「惣検校職」が記されていることは大きな問題である。また、義孝譲状と比較すれば明白であるが「可早知行‥‥事」の表現も譲状にはありえない表現であり、領家や幕府文書を参考にして作成されたものであろう。義孝譲状以前のものは後世になって作成されたものである。弘安四年三月に義孝は過去の遷宮時には国造が惣検校を兼帯していたことを主張する注進状を作成しており、この時点までに作成されたものであろう。惣検校については以上の通りであるが、国造をめぐっても一族間の対立があった。それも文書作成の背景であった。

2017年6月 9日 (金)

国造孝時譲状について

 これについては、二〇〇四年の論文で論じているが、再確認したい。論文では孝時譲状は以下のように3回作成された。①孝時が清孝に譲る。②清孝が命令に背いたとして「あかこまろ」(→貞孝)に譲る。③母覚日の仰せにより、清孝に一期のみ譲り、その後は貞孝が継承する。③のみ残り、建武二年十一月二日に作成された。貞孝はこの時点では元服前であったが、翌年には国造(清孝)舎弟六郎貞孝として伯耆国での活動について塩冶高貞に軍忠状を提出しており、元亨元年(一三二一)頃の生まれであろう。要検討文書であるが文保二年十一月には孝時が「国造三郎(清孝)」に所領を去り渡しており、清孝は乾元元年(一三〇二)前後の生まれで、五郎孝宗はその間に生まれたことになる。

  ③の譲状に対して、十三日後に作成された十一月十五日の孝時置文がある。そこでは、孝時は自らが覚日に先立ち死亡するとして、親父泰孝遺状に任せて所職・所領等を尼が計らいとして、いずれの子孫にも給うべきであると述べている。一見すると十一月二日状と矛盾するようにもみえる。泰孝置文では子息孝時に一期分として譲り、覚日が管領することを求めた上で、未来=孝時後は孝時か孝景の間で心に適う子に後継させることを述べていた。孝時置文の「いずれの子孫」とは清孝・孝宗・貞孝といった孝時の子の中からとの意味ではなく、泰孝置文を再確認したものである。孝時の後継は譲状で清孝→貞孝とし、それは覚日の意向を踏まえたものであったが、自己の死後の国造家全体の対応を覚日に委ねたのである。

  孝時が国造職を後したのは父泰孝から譲られた延慶元年(一三〇八)である。泰孝が父義孝から譲られたのは弘長二年(一二六二)であるが、その活動が本格化するのは父義孝が死亡した後であろう。義孝は弘安四年三月に杵築大社造営には国造が神主を兼任していたとの注文を作成しているが、まもなく死亡したと思われる。

 延慶元年の時点で泰孝が高齢であったことは間違いないが、その時点で孝時や五郎貞孝とともに福得丸がいた。その時点で元服前なので、覚日が泰孝との間に福得丸を生んだのは永仁年間後半であろう。そうすると母覚日は弘安初年頃の生まれとなりる。

  覚日の父とされる貞清が出雲国守護としての活動が確認できるのは正安二年(一三〇〇)で、幕府が国造泰孝に貞清・朝山時綱・多祢頼茂とともに大社造営を奉行することを命じている。ここからすると覚日が貞清の子である可能性は低く、頼泰の息子とすべきであろう。国造義孝の活動時期は佐々木泰清とほぼ同じであり、両者の生没年代も近いと思われる。泰清は弘安五年に死亡し、義孝の終見史料は弘安四年三月の注進状である。

  二〇〇四年の論文では覚日が貞清の子であるが、国造泰孝との間に二世代分の年齢差があるとしたが、それは不可能に近く、覚日は頼泰女子で泰孝との間に一世代分の年齢差があったと訂正したい。

 

2017年6月 8日 (木)

文治元年の国司庁宣

 杵築大社文書には国司関係文書が残されているが、文書の年代比定やその真偽、さらには花押の比定などに多くの課題が残されている。最も古いのが安元二年十月日国司庁宣(千家文書)であるが、これが後に作成された偽文書であることはすでに述べた通りである。この文書の花押(当時の出雲守は藤原能盛)が、平清盛との結びつきで知られる藤原能盛のものと違っており、五味文彦氏により、親平家の能盛とは別人の能盛がいることが明らかにされた。結果としての結論には問題がないが、この庁宣に記された花押は後者の藤原能盛(その花押は不明)のものではない可能性が大きい。強いて言えば、出雲国の知行国主藤原朝方の子で出雲守となる朝経の花押に似ていないこともない。一方、文治元年十一月三日庁宣(千家文書)に加えられた花押(侍従兼大介)は、その時点で侍従兼出雲守であった朝経のものではない。花押が変化することもあるが、朝経の父朝方の花押とも違う。
  花押の違いが、この庁宣が要検討であるとのスタートになるが、「所仰如件」の表現も当然「所宣如件」であり「承知」の前に「宜」を欠いている点も問題である。『吾妻鏡』文治二年五月三日条に出雲国杵築大社総検校を出雲則房を停止し、出雲資忠を補任したとの記事から、その前年に孝房が国造職に補任され、同時に鎌倉殿御下文で神主職に補任された文書を後に作成したのだろう。ただし鎌倉殿御下文そのものは残らず、それを施行した文治二年正月日平某下文が残っている(偽文書)。
  そして国司庁宣をみていて気がついたが、建暦元年六月日国司庁宣(千家文書)には袖判があり、奥の大介源朝臣には花押がない。実権を持つ知行国主が袖判を加えたもので、これ以降の大社関係の庁宣はこの形となる。後鳥羽の側近源有雅が出雲国知行国主であることが確認できるのは建保三年六月六日であるが、建仁三年正月十二日には有雅の子敦賢が出雲守に補任されており、この時点で有雅が知行国主となり、それは承久の乱で有雅が解任・処刑されるまで続いたと思われる。建暦元年の袖判の主は有雅(これ以外彼の花押は残っていない)で、国守源朝臣は子の敦賢であろう。その後、出雲守は建保元年には藤原長定に代わっているが、この長定は和田義盛の乱の時点で鎌倉におり、幕府方として乱の鎮圧に活躍している。後鳥羽院と将軍実朝の関係がその背景にあったと思われる。
  これに対して文治元年の国司庁宣には袖判はなく、奥の国守が花押を加えている。国守が藤原朝経に対して、その父朝方が知行国主であったことを考えると、袖判がなければならないのではないか。
  知行国主が袖判を加えたものを平安遺文と鎌倉遺文でみると平安遺文では元暦元年八月八日の紀伊国司庁宣写が初見のようにみえる。写のため花押は確認できないが、紀伊国は治承三年(1179)正月と養和元年(1181)九月には平頼盛が知行国主であった。平家の都落ちにより知行国主そのものは交代したが、元暦元年(1184)八月段階でも体制そのものは続いていたのではないか。鎌倉遺文をみると、文治二年二月の某国司庁宣(補四二)と文治三年八月日和泉国司庁宣(二六〇)が確認できる。後者は知行国主九条兼実が袖判を加え、奥の国守某も加判している。以上の点を踏まえると、文治元年の出雲国司庁宣は偽文書であると考えられる。
追加:偽文書であることはよいが、藤原朝方が知行国主の時期の国司庁宣が袖判形式であったかについては、建久五年と六年のものをみる限り、検討の余地がある。

2017年6月 6日 (火)

悪貨が良貨を駆逐しないために

 久しぶりにコメントがあったが、3月に述べた「竹島外一島」についてであった。コメントをされた方の論文はそれを書く際に読んでいた。また、それに関係する「少数派」と称する人々のコメントも同様である。今回のコメントの最後は見ていただければわかるように「この問題はいろいろ考えるべきことが多いですね」というもので、これそのものはとりたてて問題とはならない。ただ、記事で述べたように、論者は杉原氏を高校時代から知っており、大学で学んだ東洋史を生かして東アジアの中における日本の問題を論じられていた。それが竹島研究所にかかわられた中で記されているものを読むと大きな違和感を持ったのである。
 杉原氏は一方の見解にとらわれないで述べるとされているが、実際にまとめられた作品からはそのようには読み取れないのである。それ以上に気になったのが「少数派」の主張で、某首相(ASS三人組は嘘つきトリオである。公益通報者保護法があり、当然出所が明らかでなくても調査が必要)と同じく答えが最初から一つしかないからであろうが「相手の主張に対しては100%証明されていないとして無効とし」、逆に「自分の主張は可能性が0%でなければ有効」とするものである。最近、理系の研究者(退職され東大名誉教授)から、自分の先祖に関係する人物を研究しているとして、何度かメールをいただいた。その人物についての通説は五味文彦氏の指摘により覆っていた(その人物の事蹟とされてきたことは同名の別人に関するもの)が、自分はそうは思わないとして、ネットの検索で関連していたことを述べた当方に連絡があったのである。
  当方は五味氏が通説が成り立たない根拠とされた文書は偽文書であることを論文で明らかにしており、その意味では通説にもなおチャンスがあると思っていた。そこで自分でも別の観点から検討してみた。その結果は、通説で一人の事蹟とされていたものは、五味氏の指摘のように同名の別人二人の事蹟に分けて考えなければならないというものであった。その事は研究者の方にも伝えたが、なかなか理解していただけなかった。その時に受けた感想が、さきほど述べた少数派の主張と同じであったのである。
  以前もブログで述べたが、ネット上の主張の中には根拠を示さないものが大変多い。少数派の人々は根拠は示しているが、現在の日米首脳と同じく論じる際のユニバーサルデザインから遠く離れたものである。その中身のない言説がネットを閲覧する若い人々には影響をしているから問題である。お隣韓国の大統領選挙では前回も若い人々は文氏に投票していた。格差の解消が最大の課題と思うからであろう。ところが日本の若い人、とりわけ男性はその逆なので、その事を期待して18才選挙権が何の準備もなく唐突に導入された。過去に「女子大生亡国論」なる暴論が主張されたが、現在の日本の閉塞状態の原因は若い男性の「学ばない、考えない」状況にある。当方も3月までは県立高校の地歴・公民科の教員であったが、「メディアリテラシー」が必要不可欠なことは教科書・資料集で必ず述べてあった。ところが、物事を考える際に、時には「最初に戻って再検討すること」が必要となるが、それができない人がほとんどである。それは歴史の研究者でもそうであり、自分の論文の末尾には必ず、「論文を書く際に念頭にあるのは大学で中世史の世界に導いていただいた故石井進氏の”論文は数多く発表されているが、本当の意味で論文と言えるものは少ない”との言葉である」と結んでいる。このブログもその一環である。現状に安住せず、「若人よ大志を抱け」との言葉が今こそ必要である。

2017年6月 1日 (木)

近況6月1日

 521日に右膝を痛め、歩行がかなり困難となった。道路を横断する際に少しばかり小走りになった第1歩目で痛みがあった。帰宅するのに4kmほどあったが、無理してなんとか家に着いた。
 翌日整形外科に行ったが、元々膝に水がたまっていた上に、靱帯を痛めたという診断であった。1ヶ月前から右膝に違和感があったのは確かだった。階段を降りるときに顕著だったが、その他の場面ではそれほど支障がなかったため、そのままにしておいた。室内で体力をつけるための運動をしていたのが少々加重であったようだ。表現を変えると、それほど基礎体力が落ちたということか。21日は朝早くから車で長女とともに三隅に住んでいる次男のところまで出かけ、15時過ぎに松江に戻り、松江市史の会に出たが、帰宅も車か自転車なら、靱帯を痛めることはなかったかもしれない(行きは長女に送ってもらった)。一方、運動による膝へのダメージはさらに重なったかもしれない。すべては一長一短と考えるしかない。
 とりあえず、なんとかイスに腰掛けてパソコンでの文章の入力はできたが、足を伸ばしていないと痛みがあり、運動はほとんどできず、かえって運動不足になった。61日の時点ではかなり回復して足もある程度伸ばせるようになったが、歩行はゆっくりせざるを得ない。
 この文章はマックでワード2011とATOK2017で行っている。マックで使いやすいエディターがあればよいが、とりあえずは問題なく使っている。ADOBE CC(両方で使用)、マイクロソフトオフィス(ウィンドウズのみ)、ATOK(パスポート、両方)は、1年ないしは月契約で使用している。ウィンドウズでもマックでも使えるのがメリットである。前二者は2台まで、ATOKはスマホ(所持せず)を含めて10台までインストールできる。ウィルスソフトはメガエッグではマカフィーが5台までインストール可能。他のソフトは追加料金が必要だが、マカフィーは必要ない。その他のPCにはESET3年版を使っていたが、今年になって価格が約3倍になったので、これもマカフィーの3年版に変更。こちらはスマホを含めてインストール可能な台数の制限はない。たまたまそれが安価で購入できた。よくわからないが、値段が様々でどうなっているのかとも思う。以前からあるウィルスソフトでは人気は今一歩であるが、2010年にはインテルが買収。今年5月には分社化されたが、それでも49%の株式をインテルが持つ会社である。

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