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2017年5月

2017年5月31日 (水)

十二月十五日院宣6

  建治三年(一二七七)五月に佐々木泰清が幕府引付衆で出雲国守護であった息子の時清に手紙を書いているが、それによると、建治二年十月に知行国主吉田経俊が死亡し、後任の知行国主には前回の大社造営を行った平有親の子時継を補任したが、半年経過しても何も進んでいないことを述べ、仮殿は自らが造営するとの国造義孝の申し出を認め、正殿造営はこれまでのとおりの方法で造営すれば公平かと述べている。その後、弘安二年六月国宣では国造に留守所と相共に造営に使う正税の催促を行うべきことを命じているが、翌年に比定される九月二十一日国宣では仮殿造営が進まずに御神体が雨露にさらされていることを聞いて驚き、今年中に仮殿だけでも造営を終えるよう国造に求めている。
 このように造営は進まなかったが、弘安十年(一二八七)八月には遷宮日時を政府が決定しており、一応の区切があったようである。それが本来の仮殿なのか、正殿にかわる仮殿なのかを含めて実態はわからないが、造営が終わると国造を神主に起用するメリットは薄れ、主導権確保を望む領家の意向もあいまって、神主をめぐる対立が再燃する。正応五年には神主職と造営をめぐり国造泰孝と神主実政の訴訟について、幕府が泰孝を神主に補任するよう領家である廊御方に申し入れるように、六波羅探題に命じている。実政が領家から再度神主に補任されたことがわかる。次いで永仁三年には幕府で廊御方と松殿宰相中将入道が相論を行っていることがわかる。
 弘安四年には出雲国が後深草院の分国から亀山院の分国に変わっている。このため国造義孝は大社造営と国造の関わりについて、国造兼神主でなければならないとして、過去の状況をまとめて報告・主張している。これ以降の問題は過去に「出雲大社の荘園領主」という紀事の中で述べているので、そちらを参照していただくことにして、今回はここで終わりたい。すべては『院宣』が文永十一年の亀山院宣であり、これを正しくとらえないと、この前後の複雑な対立の構図は解けないということである。『松江市史』で文永九年説に戻されたが、それは文永十年末に知行国主と国司が交替したことを前提とした説であろうが、国司に一族の隆泰を起用して知行国主は四条隆親が継続して務めていたのである。

十二月十五日院宣5

 ここまでをまとめると、当時の杵築大社造営について、本来の形=目代と領家が補任した神主が協力して行うことに対して、国造義孝所持の文書に基づきせよとの命令が出て、その上で国造義孝とともに造営を行えとの命令が出されている。ただし、院宣では前者のみが命令されている。
 仮殿造営は嘉禄時と同様遅延した。そこで幕府は文永十一年六月と十一月に再び口入して六波羅御教書が領家に送られた。その内容は神主を文書を所持する義孝に交替させよというものであった。この間、領家も神主実政を更迭してその父実高に交替させたが、造営は進まなかった。そうした中で新たな院宣が文永十一年十二月十五日に出された。側近の吉田経俊が奉じた亀山院宣で、そこでは文永九年の院宣から一歩進んで目代氏定が国造義孝と相ともに不日其の功を終えよというものであった、これにより外堀を埋められた形の領家松殿兼嗣は、翌年正月に出雲実高に替えて国造義孝を神主に補任した。
 国造が幕府、知行国主からさらには亀山院の支持を得たのに対して、目代氏定・在国司政元・領家兼嗣・神主実高が国造と対立していたが、一旦は国造側が優位に立ったのである。これにより文永十二年四月には前回の仮殿造営と正殿造営に関する文書の写しが提出され、造営が新たなスタートを切った。ただし、その後の経過をみてもそれですぐに事態が目に見えて好転するわけではなく、実高。実政父子も再度神主補任を求める請文を提出したと思われる。それに対する領家の結論が建治二年二月の領家下文で、従前の経過を詳論した上で、義孝を再度神主に補任したのである。そして義孝はその事を幕府に連絡し、幕府は建治二年五月十七日にはその旨を将軍に披露したとの関東御教書で返事をしたのである。

十二月十五日院宣4

 知行国主は国司に対しては十分な影響力を持ったが、実際に在庁官人を指揮して国衙の運営に当たっていたのは目代であった。すでに平有親時代の源右衛門入道宝蓮で述べたように、目代は専門家であり、短期間で交替する国司に対して独立性を持っていた。文永年間の目代は左衛門尉高階氏定という人物で、文永九年には目代氏定と政元等が狼藉をするとして、国造義孝が幕府に訴えている。同年には鰐淵寺も大社の神事が社家結構と宮中狼藉により遅れてしまったことと、国御代官と在国司が三月会の布施を勝手に減らしたことを出雲国守護佐々木泰清に訴えている。後者にみえる代官と在国司とは前者の目代氏定と政元を指している。在国司朝山昌綱が死亡し、後継者の左衛門二郎時綱が年少であったため、長田郷司であった一族の勝部政元が在国司の職を代行していたのだろう。
 鰐淵寺との問題は明確であるが、国造に対する狼藉とは何であろうか。これを考えるヒントとして、知行国主が平時継から四条隆親に交替する直前に出された国司庁宣を採り上げる。惣社と神魂社の経田について、国衙側の目代・在国司はこれを顛倒して課税地に戻そうとしたところ、国造が顛倒で維持することを国司に訴えている。正元二年(一二六〇」)には経田を承元院使検注文書と照合して沙汰せよとの命令が出され、次いで文永元年十月には検注文書と相違がなかったとして、留守所による妨げを停止し、重ねて経田として税を免除するとの命令が出されている。
 十月末に知行国主は四条隆親に交替したが、翌年には国造義孝が惣検校職などについて幕府の下文を申請してよいかを問い、領家がそれを認めている。文永七年の幕府による神主職への口入が行われた背景となった。そして文永二年八月二十二日には出雲泰孝が神魂社領大庭・田尻保地頭職を関東下知状により安堵され、守護佐々木泰清がそれを伝えている。とりあえずは建長元年の事例の確認である。
 文永九年十二月の国司庁宣では院宣をうけ、義孝所持の造営日記文書に基づくべきというところまでで造営主体は目代氏定(それと神主実政も)であった。ところがそれが目代に伝えられた国宣では新たな内容が付け加えられた。とりいそぎ出された知行国主の花押を欠いた十二月十七日国宣では、院宣を引用するとともに、この上は義孝相共に仮殿造営と遷宮を行うように命じている。翌年正月十九日の花押のある正式な国宣では「相共」とはあるがその相手(神主ヵ)は明記せずに不日之沙汰をするよう命じている。

十二月十五日院宣3

 この事には幕府もからんでいる。文永五年正月には領家が国造泰孝を神主に補任している。これは国造が義孝から泰孝に代替りしたことによるものであった。これに対して天福元年(一二三三)や文暦二年(一二三五)に神主であったことが確認できる出雲実高の子実政が領家に神主への補任を求め認められたのである。文永六年ないしは七年正月前後であろう。神主は一宮杵築大社の祭祀にも関わるが、最大の役割は大社領の管理であった。大社政所の現地の責任者である。この職を希望するものは請文を領家に提出し、希望者から領家が選んで決定したのである。
 従来から国造は大社遷宮が迫ると、御神体を奉懐する国造が神主でなければならないと主張してきたが、前回の嘉禄の仮殿造営の際には国造政孝が自分が所持する造営日記文書がなければ造営は進まないとして、神主職に復帰した。今回の本殿の焼失は造営が開始されるという意味で、国造が実政から神主職を取り戻すチャンスであった。領家側も前回の正殿造営中の嘉禎三年(一二三七)に前領家藤原家隆が死亡し、適齢の後継者がいなかったこともあって、国造義孝が神主職を継続して務め、神主の職務の一部を分割して成立した権検校も国造の一族が独占する状況が生まれた。松殿兼嗣の母は家隆の兄で前の領家であった藤原雅隆の子であったが、家隆の子で公卿になるような人物がいなかったため、兼嗣の母が領家となったのであろうが、実質的には領家不在の状況であった、家隆の死から二年後に生まれた兼嗣も本殿が焼失した文永七年には三十二才となり、状況を理解し自らの領家としての主導権を発揮しようとして実政を起用したのである。
 これに対して、国造は幕府に働きかけをし、文永七年十一月十六日には関東御教書により神主について口入した。次年度の神主決定の時期でもあった。すでに述べたように知行国主四条隆親の叔父隆弁は天台宗園城寺のトップである一方で幕府に仕える高僧であり、隆弁を通じて幕府の意向は隆親にも伝えられたと思われる。状況を国造に有利にするために打ち出されたのが義孝が所持する造営日記文書に基づく造営との方針であった。ただし、領家を動かすには知行国主レベルの判断ではなく院宣が必要であった。

十二月十五日院宣2

 話は横道にそれるが、『平成の大遷宮 出雲大社展』の巻末の年表には「この頃(十二世紀半ば?)内蔵資忠、杵築大社の横領を企てるも未遂に終わる」とある。「横領」との表現が気になりこの文を書き始めたのだが、よくよくみると資忠の父「忠光」の誤り(誤植であろう)でもあった。最大の問題は漢字の間違いでも誤植でもなく国造側の主張を鵜呑みにした「押領」との表現である。
 文治二年には「源頼朝、国造出雲孝房の杵築大社惣検校職を罷免、内蔵忠光の子資忠を補任する」とある。『吾妻鏡』を読めばそうしかならないが、関連資料から頼朝が領家藤原光隆に働きかけ、領家が資忠が補任したことを二〇〇四年の論文で明らかにしている。資忠とその父忠光は「押領」したのではなく、正規の手続きのもとで惣検校(神主)になったのを国造側が「押領」と呼んでいるだけなのである。
 国造のライバルについては、国造側を含めて事実誤認が積み重ねられた。内蔵氏は国造と同じ出雲氏の一族であるにもかかわらず、資忠の子孝元を含めていつしか「中原氏」にされてしまった。文永年間に国造泰孝に替わって神主に補任された実高・実政父子も同じく出雲氏であるのに「中原氏」とされていた。中原氏は有力な国衙在庁官人で国造とも姻戚関係にあり、承久の乱以前には中原孝高が神主に補任されたことはあったが、承久の乱で没落し、乱後は国造のライバルではなくなったのである。
 本論に戻すと、大社造営の方針変更については、国造の働きかけを受けた知行国主レベルでは進んでいた。最初に国造義孝の文書に基づき目代が行うべきとなり、次には目代が国造義孝とともに行うべしとなった。この第二段階を決定付けたのが『院宣』であった。それに対して『庁宣』の内容は第一段階のものである。ゆえに『庁宣』に引用された院宣(後深草院ではなく後嵯峨院による)と『院宣』は別ものである。
  これに関連して、西田氏は文永十年末の出雲国司藤原顕家の交替とともに知行国主四条隆親も交替し、『院宣』の奏者で後嵯峨の近臣であった吉田経俊に交替したとされた。ただし、隆親は顕家の前に子の隆良を国司にしていた。そして「国司一覧」(『日本史総覧』)では「勘仲記」建治二年七月二十四日条に「前出雲守隆泰」がみえることを記している。この人物は四条隆親の兄隆綱の孫隆泰であり、文永十一年もなお隆親が知行国主であった。『院宣』を文永十一年に比定することは宛所=兵部卿(隆親)からも問題がないのである。そして『院宣』で新たな方針が示されるとともに、知行国主も吉田経俊に交替し、翌年正月には領家も国造義孝を神主に補任せざるを得なくなったのである。

十二月十五日院宣1

 文永七年正月の杵築大社本殿焼失により仮殿造営が開始されたが、なかなか完成せず、最終的には宝治二年に完成した八丈(24m)の正殿式本殿を断念し、小規模な本殿が造られるにとどまった。文永十二年正月の領家下文によると、当初は阿式社にならって仮殿を造営する方針であったが、国司の交代にともない国造義孝が所持する造営日記文書に基づき行うようにと方針が変更されたため、混乱しさらに造営が遅れた。その最中に出された十二月十五日院宣(以下では『院宣』)は、大変重要な意味を持つものである。年を欠くのに『鎌倉遺文』では「文永九年十二月十五日」と翻刻したものを掲載している。「出雲大社文書」(千家・北島両家から寄進された文書)なのに「千家文書」としている。本来は「千家文書」であったが後に寄進されて「出雲大社文書」となったもので、千家側がその写しを残していたが、なぜか「文永九年」を入れてしまったのであろう。
 問題は年次とともに発給者である。『遺文』では「亀山上皇院宣案」としたが、亀山の院政は文永十一年からである。村田正志氏作成の「出雲大社文書目録」(島根県教育委員会)では「文永八年ヵ」とした上で後嵯峨院宣としている。これに対して井上寛司氏編『大社町史』史料編では「文永九年」に推定した上で後後嵯峨院宣とされたが、文永九年二月に後嵯峨は死亡している。ということで拙稿「出雲大社造営をめぐる国造と国衙」では文永十一年の亀山院宣との説を提示した。『松江市史』史料編古代・中世Ⅰでは西田友広氏が文永九年の後深草院宣との新たな説を提示した。拙稿執筆当時理解が十分でない点があったことも事実であるが、現在でも文永十一年が正解であると思うので拙稿の不十分であった点を補いつつ述べてみたい。 
  拙稿で文永九年説を退けたのは「文永九年十二月日出雲国司庁宣」(以下では『庁宣』)に引用された「任 院宣、守国造義孝之記録、彼氏定早速可令致其沙汰」の部分と『院宣』中の「為目代氏定沙汰、相共国造義孝不日可終其功」の違いである。『庁宣』は院宣を受けて正確にその内容を引用しているはずなのに、実際には違っている事から、『庁宣』に引用された院宣と『院宣』が別物であることは一〇〇%確実だと思うが、不可思議である。「後深草院宣」としたのは文永九年末の時点で院宣を出せるのは後深草のみであるからであろう。当時出雲国は後深草の院分国であったこともその理解の根拠となっている。ただし『鎌倉遺文』に残るこの前後の後深草院宣の奏者と表現は『院宣』とは違っている。一方、文永十一年の亀山院宣とすると、奏者・表現とともに問題がない。
 何より、文永九年との比定が根拠を欠いているのである。杵築大社造営に関する方針を出すのは院分国主ではなく、最高権力者である院である。院が直接命令を出すのは知行国主とそのもとにある目代であるが、造営の一方の主体である領家松殿兼嗣もそれを尊重せざるを得ず、結果としては現地の責任者である神主を自らが選んだ出雲実高・実政父子から国造義孝に戻さざるを得なかったのである。義孝はすでに国造職は子の泰孝に譲っていたが、領家兼嗣が国造泰孝から出雲実政に交代させたのである。

2017年5月28日 (日)

隠岐国守護佐々木薩摩守について

 以前、「南北朝期の隠岐国守護」と「隠岐国守護富田氏」について述べた。一部内容を再検討する必要を感じたので以下に述べてみる。
 疑問点としてあったのは応安7年の隠岐国守護「佐々木薩摩守」と至徳元年にみえる「佐々木左衛門四郎薩摩守長胤」についてである。富田直貞の子に比定したが、その名前・官職名は異なっていたからである。これに対して、正答とまではいえないが、別の候補者について検討してみる。
 「佐々木系図」に「長胤」はみあたらないと述べたが、佐々木兄弟の中の三郎盛綱系に「長胤」が記されている(『群書類従』巻132)。「盛綱-信実-時秀-胤時-胤泰-行胤-長胤-信胤-顕信」の順番で、長胤の注記は「二郎・薩摩守、行胤子、祖父為子」とある。「二郎」が異なっているが「薩摩守長胤」は一致している。また長胤の父と祖父胤泰には「同=左衛門尉」の注記がある。ただしその系図には混乱があり、なお課題がある。
 佐々木氏系図別本(『同』巻133)には「胤泰」までしか記載がなく、その弟に「飽浦二郎」と「七郎」が記されているのみである。『尊卑分脈』には「長胤(二郎飽浦行綱[胤ヵ]子)-胤信(左[衛欠ヵ]門尉)」とある。
 『太平記』には小豆島を拠点とする「飽浦信胤」が繰り返し登場する。動乱の開始時点(佐々木三郎左衛門尉信胤)では細川定禅のもとで幕府方であり、「佐々木筑前守顕信」(系図では信胤子)もみえたが、康永元年に脇屋義助が派遣された際にこれを助けて反幕府方に転じている。貞治元年には備前国の飽浦薩摩権守信胤が宮方の小笠原美濃守(阿波国ヵ)や相模守に同心して幕府方の細川頼之軍の海路を妨げたことが記されている。
系図には混乱もあろうが、問題点は長胤が信胤の父となっている点である。これが信胤の子であるならば「佐々木左衛門四郎薩摩守長胤」という人物が14世紀後半に存在したことと矛盾しないが、断定するには根拠がなお不足している。
 至徳元年には幕府から長胤領であった西大野庄半分と朝酌郷等地頭職が伊予国の河野駿河守信益に与えられ、翌年には成相寺地頭職も与えられているが、この「河野駿河守信益」についても河野氏(これもかなりの時期反幕府方であった)の関係系図に登場しない謎の人物である。富田氏説にもかなりの矛盾点があるので、検討する価値は高いと思われる。この場合、隠岐国国守護は「富田氏→山名氏」ではなく「富田氏→飽浦氏→山名氏」と交代したことになる。 

2017年5月26日 (金)

囲碁と将棋3

 現在は7大タイトルだが、最強のコンピュータソフトとの対局者を決める電聖戦が来年度から8つめのタイトル戦になるという。7大タイトルは羽生三冠(王位・棋聖・王座)、渡辺二冠(竜王・棋王)、佐藤名人、久保王将が分け合っているが、圧倒的に強い棋士は不在である。棋士レーティングを参照すると、佐藤1位、羽生4位、久保5位、渡辺6位で、2位と3位はタイトルホルダーではない豊島8段と稲葉8段である。豊島氏は藤井氏と同郷で、先日は両者の出身地である愛知県での非公式早碁で藤井4段に勝利。藤井4段は急速に順位を上げているが、レーティングでは47位(レートは1630)である。公式戦19連勝中最もレーティングが上位であったのは12位の千田6段である。非公式戦では羽生9段に1敗(1勝)、永瀬6段に1敗している。
 現在の1位佐藤のレートは1868だが、トップとしては高くはない。昨年度は32勝14敗。ここ10年のデータしかないが、羽生9段の最高レートは1999(昨年度は27勝22敗)、渡辺9段のそれは1977である(昨年度は27勝18敗)。羽生9段の場合は、その時点でレートがあったとすれば7冠であった際にはさらに高かったであろう。豊島8段はレート1858で昨年度は39勝17敗。
 コンピュータ将棋でもエルモがポナンザに勝利したように、現在は将棋の戦法も日々進化しており、以前のように経験が生きる状態ではなくなっているのではないか。藤井4段もより新しい情報に基づいているのである。その上にプロになる前から詰碁の大会ではプロをおさえて優勝していた。いろいろ述べたが、囲碁では井山6冠がダントツで、唯一タイトルを失った名人戦リーグでも独走の5連勝と、他の日本人棋士が勝利することは大変難しい。将棋界にはそのような人がいないのが現状である。

囲碁と将棋2

  将棋は13世大山名人の出身地倉敷での名人戦挑戦手合い第5局の1日目が終了した(挑戦者は稲葉8段)。これまで2勝2敗で今回の勝利者が名人位に大きく近づく。この間、佐藤名人とポナンザの第2局が行われ、ポナンザの2連勝で最後の電王戦が終了した。これに先立って行われたコンピュータ将棋選手権では2連勝中のポナンザが二回目の出場というエルモに予選・決勝でともに敗れ、2位となった。ポナンザの作者山本氏は囲碁ソフトの開発にも関心があったが、デープラーニングに基づくアルファー碁の登場は環境を一変させた。日本でも最強ソフトZenの作者加藤氏がドワンゴの協力を得てディープラーニングを導入したディーZen碁の開発を開始し、中国ではテンセント(ゲームでは世界一、株式の時価総額はアジアで1位、世界で10位。トヨタは世界で44位)が絶芸の開発を始めた。コンピュータ囲碁選手権では絶芸が1位、Zenが2位であったが、両方ともアルファー碁には及ばないが、世界の囲碁のトッププロと互角以上の実力がある。
 何かと悪評高い北朝鮮の開発ソフト「銀星囲碁17」もデープラーニングを導入しアマ8段の実力と自称している。上記のソフトとは比べるまでもないが、久しぶりに購入して対局してみるが、当方が弱いからではあるがまったく歯が立たない。以前、Zenの市販版である天頂の囲碁4を購入した際には4段の設定で「まった無制限」ならたまに勝利したのだが。ただし、段位ではなく時間を設定してやるとまったく勝てなかった。現在は天頂の囲碁Zen6が市販されているが、発売時期が新しい銀星囲碁17の方が強いようだ。
 将棋に戻すと、藤井4段は公式戦19連勝で、将棋界の最上位タイトル竜王戦の本戦トーナメント進出(6組から1名)を決めたとのこと。これ以降はより高段者の予選を勝ち抜いた棋士(1組~5組の10名)と対局し、6連勝すると挑戦者になれる。過去には現竜王の渡辺9段が20才で竜王になり9連覇、失冠後復位して2連覇中である。羽生9段は第2期に19才で竜王となり6期獲得。歴史からすると順位戦の上にある名人戦であるが、とりあえず賞金と席次は竜王が上。

囲碁と将棋1

 アルファー碁(AI)とコ・ジェ9段(20才。2015年10月に中国1位、その後まもなく世界1位で現在に至る)の3番勝負も2局が終わって、AIの連勝となった。14ヶ月前のイ・セドル9段との対局結果や年末・年始のネット上の早碁で60連勝した実績からAI優位が大方の予想であった。開発者ハサビスの説明では14ヶ月前のAIに対して3目強くなっている(2目置かせて全勝、3目でいい勝負なのであろう)とのことで、当然と言えばそれまでか。AIは14ヶ月前の勝利以降、人間の棋譜から学ぶのをやめ、AI同士の対局で実力をアップするとともに、弱点を潰していったという。
 今回の第1局は趙治勲9段の解説、第2局は石田芳夫9段の解説であった。それぞれ60才と68才、木谷門下の兄弟弟子で囲碁解説者としては定評があるが、解説の方法とその評価内容には大きな差があった。特に、石田氏が1局目の方が好勝負と述べたのには驚いた。石田氏の解説はわかりやすいのだが、AIの情報は豊富ではないかもしれない。関係者の評価は1局目は序盤に優位に立ったAIが後半は勝つ事に徹して予定通り半目勝を収めたが、2局目は100手前後までは互角であったが、その後の着手の乱れから、差が付いたとのこと。本人のコメントはチャンスが訪れたので緊張のあまり乱れたとのこと。AIは序盤から人間に差をつけることが多く、ここまで最新のAIに対抗できたのは初めてとのこと。あと、先番の優位をなくすためのコミ(ハンデ)があるが、現在ではわずかに白番が有利であり、第1局は黒番、第2局は白番であったコ・ジェ9段は3局目は白番を選択した。AIも黒番だとコミを出すことは大変だから。人間が黒番だとAIは余裕たっぷりに対処して半目で勝利することが多いそうだ。少しの違いだが、黒番のAIの方がより最善手を打とうとする。白番で序盤に優位に立つと半目勝てばよいとのことから緩着を討つ事もあり、人間側は対局のモチベーションを保ちにくいとのこと。明日の3局目に期待か。本日はAIと人間が組んだペア碁(AI+古力対AI+連笑)とAI対中国のトッププロ5人の相談囲碁が行われた。コ・ジェ9段を頂点とする中国の8人のプロが登場した事になる。ただ、黒番の相談囲碁チームに対して序盤から優位に立ったAI対中国が後半は余裕たっぷりに逃げ切り、最後に相談囲碁チームが投了した。

2017年5月24日 (水)

元弘3年の後醍醐天皇綸旨

 元弘3年4月3日と8日には反幕府軍が京都を攻撃しているが、その中に「富田判官」がみえる。富田秀貞ないしはその父師泰であろう。これに関連して三崎社検校の一族日置政高軍忠状とそれを賞する後醍醐天皇綸旨が残されている。いずれも内容ないしは表現に問題があり、後に作成されたものであることはすでに述べた通りである。さらに4月10日の時点でなお伯耆国にいた後醍醐から京都での軍功に対して綸旨が出される事は不可能である。翌11日付で、後醍醐は出雲大社に国富庄と氷室庄を寄進しているが、奏者はいずれも「勘解由次官(高倉光守)である。
 なお政高の軍忠状と感状は南北朝動乱が始まった建武3年のものも残されている。正月の軍忠状によると建武2年12月21日に佐々木美作大夫判官秀貞とともに美作国を発向し、建武3年正月11日に京都に攻め入り、16日まで軍功を積んだとする。元弘3年の際も、政高は富田秀貞と行動を共にしていたのだろう。一連の文書そのものは後で作成されたものであるが、そこに記された内容は事実である可能性が高い。ただし、政高は三崎社検校の一族であり、検校ではない。
 5月12日後醍醐天皇綸旨は日置政高への恩賞は京都で(帰京後)行うとする。4月10日綸旨よりは問題点が少ないが、後醍醐綸旨の特徴である「年号」を欠いている点と、内容と形式において類例が無い事が問題である。年号を欠く綸旨としては4月9日付けの出雲高保に対する軍勢催促状(益田家文書)が出されているが、こちらは正しいものである。伯耆国(?)の巨勢宗国の場合は3月4日に船上山での忠節により恩賞を与えるとの綸旨(千種忠顕が奏者であるが、実際は後醍醐自筆。同様の例に3月17日宝剣代用綸旨がある、千種忠顕はこの時点では船上山にいなかったとされる。となると、3月14日の王道再興の綸旨も奏者は忠顕であるが、実際は別人が記したことになる?)を受け、5月5日にはその同族である巨勢家盛が但馬国内で地頭職を与えられている(相見文書)。
 5月には鰐淵寺僧頼源が5月7日に八幡から京へ発向した際の軍忠状を提出し、千種忠顕の証判(承判)を受けている。そこでは出雲国の中郡彦次郎入道と朝山彦四郎が見知人としてあげられている。ともに具体的人名は比定できないが、大原郡久野郷地頭中郡太郎六郎重軽は朝山善王兵衛尉女との間に四郎経道をもうけている。5月9日に足利高氏が六波羅探題を滅ぼしたことの報告を受けた後醍醐は5月23日に船上山を発し、6月4日に入京している。天皇に復帰して以降の綸旨はほとんどが「天気如此」の表現のものとなっている。

2017年5月22日 (月)

出雲佐々木氏の婚姻

 出雲佐々木氏初代の義清は兄高綱の子光綱と自らの娘を結婚させているが、光綱はその一方では出雲国在庁官人の筆頭朝山惟綱女子との間にも子をもうけている。泰清女子は桃井頼直の妻となり、14世紀末の桃井詮信は頼直の孫で越中国守護となった直信の子で、2代将軍義詮の一字を与えられて、義詮・義満に仕え、その子孫は幕府奉公衆となるが、隠岐国那具村を出雲国守護京極高詮に売却している。太郎義重流では孫信重(頼重の子)の妻は南浦五郎茂清の孫娘(重栖宗茂女子)で、孫女子(重綱の子)が湯頼清の孫布志名判官雅清との間に光清を生んでいる。これに対して泰清の嫡子時清流では鎌倉で活動したためか、一族との婚姻関係が確認できない。また、時清に代わって出雲佐々木氏の惣領となった三郎頼泰流も一族との間に婚姻関係が確認できない。頼泰の嫡子貞清は祖父にちなんで「信濃大夫判官」を名乗り、杵築大社神主義孝の子泰孝に娘(覚日)を嫁がせている。
 これに対して出雲佐々木氏の婚姻関係の中心となったのが富田四郎義泰である。その妻は定綱の孫大原重綱の女子で、但馬国内にも所領を有していた。義泰の子宗義は高岡八郎宗泰女子と結婚してその養子となった。一方、義泰の嫡子師泰は高岡宗泰女子を妻として、二郎貞泰と嫡子四郎秀貞が生まれている。義泰女子は吉田六郎厳秀の孫秀信の妻となりもう一人の女子は古志義信の妻となり嫡子宗信を生んでいる。次いで師泰女子は湯頼清の嫡孫義宗との間に嫡子貞義を生み、もう一人の女子は古志宗信との間に庶子秀信を生んでいる。
 義泰の庶子山佐五郎秀清は鎌倉前期の伯耆国守護であった東国御家人金持氏一族の右兵衛女子との間に庶子上山佐二郎師清をなしている。そして師清は南浦茂清の孫女子(重栖宗茂の子)と結婚している。秀清の嫡子は下山佐五郎義高であろう。同じく義泰の庶子羽田井六郎頼秀(苗字の地羽田井は後醍醐天皇から恩賞として得た地か)は南浦茂清女子との間に嫡子六郎高泰(富田氏惣領秀貞の美作・出雲国守護代覚照)をもうけ、頼秀女子は泰清の兄で当初出雲国守護であった政義の孫村義高(隠岐国村庄を苗字の地)の妻となっている。
 湯七郎頼清は勝部宿祢一族湯清綱の養子に入り、湯氏領湯郷・拝志郷・佐世郷を獲得した。その子湯泰信女子と拝志泰秀の子信秀が従兄弟同士で結婚している。頼清の嫡子佐世七郎清信は近隣の地頭菅氏女子と結婚したとされるが、系図では不明である。前述のように清信の嫡子孫七郎義宗は富田師泰女子と結婚し、嫡子貞義が生まれている。義宗は「元弘三年七月二四日於京都死亡」とあり、師泰の嫡子富田秀貞とともに後醍醐方として上洛していた。貞義は「正平六年一〇月三日討死」とあり、やはし富田秀貞とともに南朝方として戦っていたことがわかる。以上が佐々木系図に記されている。

義重流佐々木氏

 義重は出雲国守護佐々木泰清の長子と考えられ、母は嫡子となる次子時清と同じ大井太郎朝光女子である。佐々木系図ではその子達の生没年代が記されており、それを手がかりに考えたい。この系統が戦国期には大東庄を支配する馬田氏に発展する。
  泰清長子義重は寛元五年(一二四七)に父「佐々木」隠岐次郎左衛門尉泰清とともに「子息新左衛門尉源義重」としてみえ、この時点までに元服・任官している。その出生は貞永2年(一二三三)以前と考えられる。
  時清については、系図に嘉元三年に六四才で死亡したとの記載があり、これに基づくと仁治二年(一二四一)の生まれとなるが、建長二年(一二五〇)には「隠岐新左衛門尉時清」とみえて元服・任官しているので嘉禎二年(一二三六)頃の生まれであろうか。弘長二年(一二六二)に従五位下(大夫判官)に昇任し、出雲国に下向した父泰清に代わり、鎌倉における代表者となっている。泰清他の子たちは頼泰を含めいずれも六位(左衛門尉)までしか確認できず、時清が嫡子で泰清流佐々木氏の惣領であることはまちがいない。頼泰については、『群書類従本』で「出雲守」の記載があるが、貞清の名乗りからみて、問題がある。塩冶氏諸系図には「兵庫頭」とあるものもあるが、これも「従五位上」で疑問である。
  義重の長子重泰は土屋六郎左衛門(大東庄と千酌郷の地頭)女子を母にして生まれ、正応元年(一二八八)に四十二才で死亡とあり、宝治元年(一二四七)の生まれである。正嘉元年五月には新日吉社流鏑馬で祖父泰清のもとで射手を「左衞門次郎重泰」が務めている。ここからすると、義重の生年は寛喜元年(一二二九)以前にまで遡るか。重泰の子彦三郎貞泰は文永年間(一二六四~一二七五)の生まれであろうか。詳細は不明である。貞泰の子には小次郎左衛門清秀と四郎秀泰があるが、前者は「元弘三年四月三日於関東討死」とある。この頃、関東でも後醍醐の子護良親王が北条氏追討の令旨を出しているが、清秀が鎌倉方か後醍醐方かは不明である。鎌倉にいたことからすると、得宗方であった強い。
  義重の次子二郎季義は正中二年(一三二五)に出家し、七五才で死亡している。建長三年(一二五三)以前の生まれである。三子頼重は元亨三年(一三二三)に五五才で死亡しており、文永六年(一二六九)の生まれとなる。建武二年(一三三五)に死亡(年齢不詳)した弟四郎重宗とともに、二人の兄とは年齢差があり、母親が異なる可能性が高い。義重自身は文永八年時点で父泰清から美談庄地頭職を譲られ、「信濃太郎左衛門入道」と出家している。年齢は四〇代前半であろう。
  頼重の長子源左衛門尉信重は南浦茂清の孫女子(重栖宗茂の子)と結婚し、「元弘三年四月三日作道討死」とあり、出雲国から上洛し、京都の東寺作道の合戦で後醍醐方として戦死した可能性が高い。一方信重女子は母の兄弟義高と結婚している。ちなみに義高は「正中一三年死亡」と系図は記すが、父宗茂の没年からすると「正平一三年」の誤りであろう。これにより義高が南朝方であったことがわかる。『太平記』にはこの時点で京都での合戦に富田判官(秀貞かその父師泰)が参加し、鰐淵寺僧頼源や大野庄内加治屋三郎日置政高が軍忠状を提出している。兄重泰の孫清秀が関東におり、戦死したのとは対照的である。信重の弟重綱女子は「大夫判官雅清妻」「光清母」とあり、これもまた出雲国におり、布志名判官雅清と関わりがあった。義重流の記載が比較的詳細なのは、この雅清との関係があったからではなかろうか。(義重の子重泰について追記)

2017年5月18日 (木)

図書館の役割?3

 市立図書館には城山三郎『毎日が日曜日』を貸し出しのため行ったが、これは福祉向けで活字が大きい3巻本のみあった。館外の別の場所に保管してあるとのことで、その場では予約を入れ、5日後に連絡を受けて貸し出しを受けて読んでみた。家は読売新聞を購読していたので、変わった題名の小説の連載が始まったとの記憶はあったが、内容については題名から退職後の主人公を描いていると思ったが、内容は現職の商社マンを描いたものであった。その先輩で退職を迎えた人が助演者ではあったが、小説の題名は、商社マンが京都支店に転勤が決まった際に、同僚から言われた言葉が「これからは毎日が日曜日になる」であった。連載開始は1975年2月からで、自分はちょうど高校を卒業する直前であった。小学生の頃は新聞をくまなく読んでいたが、当時は余裕がなく、あるいは関心が低く読まなかったのであろうか。高度経済成長が終わった直後の日本と日本人を描いており、続いて城山氏の作品を読む予定である。
 部屋の片付けをする中で、探していた「高橋和巳没後10年」をテーマとして松江で発行された同人誌を見つけることができた。1932年生まれの高橋和巳は高校生の一時期を松江高校で学んでおり、その時の国文の教官に後に小説家になった駒田信二がいた。高橋和巳の作品ではまず『憂鬱なる党派』を読んでみたい。彼の作品では認知度は低く、高橋通の読者でなけれがその題名を知らないであろう。それに引き続き『我が心は石にあらず』や『邪宗門』といった認知度の高い作品も読んではみたい。その他の作家としては松下竜一の『砦による』などの作品も読み直してみたいが、その一方で未知の作家との遭遇ができることを期待している。

図書館の役割?2

 『南北朝遺文』九州編をみる必要があるが、手元には第1巻しかない。島根県内では益田市立図書館のみ所蔵している(その他)。鳥取県立図書館は全巻所蔵している。どちらが近いかといえば、鳥取市である。松江市は浜田市と鳥取市の真ん中に位置している。その他の中世史関係の本を検索してみると、鳥取県立図書館は最近のものに至るまで数多くの論文集を購入・所蔵しているが、島根県立図書館は近年の状況をみると、論文集は購入対象から外れ、選書や新書の歴史関係のものに限定して購入している。所蔵する本の著者では網野善彦氏がともに一位であるが、鳥取が島根の1.5倍の冊数で、これに次ぐ石井進氏の著書でも同じ傾向である。鳥取は岡山と間違えるほどの質・量の蔵書であるが、島根は、すべては予算なのだろうが、かなり見劣りする。何を購入するかについて、併設する文書館の中世史担当が関与するのかは不明であるが、驚くほどのものであった。論文集に収録されている論文名もきちんと記されている。かなり前の話だが、鳥取では盗難防止のシステムを導入したが、島根は予算がないとして断念したということであった。
 松江市立図書館については、歴史の専門の本とは別のことを感じた。一つは、「城山三郎」氏の本を探したが、開架にはみあたらなかった。検索をすると、かなりの本が所蔵されているが、すべて館内の書庫である。新しい本が入る中で、前の本は書庫に移動しているのであろう。書庫にしても無限ではなく、最近では会田雄次氏の蔵書の寄贈を受けていた公立図書館が、遺族に無断でこれを廃棄処分にしていたということがニュースになった。利用する人が少ないというのが理由であったが、後進の研究者からは会田氏の思想や著作の形成過程を知る資料が失われたとの感想が述べられたいた。
 市立図書館でもう一つ驚いたのは月刊雑誌のコーナーに「世界」が無かったことである。数ある月刊雑誌では最も質の高い情報を提供してくれるものであるのに、これも利用者が少ないということであろうか。自分では20年以上定期購読していたが、最近ではなかなか読む時間が無かったので、3月末で購読を中止した。従来より読書の時間はあるので、過去のものの連載記事を選んで読み、新たなものは図書館でと思ったが、あてがはずれた。県立にはあると思うが、どうであろうか。限られた予算の中、県立と市立で連携して購入する本を分担するのもありと思うが、担当者の中には多くの貸し出しが期待できるものを購入したいとの思いもあるかもしれない。ただ、図書館の最大の役割は読書ではなく、レファレンスにあると思うので、本だけでなく自分の専門分野を持つ司書と幅広い守備範囲を持つ司書がいないといけないと思うがどうであろうか。図書館は学校教育と同様、すぐに効果がでるものでもなければ、明確な短期的物差しがあるわけでもない。鳥取県では片山・平井両知事が主導して教育の分野にお金をかけており、島根県も目先だけで、将来に備えた投資を惜しむと人材がますます枯渇していく。現在でも悲惨な状況にあり、これを改善するのは急務である。

図書館の役割?1

 学生時代は大学と居住地域の最寄りの図書館のみならず、通学途中の地域の図書館も利用した。国立国会図書館は文献が網羅されており当然利用するが、大学を卒業して島根に帰ってからは仕事の出張で行ったのみである。現在は変更されたのかどうか確認していないが、最初の日は登録の手続きのみで、翌日から正式に利用できるようになるというのは地方から訪れる立場からすると極めて不便であった。
 江東区越中島に住んでいたので、江東区立図書館を利用したのは当然であるが、区内はもう一つ都立南砂図書館が新設されたばかりで、何度か利用した。そこで速水保孝『出雲の迷信』を借りて読んだ。島根県出身の速水氏は永原慶二氏(1919年生)と同級で、戦争中は平泉澄教授のもと皇国史観が吹き荒れる中、大学院生として身を潜めていたことが記されていた。都立では日比谷図書館が最大であるが、こちらも利用した。通学途中では、前期課程は目黒区に通っていたが、乗り換えの渋谷区の図書館に行った記憶はない。目黒区祐天寺図書館には何度か行ったが、ネットで検索すると、現在は守屋図書館に名称変更されていた。確か食堂があった記憶がある。後期課程は文京区に通っていたが、大手町で10分以上も乗り換えのため歩いたこともあったか、特に公立図書館に寄ることはなかった。大学と国会図書館で事足りていたのであろう。成人式は江東区で参加したが、その時の講演は、自らが20才の時、区内の亀戸に住んでいた縁で水木しげる氏、アトラクションは南らんぼう、谷山浩子の両氏であった。
 前置きが長くなったが、現在は出身地の松江市在住なので。市立と県立の両方が利用でき、県内では恵まれている方であろう。ただし、財政難なのか、両図書館とも蔵書は十分とは言えない。本来は城山の中に市立図書館があり、それが1960年代後半に県に移管されて新築されたのが現在の県立図書館である。当時は県立図書館としては蔵書が多かったはずである。それが、図書購入費が少ないため、新規に購入される本は質・量ともに不十分である。中国地方5県の県立図書館はすべて利用したことがあるが、岡山県立図書館は蔵書が豊富で、利用者数の多さで知られている。広島県立図書館は手狭で蔵書も今ひとつであったが、海岸部に移転・整備され、文書館と同居している。広島大図書館も同様に広島市内から東広島に移転して広くなった。山口県も文書館とともに、鳥取県は文書館、さらには県民文化センターとも同居している。米子市の分館は米子市に移管され、市外の人でも貸し出しが可能であったが、県立は県内に居住するか、通っている人に限っている。

2017年5月11日 (木)

安芸国人一揆鎮圧への益田氏の動員

 「貞治~応永年間の芸石政治史」の抜き刷りの送付の第1陣が終わり、大学等を退職されて自宅に送付すべきものが残っているが、その住所の情報収集が必要である。
 本日は論文で引用した呉座勇一氏宛のみ発送した。呉座氏は『応仁の乱』が歴史の本としては近年希なベストセラーとなったことですっかり有名になったが、その職場である国際日本文化研究センターが京都にあることを初めて知った。
 東大日本史研究室紀要は17号までネット上に公開されているが、17号の呉座氏の論文「室町期の守護と国人」を発送前に眺めていたら、益田家文書未活字分の関係文書(82の4、第5巻に収録されるであろう)が引用されていた。応永12年に比定できる11月25日幕府奉行人斎藤玄輔書状である。吉田賢治氏が応永12年11月24日管領斯波義教奉書を軍勢催促状としたのに対して、呉座氏は斎藤玄輔書状を根拠に感状だとされる。従うべき見解である。 催促に応じて安芸国に在陣した益田兼家から幕府奉行人斎藤へ申請し、斎藤が守護山名氏利とも相談した上で将軍義満に伺い申し、許可に基づき斎藤自らが感状を作成、送付したことを述べている。
 このような軍功をあげる前の感状は異例であると呉座氏は述べているが、論文で述べたように、その他の石見国人とともに動員されたというよりは、守護からのたっての依頼で益田兼家が発向したものである。応永の乱後、石見国人の中で益田氏はもっとも幕府・守護から優遇されていたがゆえの出兵であった。兼家からすれば、守護の文書だけでなく幕府(将軍)の発給文書を必要としたのだろう。12月には幕府・守護方による平賀氏攻撃が行われたが、これを降伏に追い込むことはできず、幕府・守護方にもかなりの被害が生まれたため、次には石見国と備後国の国人を動員しての攻撃が計画された。これ以降のことはすでのブログで述べた通りである。今回の益田兼家の参陣が異例のことであったことが確認できた。

2017年5月 2日 (火)

最近の状況2

 遅ればせながら、『昭和の子』を読了した。そのもととなった弦書房HPにアップされたブログとの比較・対照はしていないが、結果としては刊行がなんとか間に合ったところであろうか。
 三原氏は1937年生まれで、松江四中では自分より19年先輩となる。同年生まれとしてすぐに頭に浮かぶのは美空ひばりであるが、彼女についても3人娘(江利チエミ・雪村いずみ)それぞれの個性の違いに関して言及し、「日本人の英語文化の受容は、ひばりのやり方に一番近い」として、それが自身のひばりへのわだかまり(「アメリカ文化」受容への嫌悪)だったことに気づいたと記している。
  本の中でも同年生まれの人物として作詞家阿久悠や小説家佐木隆三が登場する。阿久はひばりの唄を書きたいと思いつつ、屈折した想いがあったという。偶々、阿久の特集番組をユーチューブで視ていたら、「舟唄」はひばりを想定して書いた詩であったが、結果として浜圭介が八代亜紀用に作曲して大ヒットしたことが述べられていた。その番組では自分が「時代と合わなくなっている」と述べる阿久の映像も紹介されていた。
 以前から気になっていた曲に阿久の詞に過日亡くなった船村徹が作曲し五木ひろしが唄った「遠い日」がある。五木の「55才のダンディズム」というアルバムに収められている。全曲とも阿久悠作詞、船村徹作曲で、その中から2002年6月には「傘ん中」が、12月には「愛のメリークリスマス」がシングルカットされていた。それがたまたまユーチューブにテレビで五木が「遠い日」を唄った映像がアップされていた(ただし映像と音がずれている)。最近のアップで視聴者も少ない。この曲を知っているのはよっぽどの五木ファンであろう。自分は作曲家船村徹への関心からアルバムを購入して知った。大衆音楽で初の文化勲章受賞者となった船村だが、21世紀に入っての作品はユーチューブ上にはこれと「傘ん中」「二行半の恋文」(同アルバム)「花ひばり」(美空ひばりの詞に船村が作曲し2012年発表)だけではないか(その後、今年発売の伍代夏子「肱川あらし」があることを知った)。五木が船村作品をシングルで唄うのは1990年8月発売の「心」(星野哲郎作詞)以来である。気になったのは冒頭の「今日より明日がよくなると信じて生きた日があった‥‥誰もがそう思っていた」と3番冒頭の「時代は急に早くなり希望も夢も遠い日に‥‥少し不足の世の中の人の元気さ美しさ、どうして近頃なくなった」の部分である。まさに現代の日本に対する阿久の想いであろう。詞というよりも作品そのものが昭和を体現しているのは「昭和エレジー」(吉田旺作詞・船村徹作曲、ちあきなおみ唄)で、30年近く前の作品でアルバムのみ収録曲だが、ユーチューブ上ではアクセスが100万回を越え、2年前に岩本公水によりカバー曲としてシングル盤が発売されている。
 話を元に戻すと、『昭和の子』の最終章に、前回のブログで触れた高校の社会科の研究会の講演での「ショック」について述べられていた。「詰問」をしたとされる人は団塊の世代で、退職後非常勤講師として高校に来ていただいた同僚であったが、自分も宴会の席で「無礼者」と叱責をされた経験を持つ。もとよりその主張には同意できないが、『昭和の子』の中で紹介されたように『きけわだつみの声』が戦没学徒の手紙を取捨選択して掲載していたように、「戦後民主主義」の具体的あり方にも問題があったことは確かである。
 自分を中世史の世界に導いていただいた大学の1級先輩であった山中恭子氏(現山室恭子東京工業大学教授)が中世史研究の本流に対していだいた疑問とも関わる気がする。氏は現在は江戸幕府の経済政策を研究しつつ、大学ではディベートや議論の方法を理系の生徒に指導しており、自らが育てられた中世史の世界からは離れてしまった。「高校の1年先輩の湯沢さん(現久留島典子東京大学副学長)が研究者の途を選択されたので自分も続いた」としていた久留島氏とも交流は絶えている。

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