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2017年3月

2017年3月23日 (木)

平浜八幡宮関係寺院4

  応永2年の文書以降は、永正2年の秋上氏と野津氏の寄進状まで文書は残っていない。秋上氏は神魂神社神主の一族で、神魂神社の前身にあたる宗教施設があったとされる「勘納(神納)名」内の2反を寄進している。野津氏は長田(川津)郷の神社の棟札にみえるが、竹矢郷内の3反を寄進している。そして大永4年には尼子経久の側近亀井秀綱が両界曼荼羅を寄進している。
 天文10年正月に尼子晴久は安芸吉田攻めに失敗して、国内支配の建て直しが急務となる中、12月に経久判形に任せて宝光寺に平浜八幡宮五ヶ寺が務める社役を安堵している。この時点でも宝光寺が谷の寺院の中心であった。一方、大内氏の出雲国攻めが失敗した後の天文12年7月には晴久が永泉という僧に迎接寺を与え、寺役を務めるよう命じている。この合戦では安国寺が富田城に籠城しなかったとして抱えていた宝厳寺を没収されている。出雲大社でも国造千家氏が大内氏とともに逃れたとして、晴久が新たな国造を補任している。迎接寺については、元々は大井村堂の本にあったとされる。詳細は不明であるが、この史料が現時点の初見史料である。関係者が大内方となったために解任され、新たに永泉に与えられたのではないか。これ以前の史料が残っていないのもそのためか。
 年未詳であるが、ほぼ同時期(立原幸隆・屋葺幸保の組み合わせによる)菩提寺に関する所領の知行が某氏に認められている。これは菩提寺文書であった可能性が高い。天文16年7月には尼子晴久袖判奉行人下知状により下見村五ヶ寺の竹林の伐採が禁止されているが、そこには神宮寺は見えず、五ヶ寺とは別の扱いであった。これは宝光寺文書であったと思われるが、最後のものとなる。
 菩提寺は別宮神宮寺検校(住持ヵ)職と田畠を与えられるよう尼子氏に求め、一旦は認められたようであるが、弘治元年11月には晴久が神宮寺に還付し、永禄7年10月には尼子義久が神宮寺栄重に安堵している。栄重は富田城に籠城していたのであろう。前年の6年6月には富田城東之丸御番と末寺である拝志内頼清寺の安堵を求めた迎接寺に対して、尼子氏家臣大西氏が抵抗するとして、当座は伯耆国の二寺が進められている。迎接寺も籠城していたことがわかる。
 尼子氏降伏後、出雲国を支配した毛利氏の関係文書は残っていない。その一方で、永禄12年10月には尼子氏再興をはかる尼子勝久が迎接寺を円尊に与えるとともに、寺領を安堵している。ここからも迎接寺と尼子氏の緊密な関係がうかがわれる。同年12月八幡庄を与えられた富尾幸氏も迎接寺職を円尊に安堵し、八幡宮惣検校義氏が法林坊快成に常楽寺が押領していた八幡庄内中沢田地1反500文尻を還付するとともに、毎年500文尻を公用の役として神宮寺に渡すことを命じている。この時点でも神宮寺は存続していた。常楽寺は天福元年の八幡宮田畠目録にみえる「浄楽寺」と同一であろう。字名としては残っておらず、その場所は不明であるが、目録の記載順からすると神宮寺や能満寺同様に八幡宮に隣接する場所にあった可能性が高い。

2017年3月21日 (火)

平浜八幡宮関係寺院3

 すでに述べたように富田氏は「正平18年」3月3日には「従四位下弾正少弼源朝臣直貞」が大般若波羅蜜多経を鰐淵寺に寄進している。直貞は秀貞の嫡子であるが、秀貞が幕府方の美作国守護と南朝方の出雲国守護であった際の守護代は同族の羽田井高泰(終見史料は正平9年)であり、その子に「筑前守貞高」がいた。「前筑前守」とは南朝方の出雲国守護冨田氏の守護代羽田井貞高であった可能性が高い。
 京極氏が出雲国の支配権を回復した正平末年に観音寺の下見谷への移転が行われたのではないか。その一方で、宝光寺住持鏡智上人への所領寄進が目立ってくる。貞治6年(1367)3月5日某高真寄進状により下見(槻)谷1反小が寄進され、同年6月1日には寿阿が平浜八幡宮預御放生会田内観阿跡6反300歩を寄進している。次いで応安3年(1370)2月9日には大中臣右衛門尉高資が舎兄金吾(衛門府と中国名)清資の菩提を弔うため、下見谷3反の地を宝光寺に寄進している。そして同6年8月には京極氏の守護代隠岐自勝の子氏俊が八幡庄御年貢から10石を毎年宝光寺に寄進することを約している。
 永和3年3月10日には守護代のもとで命令を執行する多賀弾正玄超が、観音寺に対してその浜屋敷を安堵している。この時点では福富の阿弥陀寺が、下見谷の新阿弥陀寺に移転を完了していたことがわかる。そして、京極氏が中央における康暦の政変にともない出雲国守護を更迭される直前の康暦元年(1379)4月には、守護京極高秀が宝光寺に禁制を下している。
 守護は山名義幸に交代し、守護所は平浜八幡・竹矢郷から富田庄に移動したと思われる。権力者の交代は宝光寺にも影響した。明徳の乱(1391)では山名満幸が守護を解任され、京極高詮が守護となった。鏡智の後継者であった鏡潤上人が重代の文書や鏡智置文を持って退出する事件も起き、応永2年に掟を定めるとともに宗順と遠永を中心とする宝光寺の体制が回復された。南朝方が優位であった正平年中には平浜別宮安居師職を岩船寺金蔵坊が掠め取る事態が発生し、一旦は京極氏の守護代隠岐自勝と多賀玄超の沙汰で金蔵の弟子郷公が退けられ、栄覚の後継者である権僧都覚祐が職を安堵された。応永3年には再び安居師職をめぐる競合者が登場したため、覚祐が京極氏に安堵を求めている。

平浜八幡宮関係寺院2

 17世紀初めには平浜八幡宮と深い関わりを持つ六寺が宝光寺と迎接寺の2寺となっていた。宝光寺は従来から6寺の中心的存在であったが、これも間もなく廃絶し、迎接寺が残ったのはなぜであろうか。
 宝光寺に関する文書の初見は貞和4年10月8日出雲国守護代吉田厳覚安堵状である。これに先立ち住持が定められたとして下見谷の宝光寺敷地を安堵しており、この少し前に開創された可能性が高い。その後、観応2年5月18日僧長円寄進状がある。谷坊不断光明真言供料が観応の擾乱(南北朝の動乱ヵ)で失われ、谷坊に居住する僧衆が難儀したとの訴えを受けて寄進したものである。ただし、土地は地頭方からの給分であるので、地頭の寄進(安堵)状を今後申請するとしている。宛名の善儀御房がどこの寺の住職かは不明であるが、字義通り解釈すれば、特定寺院ではなく八幡宮の谷坊全体への寄進とも考えられる。谷の寺院の開創者鏡智上人はこの時点で生存していた。永正5年(1508)3月3日には宝光寺への寄進状の目録が作成されているが、そこには見えない。
 目録に最初に記されるのは正平14年10月28日前筑前守寄進状である。宝光寺敷地とともに大田を先寄進に任せて安堵している。先寄進とは大田に関するものであろうが、その場所は、永正5年の目録には「坪者観音寺のまへ」とある。観音寺は正平年間に下見谷に移ったとするが、この時点には移転を完了していたかは不明である。
 観音寺については、永和3年3月10日多賀玄超安堵状がある。その浜屋敷を往古よりの寺領として安堵しているが、観音寺は元々は「阿弥陀寺」と号していたことを記す。観音寺の由緒を記した文書には「新阿弥陀寺」とあるが、その関係はどうであろうか。
 院政期に成立した平浜八幡宮はその領域に大橋川の北岸の福富・大井を含んでいた。その福富の慶長7年検地帳には「観音寺」「観音寺田」(後者は慶安3年検地帳にも)とともに「大ノ田」(別当田・観音寺の北側ヵ)がみえ、明治9年の字調にも「観音寺」「観音寺田」がみえる。また、観音寺の字の北側の古墳は「阿弥陀寺古墳」と呼ばれている。これらの点からすると、正平14年時点で観音寺(阿弥陀寺)はなお福富にあった可能性が大きい。谷坊の料田が失われたため、福富の観音寺前の田(大田)が寄進されたことになる。それが宝光寺が谷坊の中心となったこともあって、正平14年の安堵状には「大田」が記されたのであろう。
 ただし、観音寺(阿弥陀寺)の敷地は水損に逢いやすく、その関連施設(これを阿弥陀寺に対して新阿弥陀寺と呼んだのであろう。開山は鏡智上人)があった下見谷に移されたのではないか。正平18年(貞治2、1363)8月には伯耆国山名氏が幕府に復帰したため、出雲国内は南朝守護冨田秀貞に代わって幕府方守護京極氏が支配するようになる。

2017年3月20日 (月)

平浜八幡宮関係寺院1

 『出雲鍬』によれば、八幡宮の関係寺院であった六寺は、18世紀初めの時点では、宝光寺と迎接寺(もともと大井村岩汐堂の本にあったか)の2つとなっていた。他の4寺は廃絶し、神宮寺の遺品は宝光寺に、他の3寺の遺品は迎接寺に保管されている。この時点で宝光寺に代わって迎接寺が中心となっていた。次いで1717年成立の『雲陽誌』には宝光寺も廃絶し、その遺品が迎接寺に保管されている。『雲陽誌』には弘治年中までは八幡の社僧6ヶ寺があったが、尼子氏滅亡後5ヶ寺が零落したとしるす。宝光寺の例にみられるように、同時にではなく、次々と廃寺となったのであろう。現在の迎接寺文書には、神宮寺・宝光寺・観音寺・菩提寺文書が含まれているが、能満寺文書はみあたらない。観音寺文書は南北朝・室町初期のものに限定される。菩提寺は尼子氏のもとで平浜別宮神宮寺職をめぐり神宮寺と対立していた。能満寺については、永禄12年に推定される尼子氏奉行人奉書(富家文書)八幡庄之内能満寺観音分領が浄音寺領宝厳寺とともに浄音寺に渡されている。一方、神魂神社覚書安国寺領であった宝厳寺領が天文12年の大内氏の出雲国攻めが失敗した際に、安国寺が富田城に籠城しなかったため、籠城した浄音寺に与えられたとする。浄音寺が尼子氏から安国寺領となっていた宝厳寺を与えられた。
  再興を図る尼子方に対して、毛利氏は永禄13年12月16日に某に対して浄音寺并末寺・大庭之内宝厳寺・同竜興寺、大草之内六所神宮寺・伊弉諾神宮寺・大庭之三村領、杵築鷺浦の代官職等を寄進している(富家文書)。松江市史では某寺を浄音寺と解釈しているが妥当あろうか。翌年3月23日毛利氏奉行人奉書では、浄音寺并六所・同神宮寺領の三ヶ所のみを浄音寺に去り渡すよう和多坊へ命じている(鰐淵寺文書)。その後、浄音寺と六所領・同神宮寺領は和多坊の御判の地でありながら不知行地と記されている。ここからすると、永禄13年12月の某寺とは鰐淵寺ではないか。その後、一部が浄音寺に返されたため、鰐淵寺は不知行分としたのだろう。そのため、一旦は和多坊に与えられた文書が返され、宛所が切断されたと思われる。
 以上の点は尼子氏と浄音寺の関係を物語っているが、同様に平浜八幡宮・宝光寺等関係寺院、安国寺も尼子氏との関係で所領を減らされたのではないか。そのために毛利氏からの発給文書は残って居らず、状況の理解が困難となっている。ただし、『雲陽誌』が記すように宝光寺以下の寺院が毛利氏のもとで急速に衰退したものではなかろう。衰退を決定的にしたのは、17世紀半ばの出雲大社における神仏分離であった。

2017年3月 7日 (火)

内田氏惣領の世代交代2

 元弘3年5月15日、京都に帰っていた後醍醐は綸旨により「弥三郎入道」に対して、注進については了解したとして、北条時直以下の追討を命じている。この時期本来の宛名を持つ綸旨は一族の惣領など有力武士に対して出されており、すでに述べたように「弥三郎入道」=左衛門三郎入道朝員である可能性が高い。養父致直は「新三郎」であったのに対して、致員の孫である朝員を「弥三郎」と呼んで区別したのであろう。
 その後まもなく朝員は死亡し、石見国内では「弥三郎宗景」が幕府方として活動していた。その宗景が死亡したためであろうか、養子三郎致員が石見内田氏の中心となったが、致員の本家周布氏が石見国内の南朝方の中心であったため、致員も南朝方に転じた。そのため国大将上野頼兼が指揮する国外の武士を動員した攻撃により豊田城は落城に追い込まれ、致員跡は欠所として幕府方に没収され、土屋氏に与えられた。これに対して遠江国で幕府方として活動していた孫八郎致景が、没収された所領は致員跡ではなく、自らのものであることを主張し、最終的には豊田郷と貞松名の支配を回復した。この後は、内田氏惣領は石見国内で活動していくことになる。
 惣領の生没年代を推定すると、初代致茂は1236年に死亡しているが、2代目致員は承久の乱以前の1215年前後の生まれで、1285年に死亡した。3代目致直は1235年前後の生まれで、1307年迄は生存していた。4代目朝員は1260年代半ばの生まれで、元服直後の1281年には「三郎」の名とともに、2代目致員から後継者に指名された。そして1330年代半ばには死亡した。その後、南北朝の動乱が発生し、遠江国にいた4代目致景が幕府方であったのに対して、石見国にいた養子致員は反幕府方に転じて幕府方の攻撃を受けた。

内田氏惣領の世代交代1

 承久の乱の勲功により石見国豊田郷を得た内田致(宗)茂は遠江国内田庄下郷の地頭であった。内田庄下郷と豊田郷の田数はそれほど変わらないが、前者が海岸部であったのに対して後者は中山間地帯にあり、実際の所領規模は豊田郷が大きかった。宗茂は石見国と遠江国を行き来して生活した。承久の乱以前に遠江国で生まれたのが三郎致員と致重であったのに対して石見国で生まれた異母弟が弥益丸=致義であった。
 致茂は嘉禎2年(1236)に三人の男子に所領を譲った。嫡子三郎致員には内田庄下郷と石見国豊田郷の主要部分、ならびに石見国貞松名を譲り、致重は内田庄下郷を中心に、弥益丸には豊田郷を中心に譲った。同年に致茂が死亡した後は弥益丸の母であった女性が「後家」として一族をまとめていた。
 致員は文永8年に嫡子新左衛門入道致直(法名生仏)には貞松名・豊田郷惣領地頭職と内田庄下郷一分地頭職を、庶子八郎左衛門尉致親(定願)には内田庄下郷惣領地頭職と豊田郷一分地頭職を譲り、一族が一旦は石見国系と遠江国系に分かれた。ところが、遠江国に戻っていた致員は、嫡子致直に男子がなかったこともあり、致親の子朝員に両国内の所領を譲り、一族の再統合を図った。この時点では致親も致朝と改名しているように、大仏氏から「朝」の字を与えられている。
 内田氏惣領にちなむ「三郎」を仮名としていた朝員は大仏朝房が守護であった石見国に入部したが、すでに生まれていた子を実父致朝のもとに残した。その子は孫八郎致景と祖父致朝にちなむ仮名を名乗った。これに対して朝員は養父致直女子と周布氏の一族内兼茂の間に生まれた子を自らの女子の婿に迎えて「三郎致員」と名乗らせた。これとは別に、朝員には「弥三郎宗景」という名の男子があったが、最終的には遠江国に置いてきた孫八郎致景を惣領として両国の所領の惣領地頭職を譲った。

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