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2017年2月17日 (金)

「竹島外一島」について4

 杉原氏はその後、「明治4年提出の二つの「竹島(鬱陵島)渡海願」」(2015年8月)を竹島WEB上で公開され、翌年には関連する論文を郷土石見に投稿・掲載され、そこでは自説を補強する事例を発見したとして藤原茂親「竹島航行漁漁願書」を紹介された。藤原は明治2年~3年にかけて、隠岐県、大森県、浜田県の大参事を務めた。隠岐島をめぐる位置づけが、独立した扱いから石見と一括して扱うように変更され、さらに県庁が大森代官所から浜田(浅井村)に移転したことによる。明治2年の隠岐島大惨事の時代は藤原は隠岐に居り、竹島=鬱陵島についての情報を得、明治3年6月には浜田藩大参事を辞職して出身地福岡県に帰り、福岡県士族として願いを提出した。
 島根県、さらに絞れば隠岐・松江では竹島=鬱陵島と松嶋=現竹島について正しい情報を持っていたが、福岡県を含むその他では当時作成の地図の誤った情報により、混乱していたことはすでに述べたとおりである。
 藤原は隠岐県勤務中に「竹島」の存在を知ったと述べている。次いで浜田県大参事時代に大庭善五を実際に「竹島」に派遣し、その上での「竹島」での試験漁業願を明治4年5月に出した。彼は鬱陵島を「松島」とも呼ぶことは福岡県に帰った時点では認識していたが、従来の「竹島」の名称を使用した。6月に追加提出した「竹島再検届」では「小磯竹」または「松島」と日本側が呼ぶのに対して、朝鮮側は「鬱島」と呼ぶことを述べると共に、「小磯島」と呼ばれる巨岩2つ=「現竹島」が隠岐と鬱陵島の間にあることを述べている。彼は隠岐の時点ではこれを「松島」と呼んでいたことを知ったが、福岡では「松島」とは鬱陵島のことであるので、小磯=松島説は誤りであると述べ、自分が申請をしているのが、鬱陵島であることを示した。
 これに対して杉原氏は「明治4年時に鬱陵島を「竹島とか小磯竹とか松島」と呼ぶという認識が茂親にはあったのであり、また後世の論争を見抜いていたかの如く鬱陵島と隠岐の間の2つの島を松島と云うのは誤りとわざわざ説明している」とされたが、このような評価が誤りであることは、これまでの説明を読んだ方には明白であろう。鬱陵島については、その位置はともかくこれが実在するのは確実であったのに対して、現竹島=元松島については隠岐(松江はその情報を入手可能)を除けば、その実在を含めて混乱していた。当方は資料がすべて明らかになった段階で、時間と地域を識別して述べたが、杉原氏は一旦述べた後に新たな資料を発見され、さらに論じられたので困難があったことは理解できるが、系統的理解をするのはそう困難なことではない。
付記:この文は最初に述べたように「少数派」と称する人々に対して感じた問題から書いた。彼らは、1905年のみ問題だとするが、これが一面の真理以上のものではないことも確認する必要がある。国際法が強者の論理であることは知られている。例として、ペリーが来航した際に小笠原を米国領土に編入したケースを考えればわかる。これがあった場合に日本が持つ不満と現在の韓国が持つ不満は同種のものであろう。なぜ鬱陵島の方が隠岐よりも問題の島に近く、行き来(1905年時点。その中には日本人によるものも多数あり)もあったのにというものである。1853年時点の日本は国際法や編入の方法は知らなかった。

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コメント

杉原氏が主張された一島説、すなわち明治十年太政官指令の「竹島外一島」は「竹島とも松島とも呼ばれる鬱陵島一島を指すのではないか」という説明は誤りですが、だからと言って竹内猛氏の説明が正しいわけでもありません。
この問題はいろいろ考えるべきことが多いですね。

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