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2017年2月14日 (火)

「竹島外一島」について1

 これまで竹島問題については、他の論者の意見を読んで、それに対する自分の意見を述べる形であったが、もう少し史料をも読みつつ論じてみることとする。ネットで展開される「少数派」と称する議論に危うさを感じたからである。本人は自己満足のレベルで議論しており、「はだかの王様」の様相を呈しているが、それに説得力があると誤解している人もかなりあるようなので、無視できないところがある(といいつつ、主戦場の中世史に比べるとこちらも修行が十分ではない)。
 その少数派の人々が依拠している(個々の部分で意見は異なる)のが、島根県竹島問題研究会顧問杉原隆氏の論考であるようなので、こちらに関して述べることとする。資料への精通度は杉原氏には及んでいないが、一応の議論はできるとの感触を得た(誤解かもしれないが)。今後、書きながら考えることで、少しずつ自らの理解度は深まってくることを期待したい。杉原氏の論は資料収集に基づくものであるが、その解釈にはなお検討の余地が大きい。
 今回は、この問題について杉原氏が最初に論じた「明治9年の太政官文書−竹島外一島之儀本邦関係無之について−」を検討する(2008年)。ここで杉原氏は政府の使用した「竹島外一島」は島根県の表記を踏襲しているが、その中身は違い、竹島(鬱陵島)と外一島(松島)を島根県が識別して見解を伺ったのに対して、政府は竹島とも松島とも言われた鬱陵島のみを念頭に回答した可能性が大であるとした。
 今回の問題は地籍作成に関して政府が「竹島」について島根県に問うたことから始まっている。政府の担当者が自ら調べる中で疑問を持ち、島根県に回答を求めたのである。島根県からの伺いに十分実態を知らない政府が回答したものではないことが重要である。それを実態を正確に知っている島根県は「竹島外一島」として報告するとともに質問したのである。そしてそれが政府にも理解できるように、政府からの質問への回答ならびに質問(これを①とする)とともに資料(これを②とする)並びに地図を添付した。政府に十分な知識がなく混乱していたことは十分踏まえつつ、自分たちが必要な回答を政府がするように「竹島外一島」として異なる二島(一つは政府におなじみの、もう一つは政府になじみが薄い)について質問したのである。島根県側は竹島を隠岐から「乾位120里許」、外一島の松島を、竹島と同一線路=方角で隠岐から80里許としており、これに地図を合わせれば、政府がその関係を理解できないことは考えられないし、疑問があればさらに質問したであろう。
 これに対して、杉原氏は島根県が提出した資料にも竹島と松島の間で混乱が見られるとするが、その評価は妥当だろうか。それは氏が「大屋甚吉が漂着したのは竹島だから竹島も松島も鬱陵島を意味」と記した部分である。資料②では最初に竹島について説明し、次いでそれとは明らかに別の島として松島を説明する。ただし中心は竹島で、松島はその関係島嶼であった。松島の記事に続いて「永禄年中」以下の記述がある。これを杉原氏は松島に関する記述とされるが、そうではなく以下はすべて竹島の説明である。それは回答并質問①を見れば明らかである。よって杉原氏の「 」内の評価は誤りである。島根県側は両者を正確に識別している。

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