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2017年2月

2017年2月25日 (土)

資料の声を聴く

 これまでこのタイトルを使う場合は、従来の説に対して「資料の声を聴いた」結果を述べてきた。正確なデータを確認してはいないが、「横田庄と女性」については、コンスタントに閲覧する人があるようだ。これは大河ドラマ「北条時宗」が放映された前後に、異母兄北条時輔に関する研究が進み、横田庄内の棟札から、時輔の母妙音は出雲国の三処氏の出身であるというのが通説になったことに対して、それは100%あり得ないとの観点から述べた。ポイントは「三処比丘尼」をどう解釈するかという点と、三処氏がどのような一族であるかということであった。ブログを始めるかなり以前に、朝山日乗について、信長研究者から松江出身の三浦周行説=出雲国朝山氏出身との通説が否定されたことがあったが、それが誤りであることを論文で述べた。益田氏研究でも福田栄次郎氏による三隅氏惣領説が説かれ、地元の研究者はそれが事実ではないと思いつつ反論ができなかったので、福田説を再検討しそれが誤りであったことを研究会(福田氏も久留島氏も参加)で発表した。長い間成文化はしていなかったが、新資料を利用した西田氏の研究でも、福田説が成り立たないことが明らかにされた(その後、自身で益田氏系図の研究を史料編纂所紀要で発表)。
 話は変わって、横田庄のある奥出雲町の横田コミュニティセンターには横田町誌編纂時に史料目録(一通一通ではなく簿冊毎)が作成されているが、個々の文書の内容の利用はなされていない。目録をみると、他の郡にはない年次の御用留が残されており、貴重である。今回の松江市史・近世編でも調査範囲を広げてほしいとの希望を出したが、予算・人員の関係もあって実現しなかったようである。自分の目で確認した訳ではないが、約20年前に調査に行った際の状況は、一度燻蒸しないと、紙がくっついてしまって見ることはできないというものであった。同行したベテランの方が地下の保管室に行って見た状況である。
 島根県立図書館には、明治9年~16年の字調が残っているが、これも閲覧は可能だが、乾燥した状況でくっついてしまっていて、とても破れる危険を覚悟で剥がして見ることはできないものがあった。これも燻蒸すれば剥がすことは可能であろう。このように近世史料には資料の声を聴きたくても聴けない資料が大量にある。お隣鳥取県では文書館が整備され、県史の刊行が進んでいるが、島根県は文書センターは近代以降の行政資料のみを守備範囲とし、県史も横田町誌と同時期に明治百年を記念して作成した、現在の課題にはとても答えきれないものしかない。資料本体の保存は大変でも、一度燻蒸し、はがした状態で写真を撮影すれば、実質的な保存は可能である。資料の内容が分かれば、この簿冊は保存しようとなるであろう。また、他県では文書館に個人から資料が寄託できるようになっている。島根県では県立図書館がそうした受け皿になっているが、文書館と違って網羅的にはできないし、図書館の他の業務との関係もある。
 文書館があれば、資料の収集と解読も行われ、その成果も県民に示すのであろう。島根県には古代文化センターと出雲古代歴史館があるが、そこの職員の意識は文書館であった場合の職員の公共的意識とは比較にならないほど低い(その意味では近年死亡された古代史家上田正昭氏の見識も問われる。財政当局へのうけを考えたのであろう)。具体的には守備範囲が狭いのである。ということで、島根県の歴史がこのままだと消えてしまう危機的状況にある。資料調査と人材育成がいまほど求められている時期はない。松江市史の編纂で、松江市域についてはそれなりの近世資料調査が行われており、これを追い風にして、新たな体制を構築することは、全くない(実際、松江市以外では資料調査に基づく近世史以降の歴史編纂作業は皆無)場合と比べて遙かに容易であり、今なら図書館の成果との統合も可能であるが、しばらくするとそれすら不可能になる。これが本日の「資料の声を聴く」のテーマであった。
 

AMDから新CPU

 2011年の暮れにAMDから新CPUであるFXシリーズが発売された。当初は画期的な設計で、インテルのCPUを上回る性能だと言われたが、登場したものは全くの期待外れで、以後はインテルの独壇場が続いていた。それが、今度こそインテルの牙城を崩す性能のライゼンが3月には登場しそう。AMDの場合、工場の製造プロセスの微細化でインテルに遅れているという致命的ハンディがあったが、今回はベンチマークなどをみると本物のようである。これで、インテルも緊張感を持って新製品の開発を行うことになろう。現在のインテルは14nmのプロセスで製造し、少しずつ10nmへ移行していくようだが、ライゼンは14nmだということ。一から設計し直したので、消費電力もインテルを下回り、且つ多くのベンチマークでインテルの競合製品を上回る数値をたたき出している。やはり競争がなければと思うが、少し様子見をして、環境が整ったところで自作機を組み立てたい。現在は第4世代のcorei7を利用中で、最新のものとそれほど差がない状況である。CPUよりSSDを使えば快適である。HDDは今となっては安定性はあるが遅い。
 トヨタの新SUVの売れ行きがすごいが、なぜなのだろう。ハイブリッドがあるのも一つの理由であるが、日本の消費者がもう少し成長しないと、国産車は低レベルのままである。ビッツが2度のマイナーチェンジの度に良くなっていることは確かだが、ボディの溶接点を増やしてボディ剛性が別の車のようによくなっている。裏を返せば、とんでもなく悪い状態で市場に送り出されたことを意味する。日本の消費者ならこれぐらいでと見くびられている。ダイハツが製造するソリオ対抗のトールワゴンも驚くべきほど注文があるようだが、やはり、トヨタの営業からの注文のため、良くない車にとどまっているようだ。1リッター自然吸気のタイプは軽のタントの自然吸気よりは良いが、それだけの車である。これまた今後のマイナーチェンジで大幅に良くなるのだろうか。1リッターターボもエンジン・シャーシの完成度は低いようだが、注文が殺到している。もう少したてば購入者からのレビューで、売れ行きは落ちるであろう(試乗などは他の車を含めて全くしておらず、有識者の情報を収集してのものである)。ソリオより車幅が広いことを評価する評論家のコメントがあるが、これはパッソのプラットフォームを使ったからで、ソリオの場合は二人掛けなら、1.7m未満ギリギリである必要はないとして、幅を狭めている。あまりに勉強不足のコメントである。
 新SUVも同時期にマツダのCX5がモデルチェンジしており、SUVならこちらの方かはるかに良いが、トヨタ車は値段がプリウス+αで手頃なのだろう。こちらは評判は良いが、その原因はダンパーとタイヤがよいためである。いずれも外注品である。プリウスの標準車は日本メーカーのエコタイヤ4銘柄をはき、ダンパーについては銘柄が確認できていないが、乗り心地は良くないそうだ。日本メーカーといっても同一銘柄の流通品とはことなり、コストと低燃費にこだわった最悪のタイヤのようだ。これも消費者が変わらないかぎり今のままか。ドイツ車がいいのではなく、日本車のダンパーとタイヤが、営業サイドの要求であまりにもプアーだという。まさか、ドイツメーカーからお金を貰って引き立て役をしている、あるいはオプションでダンパーとタイヤを交換してほしいわけではなかろうが。

弥三郎入道について

 益田金吾家文書に残る内田氏・俣賀氏関係文書について検討する。
 内田氏惣領に関する文書は以下の通りである。
①文永8年4月3日沙弥西仏譲状写、②正安2年2月5日沙弥定願譲状写、③建武3年3月19日内田致景軍忠状写、④建武3年9月26日内田致景軍忠状写、⑤建武3年11月26日某(内田致景ヵ)軍忠状。これと問題となるのが宛所の「弥三郎入道」を内田左衛門三郎入道に比定した⑥元弘3年5月5日後醍醐天皇綸旨である。
 ①から⑤は内田致親(朝)=定願→朝員→致景と相続された文書と考えられるが、①②が内田家文書(永田秘録)に含まれるのに対して、③~⑤は含まれない。③~⑤が致景の所持した文書であることは確実であるが、①②はどうであろうか。朝員が所持したもので、正文は鎌倉末期に譲状とともに致景に渡されたが、その写しが致景以外の朝員の子に伝えられたものではないか。⑥の後醍醐天皇綸旨も弥三郎入道=朝員に与えられ、それを朝員の子=「弥三郎宗景」が所持していたものと考えることができる。石見内田氏は南北朝動乱の開始時点では幕府方であったが、それが弥三郎宗景が死亡したため、朝員の女子に婿入していた致員が継承し、自分の実家である周布氏惣領とともに南朝方として行動した可能性がある。それがゆえに①②が写であるのに対して⑥は原本なのではないか。この説が成り立つ可能性は明証を欠くので、現状では高いとは言えないが、「弥三郎入道」の人物比定の一環として述べた。③から⑤は致景の文書であるが、その後、致世以降の内田氏惣領家から流出したものである。
 俣賀氏に関する文書は、⑦永仁3年5月2日関東下知状、⑧正平6年10月26日常陸親王令旨(藤原景春宛)、⑨観応3年8月日俣賀致治軍忠状写の3通である。⑧は後に俣賀家文書に流入したもので、俣賀家文書にも、常陸親王令旨が残り、俣賀氏宛とともに藤原景春の同族と思われる藤原景光宛のものがある。一旦、俣賀家に流入した後に流出したもので、流出時期は上下俣賀氏が一本化した応永末年以降であろう。⑦は上俣賀氏の文書で、⑧はブロクでは下俣賀氏の文書であると考えた。
 なお、益田金吾家文書には、⑨貞和5年10月13日足利直冬書下も含まれる。「□原孫三郎」との宛名と「周防国高塚庄」を安堵されている事からすると、内田氏や俣賀氏ではなく、周防国の武士である可能性が高い。その他、久留島氏科研によると、近世初頭の益田氏宛のものが4通含まれている。
 

2017年2月22日 (水)

俣賀氏について6

 徳治2年4月2日六波羅下知状により豊田郷内俣賀・横田両村一分地頭内田兵衛三郎致直と豊田郷惣領内田左衛門三郎朝員代教智の山河相論に関する裁定が下された。この致直について大山・上島両氏は俣賀下村地頭「内田兵衛五郎円戒」と同一人物とされたが、「三郎」と「五郎」の違いは決定的であり、致直は円戒の兄弟で俣賀上村地頭を譲られた人物である。そして嘉暦2年正月29日には致直の後継者「俣賀上村地頭内田彦三郎致俊代良祐」と「同下村地頭内田兵衛五郎入道円戒後家尼光阿」の助中尾山に関する相論について和与状が作成されている。
 大山氏が「自中道下」を横田下村だけでなく、俣賀村にもかかると誤読された原因は、徳治2年の下知状の末尾に「自中道下之山河者、停止朝員濫妨、致直可令領知」とあることであろう。この裁判では山河については惣領のものか、一族共同のものかということが争われたが、そのきっかけが豊田下村の「自中道下」であったことを示している。惣領家は「自中道上」を支配しており、その堺目にある山河(実際には狩倉)をめぐる対立であったのである。惣領家は致直の兄弟円戒とも同様の裁判を行っており、そこでは和与により3ヶ所が円戒後家に避渡されている。その中に「俣賀面限比多尾并横田下小山」(現在の上野付近であろう)がみえるが、この付近であろう。
 一方、「助中尾」は上俣賀氏と下俣賀氏の間でも相論となった場所で、俣賀村内であるにもかかわらず惣領家から光阿に避渡されているのはなぜであろうか。惣領朝員の養父致直が致員から譲られた所領には俣賀村に関するものは一切ない。ところが朝員が嫡子致景に譲った所領には「俣賀田」が含まれており、婚姻関係などを通じて獲得したものであろう。それゆえ「助中尾」が惣領家と下俣賀氏の係争地となったのである。
 以上、徳治2年の裁許状の末尾に「自中道下」とあるのは横田下村であり、それはこの地が惣領家と上俣賀氏の実際の係争地であり、これが発展して、惣領家によるすべての山河は惣領家の進退である(そこには俣賀村も含まれる)との主張が生まれた。そんな根拠なき主張が認められはずはないと思うが、主張したのである。

2017年2月19日 (日)

俣賀氏について5

 義弘と満弘の対立は康暦2年11月の父弘世の死により一旦終息したかにみえたが、その原因は未解決であり、安芸国における幕府・守護と国衙領を中心に所領の押領を続ける国人の対立が高まった至徳2年に至って復活する。ただし、康暦2年の対立時点では義弘方であった益田氏惣領が、その後義弘の意向を受けて満弘を婿として迎えていたこともあり、反義弘方=満弘方に転じている。対立が復活した至徳2年7月には満弘が俣賀新三郎(下俣賀氏)に所領を返しているのも対立の発生示している。詳細は不明であるが、本来の下俣賀氏惣領との関係で、庶子家が俣賀地頭職を一旦没収されたのであろう。それを満弘が返しているが、幕府は8月には満弘に代えて義弘を石見国守護に補任している。下俣賀氏は義弘方を選択したと思われるが、内田氏惣領は満弘方であった。これに対して周布氏、得屋氏、小笠原氏は永和2年と同様、至徳2年以降の対立でも義弘方=幕府方であった。
 途中紆余曲折があったが、明徳4年末には義弘と満弘の対立は解消し、益田氏惣領は益田庄本郷地頭職を返された。その後、満弘は義弘の分国であった豊前国の守護となったが、大友氏との戦いで戦死し、それに対する幕府の対応への不満が、義弘が幕府に背く応永の乱の原因の一つとなったが、応永6年末には大内義弘が和泉国堺で敗死し、応永の乱が終結し、応永7年には新守護に山名氏利が補任された。明徳4年末まで反義弘派であった益田氏や内田氏惣領は山名氏のもとでいち早く所領を安堵されている。これに対して義弘派であった周布氏への所領安堵は遅れており、至徳2年以降の状況が大きく影響している。
 俣賀氏関係文書は至徳2年(1385)の満弘による安堵状以降、応永28年(1421)まで残っていない。義弘との関係があったがために、周布氏と同様、応永の乱の影響を受けたのであろう。この間に上俣賀氏と下俣賀氏の間で婚姻関係が結ばれ、一本化されたかのような文書の残り方である。すなわち、応永28年12月には俣賀景勝(兵庫尉致貞)が所領を嫡子掃部左衛門尉致家に譲り、翌年正月には致家が嫡子賀幸丸に譲っている。景勝は上俣賀氏系であったが、下俣賀氏女子と結婚し、生まれたのが致家であろうか。上俣賀氏系の「兵衛尉」を名乗る父から下俣賀氏系の「掃部左衛門尉」を名乗る致家に当主が交代している。そしてその後の混乱を避けるためか、幼少の子を後継者として所領を譲っている。その後の文書の伝来については特に述べるべきことがないので、今回はここまでとする。

俣賀氏について4

 承久の乱後に石見国豊田郷と貞松名を獲得した内田致茂の男子としては致員、致重、致義がおり、豊田郷は3人に分割して譲られた。内田家文書には致員と致重の関係文書が含まれている。致重系の文書が正和5年11月26日尼法蓮譲状で、横田上村内の田畠を譲っている。貞和6年から7年にかけて足利直冬から安堵を受けている中にもこの系統のものが含まれている可能性がある。これに対して俣賀家文書は伊藤・藤原氏関係を除くと致義系の文書のみである。それがさまざまな理由で一部が流出し、益田金吾家文書に含まれている。金吾家文書はそれ以外のものも含まれている。内田氏惣領「致世」と上俣賀氏惣領「致弘」は大内弘世との関係で一字を与えられたのであろう。
 大内弘世が貞治元年に幕府に復帰すると、反幕府方から幕府に復帰する国人が堰を切ったようにこれに続いた。そして貞治2年に幕府に復帰した山名時氏の子義理が貞治4年には荒川詮頼に代わって石見国守護となり、益田氏惣領兼見、内田氏惣領、上俣賀氏惣領、周布氏惣領兼氏が幕府方となり、遅れる形(幕府方の攻撃を受けた後)には三隅氏と福屋氏も幕府方となった。貞治4年の守護からの打ち渡し状はすべて幕府方であった内田左衛門三郎(俣賀致治)宛のものである。これに対して上俣賀氏惣領致弘は嫡子道祖徳丸に所領を譲る形でとりあえずの世代交代を行っているが、守護から安堵されたかは不明である。その後、守護は反幕府方であった大内弘世に交代した。
 永和2年に大内弘世がその行動に不信感を持つ幕府から石見国守護を解任され、その関係者の排除が行われた。この時、幕府から感状を与えられ、次いで康暦元年7月に新守護大内義弘から当知行安堵された「内田俣賀新三郎」は下俣賀氏惣領左衛門三郎致治の後継者であろう。これに対して反幕府方であった時期に大内弘世との関係を有した内田氏惣領には、康暦元年7月に守護大内義弘が当知行安堵しているが、康暦2年10月には義弘と対立した弟満弘(その背後には父弘世あり)が所領宛行を行っている。内田氏惣領や福屋氏は満弘方であったが、益田氏、三隅氏、周布氏、さらには小笠原氏、佐波氏、出羽氏も義弘方であった。

俣賀氏について3

 以上のように、明証がないため、判断がぶれてしまったが、俣賀又三郎致義は下俣賀氏惣領であることが確認できた。致義の子熊若丸と俣賀致弘を同一人物とする説があるが、まったく文書に対する理解を欠いた説でしかない。ただし、俣賀家文書には下俣賀氏と上俣賀氏それぞれの惣領家の文書も残っている。
 貞和2年8月には豊田郷地頭内田孫八郎致景代子息左衛門三郎致世が上野頼兼に軍忠状を出し、3年5月には「豊田郷地頭内田三郎致世」が軍忠状を提出している。貞和5年7月19日には内田氏惣領致景が遠江国内田庄内下郷と石見国長野庄豊田郷道野辺地頭職と村々、さらには周布貞松名を嫡子致世に譲っている。以上の史料はすべて内田家文書である。これに対して貞和5年8月28日には九州にいた足利直冬が「内田俣賀三郎」に対して自らの元に馳せ参ずるよう命じている(俣賀家文書)。同年10月1日には直冬が内田氏惣領である「内田左衛門三郎」に対して、厚東周防権守に同心合力すれば当知行を安堵するとの催促状を出している。この両者を同一人物と誤解する人が多いが、内田家文書と俣賀家文書に残されている文書には共通するものが一通もなく、両者は別人である。この点は明確なのに、研究者でありながらそれが理解できない人がほとんどである。
 内田氏惣領と下俣賀氏はいずれも幕府方であったが、観応の擾乱で対応は分かれる。惣領家は足利直冬の催促に応じるが、下俣賀氏は石見国人で幕府方にとどまった数少ない事例である。催促状こそ両陣営から出されているが、実際に取った行動は別々である。これに対して俣賀家文書にも反幕府方となった一族=上俣賀氏惣領(上俣賀氏惣領の文書が俣賀家文書に残っていることから間違いなかろう)の文書が含まれている。俣賀家文書には14世紀半ばのものとして、内田左衛門三郎以外に伊藤次郎六郎と藤原景光、藤原景春、俣賀兵庫允(→兵庫助、ただし文和2年のものは兵庫允を誤ったものであろう)のものが残っている。上俣賀氏惣領と思われるのが俣賀致弘(兵庫允→兵庫助)で、少なくとも観応の擾乱後は反幕府方であった。伊藤氏と藤原氏は萩閥にも残っている出雲国小堺氏の一族である可能性もある。そして内田左衛門三郎の名が唯一確認できるのが観応3年8月日の軍忠状で、「俣賀左衛門三郎致治」と名乗っている。

俣賀氏について2

 上俣賀村と下俣賀村のうち、惣領内田氏と紛争を起こしていた地頭の所領角村と堺を接するのは下俣賀村である。上俣賀氏なら「彦三郎致俊」がいる。以上をまとめると、下俣賀氏惣領又三郎致義は内田氏惣領との関係を強める一方で、高津道性に従い長門探題攻撃に参加して軍忠を認められた。内田氏惣領は「弥三郎宗義」の行動からみられるように幕府方であった(これとは別に遠江国に本来の嫡子致景がいた)。又三郎致義のもとには足利尊氏からの軍勢催促状も届いたが、致義は高津氏との関係から南朝方となった。一方石見国にいた熊若丸は尊氏の催促に応じて幕府方守護吉見氏の軍に参加して、九州から上洛する尊氏軍とともに摂津国兵庫から近江国西坂本の合戦で軍忠を積んでいる。
 一方、建武3年4月の丸毛兼幸軍忠状によると、建武2年12月の時点で石見国内には幕府方が少なかったため、周防国の大内長弘と合流して、石見国守護目代と合戦に及んだとする。目代=守護代は高津道性の子長幸で、建武3年正月には幕府軍が高津郷小山城に楯籠もる高津長幸を攻撃している。致義は国外で南朝方として活動していたため、建武4年正月には致義跡が欠所として没収され、その子熊若丸に預けられている。 その一方では7月の時点でも俣賀掃部左衛門尉致義(南朝方となった国人は任官しているケースが多い)に対して、幕府の守護上野頼兼が軍勢催促を行っている。そして同年九月には致義と熊若丸代彦九郎致氏が同筆同文の軍忠状を提出して上野頼兼の承判を得ており、この時点では致義も幕府方となっていた。
 その致義も暦応3年8月以前の黒谷城攻撃の際の白岩合戦で討ち死にし、上野頼兼が子である熊若丸に当知行と本領を安堵している。暦応3年3月には上野頼兼が石見国須子村内田屋敷を軍忠と過去の由緒により、致義に安堵している。この所領については康永3年2月に下俣賀氏円戒の妻光阿跡である須古村内名田畠が覚融により横領されていることを熊若丸が訴え、上野頼兼が大森左衛門三郎に熊若丸への打ち渡しを命じている。その過程では熊若丸の主張について、益田氏惣領兼世に聞き取りが行われ、兼世は光阿の関係者であろう助つぼねが須子の手継文書と御下文を覚融方に渡してしまったため、軍忠状を確認し、熊若丸方へ渡すべきだと、上野頼兼の側近松田将監に回答している。

俣賀氏について1

 このことについてはすでに述べたことがあるが、今ひとつ納得がいかないので、再度述べる。まずは、上俣賀村と下俣賀村の範囲である。嘉暦2年(1327)に惣領である上俣賀氏と庶子である下俣賀氏の間で相論となったのが助中尾山なので、ここに両者の境界があったことは確認できる。助中尾は両者の所領があった。田と在家は両者で折半しているが、山野は惣領である上俣賀氏の知行が認められている。ただし、これに先立つ正和2年(1313)の内田氏惣領と下俣賀氏の相論では介中尾と西田平・俣賀面比多尾并横田下小山の狩倉3ヶ所が下俣賀氏に打ち渡されている。この三ヶ所が下俣賀氏領の範囲を示し、且つ正和元年の円戒譲状に梅月藤次太夫屋敷がみえるので、俣賀のうち、現在の梅月が下俣賀氏領であったことがわかる。横田下村をどのように分割したかは不明である。
 次に問題となるのが、俣賀又三郎致義が、元徳4年(1332)5月に朝忠の語らいを得て、豊田郷一分地頭から訴えられていることと、建武2年5月に俣賀・横田両村地頭尼妙戒が俣賀又三郎致義の乱妨を訴えている点である。妙戒はその名に「戒」を付けることから俣賀下村と横田下村一分地頭円戒の関係者であることは確実である。そのため、致義は上俣賀氏の関係者だと考えた(五郎円戒に対して又三郎である)ことがあったが、下俣賀氏=市熊丸でも問題はない。正和元年6月1日に円戒が孫である市熊丸を嫡子として横田下村一方と俣賀村一方地頭職を譲っているが、女子孫等にも田畠を譲っている。妙戒は横田下村と俣賀村で田畠を譲られていたと考える。致義が上俣賀氏であれば、後述の致俊からの譲状が残っていたはずである。
 横田郷一分地頭とは前年に内田氏惣領の所領である大嶽村の地頭代兼阿から訴えられていた豊田郷内角村地頭と同一人物であろう。朝忠は内田氏惣領左衛門三郎入道朝員との関係がうかがわれる。
 嘉暦2年時点の上俣賀氏惣領は内田彦三郎致俊であり、元弘3年5月に後醍醐天皇綸旨により軍勢催促を受けている「弥三郎入道」ではない。下俣賀氏の関係者である又三郎致義・尼妙戒とも一致しない。「弥三郎入道」は綸旨の本文中ではなく宛所としてみえるので、庶子ではなく惣領である。そうなると内田左衛門三郎入道空昭しか可能性のある人物はいない。空昭は嫡子八郎致景を遠江国に残す一方で、養父致直女子を母とする内兼村を自らの娘(妙忍)の婿に迎えて「三郎致員」と改名させている。建武3年5月には俣賀致義の子熊若が軍忠状野中で「弥三郎宗景」とともに軍忠を積んだことを記した文書を大将吉見三河守頼隆に提出している。この「弥三郎宗景」もまた、石見国入部以降に生まれた朝員(空昭)の子である可能性が高い。消去法でいくと、この可能性しかないのである。

2017年2月18日 (土)

周布兼長と兼氏

 南朝方の石見国守護に補任された周布兼宗は興国3年(1342)3月に死亡した。この時点で嫡子兼長(悦喜丸)は12才、その母死亡した嘉暦元年(1326)12月4日以前に生まれた兼氏(孫法師丸)は、暦応5年(1342)2月に幕府方が小石見城を攻めた際に、周布城凶徒左近将監兼氏が降参したことがみえる。その後、幕府方は周布城をへて三隅城の攻撃に当たっている。周布城には兼宗がおり、これも降伏に追い込まれた可能性が高い。康永元年(1342)12月にも幕府軍は木束・永安を攻めて周布・福屋・高津・井村氏を降伏させ、康永2年3月には都野城(都野孫三郎)を攻め、7月から11月にかけては再び三隅城を攻撃している。兼宗が死亡したのはこの年の3月である。
 そうした中、兼宗の嫡子兼長は康永4年(1345)8月に周布郷地頭職関係文書の紛失状を作成・提出し、益田氏惣領兼世と守護上野頼兼の承判を得ている。周布兼長が益田氏とともに幕府方として行動していることがわかる。翌貞和元年12月には内田氏惣領致景が豊田郷内道野辺村と貞松名は内田三郎致員跡ではなく、自らの所領だとして下地の避渡しを求め、上野頼兼がこれを認めている。この時点では幕府方が優位に立っていたことがわかるが、その一方では貞和2年から5年にかけて、やはり幕府方が三隅城を攻撃している。その間、貞和4年5月以前には豊田郷内の赤松山で合戦が行われている、
 幕府は南朝方の最後の拠点三隅城をなんどとなく攻撃するが、これを落城させることはできず、そうしていると降伏したはずの南朝方国人が起き上がりこぶしのように再度抵抗を開始するということが繰り返されていた。次いで、貞和5年8月には永安別符一分地頭尼良海が嫡子孫太郎経貞への譲りを悔い返し、次男二郎三郎経兼を嫡子として譲り直している。「経明」がその名を「経兼」に戻していることから、良海は幕府方から永安氏の本家にあたる三隅氏と結ぶ選択をしたと思われる。
 そして貞和6年後半になると足利直冬の影響が石見国に及ぶようになり、12月には大宰府の直冬のもとに参陣して所領の安堵を受けた国人が多数みられる。そうした最中の11月17日には周布兼長が20才で死亡した。兼長は17才であった貞和3年2月には兼長に子が出来た際には返すとの条件で惣領分を兄兼氏に譲っている。兼長は翌貞和4年には幕府方として鳥屋尾城・高木城の攻撃に参加し、上野頼兼の注進を受けた足利直義から感状を与えられている。
 問題はこの時点の兼氏の行動である。明証は欠くが、以前同様三隅氏とともに南朝方であった可能性が高い。幕府方であった兼長は後継者がないまま死亡した際のことを案じたものであろうか。観応2年12月には周布左近将監兼氏に対して周布郷惣領地頭職が安堵されている。発給者は萩閥には「義貞」とするが、周布氏系図が記す「足利右兵衛佐源直冬」が正解であろう。暦応2年に兼宗の庶兄兼光が討伐されたが、周布氏内部も幕府方と南朝方に分かれていたのであろう(兼宗と兼光のブログも更新した)。 

2017年2月17日 (金)

「竹島外一島」について4

 杉原氏はその後、「明治4年提出の二つの「竹島(鬱陵島)渡海願」」(2015年8月)を竹島WEB上で公開され、翌年には関連する論文を郷土石見に投稿・掲載され、そこでは自説を補強する事例を発見したとして藤原茂親「竹島航行漁漁願書」を紹介された。藤原は明治2年~3年にかけて、隠岐県、大森県、浜田県の大参事を務めた。隠岐島をめぐる位置づけが、独立した扱いから石見と一括して扱うように変更され、さらに県庁が大森代官所から浜田(浅井村)に移転したことによる。明治2年の隠岐島大惨事の時代は藤原は隠岐に居り、竹島=鬱陵島についての情報を得、明治3年6月には浜田藩大参事を辞職して出身地福岡県に帰り、福岡県士族として願いを提出した。
 島根県、さらに絞れば隠岐・松江では竹島=鬱陵島と松嶋=現竹島について正しい情報を持っていたが、福岡県を含むその他では当時作成の地図の誤った情報により、混乱していたことはすでに述べたとおりである。
 藤原は隠岐県勤務中に「竹島」の存在を知ったと述べている。次いで浜田県大参事時代に大庭善五を実際に「竹島」に派遣し、その上での「竹島」での試験漁業願を明治4年5月に出した。彼は鬱陵島を「松島」とも呼ぶことは福岡県に帰った時点では認識していたが、従来の「竹島」の名称を使用した。6月に追加提出した「竹島再検届」では「小磯竹」または「松島」と日本側が呼ぶのに対して、朝鮮側は「鬱島」と呼ぶことを述べると共に、「小磯島」と呼ばれる巨岩2つ=「現竹島」が隠岐と鬱陵島の間にあることを述べている。彼は隠岐の時点ではこれを「松島」と呼んでいたことを知ったが、福岡では「松島」とは鬱陵島のことであるので、小磯=松島説は誤りであると述べ、自分が申請をしているのが、鬱陵島であることを示した。
 これに対して杉原氏は「明治4年時に鬱陵島を「竹島とか小磯竹とか松島」と呼ぶという認識が茂親にはあったのであり、また後世の論争を見抜いていたかの如く鬱陵島と隠岐の間の2つの島を松島と云うのは誤りとわざわざ説明している」とされたが、このような評価が誤りであることは、これまでの説明を読んだ方には明白であろう。鬱陵島については、その位置はともかくこれが実在するのは確実であったのに対して、現竹島=元松島については隠岐(松江はその情報を入手可能)を除けば、その実在を含めて混乱していた。当方は資料がすべて明らかになった段階で、時間と地域を識別して述べたが、杉原氏は一旦述べた後に新たな資料を発見され、さらに論じられたので困難があったことは理解できるが、系統的理解をするのはそう困難なことではない。
付記:この文は最初に述べたように「少数派」と称する人々に対して感じた問題から書いた。彼らは、1905年のみ問題だとするが、これが一面の真理以上のものではないことも確認する必要がある。国際法が強者の論理であることは知られている。例として、ペリーが来航した際に小笠原を米国領土に編入したケースを考えればわかる。これがあった場合に日本が持つ不満と現在の韓国が持つ不満は同種のものであろう。なぜ鬱陵島の方が隠岐よりも問題の島に近く、行き来(1905年時点。その中には日本人によるものも多数あり)もあったのにというものである。1853年時点の日本は国際法や編入の方法は知らなかった。

2017年2月14日 (火)

「竹島外一島」について3

 第2期の中間報告書(2011年2月)には氏による「明治10年太政官指令‐竹島外一島之儀ハ本邦関係無之‐をめぐる諸問題」が収録されている。ここでは1877年3月29日の太政官指令直前の3月17日に内務省から提出された4号の文書が検討される。当然、細部の検討は内務省で行われ、それを踏まえての決定であった。島根県から提出された資料が添付されなかったのはそのためである。
 この4通の資料には鬱陵島のみについて記されている。そこから氏は「内務省から太政官への伺いや太政官からの指令で「竹島外一島」という表題を用いているもののそれは稟議書によくみられるように元々の島根県の伺いにあった表題をそのまま案件名として利用しただけで、太政官は、鬱陵島が日本と関係ないと指令を出した可能性が濃厚である」と2008年に最初に論じた自論を補強された。
 ついで氏は明治14年の「松島開墾願」を検討され、氏は「松島については最前指令の通りであり、松島開墾は不許可」とされていた資料を発見し、ここから「竹島外一島」が実は鬱陵島のことであることが明確となったとされた。この見解は妥当であろうか。すでに述べたように、政府は「竹島外一島」の中で鬱陵島問題を重視し(その時点でも青森・千葉の人から開発願いが出ていた)、島根県の質問に回答している。「竹島外一島」が二島であった場合、今回の政府の指令が理解できないとされる氏の論が、自分としては理解できない。根拠にはならないことが明確なのである。氏の言われるように明確ならば、従来の見解を変更する研究者が続出したはずである。多くの研究者は根拠に従いこの問題を検討している。日本と韓国の政府関係者はとにかく自国の論を補強するもののみを強調するが、多くの研究者はそうではない。
 ただし、研究者にも思い込みがあり、正しいと思われてきた研究が結果として事実ねつ造していたことは珍しいことではなく、本ブログでも繰り返し従来の研究の問題点を誰でも理解できる根拠を示して述べてきた。杉原氏からは自身の確信が多くの研究者の見解を変えなかったことについて分析し、研究者の誤った思い込みを明確にしていただければ幸いである。ネット上で杉原氏の見解(これはオリジナルなものである)をそのままなぞって自説が正しいとする人がいるため、是非ともお願いしたい。この文も杉原氏の調査・研究を前提としてはじめてまとめることができたものであることは確実であり、氏の作業は大変意味があるものである。自身、高校時代に氏から世界史を教わった経験を持っている。氏の見解について検討したものに竹内猛氏の論文がある(郷土石見)が、その見解は十分学術的批判に耐えうるものと考えるがどうであろうか。

[竹島外一島」について2

 それは氏の論考で紹介された青森県と千葉県の人が明治9年時点で鬱陵島を「松島」と呼んでいるのに対して、10年1月に渡海申請をした島根県の人は「竹島」と表記していることからも明かである。政府の役人のその時点での理解は最初に「竹島」と呼んで島根県に回答を求めており、島根県と青森・千葉の人の中間的なものであろうか。島根県側もその事を踏まえた上で、「竹島・松島」ではなく「竹島外一島」と表記して質問した。これに対して、内務省はとりあえず所持する鬱陵島=竹島に関する情報を集めて、太政官に意見を伺った。島根県の資料で政府も竹島と松島が別の島だということは理解したが、松島=現竹島についてはどこまで理解していたかは不明である。しかし自らが関心のあった過去の状況を踏まえ、「竹島外一島」として二島とも日本とは無関係と回答した。杉原氏の述べるように、鬱陵島のみについて回答したものではない。政府としてはそれで十分であった。そして、それを受け取った島根県は「竹島外一島」は二島とも日本には無関係とすることになる。それでなければ地籍調査の必要性の有無は判断できない。
 次いで、「竹島外一島之儀本邦関係無之について」再考-明治十四年大屋兼助外一名の「松島開拓願」を中心に-」(2009年)では、明治14年の2つの島根県の事例が紹介される。この時点では島根県も鬱陵島=松島として他県の解釈に合わせた形で照会しているが、一方ではこの松島が鬱陵島であることを明確にするため明治10年の竹島のことだとして竹島・松島の表記もしている。以後は島根県でも、鬱陵島を松島と呼んでいく。このレポートでは「明治10年の「竹島外一島之儀本邦関係無之」は、竹島(鬱陵島)と松島(現在の竹島)は日本に関係がないとしたものではなくて、竹島とも松島とも呼ばれている島(鬱陵島)が日本に関係がないとする解釈に分があるように思われる。」と述べるが、一島のみを述べたものでないことはすでに述べた通りである。現在の領土問題の対象である「竹島」について、自国とは無関係でなければ、その旨をはっきりわかる形で述べるはずである。すべては鬱陵島の帰属に関心があり、「竹島」にはあまり関心がなかったのである。それを「竹島」は無関係だと回答したものではないというと、島根県への回答ではなくなってしまう。
  今回の事件の背景として、朝鮮政府が15世紀初め以降継続してきた鬱陵島の空島政策と、この間の日本側の漁業技術の進歩があった。17世紀後半に両国の間で鬱陵島をめぐる対立があった際とは状況が変わってきた。とはいえ、問題の「竹島」での漁業のためには、その拠点としての鬱陵島の存在が不可欠であった。誤解なきように記すと、だから「竹島」も朝鮮領であるとの主張には賛成しかねる。日本人による鬱陵島と竹島への働きかけが、鬱陵島で朝鮮人を雇用した形で進んだことで、朝鮮側の「竹島」への認知度を高めたのである。「竹島」は近代以前は特定の国の領土といえる実態は持たなかった。

「竹島外一島」について1

 これまで竹島問題については、他の論者の意見を読んで、それに対する自分の意見を述べる形であったが、もう少し史料をも読みつつ論じてみることとする。ネットで展開される「少数派」と称する議論に危うさを感じたからである。本人は自己満足のレベルで議論しており、「はだかの王様」の様相を呈しているが、それに説得力があると誤解している人もかなりあるようなので、無視できないところがある(といいつつ、主戦場の中世史に比べるとこちらも修行が十分ではない)。
 その少数派の人々が依拠している(個々の部分で意見は異なる)のが、島根県竹島問題研究会顧問杉原隆氏の論考であるようなので、こちらに関して述べることとする。資料への精通度は杉原氏には及んでいないが、一応の議論はできるとの感触を得た(誤解かもしれないが)。今後、書きながら考えることで、少しずつ自らの理解度は深まってくることを期待したい。杉原氏の論は資料収集に基づくものであるが、その解釈にはなお検討の余地が大きい。
 今回は、この問題について杉原氏が最初に論じた「明治9年の太政官文書−竹島外一島之儀本邦関係無之について−」を検討する(2008年)。ここで杉原氏は政府の使用した「竹島外一島」は島根県の表記を踏襲しているが、その中身は違い、竹島(鬱陵島)と外一島(松島)を島根県が識別して見解を伺ったのに対して、政府は竹島とも松島とも言われた鬱陵島のみを念頭に回答した可能性が大であるとした。
 今回の問題は地籍作成に関して政府が「竹島」について島根県に問うたことから始まっている。政府の担当者が自ら調べる中で疑問を持ち、島根県に回答を求めたのである。島根県からの伺いに十分実態を知らない政府が回答したものではないことが重要である。それを実態を正確に知っている島根県は「竹島外一島」として報告するとともに質問したのである。そしてそれが政府にも理解できるように、政府からの質問への回答ならびに質問(これを①とする)とともに資料(これを②とする)並びに地図を添付した。政府に十分な知識がなく混乱していたことは十分踏まえつつ、自分たちが必要な回答を政府がするように「竹島外一島」として異なる二島(一つは政府におなじみの、もう一つは政府になじみが薄い)について質問したのである。島根県側は竹島を隠岐から「乾位120里許」、外一島の松島を、竹島と同一線路=方角で隠岐から80里許としており、これに地図を合わせれば、政府がその関係を理解できないことは考えられないし、疑問があればさらに質問したであろう。
 これに対して、杉原氏は島根県が提出した資料にも竹島と松島の間で混乱が見られるとするが、その評価は妥当だろうか。それは氏が「大屋甚吉が漂着したのは竹島だから竹島も松島も鬱陵島を意味」と記した部分である。資料②では最初に竹島について説明し、次いでそれとは明らかに別の島として松島を説明する。ただし中心は竹島で、松島はその関係島嶼であった。松島の記事に続いて「永禄年中」以下の記述がある。これを杉原氏は松島に関する記述とされるが、そうではなく以下はすべて竹島の説明である。それは回答并質問①を見れば明らかである。よって杉原氏の「 」内の評価は誤りである。島根県側は両者を正確に識別している。

2017年2月10日 (金)

周布氏惣領兼宗と庶兄兼光の争い

 元徳2年(1330)、周布氏惣領兼宗に対して、庶兄兼光がその所領を押領し、領内に城郭を構えるという問題が発生した。この問題の背景を理解するために必要なのは関係者の年齢など具体的情報である。
 惣領西信(兼信)は当初は父周布兼政の庶子兼貞として周布郷内長浜邑・小川邑を譲られていたが、永仁2年(1294)に兄時兼が死亡したことにより、兼政の後継者となった。この時点(30代後半ヵ)ですでに結婚して子どもがあった可能性が大きいが、周布氏惣領となる中、三隅氏惣領信盛の娘を妻とし、その名を兼信に改めた。信盛女子との間に生まれたのが嫡子とした兼宗で、それに対して二人の庶兄兼政(祖父と同名で、当初は兼貞の嫡子であったか)と兼光(父からは長浜邑を譲られたと思われる)は別の妻との間の子であったのだろう。これが紛争の最大の原因となった。
 西信は元亨3年(1323)6月に置文と譲状を作成した。この時点での年齢は、兼宗が20代半ばに対して、兄兼政と兼光は30代後半であろうか。翌年に西信が死亡したため、証拠書類を揃えて幕府への安堵が申請され、元亨4年10月10日に外題安堵が行われた。
 幕府はこの外題安堵に任せて、兼光による押領停止を河上孫三郎と内田左衛門三郎に命じている。その上で兼光を上洛・出頭させよとしている。その後の経過は史料を欠くが、兼光による押領は退けられた。そうした中で、時代は南北朝の動乱に突入した。
 周布氏系図によると暦応2年(1339)に兄兼政が兼光を滅ぼしたとする。兼政は父西信から小川邑を譲られるとともに、叔父内兼次の養子となり兼次女子と結婚し内邑を譲られていた。兼次の実子兼村は母の義理の兄(致直の養子で後継者)朝員女子妙忍の婿養子となり、致員と名を改め、豊田郷内道野辺と貞松名を譲られている。致員は周布氏惣領兼宗と同様南朝方となるが、幕府方により豊田城が攻撃を受けて落城に追い込まれた。致員女子が兼政の長子孫鶴丸(兼員)と結婚するが、兼員は早世した。そのため兼員の弟兼成が兼員の跡である貞松名の相続を主張し、一旦は認められた。兼政とその子は南朝方であった。
  兼宗は東国御家人越生経氏女子を妻に迎え、兼氏以下の子をなしたが、妻は嘉暦元年(1326)には死亡した。そして後妻との間に元徳3年(1331)に兼長が生まれるとすぐに、兼長に周布郷惣領職を譲った。兼宗は当初は足利高氏の軍勢催促状に応じて入京し、高氏に着到状を提出していたが、南北朝の動乱では後醍醐方で、延元2年(1337)には高津氏の後任の石見国守護に補任されている。これに対して、庶兄兼光は幕府方として対立し、暦応2年に弟兼宗と兄兼政に滅ぼされたのではないか。この時期に一方では幕府方による豊田城攻撃がなされていた。一方、兼宗の死後、嫡子兼長は幕府方として活動している。

2017年2月 7日 (火)

阿野庄長寿寺とは

 平浜八幡宮領迎接寺には鎌倉末期以降の古文書が残されているが、その最古のものが元徳2年正月25日藤原隆俊寄進状である。ところが、平浜八幡宮領には所領のあった阿野庄・金沢村も寄進先の長寿寺も該当するものがない。旧島根県史は「阿野」が「熊野」の誤りではないかとするが、これも「当てずっぽう」の説でしかない。
 以前は尾張国の庄園かとしたこともあったが、ようやく確認できた。それは駿河国阿野庄長寿寺である。阿野は源義経の同母兄阿野全成ゆかりの地で、全成は北条時政の子阿波局と結婚し、阿波局がその乳母であった源実朝との関係が深く、それが故に建仁3年に将軍頼家により殺害された。駿河国阿野庄地頭職は北条氏との関係で得たものであろう。
 その子孫は子時元の系統に受け継がれたが、実朝が暗殺された直後に反北条氏の兵を挙げ、北条義時に攻められ自害した。その後も源氏一門であるにもかかわらず守護にも補任された形跡もない。また全成の娘は藤原公佐(成親の子)と結婚するが、その子実直は祖父の苗字を継承し阿野家の祖となり、その子孫には後醍醐天皇の寵愛を受けて後村上天皇の母となった阿野廉子がいる。
  寄進者である藤原隆俊の父は全成女子を妻とする四条隆仲の曽孫にあたる隆賢である。隆賢は嘉元3年(1305)に従三位となり文保元年以降史料にみえないとのこと。阿野全成領が女系に継承され、隆俊が駿河国阿野庄を得ていたのだろう。そして隆俊が庄内の長寿寺に金沢村を寄進した。長寿寺は現在は残っていないが、金沢の地名は阿野氏の菩提寺大泉寺(元全成館)がある沼津市井出の中に残っている。
 関係史料としては、応永20年6月15日室町幕府管領細川満元奉書(永源師檀紀年録、大日本史料7-17)があり、鎌倉建仁寺永源庵領が安堵された所領とともに「末寺駿河国阿野庄長寿寺、付寺領等事」とある。細川氏は永源庵を保護し、建仁寺の塔頭にしたとされる。
 次いで「蔭涼軒日録」の長享二年(一四八八)七月五日条には、西芳寺(現京都市西京区、苔寺として知られる)領として駿河国阿野庄内東原村(二〇貫)がみえる(大日本史料8ー22)。阿野庄地頭職は四条氏を経て幕府の支配するところとなったのであろう。
 藤原隆俊寄進状は駿河国長寿寺(臨済宗)の文書が迎接寺に流入したもので、平浜八幡宮領や出雲国とは本来は無関係のものであった。編纂所のデータベースでは「阿野」を「河野」としており、偶然確認した。永年の疑問が解消した。
追記 当初、藤原隆俊を南朝の廷臣としたが、同族の別人であった。なお、長禅寺の文書についても他国からの流入で、建武年間に出雲国に法華宗寺院があった証拠にはならない。平浜八幡宮領の地頭は出雲国守護塩冶氏である。長寿寺と同様に東国の寺院であろう。
(補足)長寿寺文書の一通が田中繁三氏旧蔵文書に残されていることを確認した。現在は三重県立博物館が所蔵している。それは建武三年一二月日長寿寺雑掌元通申状で、同年一〇月一日に長寿寺を安堵する院宣を受けたのに続いて、舜淳という僧が寺領を安堵する院宣の発給を求めている。その所領の中に駿河国安野船津郷内寺田畠一六町余とともに、同(安野)東郷内金沢村がみえている。

2017年2月 4日 (土)

一太郎とATOK2

 話を一太郎に戻すと、今回のATOKはマイナーチェンジではなくモデルチェンジのようだが、その良さは少し使っただけでは確認できていない。今回もっともありがたがったのは一太郎の画面スタイルを柔軟に選べるようになったことである。日本史の論文を書くので縦書きを利用することが多いが、これまでは全画面表示にして利用すると文字が目一杯拡大できたが、実際のところ機能の利用が不便なことも多く、標準(アイコンの表示サイズは小で最小限)の表示との間で切り替えることが多く、実用的とは言いがたかった。それが今回はアイコンなしで全機能が使える画面が設定できるようになったので、便利になった。わかりやすく言えば、エディターのように使う事ができる。2016の標準画面なら「133%」が限度であったのが、2017なら「140%」も可能となった。これだけでもアップグレードする価値はある。ちなみにモニターは24インチのWUXGA(EIZO)である。DELLの27インチの4Kもあるが、今のところ縦書き2段組表示でベストなのは24インチである。
 予約でパッケージ版を購入するか、発売日以降可能となるダウンロード版を購入するかも微妙である。価格は後者が安いが、予約はポイントが多いので(オリジナルのペンケースにペンとノートが附属した)、トータルでは予約がやや安く購入できる。そしてそのポイントを利用して通常版をダウンロードで購入すれば、三千円以下で購入できる。
 ATOKのパスポートも購入月は無料なので、十分試すことができる。さすがにその月のみの購入とはならないが、当方は使い尽くすため購入するので、問題ない。一太郎2016や2015がインストールされたPCでもATOK2017が利用できる。10台までのインストールが認められているから。すべてを一太郎2017に更新する必要はないが、ATOKは新しいほうが良い。ということで1年間はこれを利用してみて、おそらく其の後も継続することになろう。

一太郎とATOK1

 以前は3年毎程度の間隔でアップグレードしていたが、2012年以降は毎年更新している。早速、2017に更新し、とりあえず1台にインストールした。ちなみに、パッケージでプレミアム版を、ダウンロードで通常版を購入した。スーパープレミアム版の購入をしたこともあるが(2011、2013)、そこまでの必要性は感じない。それに加えて、ATOKパスポートも導入した。1年毎の更新となるが、さまざまなATOK、ウィンドウズ、マック版のみならず、スマホ版も合計10台までインストールできる。当方はこれまでのところスマホは使用していないが、マック版ATOKは2012でストップしていた。更新しようと思いつつ、あまり使わないのでためらっていた。Windows10上ではATOK2013以降がサポートされ、2014以降だと不便さはない。ということで、2013、2014、2015、2016、2017について一太郎のプレミアム版(2103のみスーパー版、音声入力ソフトが附属していたので)と通常版をPCで使用している。
 マックはマックブックプロの2011年前半版とエアーの2014年版を持っているが、利用するのはWindows上がほとんどである。後者は2015年に偶然店頭で新品同様の中古をみて購入したが、メモリーやSDDの交換ができない仕様であり、少し後悔した。ただし、SDDは256Gで十分で、純正の外付けDVD-RAMが附属しており、あたかも内蔵であるかのように使用できる。メモリーの4Gが問題だが、ウィンドウズなら問題はないし、マックでもあまりソフトを入れていない(オフィス2011程度)ので、メモリー不足になったことはない。
 プロの方はオークションで新品に近いものを定価の半額で入手。16Gで、corei-7、17インチWUXGAで、外部ディスプレイにつなげば2画面でデスクトップ並に使える。すべてはウィンドウズノートにテンキーなしでよいキーボードの製品が少ないことによる。750GのHDDを960GのSDDに交換し、OSも最新版でその上でブートキャンプを使用している。とりあえず、こちらをATOK2017に更新して、Word2011で文章を入力してみた。2012との比較はできないが、当然快適である。OFFICEも1年版を導入2年目で、2台までインストールできる。とりあえずはウィンドウズPC1台に入れたが、もう一台をマック版を選んでマックにインストールすることもできる。インストールPCの変更もできるので、プロで最新のオフィスとATOKの組み合わせで使用してみるのも良いか。ただしアマゾンでみるとマック版オフィスの評価は最新版でもいまいちで、且つあまり使わないので、2011オフィスで問題もない。

2017年2月 2日 (木)

吉田厳覚の花押

 京極高氏の守護代吉田厳覚についてはよく知られ、その花押も貞和3年に比定できる12月22日書状が北島家文書に残っており、確認できる。三刀屋家文書には花押影が3点残されている。①観応元年10月10日には守護代厳覚が石見凶徒退治の軍勢催促を行っている。高師泰が石見国守護に補任され、反幕府方を鎮圧しようとした戦いであるが、実際には最終段階の三隅城攻撃に失敗して、石見国から敗走した。
 ここで問題とするのは三刀屋家文書の②康永4年3月日と③観応元年8月の三刀屋彦十郎貞助軍忠状に付された承判の花押影である。諸家文書纂でみると両者は同じであり、且つ、「高師直」の注記が加えられている。ところが、後者については同じ合戦に参加した北垣光政軍忠状が残されており、そこには守護代厳覚の承判(花押)が押されている。そのためか、大日本史料6の13では師直ではなく吉田厳覚の花押としている。②③の花押を①の花押と比較すると同じタイプであるが、厳覚か師直かの識別は難しい。
 観応元年8月は出雲国内の合戦であったが、②に記されている康永4年2月の合戦も出雲国内のものである。塩冶高貞の遺児貞家が屋根山城に籠城したのに対して、高貞の弟塩冶時綱の嫡子とみられる「佐々木五郎左衛門尉」(貞家の従兄弟)が落城させたのである。諸家文書纂では③と同様、厳覚の花押を比較的似ている高師直のものと誤認したものである。ところが、大日本古文書6の8は、13と担当者が異なったのか、花押の比定を行っていない。南北朝遺文では、②には「高師直ヵ」とし、③を吉田厳覚に比定している。こうした点を確認するのが、以前言及した古代文化センターの史料目録の仕事であると思うが、どうであろうか。研究者を年頭に於いて作成しているのか、歴史愛好家を年頭に置いているのが不明であるが、いずれにしても比定し直した方がよかろう。愛好者が確認することは不可能であり、専門家なら自分で確認しなけれが失格であるが、実際には確認せず使用する人は珍しくない。なお目録では軍忠状の「承判」そのものに言及していない。これもどの情報を提供するかという問題であるが、柔軟に対応するならば、表ではなくデータベースで検索できる形が望ましい。

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