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2017年1月 7日 (土)

尼子氏による多賀山氏攻撃1

 この問題については、長谷川博史氏「尼子氏による他国への侵攻」に以下のように述べられている(要約)。
 享禄元年9月に尼子氏が攻撃を開始し、一旦は山内氏・田総氏らの援軍に撃退されたが、同2年7月に攻略した、と。
攻撃の開始時期については9月9日に「尼子取詰当城」と多賀山通続が記している(①永禄2年当家継図事)。関連史料として、『出雲尼子史料集』には、②7月6日山名祐豊書状(杉原刑部大夫宛)、③7月12日山名祐豊書状写(上山加賀守宛)、④⑤12月6日塩冶豊綱書状(④上山弥次郎宛、⑤田総藤蔵人宛)、⑥12月6日山名祐豊書状(高須中務丞宛)、⑦12月10日大田垣朝延書状(高洲中務丞宛)、⑧7月26日大内義隆書状(毛利治部少輔宛)が①とともに収録されている。
 ①には「七月十九日ニ、廿日」と日付に微妙な表現があるが、多賀山氏が籠城する蔀山城は兵粮が尽き、城兵の中には多賀山氏への援軍である山内氏等の方へ脱出するものや、敵である尼子氏方に落ちて討たれたものが続出した。その後、わずかに残る城兵で3日間抗戦したところ、天の扶けか大雨が降り出し、合戦は落居したとある。攻撃側と防御側で停戦が成立したのであろう。
 そうしてみると、②から⑦を享禄元年に比定されたことに疑問が生じてくる。その前に、未収録の史料として⑨8月27日武田元光書状がある。安芸武田氏の本家である若狭武田氏惣領元光が、木村又五郎の去年8月上旬から先月20日までの尼子氏による多賀山氏攻撃の際の軍功(輪番で在陣)を賞している(東大史料編纂所蔵木村家文書)。去年=享禄元年で、9月9日に尼子氏が蔀山城攻撃を開始する1月前から、武田氏配下の国人が尼子氏支援のため派遣されていたことと、7月20日にそれが落居したことがわかる。

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