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2017年1月

2017年1月29日 (日)

尼子晴久の花押

 晴久の関係文書の一部について年次比定をしたが(尼子詮久の花押)、落穂拾いを行う。その花押は天文10年の経久の死亡直後と天文21年の八カ国守護補任直後に変化している。天文21年に配置される年未詳4月2日尼子晴久書状(米良文書)は、「民部少輔」の官職から天文24年の年頭以前のものであるが、花押からはさらに天文21年以前のものとなる。
 弘治4年(永禄元)に配置される年未詳正月11日尼子晴久書状は、秋上七郎から年頭の樽が到来したことを祝着であると、七郎に伝えている。花押からは天文21年以前のものとなる(形からは天文15~20年か)。永禄元年に配置される年未詳12月14日尼子晴久書状も、歳暮祈念の巻数が到来したことを秋上七郎に祝着であると伝え、詳細は本田八郎左衛門から言うとする(後述のように天文20年に名代となっており、花押の形も同年のもの)。
  天文15年と追記のある12月23日本田家吉書状では、神魂社の御湯立について前例を知らずに秋上三郎右衛門尉へ、申し出の通り命じたが、以後は近年の儀に基づいて行うと「七郎殿」へ伝えるよう「本田八郎左衛門尉」に命じている。神魂神社覚書によると、晴久の名代は本田太郎左衛門であった。これに対して天文16年7月2日に御曹司(義久)が杵築から下向した際には本田四郎左衛門を取次にして神魂神社と伊弉諾社に御神楽銭1貫二百文ずつを納めている。天文17年の2月18日の神魂での百番之舞の際には松田弥二郎が名代であった。天文20年6月28日には伊弉諾社へ中井助右衛門と多賀掃部助を取次として米を納め、本田八郎左衛門を名代として神魂社に馬とかさりせんと神楽銭を納めている。本田氏の一族が伊弉諾・神魂社への取次や名代を務めている。天文21年12月15日に義久の祝言があり、22日には義久が「本田豊前守」を取次として伊弉諾社に馬代を納めており、本田家吉の豊前守任官は晴久の守護補任の年であった。
 永禄3年に配置される9月29日尼子晴久書状(富家文書)では、富殿に対して音信のため樽と巻数を送られたことを「祝着」であるとし、詳細は立原が申すとしている。この花押も天文21年の守護補任前のものである。守護補任後は横道氏が杵築との連絡を行っている。富家には富又七宛の天文14年正月26日尼子晴久書状が残っているが、その花押とよく似ている。又七が阿吾郷を亀井宗兵衛に沽却したが、年期が明けたとして返している。
 天文21年に配置されている年未詳3月12日尼子晴久書状(米良文書)も花押から守護補任以前のものである。鰐淵寺文書には天文20年の晴久花押が3点と天文15年の1点、天文12年の3点があるが、天文15年のものはそれまでのものに比べて横長となっている。米良文書のものも同時期か。次いで守護補任後は上辺の右方向から左方向への傾斜が緩やかになり、さらに足長となる。

立原幸隆の花押

 すでに述べたように、立原幸隆の花押は永禄2年までのもの=Ⅰと永禄4年以降のもの=Ⅱが明確に異なっているが、『出雲尼子史料集』ではその点に気づかなかったため、誤った時期に配置されているものがなお残っている。
 年未詳で永禄9年に配置される11月8日立原幸隆書状は飯田御供について「坪内次郎衛門」に連絡しているが、その花押がタイプⅠであり、永禄3年以前のものである。弘治3年2月10日尼子晴久袖判奉行人書状により千家慶勝が坪内孫次郎を杵築相物親方職に補任したことが安堵されている。「坪内次郎右衛門尉」宛の文書はこれ以降のものとなる。永禄4年に配置される年未詳8月20日立原幸隆書状もその花押から永禄3年以前のものである。須佐大宮神主が勧進に訪れたが、現在は繁多の時分であり、神社に参ることはできないとして、それぞれに勧進を求めるようにとの晴久の以降を伝えている。永禄2年や弘治2年の石見国出兵の時点のものである可能性が高い。
  永禄3年に配置される年未詳11月12日立原幸隆書状(秋上家文書)もⅠのタイプの花押である。嫡子三郎義久の例にならって弟の元服を11月15日に行い、脇指を進めることになっており、秋上周防守に脇指を持って神魂神社に参るよう伝えている。天文9年生まれの義久が天文21年12月に祝言を挙げており、そこまでには元服していたことになり、6才下の御千童子の元服は永禄元年頃のこととなる。

2017年1月28日 (土)

横道久家と牛尾幸清2

 年未詳だが6月15日に晴久が出張につき大社前連歌の懐紙が送られてきたことを富兵部大輔に「祝着」だとし、詳細は津森が伝えるとしている。同日には晴久の子義久も連歌の執行と樽代が送られてきたことを「喜悦」するとし、詳細は横道石見守が伝えるとしている。二通とも永禄2年に晴久が石見国小笠原氏救援のために出兵した際のものである。富氏は出兵した晴久には懐紙を、出雲国に残った義久には樽代を送ったのである。これと同時期のものが、6月3日牛尾幸清書状で、富氏が目賀田氏を通じて訴えていた公事の問題が解決したことは承知していたが、富氏から懇ろな連絡があり畏悦の至りだと伝えるとともに、帰陣したら必ず社参するとしている。幸清の天文15年の鰐淵寺文書までの花押とは特徴が異なり、永禄2年のものと思われる。
 牛尾幸清の書状には8月29日付で佐草孫兵衛宛のものもある。出陣に際して御巻数が送られてきたことを感謝している。この花押は、天文15年までのものとよく似ており、天文21年の牧家文書のものは左上への出っ張りがやや縮小している。天文14年に晴久が出陣に先立ち冨田で千部読誦を行おうとしたところ、清水寺の左座に鰐淵寺が異論を唱えて実施が伸びたため、晴久が出陣してしまうという事件があった、安芸国平賀氏の記録では8月21日に出雲尼子殿が打ち出てきて安芸国衆と西条で兵乱が起こったと記している。
 晴久の出兵と読誦と言えば、結果として山吹城を奪還した合戦に際しての読誦が富田城で弘治2年6月に計画されていた。天文24年2月の読誦に先立つ尼子氏法廷での裁判で清水寺に敗北した鰐淵寺が、朝廷に働きかけて同年5月20日に鰐淵寺が左座であるとの後奈良天皇綸旨を得ており、弘治2年6月の出陣前の読誦では再び両寺の座次をめぐる紛争が起こるのは必至だとして、尼子氏奉行人横道久宗と馬来真綱が連署で、両寺に上洛して朝廷の判断を仰ぎ、五月中に決着することを求めている。判決は間に合わず6月末に清水寺勝訴の後奈良天皇綸旨が出された。同年8月23日晴久書状(伊東東馬文書、大友氏関係者志賀氏宛)によると、先月=7月以来石州に発向し、敵城数ヶ所を落城させ本意に属したことを伝えている。判決が出るとすぐに読誦を実施し、石見国に出兵したのだろう。こちらも時期的には矛盾しないが、花押の問題と、佐草氏宛の書状で合戦の勝利に触れていないので、天文14年の可能性が高い。14年の安芸国遠征が成果を上げたかは不明で、翌年には吉川氏は毛利氏から元春を養子に迎えている。
 年未詳であるとして6月3日と8月29日の牛尾幸清書状がいずれも永禄8年の文書の中に配置された。間違いではないが、もう少し詰めた上で配置すべきではないか。前に述べた大熊久家宛の津森幸俊書状も永禄8年の12月10日の位置に配置されており、事情がわからなければ、尼子国久の側近大熊久家が新宮党党滅を逃れ、まさにごく一部の関係者のみが殺害されたとの誤解を生む可能性もある。出版の締め切りの関係でいたしかたない面もあるが、その場合でも後でフォローアップしておく必要がある。現在のネット環境を利用すれば、そんなに困難なことではなかろう。最近、40年前に発表され、ほとんど批判らしい批判を受けていない論文(そのテーマでは通説とされていた)が、自分で関係史料を分析したら、その内容のほとんどが間違いであった(研究としての精度が低かった)ことを体験したので、特に思うところである。これについては昨年後半のブロクで述べ、今年3月末には論文として発表する予定である。

横道久家と牛尾幸清1

 横道久宗は尼子氏奉行人の中では立原幸隆(最初は幸綱)とともに経久と詮久の交代期から義久の時代まで長期にわたり史料が残っている。ただし、立原幸隆が様々な場面で登場するのに対して、横道氏は対杵築関係にのみ登場する。その花押の変化については明確ではない。
 天文7年5月13日尼子詮久書状(富家文書)では、富郷百姓が名田を地頭(富氏)の許可を得ずに売却しているとの訴えを受け、売買を禁止するとともに、売買された土地は欠所にして没収することを、富左衛門大夫に伝えている。同日付の立原次郎右衛門尉幸綱・横道三郎左衛門尉久宗連署書状をみると、影山又三郎が負担を緩怠した事を富氏が訴えたことを契機に、尼子氏(御両殿)が今後は負担の遅れは許さないとの命令を出したことと、百姓だけでなく給分を得ているものが売買した場合は無違(欠所)とすることを伝えている。これにより残ってはいないが経久の御判も出されたことがわかる。天文9年の竹生島奉加帳では冨田衆の最後から2番目(亀井藤左衛尉国綱の前)に横道三郎左衛門尉の名がみえる。
 横道氏は石見国大家庄内大家西郷内の横道を苗字の地とする武士で、大永2年から3年にかけて尼子経久が石見国に出兵し、江川東岸の大部分を掌握した際に、家臣団に組み込まれたと考えられる。そのため、天文15年以前の年未詳9月18日河副久盛書状では大家西郷周辺を支配していた小笠原兵部大輔長徳に対して、横道三郎左衛門尉知行分についての御入魂を感謝している。天文13年11月26日には本田四郎左衛門尉家吉とともに連署で、本知行地阿吾郷下村の返還について富又七郎に伝えている。
 その後、横道三郎左衛門尉が登場するのは天文23年の別火氏と長谷氏の相論であり、晴久側近多賀久幸と杵築関係者の間をつなぐ役割を果たしている。次いで天文24年8月20日には「横道石見守」としてみえ、同年初めの尼子晴久の修理大夫任官に伴い、石見守に任官した可能性が高い。

大熊久家について2

 天文19年9月28日千家慶勝杵築大社造営・遷宮覚書によると、遷宮時の上官の定数について千家・北島両国造の間で対立が生じ、千家方からは中氏と長谷氏が、北島方からは佐草氏と上田氏が社奉行多賀与左衛門と本願の前で対論したことが記されている。上田氏は北島氏の有力家臣でもあった。その中に佐草の扶持人となったものもいたのだろう。
 津森越後入道の書状は天文6年以降のものであることは確認できる。津森の初見史料は天文16年2月16日尼子氏奉行人連署書状で、署判者の一人としてみえる。その花押は天文20年2月2日と2月26日の尼子氏奉行人連署書状では円が大きくなって変化している。次いで天文23年8月12日と天文24年6月28日の尼子氏奉行人連署書状では円の下から右へ伸びる線が長くなっている。天文20年のものは線が短く、且つ最後に上方向にはねているが、天文23年と24年のものならびにそれ以降のものは伸びたままである。問題の津森書状は天文20年のものと同じである。花押の変化の背景としては晴久の守護補任が考えられる。ということで、12月10日書状は天文20年のものである可能性が高い。少なくとも天文23年11月の新宮党討滅の前のものであることは確実である。
 大熊久家の初見史料である鳥屋清誠・誠幸連署状は北島国造からの三月会名代についての申し入れに答えたもので、北島氏家臣の佐草孫兵衛と北島氏の御前に祗候する大熊右京進との二系統から尼子氏に伝えられたのだろう。末尾に佐草氏の使者に申し渡したと記しており、その上に「佐草氏」の御前にいる大熊にも申し上げたのではまったく理屈が通らないことは明白である。大熊氏は塩冶氏の一族で、尼子氏がその一族を早い段階で、鳥屋氏と同様直臣に組み込み、永正年間初めに経久女子が北島国造雅孝に嫁いだ際に、その他の家臣とともに派遣されたものである。それがゆえに、島根郡内の国久領の代官をも勤めている。単に北島国造に対する仲介を勤めているだけではない。

大熊久家について1

 大熊久家については、北島国造家の上官佐草氏と井田氏の神事の役割をめぐる紛争で、尼子晴久の家臣と連絡をとって調整にあたった尼子国久の家臣である。唯一その花押が確認できる天文21年9月25日大熊右京進久家書状は尼子氏家臣間のものなので捻文の形式を取っており、端裏捻封ウハ書には発給者と宛所が官職名を含めて記されているが、書状本体には発給者「久家」のみで、宛所も記されない。この文書を残した佐草家では、「尼子国久家老 大熊右京」と貼紙をしている。佐草家に残されていることから、実質的な宛所は佐草孫兵衛であった。同日付で尼子国久が北島国造秀孝と佐草孫兵衛に宛の書状を出している。その内、佐草宛の書状の末尾には「尚大熊可申候」と記されている。
  大熊久家については年未詳12月10日津森越後入道幸俊書状がある。尼子晴久家臣から尼子国久家臣宛なので捻文の形式である。ただし、年次については『出雲尼子史料集』では尼子義久が毛利氏に降伏する以前のもの=永禄8年以前というあいまいな比定で、永禄8年の文書とともに掲載している。問題は新宮党討滅の前か後かである。常識的には国久の「家老」とされる久家なので、討滅時に討たれたとすべきであろうが、慎重を期したのであろうか。
 年次比定の材料は発給者津森越後入道の花押と佐草扶持人上田の家・屋敷問題という内容である。上田が佐草扶持人として与えられていた屋敷を罷退いたが、実際には屋敷地内の家には別の居住者がおり、佐草氏が大熊久家を通じて尼子氏に訴えたのだろう。尼子氏の判断は家は屋敷と一体のものであるというものである。ただし、上田が与えられていた間に家には出入りがあり居住者が変わっており、居住者も自らの権利を主張したと思われる。家については移築を主張したのだろう。これに対して佐草が知らないまま家を移転することには理由がないとし、家も佐草氏のものであるとしている。
 関連史料が天文6年2月29日北島雅孝書状である。北島分の居屋敷を家臣である上田に給所として与えていたが、上田が佐草に売却した。これをうけて北島国造が買得者である佐草に対して新給として抱えることを認めている。その後、上田氏で佐草氏の扶持人となったものがおり、由緒からその人物が佐草氏から与えられていたのが退去したのだろう。 弘治4年6月14日尼子氏奉行人連署書状によると杵築内の越堂と市場の守護役の負担が問題となり、晴久の袖判が出されたが、その過程で上田と今岡等が捻を尼子氏に提出して落着した。奉行人はその捻の案文を作成して今後異議のないように地下中に伝えている。これにより、上田氏は今岡氏とともに越堂・市場の地下中の代表者とでもいう立場にあったことがわかる。

2017年1月27日 (金)

黒田浦をめぐる紛争

 黒田浦は杵築大社と日御崎神社の境界線に位置し、両者の間で何度か紛争が発生している。異筆で「天文十一年」と記された3月23日立原幸綱(→幸隆)書状では、黒田浦については近年中の如くにすることを伝えている、ついで「天文十五」と記された①十一月五日立原幸隆書状では、黒田浦の網を杵築大社本願に申付くべしとの日御崎神社からの申し出について、本願の望は謂われがないとして、立原が反対している。幸隆の花押の形と天文15年という年次には矛盾がない。
  続いて②年未詳2月6日本田家吉書状では、本願が黒田浦に網を立てることを日御崎神社側が認めて連絡してきたことを了解しており、①の時点とは状況が変化している。『出雲尼子史料集』では永禄4年前後のものとして扱っているが、本田家吉の花押からすると、天文22年以前のものとなる。
 『出雲尼子史料集』では②に続いて③2月9日御崎政久書状、④2月11日尼子義久書状、⑤2月13日尼子氏奉行人書状(異筆で「永禄四年」と記される)の3通を掲載する。⑤に加えられた立原幸隆の花押からすると、永禄4年で問題ない。②の比定のみに問題があった。
 注目されるのは「新宮御威勢之砌」とあり、③④⑤が新宮党討滅後のものだとわかる。尼子国久が塩冶にいた時期に、「多胡之宗円寺」が杵築と結んで競望したため、尼子晴久が黒田浦を殺生禁断とした。それは②の天文15年から新宮党が討滅された天文23年までの事件であった。「多胡之宗円寺」とは多胡の所領があった東出雲郷内の寺院で、国久の妻多胡氏を通じて訴えたのであろう。
 殺生禁断とした晴久が永禄3年12月に死亡したことで、日御崎神社側がそれ以前の証拠書類を提出し、義久(その母は国久女子)からの「新寄進」を求めたものである。それを④で尼子義久が認め、その添状が⑤である。そして尼子氏が毛利氏の攻撃により籠城していた「永禄六年」の異筆がある5月29日尼子義久書状で、④を再確認すると共に、末代までの神領とすることを伝えている。

2017年1月26日 (木)

佐木・宇道の紛争4

 佐木と宇道の紛争について、なお検討すべき点があったので、述べてみる。一つは①2月2日連署状についてで、署判者の一人としてみえる「大石三郎右衛門尉秀綱」である。②2月16日連署状には「大三綱秀」と署名しており、名前が異なることを見落としていた。天文16年7月17日連署状(迎接寺文書)では「大石三郎右衛門綱秀」、弘治3年8月15日連署状(永田文書)には「大石若狭守秀綱」とあるので「綱秀」→「秀綱」である。とすると、①の文書は天文17年以降のものとなり、松江市史の変更を「支離滅裂」としたのは当方の失考であった。お詫びするとともに、反省したい。
 関係者の花押の変化を検討していて、津森越後入道の花押が、①の方が②よりも新しいことに気づいたため、考え直していたところ、もっと明確な点に気づいた次第である。⑥2月26日連署状の津森の花押も新しいタイプ=①と同じである。本田家吉の花押は天文20年のものが3点確認できるが(鰐淵寺文書)、①⑥と同タイプのものである。これが天文22年12月26日連署状の時点では「本田豊前守家吉」と任官し、花押も変化している。現時点では①を⑥と同じ天文20年のものと考えておきたい。
 これを前提に事件の流れを確認すると、天文16年に佐木浦との境界問題で不満のあった宇道浦が逃散をし、これに対して塩冶にいた国久が逃散をやめて帰ることを命じた。その報告を受けた晴久奉行人はそのことを2月16日に佐木浦の代官である浄音寺にも伝えた。このことを知った晴久が、命令をするのは国久ではなく自分であることを2月20日に浄音寺に伝えた。そして閏7月11日晴久袖判上使下知状と8月9日晴久袖判奉行人下知状で佐木浦の権利が再確認された。これが第一ラウンドであった。
 ところが不満を持つ宇道浦は飢饉の発生もあって再度訴えるとともに、佐木浦側に入って薪を切り、これを佐木浦が尼子氏に訴えた。2月2日の時点では訴えについて調査の上結論を出すとのことであったが、宇道浦の行為に対して尼子氏奉行人から宇道地下人に対して恫喝する連署状が出された。前にも述べたようにこれは晴久に報告する前のものである。そして3月9日には天文16年の上使であった森脇七郎右衛門尉久貞と雑賀善兵衛久清の連署状が出され、境界の制札を破るものについては搦め取って報告するよう、浄音寺に命じている。
 ということで、文書は天文16年の②③④⑤と天文20年の①⑥⑦の順番となる。そうしてみると尼子氏の発給文書は天文17~19年にぽっかりと穴が開いた形となる。『出雲尼子史料集で天文17年に比定された美作国関係史料(牧家文書)も天文21年のもので、天文18年と19年に晴久の書状が1通ずつあるのみである。何か背景があろうが、いまのところそれを明らかにするすべはない。ただ、この時期に備後国の与党であった山名理興が大内・毛利方の攻撃を受けて落城に追い込まれ、尼子氏のもとに逃れている。また、天文16年には毛利元就の子元春が吉川家に養子に入っている。尼子氏の衰退は天文16年には始まっている。同年二月二〇日には晴久が赤穴盛清の佐波興連との関係を含めて事態を解決するために出兵を要請していたが、晴久は目的と効果が明確でなければ出張してもしかたないと返答し、この書状は自筆で披見後燃やして欲しいと述べていたことと、天文一八年二月二月八日に晴久が赤穴盛清に対して亡父光清と本人に申し合わせた知行について確認し、さらなる忠義を求めていたことが思い出される。

2017年1月23日 (月)

出雲大社上官の紛争3

 いまさらながら自らの勉強不足をかんじさせられるが、佐草氏と井田氏の相論で、尼子氏関係者の間では捻文が使用されている。毛利氏の場合は、内々の処置や暫定の処置の場合に使われたことが知られている。経久関係では年未詳5月10日尼子経久書状(秋上家文書)があり、千家・北島家の御供宿銭について、去年決着した通りで、変更は認めないことを、杵築にいた目賀田三郎右衛門尉に宛てている。本書の部分には宛所がないのが特徴である。一見すると折紙や切紙より厚礼にもみえるが、この場合は、毛利氏でいう所の内々の連絡・処置なのでこれを使っているのだろう。発給者が尼子氏であろうとその家臣であろうと本書には名前のみで官職などは記さない。一方では、内々とは言いながら、この文書が佐草家文書として残っているように、関係者以外に秘密にしているわけでもない。慣例に従ってこのような文書形式を使ったとしか思えない。天文23年の別火氏と長谷氏の問題や富氏に対する連絡では、この捻文は残っておらず、佐草氏と井田氏の問題に限って使用されたのか、他の事例でも使用されたが、文書の性格上残されなかったのかのいずれかであろう。評価の難しいところであるが、後者の可能性を否定することは困難だが、今回の問題に限っては前者の可能性が高いのではないか。すなわち、予期せぬ問題が発生したため、このような形をとって調整する必要が生じたのではないか。最初の2月19日書状の中で、多賀久幸は目賀田から北島殿へ「折紙」で申し入れるよう晴久から命じられたことも記されている。
補足
  捻文については、天文24年8月14日尼子氏奉行人連署書状(神門寺宛)と(弘治2)4月3日尼子氏奉行人連署書状(鰐淵寺宛)がある。これについては寺院宛であるとしか共通項は指摘できない。前者は神門郡から反別1升の米を与えられる権利が近年無沙汰であるとの神門寺からの申し出をうけ、寺の建立中であるとして、今年のみの権利を認めている。当然、晴久の意向は反映されているが、1年のみという点では暫定的なものである。後者は清水寺との座次相論について、中央での裁判を行い5月中に判決がでるように鰐淵寺に求めているという重要な命令である。
 尼子氏から家臣宛としては永禄3年10月12日尼子晴久書状(佐草家文書)がある。奉行人3人(立原備前守・来海市介・横道石見守)に対して、北島氏が押領していた佐草氏の所領を返させることを命じている。
 年未詳9月10日尼子氏奉行人連署書状(鰐淵寺文書)は周辺の村々による鰐淵寺の山の切荒らしについて、これを禁止し、もしもあれば搦め取るよう鰐淵寺に伝えている。これは正式な官職を記しているが、これと同時に出された村々宛の連署書状では略式の官職を付している。2通とも折紙であるが、前者が「恐惶謹言」と結ぶのに対して、後者は「恐々謹言」である。前者が丁寧な形を取ったのに対して後者は略式である。村々宛の文書の前例がない中、略式を採用したものであろう。当然、両方とも尼子氏当主(晴久か義久)は関わっている。

2017年1月14日 (土)

出雲大社上官の紛争から2

 以上のように、この事例から私たちが導き出すべきは、長谷川氏の説くところとはかなりちがっている。第一に、井田が「新宮」を通さずに直接晴久に申し入れた理由であるが、北島国造が尼子経久の娘御上(いとう)と結婚していた雅孝から北島秀孝に交代したことがある。大熊久家は御上とともに北島国造に送り込まれた尼子氏直臣で、天文6年には北島国造雅孝の御前に居たが、天文12年に御上の兄弟国久が塩冶に入ると、国久の家臣に位置づけられた。秀孝は天文18年(1549)に雅孝の死により国造となったが、その時点で54才であった。晴久側には天文19年の遷宮で晴久の名代として派遣された多賀久幸を「新宮」に代わる窓口にする意向があり、それに飛びついたのが北島国造秀孝とその上官井田であった。晴久側に「新宮」を介さずに直接杵築大社の問題を処理したいとの動きがなければ十分調査もせず、井田氏の主張を認めるという愚かな決定はなされなかったであろう。今回の件でみそをつけた晴久側であったが、出雲国西部を晴久奉行人を介して支配するとの方針に変わりはなかった。年未詳であるが、正月14日に尼子誠久が佐草孫兵衛に対して、大社前で祈念した御巻数が、自分と子ども二人に送られてきたことに対するお礼の書状を送っている。まさに、社役問題が「新宮」の協力で解決したことにともない送られた天文22年年頭の御巻数であった可能性が高い。
 誠久の子と言えば、天文20年10月に、石山本願寺側が美作国へ出張した尼子晴久とその家臣に礼物を送っているが、その中に初めて誠久の嫡子孫四郎と二男甚四郎の名がみえていた。誠久は美作出張後は牛尾幸清とともに美作に残り、天文21年に比定できる(『出雲尼子氏史料集』では「天文17年ヵ」とするが、晴久の花押の変化を踏まえると、美作国守護補任後のものとなる)12月16日晴久袖判尼子誠久・牛尾幸清連署知行安堵状により三浦氏の所領を安堵している。60才となった国久に代わり、尼子氏政権No2であるはずの誠久が奉行人として連署する立場に置かれている。
 天文23年に起きた千家方上官別火氏と長谷氏の間の三月会御供御取次をめぐる対立には「新宮」は関わっていない。また、この場合は尼子氏奉行人は正式な官職を付した書状を送っている。出雲国西部を晴久が直接支配することはすでに実現しており、国久ならびに誠久とその一族を討滅する必要はなかった。にもかかわらず討滅したのは、毛利元就との調略合戦に晴久が敗れたからである。
 ブログではこの事例に基づき長谷川氏の説を批判したことがあったが、今回ようやく事件の内容が理解できたというのが実際であった。問題の「井田」とは天文18年に上官で唯一秀孝の風の宮での火継に従っていた井田三郎右衛門尉(佐草家文書の火継旧記による、北島本には上官井田とある)であろう。天文19年の遷宮時には、上官が勤める御宝物持参役のうち、佐草孫兵衛が御剱役であったのに対して御束体役を勤めていた。天文23年8月5日には大社御湯立頭領の事について、井田三郎衛門尉勝吉なる人物が晴久袖判奉行人奉書を奉じている。上官井田は晴久との関係も深めていた。

出雲大社上官の紛争から1

 天文21年に起こった出雲大社社役をめぐる国造北島方上官佐草氏と井田氏の相論について、長谷川氏は以下のように評価されるが、十分な根拠のあるものであろうか。
 「注目されるのは杵築大社側からの上申がすべて「新宮」経由で行われていること、晴久・国久それぞれの家臣が緊密に連絡を取り合いながら事を処していることである。少なくともこの相論における国久は杵築大社から尼子氏当主への窓口として機能しているのである。」
 2月19日書状で多賀久幸は尼子国久の家臣大熊久家に事態の説明を行っており、少なくともこの時点まで「新宮」はこの問題に関与していない。この前後にも複数の尼子氏奉行人連署の書状や奉書は出されているが、なぜかこの問題に関してはすべて、多賀久幸単独の書である。この前にも後にもこのような書状の遣り取りはみられない。長谷川氏の言われるように処理されておれば、一旦尼子晴久が下した判断が撤回に追い込まれるような無様なことにはならなかった。すなわち、佐草氏からの異論が出されてからは長谷川氏の言われるとおりであるが、問題はそれまでの状況である。         
  井田氏は側近の多賀久幸(天文19年の出雲大社遷宮は本願と尼子氏側の奉行多賀が中心であった。上官の数をめぐり北島方から異論が出されたが、証拠書類を本願と多賀にみせた千家方の主張が認められている)を通じて晴久に訴え、その「馳走」を評価した晴久側が今回は井田氏が佐草氏の上役(時期的に三月会にかかわるものか)を務めることを認めた(井田の申し出が採用されなければ、このような問題にはならない)。天文18年8月に国造雅孝が死亡した際に、雅孝の女婿であった北島秀孝が後継者とされたが、雅孝の甥である稲岡弥三郎を支持する勢力があり、宍道安房守の支持を受けて秀孝の火継を阻止しようと、大庭で待ち構えていた。この時、秀孝は井田と10名の従者を伴い、湯風ノ宮で仮の火継をすました上で、晴久の安堵を受けたとする。
 今回の井田の訴えは北島秀孝も了解していたと思われる。この事実が明らかになることで問題が発生した。佐草氏、さらには塩冶にいた尼子国久とその家臣大熊久家はそれまでの状況を熟知しており、佐草氏は「新宮」(並びに雅孝御上の支持を確認した上で)を通して尼子氏(多賀→晴久)に訴えたのである。
 これであわてた晴久と多賀久幸は杵築の目賀田氏に北島国造へ連絡することを命じた。本来、「新宮」を通じて申し入れられるべき申請が、それをとばして直接晴久に行われたのが誤りの原因であったが、それを帳消しにしたい晴久側は北島国造に決定を委ねるという作戦に出て、佐草氏のみならず北島国造の反感を弱めようとしたのである。
 北島国造では9月22日までに佐草氏の主張を認め、井田氏ならびに「新宮」に連絡したが、約半年と調整にはかなりの期間を要した。秀孝自身も国造としての立場は強固ではなく、一族や上官の判断を最終的には受け入れたのだろう。それを受けた「新宮」側は問題の解決を晴久・多賀に伝えるが、そちらにも北島国造の使者が来るので、多賀久幸に対して、使者から事情を聴いた上で晴久に伝えた方がよいと、皮肉を込めて伝えている。
付記 北島国造の名前を「秀孝」に訂正した。

佐木・宇道の相論再考3

 結局の所、『松江史市』史料編と通史編は古文書学をまったく前提とせずに独自の解釈をしたと言わざるを得ない。③は下笠氏の単独署判で晴久の袖判を伴わないものであるが、明確に晴久の意向を命じたものである。これに対して⑥は奉行人の肩書きが略式であり、晴久に報告することなく出されたものである。晴久が自らの御判が破られたと知れば、大変なことになるためである。奉行人は仕方なく、国久へ報告し、③の晴久の意向を踏まえた国久から「御一行筋相違あるましき」と、晴久の命令に相違があってはならないとの言質を引き出した。奉行人としてはこの国久の言質と、今後も宇道側が御判を破るような覚悟ならば、自分たちも晴久に報告するとして宇道側に恫喝をかけるのが精一杯であった。浄音寺から訴えがあったにもかかわらず、晴久に報告しなかったのは「松尾」からの懇ろな依頼があったためである。晴久に報告すれば確実に松尾に対して「御前がしっかりしないからだ」と批判の矛先が向かったであろう。実際には⑥は天文20年2月26日のもので、今回も晴久にばれてしまい、3月9日には正式な⑦が出されたが、浄音寺に対して境界の制札を破る輩を搦め取り注進するように命令を出したことを伝えている。ここでは国久への批判などは述べられていない。国久は晴久の判断を尊重しており、自らの裁決は示していない。そんなことをすれば大変な事態に発展したであろう.。また署判者は通常の奉行人とは異なり天文16年の上使二人であることも意味があるのであろう。
 繰り返しになるが、⑥を天文16年に比定すると、晴久の「両通」が出されておらず、明確に矛盾することに長谷川氏と中野氏は気づいていない。恐るべきことである。最初に戻るがこうした事態をさけるために「応仁・文明の乱と尼子氏」を執筆し、その最後に「確実な根拠に基づかない推論」ではなく、「実証的な研究の積み重ね」が求められることを述べたのである。

佐木・宇道の相論再考2

 これについて通史編はどのように記述するかというと、最初に相論の当事者である佐木浦代官の浄音寺が「国久を介して訴えを起こしている」と述べる。国久は出雲国西部における晴久の代官であり、国久を介して訴えたかどうかは文書からは不明であるが、それが行われたとしても何ら問題はなく、特筆すべき事ではない。
 これに対して「晴久は国久の介在を排除し、自身の「判形」「上意」による解決を図った」として、③を根拠にあげている。問題なのは国久の介在ではなく、国久自身が裁決を下すことである。実際に国久が行ったのは、晴久へ報告が行き、間もなく正式な命令が出るので、とりあえず逃散中の宇道地下人に対して、逃散を中止して宇道に戻れというものであり裁決ではなかった。これに続いて、意味はまったくつながらないのだが、以下のように記す。
 「すなわち二度に及ぶ晴久の裁決にもかかわらず、宇道側は承服せず、薪などを切り取るという挙に出た」として、⑥を根拠とする。次も意味不明な表現が続く。
 「このとき、尼子氏の奉行人たちは晴久の「御判」だけでなく、「刑部様」こと国久の同意を根拠とし、宇道地下中に宛てて裁決の遵守を命じている」と⑥の内容を記す。最も問題なのは③と⑥の間に④⑤がなければならないのに、松江史市では③⑥④⑤の順番にしてしまっていいる。さらに続く。
 「すなわち晴久の命令だけでは貫徹できず、国久の助言が必要となる地域が出雲国内に存在したことになる」と記す。中野氏の解釈は③で晴久が国久の介入を排除したにもかかわらず、⑥のように奉行人は晴久の「御判」だけでなく国久の同意を根拠として命じたとするのである。そんなことをすれば、奉行人は晴久によって粛正されたであろう。実際には粛正が行われていないことから、文書の年次比定に基づく配置もその解釈も誤っているのである。

佐木・宇道の相論再考1

 「冨田衆松尾氏について」で述べたが、『松江市史』をよく読むと事態がさらに混乱している。当方も市史の中世全体に責任があり、批判を受ける立場であるが、敢えて述べる。『松江市史研究』に自分の執筆分担とは重ならない「応仁・文明の乱と尼子氏」を執筆したのは、長谷川氏による尼子氏論には確実な根拠に基づかない推論が多く、今回の『松江市史』では、一から再検討の上、執筆していただきたかったからであった。
 結果として、尼子氏については長谷川氏と川岡氏・中野氏の分担執筆となった。川岡氏執筆部分では三沢氏について「横田三沢氏」との表現がなされたように、三沢氏惣領と横田三沢氏は別々の存在であることを含め、論者による長谷川氏論文への批判を川岡氏なりに勘案して記述されたが、長谷川氏による「尼子氏の軍事活動は直臣のみを率いたものであった」ことなど、その他の問題点の多くは残されたままである。
 佐木・宇道の相論に関する史料を『出雲尼子氏史料集』の順番に並べると以下の通りになる。
①(天文16年ヵ)2月2日尼子氏奉行人連署書状(A、浄音寺宛)
②(天文16年)2月16日尼子氏奉行人連署奉書(B、浄音寺宛ヵ)
③(天文16年)2月20日下笠重秀書状(浄音寺宛)
④天文16年閏7月11日尼子氏上使連署晴久下知状(直状、浄音寺宛)
⑤天文16年8月9日尼子氏奉行人連署晴久下知状(書状、浄音寺・佐木地下中)
⑥(天文17年ヵ)2月26日尼子氏奉行人連署書状(宇道地下中)
⑦天文20年3月9日尼子氏奉行人連署書状(浄音寺宛)
⑥の年次比定は再検討が必要だが(論者は天文20年に比定した)、⑤と⑦の間のものであることは確実である。ところが、『松江市史』では⑥もまた天文16年に比定され、③と④の間に配置されたのである。明らかに失考である。⑥の中に「佐木へ落着候而御判両通まて被遣候」とある両通とは晴久の袖判を付した④⑤の二通の下知状である。また①は天文17年のものとして④⑤の後に位置づけられた。

2017年1月12日 (木)

尼子氏と出東郡

 すでに「多久氏と米原氏」で、冨田八幡宮を勧請した久木八幡宮や尼子氏直轄領の問題について触れた。出東郡は古代は出雲郡と呼ばれ、より広い領域を持ち、その中には両国造家の苗字の地である千家・北島村も含まれていた。
 尼子氏家臣による文書発給は塩冶興久の乱の前後で変化する。それまではほとんどが亀井秀綱単独であったが、それ以降は複数の家臣が連署するものが増加する。そして地域や問題の種類により署判者は異なっている。すでにみたが、天文5年に備後・安芸国へ出兵した際には、湯原幸清と河副久盛が派遣され、吉川氏への文書を発給した。発給文書の変化は晴久(詮久)の代ではなく、経久の代に開始されていた。
 天文5年末に本願寺が初めて尼子氏と連絡を取った際に、経久とともに「とや方」へも礼物を送っている(証如上人日記)。天文6年12月6日の記事には伊予守ヘノ奏者として鳥屋七郎右衛門が見える。これに対して詮久の奏者は冨田衆河本右京進久信であった。 天文6年3月6日尼子経久袖判下知状の署判者は鳥屋七郎右衛門尉秀重であった。神魂社への御供や宮山の範囲について、浄音寺と神宮寺に対して伝えている。浄音寺は千家・北島家の対立の際に、北島側に功績のあった秋上氏一族の権次郎(千家方により殺害される)のために設けられた寺で、神宮寺は遅くとも鎌倉時代中期にはその存在が確認される。
 次いで同年に比定される(貼紙による)11月29日鳥屋三郎右衛門尉清誠・同大炊丞誠幸連署書状が注目される。大社三月会の御名代について北島方の佐草孫兵衛尉から2度申し入れがあったことをうけてのもので、御日参銭を仰せつけるので祈念を依頼している。清誠は七郎右衛門尉の近親者であろう。大炊丞ともに「誠」の字を付け、前者は上に、後者は下に付けている。鳥屋氏三者の序列は七郎右衛門尉秀重、三郎右衛門尉清誠、大炊丞誠幸の順になろう。鳥屋郷も出東郡内の出雲大社領であり、鳥屋氏も大社の関係者であった。この書状の袖には大熊右京進が御前(長谷川氏は佐草氏と解釈されたが、国造北島氏である)に祇候しているので、国造北島側にも同様に連絡したことが記されている。尼子氏側は佐草氏と大熊氏(塩冶氏の一族)を通じて北島国造に伝達している。大熊の立場は天文21年の尼子氏と北島家の遣り取りでも同様である。大熊氏が島根郡内の国久領の代官を務めているのも、本来が尼子氏の家臣であったからである。
 この大熊右京進(久家)について、長谷川氏が佐草氏の被官であったものを尼子国久が自らの家臣(悴者)に組織化したとの解釈を示されたのに対して、尼子経久の娘が北島雅孝に嫁いだ際に派遣された家臣との解釈をし示した。長谷川氏は興久の乱後まもなく国久が塩冶に入部したとの解釈を示されたが、文書からすると国久の塩冶入りは大内氏敗退の直後である。塩冶興久の乱後には興久の遺児清久による所領の継承が認められる一方、尼子氏家臣が塩冶に派遣されたことを述べた。大熊右京進が「久」の字を付けているのも、もともと尼子氏の関係者であったためである。
 以上のように、尼子経久との関係が強かった鳥屋氏であるが、これ以降の史料には登場しない。これも経久から晴久との間の断絶を示す一例であろう。

2017年1月 9日 (月)

三沢氏の惣領(6)

  以前述べた点について、再検討する。文明7年に惣領信濃守為清が近江国で死亡したため、左京亮為忠(後に遠江守)が惣領となった。為忠は為清ではなく対馬守為信の子の可能性が強い。
  為忠は三沢郷などを嫡子三郎四郎(ないしは彦四郎)に譲り、幼少の次郎四郎為国などを連れて横田庄に隠居した。ところが、嫡子が早世したため、庶子の為理が一時的に惣領となり、嫡孫の成長を待ってその地位を譲った。一方、為国は横田庄を譲られ、横田三沢氏の初代となった。
 三郎左衛門尉為幸は天文3年(1534)には平田村岩壺三社大明神の造営を行っており、横田三沢氏ではなく、三沢氏惣領の関係者である(永正13年岩壺社を造営している為光の子の可能性もあり)。大永7年の備後国出兵の際に、三郎左衛門尉為幸が「三沢ノ名代」として参加していたのはそのためである。ただし、その時点で三沢氏惣領は早世し、その嫡子が三郎四郎(その時点では元服前で~丸)であった。
 享禄3年の塩冶興久の乱の時点で、三沢氏惣領家は尼子経久方で(なお元服前であり、立場は未定か)、横田三沢氏が享禄4年に尼子氏の攻撃を受け、為国とその子次郎法士丸は冨田へ幽閉され、天文5年に殺害された。三沢氏惣領はこの頃元服して「三郎四郎」となり、天文9年の竹生島奉加帳にみえ、その後に左京亮に進んだ。三沢三郎左衛門尉為幸は「横田庄請之地」を知行した。
 天文9年10月11日に横田地頭三沢三郎左衛門尉為幸は安芸国吉田合戦で家臣と共に討ち死にした。そのため、天文6年生まれの為幸の子才童子丸が4才で横田庄を管領した。天文10年正月の尼子軍が吉田を撤退し、大内氏が出雲国攻めを発表すると、三沢氏惣領左京亮と横田の才童子丸はともに反尼子方となった。そして大内氏が出雲国から敗走する前に三沢氏惣領左京亮は他の国人とともに尼子方に戻っていたが、尼子氏はこれを許さず、冨田で家臣と共に殺害し、横田庄は尼子氏領としてその家臣を代官として入部させた。横田庄は備後国と堺を接しているため、こちらを直轄化した。7才になっていた才童子丸を三沢氏惣領としてこれを管領させた。「古代ヨリ聴書」には、才童子(為清)が天文17年(12才)までは亀嵩に居住したとする。また「聴書」には大内氏方として尼子氏を攻めた多賀美作守隆時が白鹿で切腹させられたことも記す。この点で、多賀氏と多賀山氏が混同されることが多いが、多賀山氏は通続が八川村代官に補任されており、尼子誠久の妻の実家であった多賀氏に関する記事である。
 為清は尼子晴久女子と結婚したが、毛利氏が出雲国に進出するといち早く毛利氏と結んだ。尼子義久は横田庄と西比田を三沢為清に返して懐柔したが、何の効果もなく6月16日には本主の一人であった森脇孫三郎に返している。三沢・赤穴・三刀屋氏といった出雲洲衆のみならず、冨田衆の波根氏や池田氏、さらには尼子氏と婚姻関係を結んでいた松田氏も毛利氏に降伏した。その後の本庄常光殺害事件がなければ、富田城の落城はさらに早かったであろう。それは晴久が生存していたとしても全く変わらない。以前は天文12年に殺害された三沢氏惣領左京亮を遠江守為忠の孫としていたが残された史料と時代があわず、これを曽孫に訂正した。

2017年1月 8日 (日)

尼子氏と伯耆国2

  当時の状況を記す新見国経書状には、天文元年5月より尼子氏からの合力の依頼を受けて高田表に番役を勤めているが、一方では伯耆国東部と美作国の武士が申し合わせて反尼子方となった、6月後半の時点では尼子方が理運となったとする。そうした時点で行われたのが天文2年2月の尼子経久による伯耆国犬田村の日御崎神社への寄進であった。次いで、天文2年11月には塩冶興久を擁護する備後国山内氏への攻撃が開始され在陣中であった。長谷川氏はそれを享禄4年からとされ、天文2年頃には山内氏を討ったとされるが、関係する無年号文書の年代比定に問題がある。
 そして天文5年には安芸・備後への大規模な出兵を行い、毛利氏などの敵方所領を奪い取り、翌天文6年からは備中・美作から播磨への軍事活動を展開する。これには外様の国人衆は動員せず、もっぱら新宮党などの一族衆と直臣である冨田衆が参加している。当然、リスクもあり、ここにみえない尼子久幸が経久とともに出雲国の統治や西部方面の対策を担っていたと思われる。その一つの結果が、天文9年の安芸国吉田攻めであり、毛利氏の主張によれば、やや誇張された面はあろうが、出雲・伯耆・因幡・備前・美作・備中・備後・石見・安芸半国から国人が動員された。
 しかし吉田攻めの失敗により、尼子氏の支配は西部のみならず東部でも大きく動揺した。
天文11年4月には竹生島本願が2年間にわたって出雲国に逗留してきたが、隣国の錯乱により勧進は進まず、帰国しているが、尼子晴久局(国久の娘)の書状には「はうきやふれ」とあり、伯耆国でも反尼子の動きが顕在化したことがわかる。天文12年5月の大内氏敗退後、伯耆国への出兵がなされ、体制の再建がなされたであろうが、この段階で国外に逃れた国人も少なからずあったと思われる。天文13年9月10日には晴久が伯耆国汗入郡多気庄内35石を千家氏に寄進し、13年6月の河副久盛書状にみえるように因幡国の支配にも目途が立ったようであるが、その一方で安芸・石見などの東部方面には手が回らなかった。一方、天文15年6月の因幡山名氏の家臣武田氏との合戦で尼子国久の子豊久が戦死しているように、抵抗は続いていた。その後の状況は史料を欠き不明であるが、永禄5年に毛利氏が出雲国に進出すると、出雲国内の国人の多くが尼子氏に背いている状況であり、伯耆国でも同様で、尼子氏の拠点が次々と毛利氏方によって攻略されていく。

尼子氏と伯耆国1

 新宮党と伯耆国の関係について述べたが、伯耆国は尼子氏の本拠地富田城に最も近い他国である。大永4年の日御崎社修造勧進簿に出雲国・隠岐国・石見国東部とならんで、伯耆国西部が段銭賦課の地域とされたことは一定程度事実を反映したものであろう。ただし、石見国東部には大内氏方の国人が残っているように、伯耆国西部も同様の状況であったろう。『尼子氏と戦国時代の鳥取』の刊行により基礎的事実は確認されつつあるが、なお課題がある。
 天文2年の尼子経久寄進状により、尼子氏が伯耆国に進出したのは永正10年前後であったとされる。仁多郡の三沢氏を攻略するのと平行して行われていた。その意味で重要なのは出雲国西端で伯耆国と堺を接する井尻の掌握である。井尻は京極氏の一族井尻能登入道と井尻能登守が永享と文安の御番帳にみえた。それが永正末年頃の状況を記した大館常興書札礼に「鶴見修理亮」がみえ、「つるみハ京極殿被官ながら今度尼子殿寄揆之官之由也、其外福頼菅兵衛尉・多胡弥三郎なども同事なり」とあり、京極氏の被官を尼子氏が取り込んだものである。天文9年の竹生島奉加帳には出雲洲衆に「宇津木殿」がみえるが、これと同族で鎌倉期以来の地頭の流れを引いている。
 大永2年から3年にかけての尼子氏は三沢氏をはじめとする出雲国の有力国人を動員して石見国に侵攻し、江川東岸の都治氏を滅ぼしてその所領を支配下に入れるとともに、邑智郡から安濃郡に勢力を持つ小笠原氏との間に同盟関係が成立した。その小笠原氏は大永5年11月には尼子氏による伯耆西部の淀要害攻撃に動員されている。そしてすでにみたように、大永7年の備後国山内氏攻撃には伯耆国西部の山名氏・行松氏・佐藤氏・日野氏を動員していた。
 『尼子氏と戦国時代の鳥取』には行松氏は尼子氏の攻撃で国外へ退去した国人の例とした記されているが、それは塩冶興久の乱以降の事であろう。乱は伯耆国支配にも大きな影響を与えた。享禄4年末までには横田三沢氏を降伏させ、出雲国内の平定を完了した尼子氏は、隣接する伯耆国と美作国へ軍を進めて体制の再建を図ったが、当然のことながら頑強な抵抗を続ける国人は少なからずいたと思われる。

2017年1月 7日 (土)

安芸国戸坂合戦

 木村家文書で編纂所が購入したものに、①天文9年4月20日武田光和感状(木村亦五郎宛)がある。書状形式ではなく、付け年号で直状形式をとっている。内容は前年来の安芸国戸坂城での合戦が落居したことをうけて、木村信之の勲功を賞している。関連史料には『出雲尼子史料集』に収録された②9月21日松田経通書状(吉河殿宛)、③天文8年10月5日毛利元就感状写(岡又四郎宛)、④6月25日某和重(武田氏家臣ヵ)書状(戸坂殿宛)がある。
 ②は③と同じ天文8年のもので、尼子氏から派遣された松田経通が戸坂表に足軽を派遣したが、相手を討つことはできず、逆に(経通のヵ)子が疵を負ったことと、すぐに良くなるので安心をと述べている。その一方で備中方面は近日中に落居するとの連絡があったこと、下口も同様だと述べている。⑤8月13日松田経通書状(吉河治部少輔宛)は同年のもので、熊懸要害へ動いて勝利したことと、兵部大輔の御意を得ているので安心するように述べている。兵部大輔は小笠原氏であろう。天文8年9月13日大内義弘書状では、「小笠原計策状三通」をみたが、毛利氏への疑念はないことを述べており、石見小笠原氏が尼子氏方としてあったことがわかる。⑥同じ8月13日付の赤穴光清書状(吉河殿宛)では高松麓まで動いて敵数人の輩(熊谷氏関係者ヵ)を討ち取ったことを悦んでいる。⑦正月21日松田経通書状(吉川殿宛)は、『尼子氏史料集』では天文8年に比定されているが、尼子氏の播磨表での軍事行動が理運に成っており、まもなく帰陣することを述べており、9年の誤りである。
 このように尼子氏方の安芸国での活動は順調に進んでいたが、④はその中で武田氏当主光和が死亡したことと、播磨に派遣されていた湯原幸清が近日中に安芸国へ下向してくることを述べている。④からみても、毛利氏による戸坂攻撃は失敗し、天文9年4月には決着したことがわかるが、その一方で武田氏当主の死亡は尼子氏方にとって早急な対応が求められた。②③に加えて新たな史料が確認できたことで、より正確な情報が入手できた。

尼子氏による多賀山氏攻撃2

 そうすると②③では尼子氏による多賀山表乱入(城取懸)に対する馳走を述べているが、それが開始されていない7月の時点で感状を出すことはありえず、享禄2年でも合戦が継続中であり享禄3年のものとなる。④⑤では合戦が勝利し、敵が退散したと述べており、これが享禄2年のものであろう。尼子氏の攻撃に耐えて停戦が成立し、尼子氏方が退陣したので、「勝利」したとするのは問題がない。⑥⑦では「重乱入」とあるが、大永7年の合戦に続いての乱入であり、これも享禄2年のものとして問題はない。⑧は7月20日の停戦を受けてのもので、享禄2年の比定で問題はない。
 以上から分かるのは、蔀山城攻防戦は尼子方も出雲国の国人のみならず、安芸国の同盟者である武田氏の家臣を輪番で動員し、①のみをみると多賀山氏は孤立していたかにも思えるが、実際は備後国の山名・大内氏方の国人が動員された大がかりなもので、大永7年の合戦の第2ラウンドというべきものであった。今回は尼子氏方が優勢で落城寸前までいったが、天候の悪化により停戦して退陣したのである。これは尼子氏と大内・毛利氏による一般的な意味での停戦ではなく、天候による個別の停戦である。前にも述べたが一般的な意味での停戦成立は享禄4年7月である。
 大内氏から⑧が停戦成立の直後に毛利氏に対して出されたのに対して、山名氏は同年の暮れになって備後国人に感状を与え、一部の場合はその翌年であった。大内氏側の方が対尼子の当事者意識が強かったことがわかる。一方、尼子氏を支援した安芸武田氏も家臣に対する感状を出したはずであるが、何らかの理由で残っていない。それをうけて、若狭武田氏の感状が出されたはずである。②~⑦を享禄元年に比定する根拠はまったくなく、尼子氏が「一旦は撃退された」というのも「7月に攻略した」というのも誤りである。

尼子氏による多賀山氏攻撃1

 この問題については、長谷川博史氏「尼子氏による他国への侵攻」に以下のように述べられている(要約)。
 享禄元年9月に尼子氏が攻撃を開始し、一旦は山内氏・田総氏らの援軍に撃退されたが、同2年7月に攻略した、と。
攻撃の開始時期については9月9日に「尼子取詰当城」と多賀山通続が記している(①永禄2年当家継図事)。関連史料として、『出雲尼子史料集』には、②7月6日山名祐豊書状(杉原刑部大夫宛)、③7月12日山名祐豊書状写(上山加賀守宛)、④⑤12月6日塩冶豊綱書状(④上山弥次郎宛、⑤田総藤蔵人宛)、⑥12月6日山名祐豊書状(高須中務丞宛)、⑦12月10日大田垣朝延書状(高洲中務丞宛)、⑧7月26日大内義隆書状(毛利治部少輔宛)が①とともに収録されている。
 ①には「七月十九日ニ、廿日」と日付に微妙な表現があるが、多賀山氏が籠城する蔀山城は兵粮が尽き、城兵の中には多賀山氏への援軍である山内氏等の方へ脱出するものや、敵である尼子氏方に落ちて討たれたものが続出した。その後、わずかに残る城兵で3日間抗戦したところ、天の扶けか大雨が降り出し、合戦は落居したとある。攻撃側と防御側で停戦が成立したのであろう。
 そうしてみると、②から⑦を享禄元年に比定されたことに疑問が生じてくる。その前に、未収録の史料として⑨8月27日武田元光書状がある。安芸武田氏の本家である若狭武田氏惣領元光が、木村又五郎の去年8月上旬から先月20日までの尼子氏による多賀山氏攻撃の際の軍功(輪番で在陣)を賞している(東大史料編纂所蔵木村家文書)。去年=享禄元年で、9月9日に尼子氏が蔀山城攻撃を開始する1月前から、武田氏配下の国人が尼子氏支援のため派遣されていたことと、7月20日にそれが落居したことがわかる。

2017年1月 6日 (金)

天文年間後半の備後国

 備後国については、備北の山内氏とその一族の多賀山氏が一時は大内氏による出雲国攻めに参加したが、その地理的重要性ゆえ、石見国の本庄常光と同様その所領支配を許され、多賀山氏は横田庄内八川を預けられるほどであった。大永6年に塩冶興久の妻の実家である山内氏が反尼子氏に転じると、翌7年には尼子経久は大軍を率いてその攻撃を行ったが、大内氏と毛利氏の協力により阻止された。それが天文4年にはようやく興久を自害に追い込み、翌5年には山内氏当主をも殺害し、山内氏を掌握した。
 また、備南では本来、尼子氏に対抗するために大永年間に派遣された山名氏一門の理興が、大内氏の出雲国攻めの失敗後は尼子氏方として神辺城とその周辺地域を支配していた。その意味では、尼子氏による備後国支配が深化する条件は整っていたが、その後の尼子氏による備後国への働きかけは、ことごとく大内氏と毛利氏により阻止された。大内氏と毛利氏による神辺城攻撃に対して、尼子方は十分な支援ができず、天文19年には山名理興が備後国を追われた。また天文22年には旗返城の江田氏を現形させて事態の打開を図ったがこれも失敗した。何より痛かったのは天文22年末に山内隆通とその実父多賀山通続が毛利氏と結んだことである。
 通続は幼少時に尼子氏と結ぶ叔父花栗氏の反乱で父と兄弟を失い、一時は縁戚関係にある多賀氏のもとに逃れた後に10才で家督を相続したが、山名氏の意向をうけた山内氏ら備後国人が反尼子方に転じると、出雲国境沿いに位置することもあり、何度となく尼子氏の攻撃にさられた。その子隆通も妻の祖父山内直通が尼子氏により殺害される中、天文5年に山内家の相続を認められた。それゆえ、隆通は尼子氏の安芸吉田攻めが失敗するとすぐに大内氏方となり、元服時には毛利元就から初冠を受けている。それにもかかわらず、尼子氏はその存在を認めざるを得なかったのである。
 後の朝山日乗は、兄と共に備後国に派遣されていたが、その拠点が落城し、兄が死亡する中、尼子氏勢力がなお強かった美作国に移ったとする。石見国の状況を併せてみると、天文10年代後半には石見・備後両国とも尼子氏の支配が後退し始めた。そうした事も尼子氏内部での責任論や疑心暗鬼をうみ、毛利氏の調略により晴久が新宮党を党滅する原因となったのかもしれない。ただし、新宮党討滅がなくても石見国と備後国の事態の打開は困難だったのではないか。仮に尼子氏と陶氏が共闘して毛利氏を挟撃すれば打開につながったかもしれないが、それが実現する可能性は低かった。

天文年間後半の石見国

 尼子・大内両氏の遠征が共に失敗に終わった後の石見国の状況はどうであろうか。史料は乏しいが確認しておく。
 石見国については佐波氏の一族赤穴氏と高橋氏の一族本庄氏ならびに小笠原氏が尼子方の中心で、その他、多胡辰敬など冨田衆が所領を得て入部していた。赤穴氏については、天文16年には山口牢人中であった佐波興連が帰国したため、赤穴氏を通じた佐波氏掌握は失敗した。こうしたこともあって石見銀山についても大内氏の支配が続いた。
 赤穴氏は大内氏の出雲国攻めの際も尼子氏方でありつづけたが、永禄5年に毛利氏が出雲国に進出すると、いち早く毛利氏方となり、以後、尼子氏復興戦においても毛利氏方であった。天文16年には安芸国吉川氏に元就の子元春が養子に入り、小笠原氏もこれを祝しており、小笠原氏は境目領主として尼子氏からは独立する路線を採用する。その後、大内氏方となるが、義隆と陶晴賢の滅亡により毛利氏方の福屋氏と対立したため、尼子氏との関係を復活させるが、度重なる毛利氏方の攻撃を受け、永禄2年には降伏して毛利氏方に転じている。これまたその後、尼子氏方となることはなかった。
 これに対して本庄氏は、出羽郷本庄を苗字の地とする。出羽氏領を高橋氏が横領する中で、本庄を支配していた。大内氏の出雲攻撃時には反尼子方となったが、その失敗後、佐波氏領(天文4年に須佐十三社大明神本殿を造営)であった須佐郷を尼子氏から与えられ、天文13年には須佐十三社大明神の鳥居を造営している。ただし、佐波氏の復帰後は須佐神社を含む郷北部を本庄氏が、南部を佐波氏が支配する形となったと思われる。石見国東部は大内方と尼子方の所領が併存する状況にあったが、永禄4年には石見銀山と山吹城の守備にあたっていた本庄氏も毛利方となり、小笠原氏と同様陶氏の滅亡により尼子方に転じていた温泉氏も所領を失い、出雲国に遁れた。そうした中、永禄5年には福屋氏が尼子方家臣ならびに温泉氏と結んで毛利氏に反旗を翻したが、雲芸和談が進む中、尼子氏の十分な協力が得られないまま、毛利氏によって滅ぼされた。これにより、石見国から尼子氏の勢力は消滅した。
 弘治2年には尼子晴久自ら大軍を率いて毛利氏方を破り、山吹城と石見銀山を掌握したが、結果としては天文16年の佐波興連の復帰により、出雲国と堺を接する江川以東の石見国すら安定的確保ができなくなったことが大きかった。

2017年1月 4日 (水)

尼子氏の備後国遠征2

 以前の記事で言及した大永7年の備後国での合戦についても、「山内ト合戦取相也」との記述がある。尼子方は備後国布野城を攻め落とし、次いで和知城を攻略し、次いで山内氏を攻めた。これについて毛利氏は雲州衆が和智に出兵して落居してから、元就が調儀を以て合戦に及び、敵方数百人を討ち取った時点で、防州勢が到着したと記す(山内直通に関する冒頭の記述を削除。三沢為国に関するものであった)。
 古代ヨリ聞書では大内方から山内氏への合力として陶兵庫が三吉表に陣取り、毛利・宍戸・江田氏が和知に陣取り、山内氏も打出て二ツ山に陣取り、伊豆・宇田に城を構えたと記す。毛利氏の説くところと合致している。
 次いで聞書は、三吉氏は尼子方で、宍道氏・伯州行松氏とともに八千タン(具体的地名なし)の一山に、尼子経久が次ノ山(便宜的に二山)、塩冶興久と亀井秀綱、その他出雲国衆が三山に陣取り、布野城には伯州法勝寺の佐藤氏と守護大輔(山名氏ヵ)、勝坂に日野の守護津ノ守が陣取ったと記す。
  なぜかこの部分を長谷川氏は利用されないが(氏は論文の中で、今回の遠征の主たる目標が山内氏だったとしている)、「快円日記」のダイジェスト版であり、大筋において事実を反映していると思われる。長谷川氏は尼子氏の軍事活動が直臣である冨田衆のみを率いてのものだったとされるが、それが該当するのは天文6年から9年にかけての備中・美作・播磨国遠征であり、大永3年の石見国遠征には三沢氏など出雲国人を動員し、赤穴氏も大永7年には安芸国銀山城に派遣されている。長谷川氏の解釈は史料の文脈を踏まえない誤読であり、三沢氏が参加したからこそ、その記録が岩屋寺に残ったのである。
 大永3年の石見国遠征については石見国人河上・都治氏の記録にも情報がみられる。大永2年から3年にかけての尼子氏の攻撃で都治氏は滅亡に追い込まれ、その所領は欠所となったが、塩冶興久の乱勃発をうけて、石見国中部の福屋氏が興久に都治氏跡の継承を要求した。これを知った都治氏の本家河上氏では都治氏の遺児による継承を求めて興久のもとへ使者を派遣したとする。石見国東部の国人も積極的とは言えないが興久方であったことになるが、その時点で興久は中郡(大原郡)加茂に在陣中であった。興久の乱における合戦といえば、島根郡と秋鹿郡の堺に位置する佐陀城での戦いが軍記物に記されている。まさに加茂と佐陀が興久方と経久方がぶつかり合う最前線であったのであるが、出雲国南部の興久への支持は思ったほど広がっていない。享禄4年6月11日に比定できる書状の中で経久は横田要害について森脇治部が調法を行ったとして、横田を獲得後はその一部を三刀屋対馬守に与えることを約束している。三刀屋氏には三沢氏から養子に入った(三刀屋氏女子と結婚)人物=三沢紀伊守がおり、また、横田三沢氏とは別に三沢郷を本拠とする惣領がいた。従来、三沢氏は興久方だと言われていたが、実際には経久の調法もあって分裂させられていた。興久方となった横田三沢氏に対して、惣領三沢氏や三沢紀伊守は経久方であった。赤穴氏とその本家佐波氏も経久方であった。大内氏・毛利氏が経久を支持したこととともに、これも興久が早い時点で敗北に追い込まれる原因となったであろう。
 備後国をフィールドとする研究会の活動は盛んであり、住本氏に限らず、田口氏・木下氏などにより実証的で堅実な研究成果が次々と発表されている。その成果に学びつつ、自身の理解を深めている最中である。『出雲尼子史料集』の吉川氏と尼子氏に関係する文書の年代比定は大変混乱している。住本氏の作業もその克服をめざしたものであるが、なぜ混乱したのか、2000年に「尼子氏の石見国進出をめぐって」という論文(そこでは当該史料を含めて新たな年次比定をし、当該史料は天文5年のものであることを明らかにした)を発表した立場からすると、想像することが不可能である。

尼子氏の備後国遠征1

 最近、尼子氏の備後国出兵について史料や論文をみている。長々と原稿を書いていたが、とりあえずは没にして、以下の文は新たに作成したものである。
 岩屋寺の「古代ヨリノ聞書」から以前触れなかった点を補足する。天文10年の岩屋寺本堂仏壇興業(この部分の快円日記は残っていない)を地頭三沢三郎左衛門為幸が行ったことに続いて、「天文四年乙未備後木屋原陣有、三沢殿御出也」として、山内氏攻撃のための木屋原(小屋原)陣に三沢氏(為幸ヵ)が参加していたことがわかる。敗北した塩冶興久が頼った山内氏への攻撃は天文2年後半から行われていた。①年未詳3月14日湯原幸清・河副久盛連署書状には「小屋原之城捕詰候」と述べ、「爰元落居候者、則何之口ニても候へ、可罷出候之間弥御馳走此時候」とする。小屋原城攻撃が最終段階に入っていたことがわかる。近年、住本氏は当該史料を天文5年3月14日に比定され、②4月23日同書状を天文4年とされた(備陽史研究『山城志』第22集)。山内氏攻撃は天文2年以来断続的に行われていたが、天文5年に大がかりな備後国出兵が行われ、湯原・河副両氏も派遣された。その出兵に安芸国吉川氏が尼子氏に連絡した当初のものが①で、ある程度遣り取りが行われた後のものが②であり、ともに天文5年のものである。
 ①は3月10日付の吉川氏書状を見たことから記し、尼子氏側が出張したところ、早々に吉川氏側から音信があり、詮久に伝えたところ、吉川氏側が尼子氏に入魂することがわかり本望だとの返事があったことを述べている。一方、②は4月19日の吉川氏書状を見たとするとともに、これまで度重なる音信があったことは詮久も畏悦(恐悦)しており、富田からも書状で吉川氏へ申し入れていることを述べている。
 この書き出しからわかるように、尼子氏の出張を受けて2度(最初は10日以前)の音信があったことがわかり、こちらの方が早い時期のものである。後者はさらにお互いで数度の音信があったことを受けての書状である。実は同じ差出人で同じ宛所としては年未詳7月27日書状もあるが、これについては言及されなかった。この後、吉川氏側は次郎三郎興経が治部少輔に、吉川式部丞が伊豆守に、森脇縫殿允が和泉守に任官しており、残りの文書とは発給した時期に差があると思われるので、関連する文書として検討が必要である。『松江市史』では3通とも天文5年に収録してもらった。
 ①と②の前後関係は吉川氏と武田氏の対立に関する尼子氏の意見をみても明白である。住本氏の研究は大変意欲的なもので、高橋氏滅亡と塩冶興久の乱を関連づける点など学ぶ点が多いが、当該史料の訳文には「備後国無為之事」を含め、なお検討の余地がある。
 天文5年には塩冶興久の乱の時点で降伏させ冨田城塩谷に幽閉していた三沢為国(横田三沢氏であり、惣領は別に三沢にいた)とその子を殺害し、佐波氏に対しても軍事行動を行っている。大永6年には尼子氏が佐波氏惣領を没落に追い込んだが、享禄3年から4年の塩冶興久の乱では佐波氏惣領は尼子経久方であった。それが、反尼子の動きを未然に察知したのであろう、天文5年には横田三沢氏を殺害し、佐波氏では同年に惣領誠連が死亡して子の隆連に代替わりするとともに、誠連の弟興連が「山口牢人中」に追い込まれている。その上での備後国への大規模出兵であった。結果として、山内氏側は3月の段階で当主直通に代わって、その孫娘と結婚する一族多賀山通続の子聟法師が相続する事を提案して尼子氏がこれを認めた。この時点ではなお甲山城は包囲中であり、6月に直通が聟法師への譲状を作成して、一段落した。

2017年1月 1日 (日)

ブログ開設から今日まで

 とりあえず、このブログでこれまで何本の原稿を書いてきたかを確認してみた。
2016が208本で以下、2015 137本、2014 86本、2013 149本、2012 74本、2011 245本、2010 204本、2009 199本、2008 94本(10月18日から開始)。合計1387本。
 当初は歴史以外の割合も高かったが、トータルでは9割以上が中世史であろうか。概算ではあるが1200本として、1本平均800字(400字詰め原稿用紙2枚)として96万字(原稿用紙2400枚)である。日々ネタ切れの危機の中で書いており、中世史以外を含む新たな史料に出会わなければ早晩更新のペースは落ちるであろう。2012年が少ないのは学校を転勤したため、1学期の間、ほとんど更新する余裕がなかったことによる。2014年は松江市史通史編中世の執筆があったためか。2008年は実質2ヶ月半であり、このペースを1年間続ければ400本になるが、実際には1日1本以上というのは難しい。日記ならば可能だが、ネタとそれを検討する時間が必要である。当然、考えたが外れであった事例(ブログとして完成せず)も数多くあったはずである。
 きっかけはニフティでインターネットを始めたことであろう。それ以前はビッグローブでパソコン通信を行っていた。確か、ビッグローブがNECから独立した会社となる中で、ブログとともにホームページが追加料金なしで開設できる富士通系のニフティを選んだと思う。そのニフティの先行きがどうか不透明となり、中国電力のメガエッグに変えた。ただし、ニフティのメールのみの会員であるならば、ブログは継続できるということで、現在はブログはニフティ、それをまとめたホ-ムページはメガエッグで公開している。
 最初にアップしたのは、石見国大森の出身でありながら、中央の囲碁界を除けばあまり知られていなかった岸本左一郎に関する記事であった。岸本左一郎との出会いは、早稲田大学候図書館に山本家文書の調査にいった際に、事前に目録で本因坊秀策が山本家を訪れた際の記録など囲碁史関係史料があることを知っていたので、それも閲覧したことであった。そこで収集した資料のなかに、山本家(当主の中に、儒学の塾を開設する一方で、井上家も門人で囲碁初段の人がいた)を中心に行われていた出雲国西部から石見国東部にかけての囲碁のグループの対局の記録があり、本因坊家に入門する以前の左一郎の記録もあった。
 佐倉の国立歴史民俗博物館に石見国の福富家文書の調査に行った際にも、囲碁史関係の資料も閲覧した。大田に囲碁留学していた人の記録(その関係史料が日本棋院蔵「囲碁清戯」であろう)や、岸本の弟子岩田右一郎を招いての碁会に関する遣り取りを記した手紙があった。一方で、大森に関する史料を調査する中で、岸本の父に関するものも確認できた。広島県三原市立図書館では岸本の著書『常用妙手』を閲覧し、一部を筆写した。貴重書として保管されていたが、約10年後に写真撮影のため問い合わせたところ、その時点では所在不明となっており、残念であった。 書き出せばつきないが、とりあえず、2017年の最初の記事としてこれまでの一部を回顧した。新年の午前中の仕事が待っているので。

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