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2016年12月

2016年12月31日 (土)

富田衆松尾氏について

 佐木浦と宇道浦の問題で、天文16年閏7月から8月に晴久の裁定が下ったにもかかわらず、宇道浦の地下人が佐木浦の山へ入って薪以下を切るという問題が発生し、尼子国久ならびに尼子氏奉行人をあわてさせたことについてはすでに述べたとおりである。『出雲尼子史料集』では関係文書である2月26日尼子氏奉行人連署書状を天文17年のものに比定している(ただし「ヵ」と記す)が、どうであろうか。何より、晴久の裁定から半年後というのは早すぎる気がする。『松江市史』では天文16年に比定してあり、さらに驚かされる。
 本来なら晴久に報告し厳しく罰すべきであるが、「松尾」から懇ろに申してきたこともあり、国久と奉行人衆は晴久に報告することなく、宇道浦の地下人に今後も同様の覚悟であるなら晴久の厳しい裁定を出されるとして、恫喝している。ただし、効果はなかったようで、天文20年3月9日には天文16年の裁定を再確認するとともに、違反する輩は搦め取り注進するよう命じたことが、尼子氏奉行人森脇久貞と雑賀久清により佐木浦を支配する北島側の浄音寺に伝えられている。この二人は天文16年には上使として晴久の袖判がある下知状に署判しており、普通の奉行人の組み合わせとは違っている。
 宇道浦の地下人が佐木浦へ入った原因としては、堺をめぐる対立もあろうが、一般的には飢饉の発生が考えられる。書状が出された2月26日を現在の太陽暦に換算すると、これが天文17年なら4月4日、天文18年なら3月25日、天文19年なら3月14日、20年なら4月2日となる。ということで、飢饉の状況をみると、天文19年の6月から8月にかけて畿内周辺で洪水が繰り返し起こっている。天文20年の2月26日と3月9日はあまりに近い気もするが、前回同様、すぐに晴久に情報が伝わり、厳しい対応がとられたのであろうか。『出雲尼子氏史料集』や『松江市史』とは異なり、天文20年2月26日に比定する。
 とりなしを求めた「松尾」とは宇道浦の支配にあたっていた尼子氏家臣であろう。天文7年の大原郡立原内宇治大明神若宮の造営が大檀那佐々木新四郎久豊により行われているが、その代官が「松尾右馬尉橘朝臣重長」であった。それが、天文12年2月10日の尼子晴久袖判尼子氏奉行人奉書(下知状)にも中井備後守家清とともに「松尾左馬頭重長」が署判者としてみえる。両者は同一人物で、松尾重長は久豊の家臣というよりは尼子氏直臣として天文7年には久豊領の代官を務め(永禄3年11月には立原備前守幸隆が同社造営の大檀那としてみえる)、12年には奉行人となったのだろう。天文9年の竹生島奉加帳にはみえないが、この後、昇格したのだろう。天文20年の「松尾」も重長ないしはその一族で、塩冶にいた尼子国久の家臣ではなく、晴久の家臣として宇道浦の支配にかかわっていたと思われる。前にも述べたが、杵築には経久の時代から引き続き目賀田氏が駐在していた。これが2016年最後の更新となろう。

経久没後の尼子氏と安芸国

 尼子経久が安芸国へ繰り返し軍事行動を行ったことはよく知られている。結果として失敗に終わった安芸国吉田攻めまでは、経久の発案であったと思われる(軍記物では詮久の主導とされる)。その経久の死後、晴久による安芸国への軍事行動は行われなかった。天文12年の大内氏敗退後にはチャンスがあったとも思えるが、前にも述べたように天文13年の出雲国は春から餓死するものが続出するような状況であり、安芸国吉川氏からの度重なる出兵要請に尼子氏は応えることができず、同14年の吉川氏からの要請に対しては、国久のみが対応し、晴久が返事を送っていない。実際に備後国までは出兵しても、安芸国には入っていない。結果として安芸国内の親尼子勢力は衰え、天文16年には毛利元就の子元春が吉川氏に養子に入った。また、大内氏のもとに逃れていた石見国佐波氏一族の佐波興連が石見国に復帰し、晴久が赤穴氏に出兵しない言い訳を自筆の書状で述べたのも天文16年だった(読んだら燃やすはずが赤穴氏が書状を残した)。
 天文21年4月、尼子晴久は中国地方8か国の守護に補任された。もとよりそれに見合う実態があったわけではないが、安芸国は含まれていなかった(この部分を修正)。晴久は親尼子勢力の中心であった安芸国武田氏の本家筋となる若狭武田氏からの要請もあって安芸国への介入を考え、武田氏とともに本願寺に協力を求めた。安芸門徒が尼子氏の安芸国入りに協力するよう命令を出してほしいとのことであった。武田氏側が主導権を持ち7年越しに尼子氏に要請してきたが、尼子氏は応じていなかった。それが守護補任で晴久がその気になったということであろうか。結果的には本願寺がその要請に応じず、尼子氏による安芸国攻めは実現しなかった。このあたりは毛利氏から本願寺への働きかけがあったのか、あるいは本来、本願寺による支援は期待薄で、尼子氏が武田氏の要請を断る口実とされたのかは不明である。尼子氏からすれば大内氏の滅亡という後期であった。
 7年越しというからには、武田氏による最初の要請が天文14~15年であったことになる。まさに、尼子氏が吉川氏の要請を断り、東方に出陣した時点であった(このことについては清水寺と鰐淵寺の座次相論で述べた)。

新宮党と伯耆国

 表題のテーマに関しては、軍記物に記された伯耆国橋津川の合戦が有名である。尼子国久とその子達が伯耆国に派遣されたが、因幡国から派遣された武田氏と結ぶ伯耆国の南条氏との戦いで、国久の二男豊久が討死した。戦いそのものは、国久と長男誠久らが武田氏と南条氏に勝利したとされる。ただし、問題なのはその時期で、軍記物には安芸吉田攻めの直前の天文9年の事件として描かれているが、関連する情報と矛盾がみられ、佐々木寅介氏所蔵尼子氏系図には豊久が15年6月28日に伯耆国真野山で討死したことが記されている。これは過去帳で裏付けられ、合戦は天文9年ではなく、天文15年に行われた。
 豊久は天文9年の竹生島奉加帳の段階では「新四郎久豊」であり、天文7年段階では大原郡立原(富田衆立原氏の苗字の地)の地頭でもあった。ネットでみると豊久が尼子久幸女子と結婚とあるが、この部分の出典は不明である。
 この翌年の天文16年正月25日に尼子国久が伯耆国河村郡東郷内の新八幡宮に神楽田として3反の田地を寄進している(荒井家文書)。同日には湯浅市介久義が奉じる形の寄進状が出されている。その袖に付された花押の主については言及されないが、尼子国久だと思われる(鳥取県史史料編では晴久ヵとしているが、国久寄進状との関係が?)。
 この文書を紹介した日置粂左エ門氏は「尼子氏勢力が伯耆地方に進出すると、国久が伯耆方面を担当したと考えられる」とされたがどうであろうか。すでに述べたように前年には尼子国久とその子たちが伯耆国へ派遣され、合戦を行っていたが、国久といえば大内氏敗退後の天文12年には塩冶興久の所領であった塩冶郷に派遣されていたことが知られている。そして天文16年正月には佐木浦と宇道浦の地下人がその堺をめぐって対立していた。2月2日には尼子氏奉行人が佐木浦地下人から進上された2種類の品については晴久に披露したことと、両方の地下人に対して事情聴取が行われることを、佐木浦を管理する浄音寺に伝えている。これに対して宇道浦の地下人は他出している。訴えが認められるように逃散したのであろう。これに対して塩冶にいた国久が宇道浦は大社の神領であり、逃散をやめて命令に従うように命じ、そのことを尼子氏奉行人に報告した。奉行人は自分たちからも宇道浦の地下人へ帰るよう命じたことを浄音寺に伝えた。国久と奉行人の両者ともに当然の処置と考え、晴久に報告して指示を受ける段階ではないとしたのである。これに対して報告を受けていなかった晴久が、事後的に事態を知り、国久ではなく晴久が判断して命じるべきことだということを浄音寺に伝え、国久と奉行人を批判したことはすでに述べたとおりである。
 何が言いたいかと言えば、正月25日の寄進状は国久が塩冶にいる中で出されたものだということである。この寄進状からわかるのは国久が伯耆国方面を担当したことではなく、伯耆国河村郡東郷の地頭であったことである。国久の寄進状を報じた湯浅久義が現地の代官であった。久義が作成した文書が塩冶の国久のもとに送られ、国久が署判を加えて湯浅久義のもとに返送し、久義が新八幡宮に文書を送ったのだろう。

2016年12月29日 (木)

想像力の欠如6

  ネットで武田元繁を調べると、永正12年(1515)頃であろうか、大内義興の娘を離縁して尼子久幸の娘と結婚したとあり、またびっくり。尼子経久の嫡子政久が2年前に26才で戦死し、1年前にはその子詮久が誕生している。久幸は政久の従兄弟であり、この時点で武田元繁と結婚できる娘がいたことは100%ありえない。尼子氏との間で婚姻関係が結ばれたとすれば、久幸の父源四郎の娘であろうが、尼子氏による安芸国への大規模な軍事活動は杵築での第1回の読誦会があった翌年の大永3年が初めてである。政久が死亡する少し前の時点で、経久の母の実家である吉川氏から、毛利との間に婚姻関係を結んだらどうかとの提案がなされている。元繁は永正14年10月に有田城を攻撃したが、吉川・毛利氏連合軍に敗れて討死したとある。
 以上のように系図の記載が生かせないかと考えてきたが、最初に述べたようになかなか納得のいく結論が得られず困惑していた。それでもなんとか書こうとしてきたが、『陰徳記』を受けて成立した『陰徳太平記』の中で、尼子下野守が尼子下野守義勝とされ、孫四郎が孫四郎経貞と変化していることをみると、結論としては、現在残る一族の系図の記載は軍記物の影響を受けて修正・加筆されたものである可能性が高いと思われる。誤解なきようにいうが、この文章そのものはできるだけ生かせないかどうかとの趣旨で書き始めたのであるが、書きながら考えた結果、2002年の「尼子氏の石見国進出をめぐって」で述べた説が妥当であるとの結論となった。迷走した結果となったが、関係者の方も是非とも検討していただきたい。
 尼子経久の母親は安芸国人吉川氏の出身であるが、尼子経久とその息子政久が安芸国人との関係を作り上げるきっかけとなったのは永正8年(1511)の船岡山の戦いであったと思われる。尼子氏が参加したかどうかが問題となるが、伊予守に任官した父に代わって民部少輔に任官した政久が初めての本格的合戦として派遣され、参加したのが船岡山の戦いで、幕府関係者や中国地方の有力国人と関係を結ぶ手がかりを得た。そして帰国後、父経久とともに大原郡へ出兵したが、予期せぬ戦死となってしまった。その時点で詮久は母親の胎内にあり、関係者をやきもきさせる中で誕生した。
付記:以前、新宮党において国久の子誠久と敬久の二頭政治の状況が生まれたことについて、疑問を呈せられた。最大の問題点は、この二人が尼子氏政権のツートップならばこの表現で良いが、実際は晴久のもとでの存在でしかなかったことであろうか。晴久は政権内部における新宮党の地位を下げ、奉行衆と同様に扱おうとしていた。以前は、国久が敬久を引き上げたと解釈していたが、現在では晴久によるものと思われる。晴久の意図としては、自分よりやや年長である誠久とその父国久の扱いを下げようとしたのである。

想像力の欠如5

 ネット上で「尼子久幸」やその子とされる「経貞」について書かれていることを見ると驚かされる。当方の不勉強かもしれないが、何が出典かまったく知らない情報が記されている。「久幸」で検索されると確認できるが、経久の弟久幸は経久が京極政経の守護代を解任された際に、母の実家である真木氏を頼るが、久幸については安芸国武田氏のもとに身を寄せたとある。その関係で武田氏女子と結婚して子どもがうまれた。天文9年の竹生島奉加帳にみえる「次郎四郎詮幸」と「経貞」の関係も、同一人物との説と別人説があり、よくわからない。すでに述べたように、佐々木寅介氏所蔵の系図にあるように経久の弟は源四郎であり、久幸はその子である。実際に残された史料とも合致している。
 また経貞についても1521年(大永元年)の生まれでその母は武田元繁の娘と書いてある。それならば天文9年(1540)には20才となり、当然奉加帳に載っていたはずである(奉加帳の次郎四郎詮久と同一人物との説もあり)。新宮党が滅亡させられた天文23年には34才となり、当方がイメージしていたものとはかなり違う。
 奉加帳の「次郎四郎詮幸」は「証如上人日記」天文7年11月18日条に「尼子次郎四郎」として、塩冶興久の遺児「彦四郎」とともにみえる。この段階では元服しており、奉加帳には「九郎」「八郎」のみでその名前の記されていない宍道経慶の遺児2名(14才と12才)よりは年長であったはずである。その意味では次郎四郎詮幸=経貞の可能性はあるが、詮久の一字を与えられていたものをあえて改名する理由は見いだしにくい。それもあって、「次郎四郎詮幸」も塩冶清久や宍道氏遺児と同様、晴久に対する謀反の結果、排除されたのではないかとの説を提示した。能義郡の大庄園である宇賀庄は大内氏敗退後没収され吉田氏に与えられたことが確認でき、宇賀庄が久幸・次郎四郎詮幸父子の所領ではないかと思ったからである。それに対してネット上には塩冶興久の乱後、塩冶が久幸の所領であったことが記されているが、その根拠は何であろうか。基本的には興久の子清久が継承し、そこに監視役の尼子氏家臣がいたと考えていたがどうであろうか。そして清久の没落により、その所領には尼子氏中枢から排除された国久が入部した。
 ということで、国久の従兄弟である久幸の遺児がいて、国久の嫡子誠久の養子になる場合、久幸晩年の子で、父の死亡時には生まれて間もない幼児で、天文23年の時点でようやく元服するような人物しか想像できなかったのである。そろそろ所領を返して貰えると思っていたところで、国久が、すでに成人し一定の所領を持つ誠久・敬久にではなく、晩年の子で寵愛する与四郎に所領を譲ろうとしたため、経貞(次郎四郎詮幸の弟か)が讒言したとするなら、ありうる話のような気もする。久幸や経貞については何に記されているのだろうか。 

想像力の欠如4

 論者の晴久に対する評価は「スケールが小さい経久」で、経久がその晩年に描いた構想をぶちこわした人物というものである。どんなに優れていても、相手がそれ以上なら失敗するという観点から晴久を再検討するのは当然ありである。以前のブログで、晴久(詮久)が国久の娘と結婚したのは天文8年に詮久局が死亡した後であると述べたが、これは史料を見落としていた論であり修正する。『証如上人日記』天文6年12月14日条には「刑部少輔」に「戸部舅」とあるので、この時点で両者が結婚していたことは確認できる。ただし、天文5年の岩屋寺仁王堂造営に際して民部少輔詮久とその家臣とともに「少輔殿御局」とあり、この女性が天文8年に死亡したことは過去帳に記されている。そして『同日記』の天文20年10月15日条に「同(尼子式部少輔)子孫四郎」とあり、11月6日条には「式部少輔弟」である「尼子左衛門大夫」(敬久)と「部少輔二」である「同(尼子)甚四郎」がみえる。ここからすると、孫四郎が誠久の婿養子であるとは思えないのである。
 久幸が死亡した時点で幼少であった子が後に誠久の娘婿となったが、父の所領が返して貰えないことで不満を持ち、晴久に毛利氏の事を讒言した事実はあったかもしれないが、その人物は孫四郎とは別人であろう。それについて軍記物は混乱したのである。系図と軍記物が相互に影響し合うことによくあることで、後醍醐天皇の隠岐脱出を助けた布志名雅清がなぜか『太平記』と「佐々木氏系図」の両方で「義綱」となったことは有名である。「義綱」が改名して「雅清」となったのではとの意見もあろうが、関係者の名前を見る限りその可能性はゼロに近い。様々な通説はあろうが、その%は数ある中で相対的に一番でしかないものもあり注意が必要である。
 以前「朝山貞景について」で鰐淵寺文書で「朝山貞景書下」とされた文書名について疑問を呈した。疑問を呈したということは朝山貞景である可能性は「50%未満」ということであるが、実際にはかなり低い。この文書を「朝山貞景」のものとして扱い朝山氏について研究した論文が『日本歴史』12月号に掲載され、抜き刷りをいただいたので、お礼とともに疑問点も述べた。ただし、それに代わる成案はなく、相対的には「朝山貞景」である可能性が一番高いかもしれないが、絶対的な%はかなり低い「通説」と評価している。

想像力の欠如3

 新宮党の滅亡については、軍記物の記述と毛利家文書に残された「尼子家破次第」があり、各人が古文書の分析を含めて様々な見解を示していた。そうした中、尼子氏研究の先駆者である米原正義氏が尼子晴久が政権強化のために新宮党を滅ぼしたとの説を提示された。そこでは北島家文書にある晴久・国久ならびに尼子氏奉行人の発給文書が根拠として示された。次いで、尼子氏の成立から確立までを述べた長谷川博史氏の研究でも、米原氏と同様、それまで出雲国西部を新宮党を介して支配してきた尼子氏政権が、自ら西部を掌握することが可能となった段階で、毛利氏が井上氏を滅ぼしたのと同様に、新宮党を滅ぼし支配の強化を行ったと評価し、ここでも尼子氏関係文書がその根拠とされた。
 これに対して本ブログで尼子氏発給文書に関する分析(尼子国久と奉行人は晴久の判断を受けて発給する文書と途中経過ないしは軽微な問題であるため晴久に報告することなく発給する文書がある)に基づき関係文書を再検討した結果、米原氏と長谷川氏の見解は文書の誤読によるものとの結論を得た。長谷川氏の論文集は『戦国大名尼子氏の研究』とはいいながら文書や関係史料の古文書学的検討がほとんどなされていないのである。
 長谷川氏は尼子氏が守護京極氏の権威を継承して戦国大名となったとの説(ある意味では形式を重視)に対して、その実力により新たなものを生み出すことなしには戦国大名にはなれなかったとの観点から分析をされた。これそのものはよいが、足下の部分がきわめて不十分(分析のための仮説が成り立つかの検討がなされなかった)であった。そうしたことが影響しているかどうかは不明だが、論文集段階では大内氏を撃退した天文12年以降に尼子氏の体制整備が進み、その一つとして新宮党党滅の意義を論ぜられた。従来の経久の時代が尼子氏の全盛期であるとの説に対して、晴久の時代が全盛期(長谷川氏自身はこの表現はされていない)との説を提示した形になり、それまで主に軍記物により評価されてきた尼子晴久の株が大幅に上昇することとなった。
 ただし、最近の長谷川氏の見解は、天文20~21年以降、尼子氏は大内氏とともに衰退段階にはいったとされている。そう考えた根拠が知りたいところではある。また長谷川氏は尼子氏の軍事行動が何を目指したものか理解できないとされている。ただし、これは結果論であり、経久が杵築で三度の読誦会を開き、その後軍事行動を展開しようとした際には明確な意図があったと思われる。ところがそれは3度目の読誦会の直後に勃発した尼子興久の乱によりはかなくも消えてしまった。気を取り直して、孫晴久に継承する際にも綿密な計画を立てていたが、肝心の安芸吉田攻めが失敗したため、これまた雲散霧消してしまい、その後、晴久による新たな構想が立案されることはなかった。

想像力の欠如2

 以前、尼子氏に関する系図についてその情報の一部を提供していただいたことがあった。尼子誠久の嫡子とされる孫四郎「氏久」は天文10年正月の安芸吉田の合戦で討死した尼子久幸の子で、誠久の娘と結婚して養子となった人物であるというものであった。また、誠久の弟久豊(豊久)は天文15年に伯耆国の合戦で討死したが、その子も誠久の別の娘と結婚して養子に入り、「常久」と名乗ったとするのである。
 益田氏や朝山氏の系図をみる中で、実際には女子と結婚して養子に入った人物が、実の子であるかのように記されている例があることには気づかされた。14世紀前半に活動した福光兼継は、福屋兼仲の子が周布兼政の娘で福光郷を譲られた女性と結婚して養子に入ったが、周布氏の系図の中には兼政の子とするものがある。ただし、福屋氏の系図には例外なく兼仲の子として記されている。これについて、30数年前、その時点では周布氏の系図に兼継を記したもの(竜雲寺蔵三隅氏系図等)があることを知らなかったこともあり、周布氏初代の兼定の女子を母として産まれたのが兼継であろうとの見解を持った(浜田高校歴史部『歴像』)。
 その後、井上寛司氏が『温泉津町誌』とその前提作業となる「温泉津町誌研究紀要」の中で、兼継が三隅氏系図で周布氏と福屋氏の両方に記されている点について、福光郷が周布氏の所領であることは明らかであるとして、兼継は周布氏だとして、系図に基づき福屋氏の一族とする田村紘一氏の説は科学的な面で十分ではないとされた。また、益田氏とその一族について再検討した江津市出身の西田友広氏(東大史料編纂所准教)もその論文で同様の見解を示された。
 結果としては、共同研究「益田氏系図の研究」の中で関係系図が幅広く集められ、その分析の役割が当方の分担となったが、益田氏系図で一族について詳細に記した複数の系図に、兼継は福屋兼仲の子で、周布兼政女子と結婚して養子に入ったことが明記されていた。井上氏・西田氏が女系のことを考えられなかったのはどうしてだろうか。古文書が証拠であると言えば決まりのような気がするが、福光郷は本来周布氏であったことは明らかであり、兼継が福屋氏の出身であっても、幕府から安堵のための証拠文書の提出を求められれば、周布氏惣領が提出するのは当然で、実は古文書は根拠とならないのである。
 最も詳細なのが萩博物館蔵の周布氏系図で、そこには姻族である福屋氏略系図も含まれ、その両方に前述の点が明記されていた。周布氏系図は従来知られていた系図より遙かに詳細であり、周布史研究に寄与するところ大であるが、かといって利用する際には検討の必要な部分もある。周布兼政の子には大家西郷の中心である井尻村を支配する兼家も記されており、周布系図には井尻氏の略系図も別に残されているが、これは後に井尻が周布氏領となり、関係文書を入手したため、そのように記したもので事実ではない。周布氏系図にはその他の姻戚の系図も含まれており貴重であるが、これ以外にも事実とはことなる内容を含んでおり、一つひとつについて検討して利用する必要がある。逆に系図であり二次的・三次的だから信憑性は薄いとするのも思考停止でしかない。

想像力の欠如?~資料の声を聴く?1

 ここのところブログの記事をアップしようと原稿を書くのだが、完成するに至らない状況が続いている。もちろんブログの記事は論文として発表するものと比べれば、完成度の基準ははるかにゆるく、後に修正することもしばしばである。ある問題について意見を聞かれた場合も、すでに賛成・反対の考えがあったにしても、しばらく調べなければ自分としての意見の発表はできないが、ネット上には何も考えないお気軽コメント(これはブログへの意見ではなく、主に政治に関してのもの)が多すぎる。塵も積もれば山となるとあるが、「根拠を欠いたコメント」が影響力を持たないことを祈りたい。「ゼロ」×「多数」は「ゼロ」でしかない。また、ネット上ですぐにコメントするのは同じ特色を持つ特定の人に限られており、ネット上の多数意見が本来の多数意見ではないということも調査により明らかにされている。米大統領選挙でも一定以上の教養を持った人でトランプ氏に投票した人の割合は低かったことが明らかにされている。しかし、選挙制度上の問題はあるが、そのトランプ氏が大統領に当選してしまうのも現実で、少し前までは考えられなかったこでである。
 ちなみにオバマ氏の言葉と日本の首相の言葉では、前者が自分の言葉で語っているのに、後者の言葉はあらゆる意味で借り物でしかない。借り物競争をしているわけでもないのにこれを評価する人の観点はどうであろうか。結果が全てという人もいようが、借り物では長続きしない。現在の日本の政治家は首相に限らず、どうしたら自分に得になるかという考え方のみに基づき行動している。小池東京都知事と森田千葉県知事がオリンピック問題で立場が逆になれば、今とまったく逆なことを言うことは確実で、それが許されるところに日本の最大の欠陥がある、これでは議論は深まらないし反省も生まれない。
 ブログでは従来の見解を批判的に検討することが多いが、従来の見解を読んだ段階で問題点を発見できることはまずない。実際に、自分の目で関係史料を読んで初めて小さな疑問が生じ、そこから検討が始まり、一定の結論が得られたものをブログにアップしている。他者の論文を読んで、その問題点を感じるのは、自分でそれまでに関係史料を検討していた場合のみである。具体例としては、承久の乱後に遠江国から石見国に入部した内田氏とその庶子俣賀氏について、大山喬平氏が『日本通史』の中で述べられていたことに疑問を持ったことがある。自分自身でも関係史料を読んで論文を仕上げたところであったので、大山氏の見解を読んで驚いた。当然、再度史料を読みこなしたが、大山氏は文書の伝来の経過を十分理解されないまま論文を執筆されたことがわかり、ほっとしたことを憶えている。ただし、大山氏の誤りはその後、古文書学の大家である上島有氏にも継承されており、どうなっているのだろうか。
 当然、関係文書を読んだ多くの人は大山氏の説の問題点に気づくはずであるが、実際には気づく人がおらず、そのことに一層びっくりした。そうしたことが、「資料の声を聴く」というブロクを立ち上げた一つの理由であった。最大の理由は自分の防備録である。論文でも出雲大社と尼子氏を扱った論文の副題を「文書の声を聴く」としたのも同様であるが、今年は芸石政治史を扱った論文でも同様の副題を採用した。当然、個人の作業であり、気をつけてはいても、なお考えるべきことがあるはずで、自分で気づいた場合には修正している。

中世前期の石見吉川氏について

 この問題については「益田氏系図の研究」の中で言及しているが、久しぶりに田村紘一氏の「石見福光不言城」(『城』一〇三号、1978)と「石見吉川家の成立」(『歴史研究』五七一号、2009)を読んだので、再度論じてみる。
 引用される「石見吉川氏系図」にどこまで具体的に記されているかが不明確ではあるが、田村氏は大家庄大家西郷内津淵村を福屋氏領とし、これを分与された福屋兼仲女子良円(良円はその活動時期が兼仲の子兼継=福光郷を譲られた周布兼政女子と結婚と一世代以上違うので兼仲の姉妹であろう)から孫娘良海に譲られ、その結婚相手の吉川経茂を初代と考えられている。経茂が若い時に生まれたのが経任で、その後、永安氏出身の良海との間に女子夜叉熊と男子2名(経貞と経兼)が生まれ、姉である夜叉熊が津淵村を譲られたとする。
 田村氏は夜叉熊が安芸国吉川氏の一族経盛と結婚した際に、夜叉熊が弟経兼に譲ったとされるが、一族の女性が他家の男性と結婚することは予想されたことであり、そのためにせっかく譲られた所領を手放すことはない。康永2年に経兼改め経明が津淵村地頭であることは確認できるので、その獲得した経緯が問題となる。
 このことを考えるヒントになっているのが、元徳元年9月日良海譲状で、永安別符内大東が左衛門太郎に譲られたが、それに経貞・経兼と並んで経任が署判を加えている。田村氏は長男経任が亡父経茂に代わって署判しているとされるが、経茂領ならともかく、これは良海領なので田村氏の指摘は的外れである。経任は経茂の子ではなく、吉川氏一族で夜叉熊と結婚し、所領を譲られた左衛門太郎の父で、経任=「吉川左衛門尉」と考えるべきである。経兼は良海から津淵村を譲られた可能性もあるが、その場合は譲状が残っていないという問題点がある。永安氏領をめぐっては正中2年に和与の成立した良海とその弟で惣領とされた兼員の対立が有名だが、正中3年には良海と弥二郎を永安祐賀女子が訴えている。この女子の関係者が反幕府方となって津淵村を没収され、それが経兼に与えられたのではないか。
 吉川経兼は貞和5年には母良海とともに反幕府方に転じ、母方の惣領三隅氏と同一歩調を取るようになる。しばらくの間は石見国と安芸国では足利直冬方が優勢であり、安芸国大朝本庄内の所領を獲得した経兼は安芸国人の中では最も遅い時期まで直冬方であったが、幕府への復帰後は安芸国を活動の中心としていったこともあって、津淵村は本来これを支配していた夜叉熊の子孫に返したのではないか。

2016年12月18日 (日)

安芸国人一揆の補足

 14世紀半ばから15世紀初めにかけての芸石政治史を分析した論文は10月末に完成し、11月半ばには島根県中世史研究会で報告した。その前後で河合正治氏『安芸 毛利一族』が所在不明であり、河合氏は一揆についてどう考えていたかが確認できていなかったが、ようやく部屋の整理をしていて発見したので、簡単に述べておく。
 河合氏の本から至徳2年の安芸国における合戦の存在に気づかされた。一方で、河合氏は今川了俊が毛利広世に宛てた2通の書状を至徳2年に比定されたが、それは翌3年のものであることまでは確認していた。また、至徳2年の合戦が大内氏の康暦内戦とかかわるものであることにも河合氏は気づいてはおられなかった。
 河合氏は「だいたんであるが」と断りながら、備後国守護山名氏の勢力が安芸国に及んでおり、これを抑えるために将軍から了俊とともに忠誠を尽くすとの起請文を提出せよと命じてもらったとされた。至徳2年の合戦を守護今川了俊方と山名時義方の国人が戦ったものとされた。その根拠となるのは、了俊が福原広世に宛てた書状である。河合氏は広世の兄=広房が山名氏に同心しているとの噂を述べているとされたが、書状は至徳3年のものなので広房ではありえず、別の兄某に関する噂である。これも福原広世が備後国人長井氏の養子に入っていたことから言及されたものであろう。また、その背景については確認していないが、明徳の乱の直前に山名氏惣領時煕が幕府から討伐された際には時煕とその家臣は備後国に籠居している。山名氏あるいは惣領時煕は備後国に中心的所領があったり、有力な支持者がいたのであろうか。
 この点に関する河合氏のだいたんな考察は残念ながら的外れであった。幕府による命令は観応の擾乱以降、安芸国衙領を中心に所領の押領を続ける国人層を牽制するためのものであり、康暦年間における義弘(応安の半済令の遵守派)と弟満世(父の方針を継承して押領には寛容)の対立が復活するおそれが生じた。そのために、幕府と義弘は益田祥兼に対して婿となっていた満弘の身の引き渡しを求めたが、祥兼はこれを拒否して明徳4年末に及ぶ対立が発生した。
 これ以降の応永の乱から安芸国人一揆に至る過程については、基本的に岸田氏の論文に沿って記述されているが、そのほとんどが誤った事実確認に基づき分析がなされたことについてはすでに述べたとおりで、誤りは多岐にわたり且つ明白なのに近年になって飯分氏がそのほんの一部を指摘するまで誰も気付かなかったことは不可思議としか言いようがない。すでに事実関係を含めて明確な根拠を示して述べたので、ここでは省略する。この文で初めて知った方は過去のブログ記事を参照してもらえれば、100%納得していただけると思う。まさに「文書の声を聴く」必要がある(ブログでは「資料」だが、論文では「文書」の表現を使用)。

2016年12月15日 (木)

兵衛尉政綱の出雲国目代就任時期

 兵衛尉政綱は知行国主藤原朝方のもとで出雲国目代に補任され、後に源義経に与同したとして解任された人物であるが、問題はその補任時期である。頼朝の家臣で同時期に目代となった人物としては、信濃国目代比企能員、因幡国目代大井実春、美作国目代梶原景時がいる。景時については頼朝が徳大寺実定に推挙したことで実現したことが知られ(吾妻鏡)、その時期は、美作国知行国主が実定からその弟である実家に交代する文治元年12月以前である。実家のもとではその子公明が美作国守となっている。
 比企能員についても、文治元年12月には信濃国目代であったことが知られる(佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』)。これに対して因幡国目代大井実春については、「大夫尉義経畏申記」の元暦元年正月一日の記事に「飯垸大井次郎実春為因幡御目代勤仕之」とされる(同書)。出典を確認すると、史料編纂所所蔵「源義経拝賀次第」がこれに当たると思われる。天明6年5月25日に『群書類従』で知られる塙保己一が写したとの奥書があるが、当該記事は「元暦二年正月一日」のものである(この点については伊藤邦彦『鎌倉幕府守護の基礎的研究』でも指摘されていた)。義経は元暦元年8月16日に左衛門尉に補任され、9月18日には範頼が三河守に補任されたのと同時に五位尉となった。そして翌年正月に殿上人として院内に出仕した際に大井実春が飯垸を「勤めたのである。一方、大内惟義の場合は元暦元年3月20日に伊賀国守護に補任されているが、同年7月には伊賀国司であったことも確認できる。梶原景時が美作国守護となったのは元暦2年2月18日であった。
 中国地方の美作・因幡については一ノ谷合戦の勝利をうけて、頼朝の御家人が守護(名称は惣追捕使)に補任され、その中には同時に頼朝の推挙により目代になったものがあったと考えられる。出雲国知行国主朝方の母は父朝隆の兄(朝方の伯父)顕隆女子であり、その兄弟顕頼は出雲国司であった。顕隆女子が徳大寺実能との間に公能を産み、公能と歌人としも知られる藤原俊成女子との間に生まれたのが実定であった。徳大寺実能の姉妹が鳥羽院の中宮となった待賢門院である。兵衛尉政綱が頼朝の推挙を受けて出雲国目代となったのも同時期であろう。梶原景時、土肥実平が守護に補任されたのは山陽道の5カ国であるが、因幡国については大井実春が守護であった可能性が高い(元暦元年9月18日には大江広元が因幡守に補任されている。それ以前の知行国主藤原隆季は平氏との関わりが深く、解任されて別人に代わっていたと思われる)のと同様、出雲国守護も景時・実平ではなく、目代兵衛尉政綱であった。
 ちなみに、千家文書で土肥実平下文とされる文書の平某の花押は実平の曾孫である小早川茂平の花押とは全く違うタイプで、梶原景時と同じタイプである。五味文彦氏が藤原能盛の花押だとして、正木喜三郎氏による能盛一人説を誤りだとされた文書と同様、後世に作成されたもので、基本的に根拠にはしてはいけないものである。偽文書であることに気づいていれば、使われなかったであろうが。
付記 能盛については関係史料を検討した結果、安芸守能盛と出雲守能盛はその生まれた推定年代が重なることはなく、別人であるとの結論に達した。

2016年12月 7日 (水)

一ノ谷合戦後の石見国

 一ノ谷合戦後の石見国については益田家文書の紛失状案文8通の中の7通が残されている。一ノ谷合戦の戦後処理に関する5月の文書が4通と最も多い。一ノ谷合戦に「安主大夫」「横川郡司」が参加した事は『平家物語』諸本で一致している。その官職から両者とも石見国衙の有力在庁官人であったことは確実である。近年の研究では石見国東部の武士が平氏方であったとの説が提示され、それを踏まえて「安主大夫」を最初の「あ」の音の共通性から阿須那を支配する武士であるとの比定がなされたが、あまりに根拠薄弱・非学術的である。東部は平氏方の多かった出雲国に隣接しており、ここに平氏方の武士がいたまではよいが、中部・西部にはいなかったことは何も証明されていないのである。
 他の国も同様であるが、平氏に動員された場合、一族のすべてが一ノ谷に参陣するものではなく、国の抑えとして残っていた武士が多数いたはずである。それは最大の勢力を持つ御神本氏一族も同様である。藤原頼経奉書案は、石見国武士が頼朝の御方となるとして請文を提出したことに対して、頼朝がこれを認めたものである。そして鎌倉殿御代官平朝臣下文と源某(義経)下文により武士の中心に認定されて押領使に補任されたのが藤原兼高であった。さらにもう一通の平朝臣下文では出雲国の岐須木次郎兄弟2人と横田兵衛尉等を打進むよう命じている。石見国だけでなく隣国の出雲国の平氏残党の鎮圧を命じている。横田兵衛尉は『平家物語』にも一ノ谷の参加者としてみえ、戦死を免れ帰国したのだろう。岐須木氏兄弟は『平家物語』にみえる「朝山・木次・三代が一党」の木次・三代であろう。
 次いで11月には山陽道を九州へ向けて軍を進めていた源範頼が益田兼栄・兼高父子の所領を安堵したものであるが、ポイントはここに国衙の所在地である伊甘郷がみえないことであるが、わずかに兼栄・兼高父子が御神本一族の庶子として支配していた「千与末名内」がみえる。それまでの御神本氏惣領(安主大夫)が支配していた伊甘郷そのものはなお没収されていたのだろう。
 そして元暦2年6月の源某(義経)下文となるが、従来は義経と頼朝の対立する状況下でこのような文書があることに疑問が出されていたが、現在では両者の対立は8月に義経が伊予守に補任されて以降のことであることが明らかになった。壇ノ浦合戦で平氏が滅亡した事とその合戦における軍忠により出されたものである。同様の理由から元暦元年に比定されていた5月27日大江広元奉書も元暦2年のものである。この末尾には石見国の実情を知らないので、兼高への下知を義経がするよう命じており、まさにこれを実行したのが6月の下文であった。もとより原本等が失われた段階で、系図の記載に基づき復元したもので、その文書の表現や広元奉書の宛名が「□郎殿」であるなど不審な点(この時点では任官し五位尉)はあるが、内容の信憑性は高いとすべきである。
 ここで「伊甘郷」が登場し、兼高に与えられたことがわかる。「在小別名」とは伊甘郷内の在庁名を示している。「河本村」は河本別符(かわもとひさとみ)で、良万別符とともにみえている。それに続く益田庄以下は後の益田氏一族にとっての中心的な所領である。以上、紛失状案文中の文書から、一ノ谷合戦後の石見国について述べた。

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